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投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-10-07 16:51:04 (4137 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年10月7日  十月日曜特別礼拝説教(第五回)

「人は神により、地球の管理者として立てられた」     創世記1章28〜30節(旧約聖書口語訳2p)

  
はじめに
 
 今からちょうど二十年前の一九九二年六月に、ブラジルの首都リオ・デ・ジャネイロにおいて、国連の主催による「環境と開発に関する国際連合会議」という少々長ったらしい名称の国際会議が、世界一七二カ国の代表、延べ四万人を超える参加者を集めて開催されました。
 
このリオでの会議は一般的には「地球環境サミット」あるいは単に「地球サミット」と呼ばれ、「持続可能な発展」をキーワードとした「リオ宣言」「アジェンダ21」「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」などの宣言や条約が会議で調印されたそうなのですが、この会議を一躍有名にしたのが、十二歳になる日系カナダ人少女、セヴァン・スズキによる「あなたが世界を変える日」というスピーチでした。
 
彼女はこのスピーチにおいて満場の大人たちに向かい、「未来に生きる子供たちのため」「世界中の飢えに苦しむ子供たちのため」「行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのため」に、「どうやって直すのかわからないもの(である、今現に破壊されつつある地球環境)を、(これ以上)毀し続けるのはやめてください」と訴え、さらに「もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球は(今よりもっと)すばらしい星になるでしょう」という提言をしたのです。
 
もちろん、彼女の後半の提言の方は非現実的な理想論として笑い飛ばすことも可能ですが、地球環境が現在、人類の活動によって修復し難い程に壊れつつあるということ、もしも修復することが出来ないのであるならばこれ以上の破壊を止めてほしい、そして知恵を結集して環境保全のために有効な手段を模索してもらいたいという彼女のスピーチは参加者に大きなインパクトを与え、その後の世界の地球環境問題への取り組みに一定の影響をもたらすこととなりました。
 
まさに恐るべき十二歳でした。セヴァン・スズキは現在三十二歳となり、二児の母親として子育てをしつつ、今も地球環境保持の環境問題活動家として、国際的に活動しているようです。
 
さて、私たちの教会では今年も六月からの毎月第一日曜日には、「神と人間」をテーマにして、創造者である神は実在するのか、人間はどこから来たのか、人間は何であるのかなど、人であるならば一度は考えねばならない根源的な問題について考える機会を持っていますが、今月は「人間と自然」を中心として、人が住んでいる地球あるいは地球環境、自然環境と人との関係について教えられたいと思います。
 
 
1.「自然」は自然に出来たのではない
 
 私たちは「自然はいいなあ」など、「自然」という言葉をそれこそ自然に使います。では「自然」とは何なのでしょうか。
 
識者によりますと、日本語の「自然」とは黒船が来て開国を迫られた後に、英語の「ネイチャー(nature)」の訳語として出来た言葉だそうです。その「ネイチャー」が、人手が加えられた人工物に対する反対の概念を意味することから、「自然」もまた、人手が加えられていないあるがままのもの、すなわち、山や海、川、大地など、そしてそれらに棲んでいる各種の生物を指すと定義することができるでしょう。
 
 しかし、「自然」は決して自然に出来たものではありません。
私たちの多くは人手によって建てられた家屋、建物に住んでいます。もしもそれを、「いや、私の住んでいるこの二階建ての家は、実は勝手に、自然に出来たのだ」と言ったとしたら、病院で診察を受けるように勧められる筈です。ところが多くの人は地球という、生命の生存にとって絶好の地球環境が偶然に出来たのだと考え、人間を含めた地球生命もまた偶然の産物だというのです。
 
「自然」は人手が加えられていないからこそ「自然」なのですが、決して勝手に、そして無計画に現在のかたちになったのではありません。
家屋一つにしても最初に設計者が構想を練って図面を引き、その図面に基づいて工務店が建築に当たるのです。そのように、この地球は自然に出来たものではなく、設計者、そして建築に携わる者がいて、その結果、現在のかたちになったのです。そしてその設計者、建築士を聖書は創造主なる神と呼んでいます。
 
「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節 旧約聖書口語訳1p)。
 
 「天」(1節)すなわち、宇宙が創造されたのは一三七億年前のことです。そしてそののち、「光」が造られました。
 
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(1章3節)。
 
 ある人は、太陽系の始まりは五十億年前である、太陽がないのになぜ「光」があるのか、と言います。しかし、宇宙物理学は観察という科学的根拠に基づいて主張します。光は一三七億年前の大爆発、ビッグバンから程なくして生じたであろうと。
 
その証拠が今年の六月、国立天文台のチームがハワイに置かれているすばる望遠鏡を使って見つけた地球から百二十九億光年かなたにある銀河です。このチームが発見した銀河は宇宙の誕生から八億年しか経っていないことになります。つまり、少なくとも「天」すなわち宇宙の誕生から八億年後に「光」が生まれて、宇宙は夜明けを迎えていたことになります。
 
またこの夏には、京都大学などの国際チームが百二十四億光年かなたの銀河「サブミリ銀河」を発見しました。宇宙誕生から十四億年後、太陽の誕生から実に七十四億年も前のことです。
 
 そして「地」(1節)すなわち、私たちが住んでいる地球が誕生したのが四十六億年前のことでした。その地球の海にバクテリアのような生命が生まれたのが三十八億年前のことだそうです。以後、地球は長い時の経過と共に海にも陸にも生命が満ち溢れるようになっていきます。
 
「神はまた言われた、『地は青草と、種を持つ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。そのようになった』」(1章11節)。
 
「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天の大空を飛べ』」(1章20節)。
 
「神はまた言われた、地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ。そのようになった」(1章24節)。
 
 創世記の記述は二千数百年も前の古代人が書いたものですから、いかにも神話、伝説的用語と言い回しで書かれています。科学的知識もありませんから、植物の創造のあとに太陽と月が創造されたような記述も見られます。しかしそれらは彼らの感覚が受け止めたものであって、重要なことは、海と大地に生息している命、すなわち「自然」は勝手に出来たものではなく、神によって創造されたのであるということを言っているのです。
 
  それは、創世記と同時代にまとめられたとされるギリシャ神話と比べると、その違いがよくわかります。
 ギリシャ神話では、大地(ガイア)は混沌(カオス)から誕生し、そのガイアが眠っている間に生まれたのは天空(ウラノス)です。このウラノスが自分の母ガイアと交わって生み出したのが山々や木々、鳥や獣で、そしてウラノスが降らせた雨によって湖や海ができたということになっています。まさに「神話」です。
 
 しかし、創世記の記述表現は確かに神話的ですが、しかし神話ではなく、事実を叙述したものなのです。植物、水中生物、陸上動物、哺乳類、人類という生命の発生の創造順序の記述は、現代の地球生物学が証明するところです。
 
 「自然」は自然に、勝手にできたのではありません。創造者である神の意志と働きによって、気が遠くなるような時間をかけて、現在の姿へと造られてきたのでした。 
 
もちろん、そこには当然、神の創造の一環として、いわゆる進化という要素が組み込まれていることは事実です。しかし、進化という要素も含めて、「自然」を創造したのは造物主である唯一の神です。広大な宇宙において稀有の存在である地球、そして地球環境は神の手による創造の産物です。
 
相対性理論で有名な物理学者、アルベルト・アインシュタインの直筆の手紙が、インターネットオークションにかけられることになったそうです。四年前のロンドンでのオークションでは三二〇〇万円で落札された手紙は、今度は開始価格が二億三千五百万円だそうですが、そこには「私にとって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない」と記されているとのことです。前半の考えは十五歳までの私が持っていたものと一緒です。
 
しかし、神は実在するのです。その証拠が宇宙であり、地球環境なのです。
外国、特に中国から来日した観光客が驚くのは日本という国の都市の清潔さや秩序正しさです。特に駅のホームで電車を待つ間の、整然と並ぶ行列には目を見張るそうです。
しかし初めからそうではありませんでした。一九六四年、東京でオリンピックが開催されるのを機に、外国からのお客さんにみっともないところを見せないようにということから、東京の駅のホームでは順番を守るという運動が進められたのです。それまでは電車が着くやいなや、だれもがみな我れがちに入り口に殺到したものでした。
 
面白いのは大阪でした。一九七〇年、大阪で万国博覧会が開催された際に、東京オリンピックを機に東京のマナーが向上したように、大阪でも乗降のマナーを、という呼びかけがあったのですが、体面を気にする東京人に較べて、人目を気にしない大阪人には乗降マナーは定着しませんでした。しかし衣食足りて礼節を知る、と言いますが、いつしか大阪のどの駅でも順番というマナーは定着するようになりました。
 
自然界の整然たる秩序は、創造者の性格が反映されたものなのです。
 
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの世につたえ、この夜は知識をかの夜につげる」(詩篇19篇1、2節 旧約762p)。
 
 
2.人類は「自然」の所有者ではなく、管理人である
 
 では、神によって造られた「自然」の中で、人間はどのような位置におり、いかなる立場を占めているのでしょうか。確かに神による創造の冠として造られたのが人類でした。そういう意味では、神によって造られたものの中で、人類は特別な地位を占めてはいます。
 
第一に人間のみ、神のイメージを反映する「神のかたち」に創造されました。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1章27節)。
 
 「神のかたち」とは、実体論的に言えば創造者である神の内面に似たものという意味であり、関係論的に言えばその神の呼び掛けに応答することができ、かつ神に向かって呼びかけることができる機能を意味します。つまり、人は他の被造物とは全く違った存在であって、まさに特別な存在なのです。
 
 最近、テレビで人気のチンパンジーが演技中に舞台で、女性のアシスタントを襲うという事件を起こしました。オスのチンパンジーは習性として自分の強さを誇示するために、自分より弱いと思われる者に力を振うそうで、そういう意味では母親にだけ暴力をふるう内弁慶の少年や、外では意気地がなくて家に帰っては妻を殴るDV夫などはチンパンジーと五十歩百歩ということになります。
 
 しかし本来人類は、他の類人猿とも違った特別な存在なのです。しかし、その違いが人間を高慢にし、その結果、人類はあたかも「自然」界の支配者、所有者であるかのように振る舞うようになりました。その揚げ句が、自然破壊、環境汚染となって人の生活を脅かすようになりました。
 
その点で、世界でもっとも自然環境を大事にしている民族のひとつが日本人でしょう。日本の宗教の特徴は汎神論(はんしんろん)と言いまして、万物は汎(あまね)く神であるという宗教観にあります。
人間を含めた「自然」には神あるいは神の霊が宿っているというその考えが、自然を大切にするという生き方を日本人の中に育むこととなったようです。
 
 これに対し、神を創造者、自然を被造物とするユダヤ・キリスト教的価値観を基本とした欧米諸国は、いつの間にか自然の上にあたかも支配者のように君臨するようになり、その結果が自然破壊、環境汚染となって、その自然から復讐されることとなったのです。
人間は「自然」の支配者ではなく、あくまでも神から管理を委ねられた管理人であったのです。
 
「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう』」(1章28、29節)。
 
 ここには確かに「地を従わせよ」(28節)とあります。また、「すべての生き物とを治めよ」(28節)とあり、「すべての草と、…すべての木とを…与える」(29節)とあります。
しかし、それは所有物としてではなく、管理の対象として委ねるという意味だったのです。「自然」の所有者は依然として神であり、支配者もまた神です。「自然」を創造した神は人間を「自然」の管理人として立てたのであって、「自然」の所有権を譲ったのではありません。
 
「地と、それに満ちるもの、世界と、その中に住む者とは主のもである」(詩篇24篇1節 旧約766p)。
 
そしていち早く、そのことに気付いたのが、「自然」との共存を文化、伝統としてきた日本の農夫、職人、そして技術者、研究者でした。
先月の特別礼拝で、妻を批判されて涙を流し、その結果、大統領候補から脱落したエドムント・マスキーの話をしましたが、この人が提案したことからマスキー法と称された自動車の排気ガス規制法は、七十年代半ばまでに一酸化炭素や窒素酸化物の排出量をそれまでの十分の一以下にするという厳しいものでした。
 
しかし、そのだれもが不可能と思っていた厳しい基準を何と七十二年には日本のホンダが、そして七十三年にはマツダがクリアしたのです。日本の自動車メーカーの技術力の凄さに、世界が驚嘆したものでした。でもマスキー法はその後、廃案となってしまいました。アメリカの自動車会社を中心とした反発が巻き起こったからです。そしてマスキー法の基準をクリアした自動車が米国を走るようになったのは一九九五年を過ぎてからだったのです。
 
 ある意味では、非キリスト教国である日本、そして日本人こそ、人間が「自然」の支配者ではなくて管理人であるという聖書の位置づけに対して、最も忠実な民族なのかも知れません。
 
 
3.人類に必要なことは真の所有者と会う備えをすることである
 
 先祖伝来の文化的、宗教的遺伝子によるのかどうかは定かではありませんが、現在、環境汚染に最もルーズな国が中国で、最も厳しい国が日本です。
 
 先日、日本海側の地域の放射性物質の値が、福島のそれと同程度であるという調査結果が発表されましたが、その原因として考えられているのが中国から飛来してくる黄砂です。
 
体制は社会主義、経済は資本主義の中国は、環境保全には極めて無関心です。そしてそのような国と隣り合わせになっている我が国は、領土、領海への侵略という脅威で悩まされるだけでなく、海から流れてくる汚染水、空から吹き込んでくる汚染物質によって深刻な環境汚染被害、健康被害を受けています。
 
 ネットで流れているジョークを持ち出すまでもなく、豊かな四季に恵まれている日本ですが、本来の中国もまた、豊かな四季、麗しい山河、緑の自然に恵まれた国土を誇りとしていたのです。私たちが漢文の授業で教えられた中国がまさに「自然」に恵まれた風土でしたし、私も以前、中国古代の偉人、英雄を取り上げた宮城谷昌光の歴史小説を、心躍らせながら読んだものでしたが、小説の舞台となった時代は、秦の始皇帝が中国を統一した紀元前三世紀末までのものであって、以後、中国は国土も人心も荒れ放題となり、今日の自然破壊、環境汚染の進む異形(いぎょう)の国となってしまいました。
 
戦後、中国には無神論の共産主義国家が生まれ、社会主義の計画経済でゆき詰まった揚げ句、日本から受けた莫大なODA三兆六千億円が資源開発、道路、鉄道、空港などのインフラ整備に使われてきましたが、今に至るも自然環境の保全には全く無関心です。
共産主義と唯物史観とは表裏一体です。そして唯物史観とは物がすべてという価値観なのです。人の事などかまっちゃおれない、というわけです。
 
 無神論の教育と受けている中国の若者の中に、信仰心が生まれるようにと祈る毎日です。もちろん、有神論の国でも自国中心主義であることには変わりはありません。しかし、ガリレオ・ガリレイが「神を恐れない教育は、知恵のある悪魔をつくる」と言ったそうですが、神を恐れることがなければ、自己の利益を優先する生き方になるのは必然です。まさに「知恵のある悪魔」がつくられているのです。
 
 石平(せき・へい)という名の中国から帰化した大学教師がいます。この人が先日、テレビ番組に出演して紹介していたエピソードは笑うに笑えないものでした。
「所用でパリに行ったところ、地下鉄で、フランス語に混じって、日本語のアナウンスが聞こえてきた、それは、日本人乗客に『地下鉄での盗難にご注意ください』という放送であった、そしてパリのホテルの部屋には、『備え付けの備品を持ち帰らないでください』と、中国語で書いてあった」というのです。これは、元は中国人で、そして今は日本人となった人の体験談です。
 
尖閣問題から、中国からの観光客が激減し、そのため、中国人で賑わっていた観光地や店が閑古鳥状態となっているというニュースが流れていますが、傍若無人に振る舞う中国からの観光客のために、以前から他国の客や日本人客が寄り付かなくなっていたところに中国からのキャンセルが追い打ちをかけた、それが実情なのだそうです。
 
 日本人は人間本来の「自然」の管理人という位置をさらにキープすると共に、「自然」の真の所有者である創造者なる神と出会うことが求められています。
 「自然」は神ではありません。ですから礼拝の対象ではありません。「自然」は管理の対象であり、保護の対象です。しかしまた、「自然」なくして人の生存は不可能であることを「自然」は人類に教えてくれているのです。
しかも「自然」は人に神の存在を教えます。そういう意味において、「自然」はわたしたちに神と人間の関係、人間と自然の位置を教える教師でもあるのです。
 
現代、思い上がっている人類、とりわけ、キリスト教国は、「自然」の支配者の地位を真の所有者である神に返上しなければなりません。
紀元前八世紀、イスラエルにアモスという預言者が現われました。当時のイスラエルは軍事、外交の面での勢いもあり、経済的には繁栄の絶頂期にありましたが、その陰では不正義が横行し、社会的格差が広がっておりました。そんなイスラエルに向かって預言者アモスは、「神に会う備えをせよ」という警告を発したのでした。
 
「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4章12節後半 旧約聖書口語訳1271p)。
 
 神の存在を認めるだけでは足りません。心の膝を屈めて神に拝謁(はいえつ)をすることが大事です。
 
 そして隣国です。ヨーロッパ諸国はそれでも、神の存在を認めてはいます。しかし、生まれた時から神の存在を否定する教育を受け、物質的豊かさこそが幸福であるとする唯物論思想に染まった隣国の若者たちもまた、創造者である神に会う備えが必要なのです。
神に会う若者が彼の地に増えて、人が「自然」の所有者ではなく管理人であることを悟るとき、汚染された環境、破壊された自然の将来的回復にも希望を見出すことができると思います。
そのために、隣国に宣教の自由、信仰の自由が回復するよう祈る者は、神の祝福を受けることでしょう。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-09-30 16:31:42 (1973 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年9月30日  日曜礼拝説教

「今求められていること、それは信仰の目覚め」

   マルコによる福音書13章28〜37節(新約 口語訳75p)  

はじめに
 
 八月に起きた韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の、島根県竹島への上陸、尖閣三島の国有化を受けての中国本土における官製デモ、そして暴動、略奪行為は、韓国という国家の独善性、共産中国という体制の品位のなさを露呈すると共に、かえって日本人の中に長い間眠っていた国を愛する心、国を守るという意識を呼び覚ます結果となったようです。
 
先週行われた野党の総裁選で、最初の段階では三番手と言われていた候補が逆転、当選したのも、日本人が日本人であることに目覚めたことが追い風となったからだという分析もあります。
 
 愛国心は必要です。国防意識も重要です。しかし、それらの気持ちや意識が時代の単なる雰囲気の反射に過ぎないのであれば長続きはしませんし、場合によってはかえって危険な流れを生み出しかねません。
 
 今日本国民に求められているものが何かと言いますと、それは正しい歴史認識の重要性に目覚めるということです。
 
歴史認識には二つの要素があります。
一つは何があったのかという事実の認定です。在りもしない架空の事態、あるいは改竄された事柄を根拠にして、被害、加害を論ずるのは空虚であるだけでなく、欺瞞でもあるからです。大事なことは、本当は何があったのか、あるいは何がなかったのかという事実の確定です。
そしてもう一つの、歴史認識に関する要素とは、事実として確定された事柄をどのように解釈するかという、歴史解釈の問題です。
 
 先週、国連総会において、日本と中国、日本と韓国の間で激論が戦わされました。中国の外相は、尖閣諸島は「日清戦争後に日本が占拠し、これらの島々やその他の領土を割譲する不平等条約への署名を(清に)強制した」「第二次大戦後、カイロ宣言やポツダム宣言に従い、これらの島々を含む占領された領土は中国に返還された」と主張しました。
 
 しかし、尖閣諸島は日清戦争が始まる何年も前の一八八五年以降、日本政府が現地調査を行って、この諸島が無人であること、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認した上で、一九九五年一月に閣議決定をして日本の領土に編入したものであって、日清戦争後に締結された下関条約において清から割譲された台湾島及び澎湖諸島にも、尖閣は含まれていなかったのです。
 
 それどころか、先週末に明らかになった米国中央情報局(CIA)の報告書によりますと、CIAが、中国が文化大革命の担い手であった紅衛兵に向けて一九六六年に刊行した地図を例にあげて、「尖閣諸島は中国の国境外に位置しており、琉球列島、すなわち日本に属していることを示している」と指摘し、翌六七年に北京で刊行された一般向け地図帳でも「尖閣は琉球列島に含まれる」という表記があったことを報告しています。
 
 さらに報告書は台湾でも「尖閣海域が中国側の境界線にあると表示する地図はなかった」としているのですが、これらの公的報告書は、中国側の主張を根底から覆す証拠ということになります。
 
 日本人が目覚めなければならないのは、歴史的事実を基本とした歴史解釈の重要性、つまり正しい歴史認識を持つことの重要性についてです。国家というものは本能的に国益を第一に考えます。そのためには歴史的事実も平気で捏造しますし、他国の主張には歪曲、妄言と非難する性癖があるからです。
 
 でも、「人の振り見て我が振り直せ」という故事があります。
野党の総裁選挙のあとのテレビの朝のワイドショーで、キャスターから事実を無視した発言が相次ぎました。
当選した新総裁は嘗て、厚生省指定の難病である「潰瘍性大腸炎」という病気を抱えながら総理大臣という激務をこなしつつ、ついに難病に罹患している自分がこれ以上総理大臣の地位にとどまり続けることは日本のためにならないと考えて、辞任をしたという経緯がある人です。
 
幸い、二年ほど前に「アサコール」という特効薬が日本で認可されたことによって、重い症状が劇的に改善されたという体験を踏まえて、総裁選挙に打って出たようですが、マスコミに登場する者として、これらの経緯を当然知っている筈の女性コメンテーターが、「お腹が痛くなっちゃって辞めちゃったということで…」と話し始め、これを受けたメインキャスターが「ちょっと子供みたいだったと思うよ」と口を挟み、それに対して女性コメンテーターが「そうなんですよ、そうなんですよ」と続けたのです。
 
当時の医療や薬剤ではどうにもならない難病に罹患し、止むに止まれぬ状況から決断した辞任を、子供のようにお腹が痛くなって辞めたとか、放り投げたなどという的外れの非難は、程度の低い誹謗中傷の類でしかありません。
 
もう一つの事例は、時間帯は一緒の別の番組での準キャスター?の発言でした。彼は五年前の総理大臣の辞任のことを、「あの人は病気で辞めたのではなくて、一年間やっていて成果が出なかったので、辞めたんですよ」と言い放ったのです。 
しかし、「あの人は」「一年間やって成果が出なかった」どころか、一内閣で一つの業績を上げれば上々という日本政治史において、教育基本法の改正、防衛庁の防衛省への昇格、憲法改正手続きを進めるために必要な国民投票法を制度化するなど、五つもの重要課題を達成したと、識者は評価しているのです。
 
前者が難病という重大な事実を、お腹が痛いと矮小化して笑い飛ばした、卑劣なものであったのに対し、後者の例は難病による辞任という事実を故意に捻じ曲げて別の根拠のない理由にした無責任なもので、いずれも公正とは無縁のアンフェアな発言でした。
 
それらの発言の背後にあるものは、ターゲットに対する悪意でした。到底、中国や韓国の主張や手法を的外れと批判することは出来ません。日本人は中国人から、「品位がある」「民度が高い」と言われているのですが、改めて「人の振り見て我が振り直せ」という故事を噛みしめたいと思わせられたテレビのキャスターやコメンテーターの発言でした。
 
事実を基礎にした上で下す事実解釈、歴史認識の重要性に目覚めること、それが混沌を生きる日本人に求められている課題であると思います。日本人はもう一度、特定のイデオロギーに汚染されていない公正なテキストを用いて、何があり、何がなかったのかという歴史の真実を学び直す時期に来ています。
 
歴史認識の重要性に目覚めることはとても大切です。そして、更に重要かつ必要な目覚めがあります。それが信仰的目覚めです。
今週はマルコによる福音書十三章の最後の文脈を通して、わたしたちがイエス・キリストから何にもまさって「今、求められていること、それは「信仰の目覚め」であることを確認したいと思います。
 
 
1.信仰的に目覚めている者は、ますます目覚めて信仰を深める
 
 イエスはユダヤ人ならば誰もがなじんでいる無花果の木の成長具合を例にあげて、弟子たちに対し、空前絶後の患難の到来を見たならば、希望の到来もまた近いことを悟るようにと言われました。
 
「いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起こるのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マルコによる福音書13章28、29節 新約聖書口語訳75p)。
 
 「人の子が戸口まで近づいている」(29節)という言葉は、イエスの再来臨が近いという意味です。先週も触れましたがイエス自身、この時点ではそれがそう遠くはない時期に起こると思っていたようです。そしてその期待はパウロをはじめ、原始教会に共通したものでしたが、一世紀の終わりになり、そして二世紀の初めになってもキリストの再来臨は一向に起こりませんでした。
イエスの言葉は空手形だったのでしょうか。違います。正確な時期についてはイエス自身、父なる神以外、誰も知らないと言っています。
 
「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(13章32節)。
 
 再臨の時期は人にはわからないのです。しかし、熱心ではあるけれど、無知な人々は聖書に勝手な解釈を施して、再臨の時期を推定してきました。その典型がカルト教会の「エホバの証人」ですが、韓国の教会も負けてはいません。
ディスペンセーション、あるいはディスペンセーショナリズムという教理がありました。これは契約の期間という意味だそうですが、この教理では人類の歴史を七つの時代に分け、六つの時代が終わり、そして七つ目の時代の初めにイエスが来臨するとし、その極端な考えは、アダムの創造は紀元前四千四年、イエスの誕生はその四千年後の紀元前四年であり、さらにその二千年後の一九九六年のクリスマスでちょうど六千年になる、だから一九九六年の終わりに再臨があると考えたのでした。
 
 実際、一九九六年の秋も終わりのころ、日曜日に放映されていたキリスト教テレビ番組で、韓国のある著名な牧師さんが、聖地旅行に来た信者さんたちに向かって、「キリストは今年中にも来られるかもしれません」と、あたかも年内に再臨があるかのような口調で語っている説教を聞いて、大胆なことをと思ったことがあります。
結局、一九九六年が終わっても、そしてノストラダムスの預言の一九九九年が終わっても再臨はありませんでした。
体験を重視する教会はとかく神学を軽視する傾向があるのですが、神学は非常に大事なのです。
 
 でも確かなことが一つあります。それは、イエスが明言したことは必ず実現するということです。なぜならば、イエスの言葉は不変であり、不滅だからです。
 
「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(13章30、31節)。
 
 「これらの事」(30節)はエルサレムの滅亡、そしてその前兆を意味します。ということは、「これらの事」は歴史的にはすでに「ことごとく起こ」(同)ってしまっています。となると、「人の子が雲に乗って来るのを、人々は見る」(26節)という事象が、いつ起きても不思議ではないということになります。
 イエスの弟子に求められていることは、イエスがいつ帰ってきてもよいように、信仰の目を覚まして日々を生きることでした。
 
「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当たり、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである」(13章33、34節)。
 
 言葉が軽い時代です。しかし、イエスの「言葉は滅びることがない」(30節)のです。日々に主と交わり、礼拝することを継続することによって、信仰的に目覚めている者はますます目覚めて、信仰を深めることが求められているのです。
 信仰の「目をさましてい」(33節)る状態を持続するために必要なことは、キリストの体なる教会に繋がっていることですが、そのために必要なことは神との個人的な交わりの継続です。
 
来週の特別礼拝で宇田川さんが二曲、独唱をしてくれますが、そのうちの一曲の「I Simply Come(主の前に跪いて)」のマーゴットという作者が、「この歌は主との深い交わりの中で感動を受けて、そして出来上がったものだ」と証ししているのを、ネットで読みました。
目にこそ見ることはできませんが、信じる者の側に常にいてくださる主との交わりこそ、信仰の「目をさまし」続ける秘訣です。
 
 
2.信仰の休眠状態にある者は、信仰の目を覚ますべき時である
 
常に変わることなく、信仰の火を灯し続けている人は幸いです。しかし、様々な理由、色々な事情で信仰が休眠状態に陥ってしまう場合もあります。
 
ある日ある時、天からの光を心に受けて神から愛されていることを知り、信仰に目覚めて燃えた時があった、けれども時の経過と共に信仰の火も弱くなってきて、決して信仰を否定するわけではない、信仰を捨てるわけではない、神の存在は信じている、罪が赦されるため、救われるためにはキリストの十字架の贖いが必要であることもわかっている、最初はちょっとの休みのつもりでいたけれど、いつしか足が教会から遠のいて、いつの間にか聖書を開くこともなくなり、今はすっかり神さまとはご無沙汰の状態になっている…。
 
実はこういう人は、我が国には、定期的に教会に通っている人々の何倍もいるのです。そしてそのような方々に向かって、イエスは、眠りから覚める時がいま来ている、と言われているのです。
 
「だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない」(13章35、36節)。
 
 家庭の事情、仕事のこと、気持ちの変化、あるいは教会の問題など、地上にいた時ですらその豊かな感受性をもって誰よりも深く人を理解されたイエス、今は全知全能の神の地位に戻っておられる主なるイエスは、人それぞれの事情をよくよく理解した上で、以前のようにもう一度、わたしと苦楽を共にし、人生を一緒に歩もうではないかと呼びかけてくださっているのです。
 
 幸いなのは、主が「急に帰ってきて」(36節)、「眠っているところを見つける」(37節)前に、「目をさましてい」(35節)る人です。
 今現在、信仰の休暇中の方も、今の事情を抱えたまま、そのまま、その場で以前のように主を呼び求めてみてください。主はご自分の民をお忘れになることは決してないのです。
 
「しかし、愛する者たちよ。神は不義な方ではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない」(ヘブル人への手紙6章9、10節 348p)。  
 
 
3.目覚めている者は目覚めた者と共に、同胞の目覚めを祈る
 
 「目をさましていなさい」というイエスの呼び掛けは、弟子たちだけを対象にしたものではありません。それは生きとし生ける者すべて、人類すべてに向かって語られたお言葉です。人種、民族、宗教、文化の違いを超えて、アダムとエバの子孫であるすべての人間に向かって語られている言葉です。
 
「目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人に言うのである」(13章37節)。
 
 イエスは第一に、今信仰的に目覚めている者に向かって、目覚め続けていなさい、と言われ、さらに、休眠状態にある者に対しては、眠りから覚めてはどうか、と言われました。しかし、それだけではありません。未(いま)だイエスを知らない、イエスの言葉を聞いたことのない「すべての人に」(37節)向かっても、イエスは信仰の「目をさましていなさい」と言われているのです。
 
 わたしたちの周りには、福音を聞いたことのない人が大勢います。家に帰れば家の中に、職場に行けば職場に、そして学校に行けば教室の中に、今まで福音を聞いたことも、聖書を読んだこともなく、「人間なんて死んだら終わりだ」などという虚無的な考えを持っていて、しかし、それでも真面目に仕事に打ち込み、懸命になって日々をまじめに暮らしている人が大勢います。
 
 イエスはなぜ、復活後、地上に止まって弟子たちと共に布教活動をしなかったのか、イエスが一度、天に戻ったのは、今は弟子ではないという人々のためにも、彼らの住まいを天に用意するためであったのでした。
 
 確かにイエスの再来臨は遅れに遅れています。しかし、旅に出た主人が帰宅するように、主は必ずこの地上に戻ってきます。イエスの「言葉は滅びることがない」(31節)からです。
 
 世知辛い世の中です。デフレ、円高で暮らしもままなりません。どうしても自分のことでいっぱいになりがちです。しかしもう一度、心と思いを新たにして、まだ福音を聞いたことのない家族、親族、友人、知人、地域の人々のために、そして一億三千万の同胞の信仰の目覚めのために、執りなしの祈りの手をあげる人は幸いです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-09-23 16:50:51 (1943 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年9月23日  日曜礼拝説教

「迫り来る危機への賢明な対応、それは」     

  マルコによる福音書13章14〜27節(新約聖書口語訳74p)   

はじめに
 
 この九月十一日、日本政府は沖縄県石垣市に属する尖閣諸島のうちの魚釣島、北小島、南小島の三島を、地権者から二十億五千万円で購入し、所有権移転登記を完了しました。いわゆる国有化です。
 
そしてこれを契機に中国本土で反日デモが激化し、暴動、そして破壊行為へとエスカレートしていきます。デモの背後にあって、煽り、コントロールしているのは中国国家であることが透けて見えることが映像などからはっきりしていましたが、デモが反政府運動に向かっていくことを恐れた共産党政府がデモの鎮静化に乗り出したため、デモは瞬く間に終焉してしまいました。
 
気の毒なのは破壊と略奪のターゲットとなった日本の企業、工場、販売店、料理店などですが、彼らは中国で商業活動をする際に発生する、いわゆる「チャイナ・リスク」という危機への意識をどこまで持っていたのでしょうか。また尖閣の国有化に際して、日本政府、外務省はどこまで深く情報収集、情勢分析をしていたのでしょうか。甚だ心許ない気がします。
 
 今年始め、中国共産党の機関紙である人民日報に、看過することのできない記事が載りました。それは、尖閣諸島を含む離島に名前をつけるという日本政府の動きに対し、「大っぴらに中国の核心的利益を損なおうとするふるまいだ」という評論文でした。中国共産党政府が日本の領土である魚釣島を中心とする尖閣諸島を、中国の「核心的利益」と位置付けた初めての言及でした。
 
中国が使用する「核心的利益」という用語は、中国にとっての「安全保障上、譲ることのできない国家利益」という意味であって、今まではそれがチベットであり、台湾であったのですが、そこに新たに尖閣が加えられたわけです。
 
 問題はそれだけではありません。尖閣が沖縄に属するということは中国でもわかっていることですから、次の段階では沖縄の帰属問題を取り上げることによって、尖閣が属する沖縄を獲りに行く、そして最終仕上げとして日本列島を中国に服属させる、それが、中国が尖閣に拘る理由であるとされているのです。
 
 まさに国家の危機です。そして国家の危機は日本政府が正しい危機意識を持ち合わせていないということでもあります。危機意識を持っていませんから危機管理も出来ず、その場しのぎの対応に終始します。
 
 ただ一つだけ希望があります。早くて年内、遅くとも一年後には行われる筈の総選挙の結果では、政権交代が起こる可能性があるということから、現在進行中の野党の総裁選びが事実上の次期総理大臣選びになるということです。
 
そこで私たちとしては、日本国と日本人を愛する神が、国家観が明確で危機意識に富み、諸外国、特に無法な近隣国とも対等に渡り合う見識、交渉力に秀でていて、しかも低落しつつある日本経済を根底から再建することのできる政策を持った人物を選んでくださるようにと、祈るしかありません。
 
投票権のない私たちは、ただただ神の憐れみに縋るしかないのですが、とにかく強い危機意識と卓越した見識、能力を持った人がトップに選ばれるならば、壊れつつあるこの国も、何とかなるのではと思います。
 
 それにつけてもイエスです。マルコによる福音書を、順を追って読み進めながら、イエスの危機察知能力にはほんとうに驚きます。
 
イエスはエルサレムの破滅という危機の前兆として六つの兆しを挙げましたが、さらにユダヤに襲い来る危機が空前絶後の恐るべき規模のものであるということを、その超絶的危機察知能力で感じ取り、弟子たちに危機に直面した際の対応について勧告します。
 
 今週は到来する危機が空前絶後の危機であること、その危機に対してはいかに対応すべきであるかということ、そして到来するであろう恐るべき患難の後に続く、希望に満ちた栄光の到来についてのイエスの予告の意味を考えたいと思います。
 
 
1.空前絶後の危機が到来するとの、イエスの予告
 
 イエスは弟子たちに対し、エルサレムを中心としたユダヤに到来する危機は、空前絶後の規模のものになるという予告をしております。
 
「その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起こるからである」(マルコによる福音書13章19節 新約聖書口語訳74p)。
 
 繰り返し言っておりますが、このイエスの予告はあくまでも紀元一世紀という特定の時代への予告であって、予告の対象はあくまでもその時代のユダヤです。
ユダヤ人は多くの惨禍を経験してきました。しかし、これ程の患難は「かつてなく今後もないような患難」(19節)であるというのです。
 
 それは具体的にはローマ軍によるエルサレム攻撃、エルサレム神殿の炎上となって実現しました。ユダヤ人歴史家のヨセフスが著わした「ユダヤ戦記」によれば、ユダヤ戦争勃発の発端は、ユダヤ総督のフロルスがエルサレム神殿の宝庫から聖なる宝物を持ち出したことにあるとされています。それが紀元六十六年のことでした。
 
そしてこれをきっかけにしてユダヤ人による暴動が発生し、フロルスが暴動に参加したユダヤ人を多数、磔にしたことから、これがユダヤ全土に反ローマの機運を飛び火させることとなり、ユダヤ人とローマ軍の間に本格的な戦闘が開始されることとなりました。
六十八年に自殺したネロの跡を襲ってローマ皇帝となったウェスパシアヌスは、息子のティトスをエルサレム攻略に向かわせます。
 
ティトスはエルサレムを包囲して兵糧攻めにし、町が破壊される前に多数の老人、女性、子供たちが町の中で餓死したとヨセフスは書いています。
最終的にはティトスの攻城作戦の結果、エルサレムの町を囲む城壁は破られ、ローマ兵が放った火によってエルサレム神殿も炎上し、ソロモンの神殿が破壊された千年前のちょうどその日に、その秀麗さのゆに人々の耳目を奪ってきた麗しの神殿は倒壊をしてしまったそうです。
 
前にも言いましたが、ヨセフスによればローマ軍の攻撃によって、餓死者も含めて百十万人が死に、九万七千人が捕虜となって奴隷にされたとのことです。
 
 なおこのとき、エルサレムを逃れた約千人ほどが死海西岸のマサダ(要塞という意味)に立て籠もって二年近く抵抗を続けますが、マサダの陥落寸前に男たちは集団自決をし、これによってユダヤ戦争は終結することとなります。
 
 それはまさに、ユダヤ人にとっては「神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難」(19節)でした。イエスの予告通りのことが確かに起こったのでした。
 
 
2.迫りくる危機への賢明な対応、それは
 
 ユダヤ人をローマへの抵抗に駆り立てたものは何かと言いますと、きっかけとしてはローマの官憲による神殿冒、そしてそれに憤激して暴動を起こしたユダヤ人への弾圧という出来ごとでした。しかしユダヤ人、つまりユダヤ教徒がローマへの抵抗という道を選択したのは、この時代にユダヤを覆っていた黙示思想であり、メシヤ信仰であったと考えることができます。
 
つまり、最後の最後にユダヤ人を救う救世主メシヤが天から送られてきて、憎き異教徒を駆逐して、世界に冠たるユダヤ人国家をこの地に建て上げてくれるという終末信仰が原動力となったと考えることができます。
 しかし、彼らが期待するようなメシヤは現われませんでした。メシヤはエルサレムにも現われず、マサダの要塞にも現われませんでした。
 
 メシヤは既に来ていたのです。しかしユダヤ人はエルサレムの破滅の四十年前、神が遣わしたイエスというメシヤ・キリストをローマに引き渡してしまっていました。
 
その十字架に架けられる直前のイエスがユダヤ人である弟子たちに告げたことは、破滅の兆候を見たならば、とにかく直ちに逃げよ、という勧めでした。
 破滅の兆候は、ユダヤ人であるならば誰もが知っている出来ごとを想起させました。
 
「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(13章14節)。
 
 「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つ」という文言はダニエル書にある言葉です。
 
「彼から軍勢が起こって、神殿と城郭を汚し、常供(じょうく)の燔祭を獲り除き、荒らす憎むべきものを立てるでしょう」(ダニエル書11章31節 旧約聖書口語訳1242p)。
 
 これは実際に起こった歴史的事実を未来預言のかたちで記録したものであるという解釈もありますが、紀元前一六七年、当時ユダヤを含めたシリヤを統治していたアンティオコス・エピファネスが、エルサレム神殿にユダヤ人が忌み嫌う豚の肉を捧げさせ、聖所の前にゼウスの像を据えるという事件を起こし、これがきっかけとなって、マカベア戦争と言われるユダヤ独立戦争が始まります。
 もしも似たような出来事が起こった時にイエスの弟子はどうすべきかと言いますと、「あなたがた弟子たちはそれを破滅の始まる兆候と捉えて、直ちに逃げ出せ、そして命を保て」とイエスは言われたのでした。
 
「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな」(13章14、15節)。
 
 これが目前に迫りくる危機への賢明な対応の仕方でした。昨春、東北を襲った大津波で明暗を分けたのもこの一瞬の判断でした。
 そしてイエスの忠告に従ったクリスチャンたちは、キリスト教史家のエウセビオスによれば、ヨルダン川の東にあるペラに逃れたということです(山口昇「新聖書注解 マルコの福音書」)。
 
 弟子たちがエルサレムの破滅のあとまでも、その命を存(ながら)えることができたのは彼らがイエスの言葉に従ったからですが、それは彼らが機械的にイエスの言葉に従ったからではなく、イエスの言葉の真意というものを深く理解していたからでした。
 
すなわち、イエスは彼らがいっときの激情や狭い民族主義に駆られて犬死、無駄死にするのではなく、キリストを証しするという本来の使命を果たすことを願っているということを知っていたからでした。
 
 そしてもう一つ、彼らが賢明な選択をしたわけは、彼らが一世紀のユダヤ人社会を覆っていた空気であった極端な黙示思想というものと一線を画すことができていたからでした。
 
では彼らが賢明な選択をすることができたのはなぜか。それは彼らが健全な教会生活を通して、「読み込むな、読み取れ」という聖書解釈学の原則に基づいた、聖書の解き明かしを聞いていたからでした。
 
エルサレムの破滅というイエスの予告は、歴史的には西暦六十六年から七十二年にかけて実現しました。そして、もしもイエスの言葉を、現代を生きる私たちが教訓として聞くとするならば、第一に時代状況を正しく分析して、必要な危機意識を持つことであり、しかし同時に健全な聖書研究を進めることによって、伝統的終末論を見直し、健全な終末論を構築することであると思います。実はそれこそが、迫り来る危機への賢明な対処なのです。
 
 
3.恐るべき患難の後の、栄光の到来の予告
 
 なお、イエスは空前絶後ともいうべき、恐るべき患難の到来を予告するだけではなく、患難の後に続く栄光の到来を予告します。
それはキリストの来臨という予告であり、その際には、世界中に離散している弟子たちを御許に呼び寄せるというものでした。
 
「その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光をもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使いたちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(13章24〜27節)。
 
 実は、このときのイエスは、「人の子が雲に乗って来る」(26節)時がエルサレムの破滅後のそう遠くない時期、つまり弟子たちがまだ生きている時に実現すると考えていたようです。それはピリポ・カイザリヤにおける発言でも明らかです。
 
「また、彼らに言われた、『よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる』」(9章1節)。
 
 「神の国が力をもって来る」という言葉の意味は、前後の文脈からも「人の子」であるイエスの再来臨であることは明らかです。
 
「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」(8章38節)。
 
 つまり、九章一節の「神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」とは、あなたがた弟子たちの中には、終わりの日における栄光の現われの際に、つまり「人の子」が「父の栄光のうちに聖なる御使いたちと共に来るときに」(38節)はまだ存命をしている者もいる、という意味です。
 そしてそれは確かに、一世紀のエルサレム壊滅前の原始キリスト教会に共通する認識であって、使徒パウロもまたそのように信じていたようなのです。
 
「わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠っている人々より先になることは、決してないであろう」(テサロニケ人への第一の手紙4章15節 322p)。
 
 「テサロニケ人への第一の手紙」は五十年代初めに書かれたパウロの書簡ですが、「生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち」という言い方は、主の来臨が彼を含めたその時代の信徒たちがまだ存命している時に起こると、彼が考えていた証左です。 
 
しかしパウロはともかく、イエスが知らないことがあるわけがない、なぜってイエスは神の子なのだから、と思う人も多いのですが、神学的観点から言いますと、人であった時のイエスの知識には限りがあったと考えることが妥当です。
確かにイエスは人となってからも依然として神の子でした。ですから全知全能という神の属性(これを難しい言葉で言うと「能力的属性」というのですが)を持ってはいるのです。しかし、人間であった時のイエスはその能力を封印していて使用することなく、あくまでもひとりの「人」として生きていたのです。
 
それは私たち人間と同じになることによって人間の代表となり、そして身代わりとなって死ぬためでした。つまりこの時の、人であるイエスには知らないこともあったということになります。ですからご自身の再来臨の時期に関して、神の子である私も知らないと言っているのです。
 
「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(13章32節)。
 
 ここでイエスは「人の子が雲に乗って来る」(27節)「その日、その時は、だれも知らない。…子も知らない」(32節)と言い、知っているのは「父だけ」(同)であると言い切っています。
 もちろん、昇天して神の右に座しておられる今は、イエスは全知全能であって、当然、ご自分の再びの来臨の時期をご存じであることは言うまでもありません。
 
 確かにキリストの来臨は、イエスが言ったようにすぐには実現しませんでした。その結果、ヨルダン川の向こうに逃れた弟子たちの中に、再臨の遅延に対する不安が起こってきます。中にはユダヤ教に戻ろうとする動きもあったようです。そこで動揺するユダヤ教出身のユダヤ人キリスト者のために書かれたのが「ヘブル人への手紙」でした。
 
「しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終わりに、一度だけ現われたのである。そして一度だけ死ぬことと、死んだのちさばきを受けることが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現われて、救いを与えられるのである」(ヘブル人への手紙9章26〜28節 352p)。
 
 イエスが予想していたようには、そして古代教会の信徒たちが望んでいたようには、それはすぐには実現しませんでした。しかし、いつの日にか「大いなる力と栄光をもって、人の子(であるイエス)が」(26節)この地上に戻ってくることは確かです。
 
 確実なこと、それはイエスが確かに「二度目に現われて、(信じてきた者たちに完全な)救いを与えられる」(28節)ということ、そして患難辛苦という苦労の後には豊かな安息が、そして空前絶後の苦難の後には輝く栄光が待っているということです。
 
その意味において、私たちの教会が週ごとの日曜礼拝の冒頭で、「主は…かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と使徒信条を告白することは、イエスの予告に対する信仰の確かなる応答なのです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-09-16 16:24:39 (1521 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年9月9日  日曜礼拝説教

「予告された破滅の前兆としての災難(後編)」               

 マルコによる福音書13章9〜13節(新約聖書口語訳74p)   

はじめに
 
 何が理不尽かと言って、日常生活を何気なく送っている時に、突如自由を奪われて、「地上の楽園」どころかこの世の地獄とも言うべき独裁国家に拉致されてしまった北朝鮮による拉致被害者ほど、理不尽な目にあった人たちもいないと思います。
 
 明日の九月十七日は、小泉純一郎内閣総理大臣(当時)が訪朝して、北朝鮮の国防委員長金正日に北朝鮮という国家が日本人を拉致していたことを告白させて、丁度十年となる節目の日です。最初、金正日は拉致を認めようとはしませんでしたが、昼食休憩時に、日本側の休憩室に盗聴マイクが設置されていることを承知の上で、同行していた官房副長官安倍晋三(当時)と外務省審議官高野紀元(当時)が首相に向かって声高に、「拉致について金正日総書記の口から謝罪と経緯についての話しがない限り、日朝共同宣言に署名するわけには行きません。北朝鮮側が拉致を認めないならば、日朝共同宣言には署名せず、このまま帰国することにしましょう」と提言したそうです。
 
 そして会談が再開した冒頭、金総書記は突然、「拉致は我が国の特殊部隊の一部妄動主義者がやった。関係者はすでに処分した」と、北朝鮮による拉致を認めたというのです。これに一番驚いたのは北朝鮮労働党の友党として、北による拉致を否定し続けていた日本の社会主義政党でしょう。特にその党首などは、被害者の有本恵子さんの両親の嘆願をけんもほろろに突っぱねたのみか、両親から得た情報を朝鮮総連に流すような有様でした。
また半島寄りの社論から「チョン(朝)イル(日)新聞」などと揶揄される某大手新聞がそれまでの「拉致疑惑」という表現をしぶしぶ「拉致事件」に変えたのは、拉致が明らかになった翌日の報道からでした。
 
金正日の側にとっては、もしも共同宣言が成立しなければ一兆円を超える筈の日本からの金が入ってこなくなります。そこで日本の金が欲しいために、なりふり構わずあわてて拉致を認めたというわけです。ですからもしもこの会談に安倍晋三官房副長官が同行していなかったならば、北朝鮮は拉致の事実を認めることはなかったかも知れません。危ないところでした。 
そしてこの首脳交渉の結果、翌月、五人の被害者が夢にまで見た祖国日本の地を踏むことになります。
 
なお当時、帰国した五人の拉致被害者を、国同士が約束をしたのだから再度北朝鮮に戻すべきだと主張していた新聞記者の発言をテレビで聞いて、この人は正気かと唖然としたことを覚えています。交渉の末に誘拐犯から奪還した我が子をもう一度、誘拐犯の手に戻すべきだというのですから、開いた口が塞がりません。誘拐された人が、見張りにトイレに行くと言って逃げ出したら、約束を破ったことになるのかどうかは、子供でもわかる理屈なのに、です。
この記者は今も日曜日の朝のテレビ番組で、口癖の「ものすごく」を連発しながら元気でご活躍です。
 
そして十年後の今も、特定失踪者という人々を入れれば、四〇〇人を超える拉致被害者が北朝鮮の空の下、理不尽な状況の中で苦しみ悶えていることを私たち日本人は決して忘れてはならないと思います。
 
 ところがその後、北朝鮮による拉致と、戦時中の慰安婦とを同一視する見解が日本にも現われました。七年前のことですが、フェミニストとして知られる元大学教授の評論家があるテレビ番組で、「北朝鮮の(日本人)拉致は、日本の従軍慰安婦のマネをしてやったんだよ」と言い放ったのを聞きました。同じ番組に出ていた高齢の政治評論家が「(それは)非常に不幸なことだけれど、当時は売春というのは公の職業だったのだ」と彼女を窘(たしな)めたのですが、この女性評論家は聞く耳を持ちませんでした。
 
最近、韓国政府が、日本軍は戦時中二十万人の韓国人女性を強制的に連行して従軍慰安婦としたと主張し、日本の謝罪と賠償を求めて本国にとどまらず米国等でも日本に対する賠償請求運動を展開しているのですが、実は韓国の主張を勢いづけたのが十九年前に出された日本の官房長官談話でした。
 
この官房長官(当時)は親中派の人で、その中国への傾倒ぶりから、当時中国の指導者の名をもじって「江之傭兵(こうのようへい)」と揶揄された人だったのですが、彼は軍による強制の証拠など何一つ見出せないにも関わらず、元慰安婦を自称する女性たちの言い分だけを聞いて談話をまとめ、これによって問題の鎮静化を図ろうとしたのでした。良くも悪くも日本的な解決法であったわけです。
しかし意図に反してこの談話がその後の日本政府を縛ると共に、韓国の主張を却って裏付ける根拠として利用されることとなってしまったのでした。
 
 軍による強制という一方的主張は神話の類いであって、その主張を裏付ける文書や資料は今に至るまで一つも出てきません。反対に当時の新聞には「慰安婦募集 月給三百円」という求人広告が出ていたことが明らかとなっています。工場での労働者の月給が二十円であった時代に、です。
 
ただ、慰安婦の中には自ら応募した者だけではなく、家が貧しかったために親に売られて、しかも自分が金で売られたという事実を知らないまま慰安婦になった者も多数いたことは考えられます。そのような人々にとっては家の事情とはいえ、慰安婦とされたことはやはり理不尽なこととして、同情はしたいと思うのです。
 
しかし、日本軍が強制的に連行したという話は真っ赤な嘘です。ですから、この根も葉もない架空の話が事実とされて、国際社会で独り歩きしているという現実こそ、日本国および日本人にとって理不尽なことなのです。政府は全力で根拠のない汚名を晴らさなければなりません。
 
なお、「従軍慰安婦」なるものが何の根拠もない捏造であるということを、ひとりの日本人が英語で欧米に向かって解明しているyou tubeの画像を見つけました。「谷山雄二朗」か「トニー・ブレアーと慰安婦の不都合な真実」で検索すればヒットします。
五十三分と少し長いのですが、先週末、一気に視聴しました。論理性のあるバランスのとれた内容の弁論でした。この問題に関して、日本人による英語での弁論ははじめてではないかと思います。スピーカーの肩書は「アメリカ国務省 デモクラシーチャレンジファイナリスト」となっていました。
言い忘れましたが、日本語の字幕つきです。
 
さて、今週の礼拝説教は先週の続きで、「予告された破滅の前兆としての災難(後編)」です。前編で取りあげた「前兆」がユダヤ人あるいはエルサレムの住民一般を対象としたものであるのに対し、本日取り上げる「前兆」はイエスを主と仰ぐ者たちに降りかかる災難であって、その特徴は「理不尽」ということです
 
 
1.理不尽な宗教的迫害という厄災の予告
 
 オリブ山においてイエスがに予告した迫りくる破滅の前兆としての四つ目の災難は、弟子たちが受ける理不尽極まる信仰上の迫害でした。
 
「あなたがたは自分で気をつけなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう」(マルコによる福音書13章9節 新約聖書口語訳74p)。
 
 イエスは弟子たちに対し、言葉を重ねてイエスの弟子たる者が受ける迫害と言う苦難について、それを空前の破滅の前の兆しとして予告されたのでした。
弟子たちが「引きわたされ」(9節)る「衆議所」(同)とは、イエスを裁いて死刑を宣告した大議会(大サンヒドリン)に対し、各地域にあって一般ユダヤ人住民を裁く役所、小サンヒドリンのことです。
 
また弟子たちが鞭で「打たれ」(同)ることになる「会堂」(同)、つまりシナゴグは、成人ユダヤ人が十人いる所に構えられていて、地域においてはユダヤ教の礼拝と生活、教育の拠点となっておりました。つまり最初の迫害は、共に旧約文書を聖書とし、同じ神を信じるユダヤ教から始まることが予告されたのです。
 さらに迫害は同族からのそれを超えて、パレスチナの外の世界のローマ帝国の官僚である「長官たち」(同)、そしてローマから王に任命された諸国の「王たち」(同)の法廷に被告として立たされるというかたちに広がることも予告されたのでした。
 
 しかしイエスは理不尽な迫害をむしろ宣教のチャンスであると考えていたようです
 
「こうして、福音はまずすべての人に宣べ伝えられねばならない」(13章10節)。
 
 そして、弟子たちが官憲に連行される時には、聖霊が語るべきことを示す、とも言いました。
 
「そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である」(13章11節)。
 
 事実、イエスの十字架の死からおそらくは六年後の紀元三十六年、十二使徒に続く「七人」(使徒行伝6章3節)の指導者のひとり、ステパノが大議会において死刑判決を受けて処刑されますが、処刑の直前に彼が議会で語った迫力ある証しは青年議員サウロ(後のパウロ)の心を激しく揺さぶり、結果として異邦人伝道の立役者、使徒パウロの誕生に大きな影響を与えることとなりました。
そして、ステパノへの迫害を契機にして、福音はエルサレムからサマリヤ地方、そして地中海世界へと広がっていったのでした。
 
 この「迫害」というイエスの予告は、聖書解釈としてはあくまでも神殿崩壊前の時代に起こることを示唆したものとすべきですが、聖書解釈学の原則には「解釈は一つ、適用は複数」という原則があります。その原則に従えば、神殿崩壊後のキリスト教会にも起こる迫害についても、「解釈」とは別の「適用」のレベルで考えてみなければなりません。事実、信仰上の迫害は十六世紀以降の我が国のキリスト教歴史にも記録されているからです。
 
そこで昨年十一月二十日の礼拝説教「神の国の逆説的教えー放棄は獲得(マルコによる福音書8章41節〜9章1節)」で挙げた殉教の事例を、改めてここにそのまま転載したいと思います。
 
「我が国でも徳川幕府の初期には、迫害は苛烈を極めました。十年ほど前、長崎県の島原半島にある雲仙を高口喜美男先生(熊本・川尻キリスト教会牧師)の案内で訪れましたが、雲仙は多くのキリシタン信徒が拷問されようとも棄教することを拒否したため、熱湯に投げ込まれて殺されるという出来事があった所です。
その中でもパウロ内堀作右衛門という信徒リーダーの三人の息子はそれぞれ指を切り落とされても神を讃美し続け、特に五歳の末の息子イグナチオは両手の人差し指を切られながら、泣きもせず、あたかも薔薇の花を眺めるようにして切られた両手を天にかざしたと言われています。彼らはその後、生きたまま有明の海に沈められ、父親のパウロ内堀をはじめとする十数人の信徒たちはその一週間後に、煮えたぎる雲仙地獄に投げ込まれたのでした」
 
 長崎県の島原カトリック教会の入り口には、今を去る四百年前、苛酷な迫害により、切られて血の滴る両手の指を天にかざす五歳のイグナチオの像が立っています。韓国旅行も結構です。しかし、長崎の島原や雲仙への旅もまた味わい深いものがあると思います。
 確かに私たちとローマ・カトリック教会とでは、教理の理解において多少の違いはあります。しかし、その違いを乗り越えて、雲仙の殉教者たちは私たちにとっても信仰の先祖、先人でもあり、また模範でもあるのです。
 
実は五年前、神学校の夜間校で「日本キリスト教史」という教科を担当しました。この科目は東京の神学校本校では実質、幕末以後のプロテスタント史でしたが、ザビエル以降のキリシタンの歴史もまた、日本のキリスト教の歴史であると考えて、十六世紀から取り上げることにしたその結果、迫害にも負けずに信仰を貫き通した数々の信仰者群像を知ることができたことはとても幸いなことでした。
 
 
2.思いもかけない者からの裏切りという悲劇の予告
 
 エルサレムの破滅を前にした弟子たちへの五つ目の予告は、肉親の裏切りという思いもかけない悲劇の予告でした。
 
「また兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう」(13章12節)。
 
 「兄弟は兄弟を、…殺すために(敵方に)渡」(12節)すという状況が来ると、イエスはここで予告をしました。「兄弟」とは何かと言いますと、困難な状況下で助け合うために生まれたもの、それが兄弟です。
 
「兄弟はなやみの時のために生まれる」(箴言17章17節後半 旧約聖書口語訳901p)。
 
 しかし、「兄弟」が「兄弟」を、「父」親が我が「子」を、そして「子が両親に逆らって立」つ、つまり親が子を、子が親を、迫害をする側に引き渡すような事態が起こることもあるというのです。
 
論語の里仁篇に、「子曰く、父母の年、知らざるべからざるなり。一(いつ)は則(すなわ)ち以て喜び、一は則ち以て懼(おそ)る」とあります。要約すると、「先生は言われる、父母の年齢は記憶していなければならない。一つには長寿を喜ぶためであり、一つには老い先の短いことを案じるためである」ということになります。
つまり親孝行の勧めなのですが、このような親子関係を美徳とする日本人には考えられないような実例が、ウイリアム・バークレーの「マルコによる福音書註解(大島良雄訳)」にあります。
 
 ヒットラー時代のドイツにおいて、ある人が自由のために戦って逮捕された。彼は入獄にも拷問にも不屈の闘志をもって抵抗した。しかし、釈放後間もなく彼は自死してしまう。人々は訝るが、実はこの不屈の闘士を当局に密告したのが彼の息子であったという事実を知ったとき、彼は生きる気力を失い、死を選んだのであった(377p)という話しです。
 
 密告者が実の息子であった、信頼していた身内が敵と内通していた、という事実ほど、内的ダメージをもたらすものはありません。しかし、エルサレムの破滅の前にはこのようなこともまた家庭内に起こるとイエスは予告をしていたのです。そして、この予告通り、心から愛した者から裏切られたのが当のイエスだったのです。
ゲッセマネの園で、最終的に死ぬ覚悟を決めて立ち上がった自分に近づくユダを見つつ、イエスは何を思ったのでしょうか。
 
「『時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた』。そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが進みよってきた。また祭司長、律法学者、長老たちから送られた群衆も、剣と棒を持って彼についてきた」(14章41〜44節)。
 
 イエスは自らを安全地帯に置いて号令をかけるような指揮官ではありませんでした。終末を前にして信徒が味わうであろう苦難を、イエスが身をもって体験しておられた方であったということを弟子たちは間もなく知ることになりますが、それは後代の信者たちにも適用される予告であったのかも知れません。
 
 
3.謂れなき憎悪の対象とされる苦難の予告
 
 特に弟子たる者が嘗めるであろう三つ目の苦難は、謂れなき憎悪の対象とされる苦難でした。
 
「また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう」(13章13節)。
 
 バークレーに言わせますと、古代の教会が受けた「最もひどい中傷は、クリスチャンが人食いであるという告訴であった」(同378p)そうです。これは聖餐式におけるイエスの言葉、「私の肉を食べよ、私の血を飲め」という象徴的な言葉を文字通りに受け取られたことによるのですが、紀元六十四年のローマの大火に端を発したローマ皇帝ネロによる教会迫害の背景には、このような謂れなき憎悪があったとされています。
 
 謂れなき攻撃に対して、古代の教会はどうしたかと言いますと、二世紀以降になってからは誤解されっぱなしではなく、弁明すべきことは弁明をしたようです。その結果、弁証学というものが発達しました。
 
 冒頭にあげた従軍慰安婦の問題の場合、歴代の日本政府は韓国を慮って、反論したり、弁明したりすることを致しませんでした。その結果が官房長官談話となり、千載に禍根を残すこととなったのです。自らを、そして自らの群れを守るためにも、また間違った情報を受けた第三者を啓蒙するためにも、そして謂れなき憎悪を向ける相手を憎悪という破壊的エネルギーから救うためにも、ケースによっては誤解をしっかりと解く努力は必要です。
 
 しかし、万策が尽きた場合、相手が頑迷である場合など、どうしようもない時には神を信じて試練を耐え忍ぶしかありません。古代の弟子たちは三つ目の予告のあとのイエスの言葉に大きな希望を抱いたのでした。
 
「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13章13節後半)。
 
 この励ましの言葉はエルサレムの破滅前の弟子たちだけでなく、破滅後のあとの教会の歩みを支える力となったのでした。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-09-09 16:37:54 (1802 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年9月9日  日曜礼拝説教

「予告された破滅の前兆としての災難(前編)」     

マルコによる福音書13章3〜8節(新約聖書口語訳74p)

   
はじめに
 
 ひとたび重い病に冒されたならば、怪しげなお呪(まじな)いに頼るしかなかった遥かなる昔に比べ、現代の医薬の進歩には目を見張るものがあります。しかし、長足の進歩を遂げた医薬品と雖も、使用方法を間違えれば却って病を悪化させるだけでなく、取り扱い方によっては命取りにもなりかねません。
 
そのような医薬品とよく似ているものが実は聖書なのです。聖書は薬と同じように、正しく取り扱えば人を救いますが、取り扱いを誤れば却って人に害をもたらします。
 
 十六世紀、聖書に関して二つの変化が起こりました。一つは「聖書の普及」です。十五世紀の半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが発明したという活版印刷術により、それまで一部の教会聖職者たちの独占物であったラテン語訳の聖書は、一般の言語に翻訳、印刷されて、初歩的な識字能力さえあれば、誰もが読めるようになりました。
 
 そして二つ目の変化が「聖書解釈の自由化」です。十六世紀以前、聖書の解釈権はローマ・カトリック教会の教皇庁が独占しておりました。
 しかしマルティン・ルターをはじめとするプロテスタント宗教改革者たちの改革運動により、聖書解釈の自由化ともいうべき波がヨーロッパに起こってきたのです。
 
ただ、「聖書解釈の自由化」という波は、ローマ教会の呪縛から信者一般を解放することになりますが、弊害もありました。それが聖書の無原則な解釈による異端思想、誤謬教理の出現でした。自由と勝手を履き違えた人々によって聖書は自由に、つまり目茶目茶に解釈されてしまうようになったのです。
 
 今の時代、聖書を勝手に解釈して善良な人々を惑わしているグループの最たるものが「統一原理(統一協会)」であり、「エホバの証人(ものみの塔)」です。
 
「統一原理」の方はいっとき、霊感商法や合同結婚式などで社会的に指弾され、そして年月の経過と共にいつの間にか報じられることもなくなっていたのですが、この夏、再臨のキリストを自称する教祖が危篤、という報道が流れ、マスコミの注目を集めることとなりました。
結局、同教祖は先週、韓国ソウルで死去しましたが、再臨のキリストが現代医学の治療の甲斐もなく死んでしまったことを、この協会はどう説明するのでしょうか。
 
エホバの証人の方は秘密のベールに覆われた少数の指導者グループによって指導、運営されているため、その組織の実態はベールに覆われたままなのですが、彼らは聖書に勝手な解釈を施して奇妙奇天烈な教理を打ち出し、その教理が聖書と調和しなくなってしまったため、ついには独自の解釈による聖書翻訳を出版するに至りました。
時々古本屋さんの棚に「新世界訳聖書」として並んでいるものがそれです。
普通、キリスト教の教えは聖書から導き出されるものですが、このグループでは彼らの教理に合わせて聖書を都合よく翻訳するのです。
 
聖書は自分勝手に解釈すると取り返しのつかない混乱をもたらします。そこで神学校では「聖書解釈学」という科目によって、聖書の解釈の仕方を習います。そのクラスで最初に教えられるのが、「読み込むな、読み取れ」という大原則です。
 
つまり、自分の考えや思想、先入観を聖書に読み込んでしまうのではなく、著書の意図、著者が言おうとしていることを聖書からそのまま読み取ること、それが聖書解釈の原則なのです。
 
昨年春に生起した東日本巨大地震をめぐって、素朴ではあるけれど、しかし極めて危険な見方が二つ、キリスト教界に表面化しました。
一つは、巨大地震は不信者への天罰、神罰であるという見方で、これは主に韓国のペンテコステ教会に見受けられ、もう一つは、大地震は世の終わりの前兆であるという見方で、これはどちらかというと、欧米の保守的なクリスチャンたちの中に生まれたようでした。
 
そのために私は、地震発生から二週間後に、「東日本巨大地震について」という小論を書いて、この二つの見方が誤っているということを、聖書を通して教会の皆様にお知らせしました。
 
二年近く、マルコによる福音書に取り組んできましたが、いよいよ十三章に入りました。
実は異端や誤謬の教えは「ヨハネの黙示録」の極端かつ独断的な解釈から生まれることが多いのですが、この十三章を黙示録のミニ版を意味する「小黙示録」などと呼ぶ呼び方もあって、特に「エホバの証人」などはこのオリブ山におけるイエスの発言を誤用して、世の終わりが近い、という宣伝に利用してきたのです。
 
そこで今月は十三章を数回に分けて、イエスの発言の真意を読み取りたいと思います。今週は「予告された破滅の前兆としての災難」前編です。 
 
 
1.偽キリストの出現という災難の予告
 
 エルサレム神殿の壊滅的崩壊という予告をイエスから聞いた弟子たちは驚愕し、神殿の建つシオンの丘の真向かいにあるオリブ山で、それはいつ起こるのか、また起こるにあたってどのような前兆があるのかを、恐る恐るイエスに尋ねました。
 
「またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。『わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか』」(マルコによる福音書13章3、4節 新約聖書口語訳74p)。
 
 不安に駆られて「どんな前兆がありますか」(4節)と尋ねる弟子たちに対し、イエスはエルサレム神殿を見つつ徐(おもむろ)に、六つの災難をその「前兆」として挙げました。
 
 イエスが挙げた一つ目の「前兆」、それは偽教師、偽キリストの出現という災難でした。
 
「そこで、イエスは話しはじめられた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう』」(13章6節)。
 
ここで、現代を生きる私たちが注意しておかねばならないことは、イエスの予告はあくまでも、イエスの生きた時代から見て、近い将来に起こるとされた事象の、具体的にはエルサレム神殿の崩壊に象徴される出来ごとの「前兆」に関するものであったということです。
 
実は古来、この「小黙示録」と言われる箇所のイエスの言葉が、紀元七十年に起こったエルサレムの壊滅、神殿の崩壊という事象を超えて、今もまだ起きていない世の終わりの「前兆」について言及したとする見方があって、その見方を根拠にして、何かというと「世の終わりが近い今」などと言って危機感を煽る傾向が保守的な教会にあるのですが、イエスの予告はあくまでもイエスの時代の近未来に対するものであって、遠い未来についてのものであるとする根拠はどこにもない、それがイエスの発言についての妥当な解釈なのです。
 
 閑話休題、偽教師の話しに戻りますが、実際イエス亡き後、具体的に言えばイエスが復活、昇天したあと、古代の教会には「多くの者が」(6節)イエス「の名を名のって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わ」(同)したという記録が残されています。
 
 イエスが言いたかったことは自分がいなくなったあと、イエスを信じる群れの中に偽キリスト、偽教師が現われて、純粋な信徒たちを「惑わす」(6節)ことがある、だからあなたがたはそういう「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)ということだったのです。
 
このイエスの残した警告を最も痛切に感じていたのが使徒パウロでした。イエスの処刑の二十五年後、パウロはギリシャ・コリント集会に宛てた手紙の中で、必死になって偽教師の言説への警告をしております。それはパウロの留守中に、コリント集会の中に、たとえば、死者の復活を否定する教えを強調する者が入りこんできていたこともその理由の一つでした
 
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」(コリント人への第一の手紙15章12節 274p)。
 
 イエスの警告はあくまでもイエス亡き後の一世紀の教会への予告であって、それが正しい解釈です。ただし、聖書解釈は解釈として、イエスの言葉は時代を超えて適用することは可能でもあり、また必要なことでもあります。イエスが予告した偽教師、偽キリストの出現という災難は、現代にも生起しており、その例が「統一原理」であり、「エホバの証人」の活動です。
 
 そして偽教師、偽キリストなどの「人に惑わされないように気をつけ」(5節)るには、健全な教会において正しく解き明かされた説教をしっかりと聞き続けること、そしてそれによって自らのうちに健全な信仰の土台を据えるということが大切です。
 
 
2.不安情報の拡散という災難の予告
 
 イエスが教える二つ目の「前兆」は、人心を動揺させ、不安感を増幅させる情報の拡散という災難であって、その情報とは、具体的には国と国との間に生じる戦争あるいは紛争の噂でした。
 
「また、戦争と戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に敵対して立ち上がるであろう」(13章7、8節前半)。
 
 早飲み込みをしてしまう人は、実際に起きる「戦争」がその「前兆」であると思うのですが、イエスが言っているのはあくまでも「戦争と戦争のうわさ」(7節)、つまり、人心を不安にさせる不安情報の拡散という事象を指して、そのことを「前兆」と言っているのでした。
 
ローマに対する独立戦争としての第一次ユダヤ戦争はイエスの死後の三十六年後の紀元六十六年に始まり、その四年後にエルサレムの陥落、神殿の炎上という悲劇的結末を迎えますが、ローマとユダヤとの戦争の噂はイエスの時代にすでにあって、それが年を追うごとに強まっていき、その結果、紀元七十年の破滅に至ったのでした。
 
 そしてこの「戦争と戦争のうわさ」(7節)や「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」(8節)というイエスの予告は、偽教師の出現同様、あくまでも神殿崩壊までの数十年のうちに生じてくる出来ごとへの言及であって、二十世紀や二十一世紀の遠い将来のことを指しているわけではないのです。
  
 
第一、戦争の噂どころか、国家間の戦争、民族同士の紛争は一世紀以来、世界歴史の上では常に起こっているのです。むしろ、二十世紀の初頭、そして半ばに二度の悲惨な戦争を経験した現代の人々は、戦争の惨たらしさを通して戦争を忌避するようになっています。
 
確かに小競り合いや局地的な戦争はありましたし、それは今もありますが、二千年の人類史を通じて現代ほど、戦争から遠い時代はないと言っても過言ではありません。ですから「戦争と戦争のうわさ」(7節)というイエスの言及をもって世の終わりが近いと触れまわることは、聖書解釈の上から不適当であるだけでなく、聖書の適用という点からも的外れなのです。
 
 ところでイエスはこのあとで、不思議なことを言われました。
 
「それは起こらねばならないが、まだ終わりではない」(13章7節)。
 
 「それは」(7節)とは何でしょうか。「それは」の「それ」とは普通に考えれば「戦争」のことでしょう。では「それは起こらねばならない」(同)とはどういう意味でしょうか。普通に読めば戦争「は起こらねばならない」、つまりローマを相手にした戦争を肯定しているように思えます。しかし、イエスを平和主義者と見る見方からするとイエスらしからぬ発言と言うことになります。
 
 
ですからイエスが戦争を肯定するかのような好戦的なニュアンスの発言をするわけがない、ということになるのですが、しかしそれはイエスのイメージを聖書に読み込んでしまう危険、つまり「読み込むな、読み取れ」という原則から外れてしまうという危険に陥りかねません。イエスは確かに暴力や報復を否定していますが、決して絶対的反戦主義者というわけではないようです。
 
 聖書解釈の原則は「読み込むな、読み取れ」ですが、聖書解釈におけるもう一つの原則は、「前後の文脈から意味を探れ」というものです。
 イエスが「それは起こらねばならない」と言ったのは、ローマとユダヤの関係上、時代の推移の中では戦争は起こらざるを得ないという見通しを語った言葉ではないかと思われます。 
 
イエスは弟子たちに対し、「戦争と戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな」(7節)と言いました。「あわて」ないために必要なことは、弟子たちの場合、イエスの語られた言葉を断片的にではなく総合的に思い起こし、また丁寧に咀嚼をすることによって適切な解釈を下すと共に、民族的、熱狂的な雰囲気に巻き込まれずに政治的、社会的状況を冷静に判断することでした。
 
イエスの言葉を今日に適用するならば、説教によって聖書を正しく解釈する力を身につけると共に、過去に何があったのかという正確な歴史(これを歴史認識と言います)、現代は如何なる状況にあるかという現実を正確に把握することが大切であるということでしょう。
 
歴史認識を養うためには、偏った歴史認識に基づいて著わされたテキストではなく、事実そのものを多くそして正確に記録したものを教材として選択することです。また現実把握については特定のイデオロギーに染まったマスコミ情報を排して、健全な論調のものを情報源とすることが大切です。
 
 歴史を正しく学んでいる者は、人心を動揺させる不安情報という災難を避けて、落ち着いた生活を営むことができると共に、生起する多くの社会現象、変遷する政治事情の中でも、決して「あわて」(7節)ふためくことなく、的確かつ適切な判断を下すことができるようになるのです。
 
 
3.自然災害の発生という災難の予告
 
 イエスが教えた三つ目の前兆は自然災害の発生という災難でした。
 
「またあちこちに地震があり、またききんが起こるであろう」(13章8節後半)。
 
 イエスの時代、ユダヤ人に読まれていた文書はいわゆる「旧約聖書」だけではありませんでした。「聖書正典」には入れられなかったけれども、正典と区別なくユダヤ人に読まれていた文書は当時、あふれるほどにありました。それらは、現在は「旧約外典(がいてん)」、「旧約偽典(ぎてん)」に分類されていて、一部は今も新共同訳聖書の旧約聖書続編として読むことができますが、特にユダヤ人が好んだ文書が「黙示文学」と言われるもので、それらはやがて到来する世の終わりと、その世の終わりに先だって現われる前兆について書かれておりました。
 
これらの文書には、間もなく到来するであろう世の終わりを「主の日」と呼んで、その日には神を蔑(ないがしろ)にする異邦人、異教徒には神により厳しい滅びの審判が下され、選民には神の格別な救済がもたらされる、との神の約束を強調したものも多く、それらの文書の中には「地震」(8節)についての言及もありました。
 
 記録によれば紀元六十年頃、現在のトルコであるアジア州ラオデキヤ、コロサイなどの町が「地震」により、壊滅的な被害を受けたそうですし、「放蕩息子」(ルカによる福音書15章)の例を見るまでもなく、この時代、「ききん」(8節)もまた各地で頻々と起こっていたようです。
 
オリブ山におけるイエスの言葉を現代に及ぶ預言と信じる人々の一部に、先の東日本巨大地震の際に、この地震をもって世の終わりの「前兆」という見解が広がりました。しかし、十いくつかのプレートに載っているに過ぎない地表はプレートの動きによって常に大小の地震を何千年にもわたって繰り返し起こし続けてきているのであって、地震は現代のことだけではないのです。
ですから、このたびの大地震は世の終わりの「前兆」などではありませんし、イエスの言葉の成就などでもありません。
 
むしろ、ある一つの事象を取り上げてそれをもって聖書の預言の成就とする見方は間違っているだけでなく、教会外に誤解を与えるのみか、場合によってはその延長線上に、聖書の曲解の上に成り立っているカルト教会や異端の教えを助勢しかねないものなのです。
 
 自然災害は、神が人間の住まいとして与えてくださった地球というものが動的な物質でできている以上、自然の現象として必然的に起こるものです。 
人間には自然災害を止めることはできません。飢饉という災害は人間の努力と叡知によってある程度までは解決することが可能ですが、人には地震や津波が起こらないようにすることはできません。阪神大震災のおり、自分の祈りが足りなかったので地震が起きてしまったと悔い改めの祈りをした敬虔な牧師さんがおりましたが、祈りで地震を止めることも、台風の進路を逸らすこともできないのです。
 
 ただ、人には自然災害による被害を最小限に防ぐことは可能です。神は人類に対し、それだけの叡知を備えてくれています。そういう意味で自然災害に対しては行政からの情報をしっかりと受け止めると共に、ひとりの市民として、行政や地域における防災の取り組みに参加協力をすることもまた、キリストを崇める者の務めでもあると思われます。
 
 エルサレムの破滅という近未来の出来ごとに対して、イエスは偽キリストの出現、不安情報の拡散、そして自然災害の勃発という災難を「前兆」として予告しましたが、それらは産婦の産みの苦しみのはじめのようなものである、だからそれらの現象を見たならば、神によって新しい生命が生まれる「前兆」として捉えなさいともイエスは言われたのでした。
 
「これらは産みの苦しみの初めである」(13章8節後半)。
 
 エルサレムの破滅、神殿の破壊後のキリスト教会がどうなったかと言いますと、激しい迫害を乗り越えて宣教の働きを地中海世界に拡大していきました。「産みの苦しみ」(8節)のあとには大いなる喜びが待っているのです。


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