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投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-11-11 16:48:49 (1968 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年11月11日  日曜礼拝・子供祝福式説教

「天の神に向かって『父よ』と呼ぶことの出来る幸い」  
    
ルカによる福音書11節1、2節(新約聖書口語訳106p) 
 
 
はじめに
 
二十一世紀の十二年目が過ぎ去ろうとしています。政治の劣化もあって、まことに殺伐とした世の中ですが、それでも時々、スマップが歌った「世界で一つだけの花」(作詞・作曲 槇原敬之 2003年)のような、詞、曲共に心を打つ名曲が生まれます。
 
そのような、人の心に沁みる歌の一つが、シンガーソングライターのアンジェラ・アキが二〇〇八年に作詞、作曲して発表した「手紙〜拝啓 十五の君へ」だと思います。
 
この歌は最近、中学の卒業式でよく歌われるそうですが、歌詞は「十五」歳の少年が「未来の自分」に向かって、「拝啓 この手紙を読んでいるあなたは どこで何をしているのだろう」と問い掛ける出だしで始まり、手紙を書く自らの動機を、「十五の僕には誰にも話せない 悩みの種があるのです 未来の自分に宛てて書く手紙なら きっと素直に打ち明けられるだろう」と、「未来の自分に宛てて」であるなら、「悩みの種」を「素直に打ち明けられる」と考えて、自分の今の状態を正直に、「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を信じて歩けばいいの?」と、頼りになるもの、縋るもののない孤独で心細い十五歳の今の心境を打ち明けます。
 
 そして後半は「未来の自分」からの「拝啓 ありがとう」で始まる返事で、そこに励ましの言葉が紡がれています。
拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたい事があるのです 自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる 今 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は 自分の声を信じて歩けばいいの(だ) いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど 笑顔を見せて 今を生きていこう」と。
 
 「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな僕は 誰の言葉を
信じて歩けばいいの?」という問いに対し、未来の自分が答えるのは、
「誰の言葉」でもなく、「自分の声を信じて歩けばいい」というアドバイス
なのですが、それで「今 負けそうで 泣きそうで」今にも「消えてしま
いそうな」「十五の僕」は、果たして「笑顔を見せて 今を生きていこう」
という気持ちになったのでしょうか。
 
 この歌の作り手であるアンジェラ・アキは日本人の父親とイタリア系アメリカ人の母親の間に、徳島県で生まれたとのことですが、この楽曲は彼女の三十歳の誕生日に、彼女が十五歳の時に書いたという手紙を彼女の母親が送ってくれたことがきっかけで作られたそうです。
 
 「十五」は私にとって、特別な数字です。キリスト教に対するハリネズミのような敵意を学生服に包み、それこそ「誰にも話せない 悩みの種を」内に抱えたまま、生まれて初めて横浜、とはいっても横須賀に近い、横浜の外れにある小さな教会に行ったのが「十五」の春であり、そこで天地万物の創造者である神を知り、イエスを神の御子と認めてキリスト教の軍門に下り、全面降伏のしるし、信従のしるしとして洗礼を受けたのが「十五」の秋でした。
 
 まさに「負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそう」で、「誰の言葉を信じて歩けばいいの」かがわからぬままに、暗中をもがいていた「十五」の「今」でしたが、年を重ねたとしても頼りにはなりそうにない「未来の自分」にではなく、「昔いまし、今もいまし、また永久(とわ)にます神に」(聖歌96番3節)向かって祈ることを知ったことは、何物にも替え難い幸いでした。
 
 「誰にも話せない悩みの種」を抱え、「今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな」人は、「誰の言葉」でもなく、変わることのない神の言葉をこそ、教会で聞いていただきたいと思います。
 
そこで今週の礼拝説教は「天の神に向かって『父よ』と呼ぶことの出来る幸い」についてです。
 
 
1.イエスの弟子たるしるしとして信者に与えられたもの、それが「主の祈り」
 
 「天にまします我らの父よ」で始まる「主の祈り」は、日曜礼拝の冒頭、聖歌三八四番、「全ての恵みの元なるみ神よ」の賛栄、そして「使徒信条」の告白に続いて共に祈る「祈り」です。
 
私たちの教会の日曜礼拝の順序は、最初に讃美、信仰告白そして主の祈り、さらにワーシップソング、開会祈祷という神への挨拶という縦の事柄のあとに、横の関係を示す来会者同士の互いの挨拶、そして讃美、神からの語りかけとしての説教、その語りかけに対する応答の祈りと讃美、さらに神の恵みへの感謝の表明としての礼拝献金、閉会の祈り、頌栄、祝祷となるのですが、特に不可欠のものの一つが「主の祈り」を共に祈るという要素です。
 
 「主の祈り」とは何か、ということについての整理がついたのは、昔、廣瀬利男先生(尼崎神召キリスト教会牧師)から「これは読んでおくといいよ」と薦められた、ドイツの新約学者、ヨアヒム・エレミアスの書いた「新約聖書の中心的使信」(新教出版社 川村輝典訳)を読んだことによりました。
 
 ルカの福音書によれば、「主の祈り」は弟子の要請によって与えられたとのことです。イエスが祈り終えた時、弟子のひとりが来て、「祈りを教えてください」と願ったので、「それではこう祈りなさい」と言って教えた祈りが「主の祈り」でした。
 
「また、イエスがある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』。そこで彼らに言われた、『祈るときには、こう言いなさい』」(ルカによる福音書11章1、2節前半 新約聖書口語訳106p)。
 
 この箇所を読んで疑問に思うのは、弟子がイエスに「わたしたちにも祈ることを教えてください」(1節)と願ったということです。
 
神の存在や宗教を否定する無神論国家で育ったのならいざ知らず、信仰の本場のイスラエルで生を享け、濃厚な宗教的環境の中で育まれ、熱心な宗教教育そのものを受けて成人し、祈ることが幼いころからの常であった筈の者が何を今さら「祈ることを教えてください」なのだろうかと思ってしまうのですが、記憶を辿ると(実は「新約聖書の中心的使信」は誰かに貸してしまっていて、手許にはありません。そこで当時の記憶を頼りに話をしているのですが)、エレミアスはこれを、「私たちにイエスの弟子のしるしとしての祈りを与えてください」という意味の要請であったというのです。
 
 エレミアスによれば、弟子の「ヨハネがその弟子たちに教えたように」(1節)という意味は、当時、バプテスマのヨハネをはじめとして、教えの集団というものはそれぞれ、その集団独自の祈りというものを持っており、そのため、祈りを聞けば誰が指導する集団に属しているかがわかった、だからイエスの弟子たちは、イエスに対して、自分たちがイエスの弟子であるというしるしとしての独自の祈りを自分たちにも与えてください、と願ったのだというわけです。
 
 そしてその要請に応えて、イエスの弟子のしるしとしてイエスが与えた祈りが「主の祈り」であって、だから「主の祈り」とは単なる祈りではなく、イエスの弟子のみが祈ることをゆるされた特別な祈りであったというのです。
 
 そうであるならば、「主の祈り」はイエスの弟子に対し、イエスから直接与えられた弟子としての祈りであり、これを祈ることができるということ自体がイエスとの特別な関係を示すものということになります。
 
 そう考えますと「主の祈り」は由緒から言ってもただ有り難い、というだけでなく、何処の馬の骨とも分からぬ者にとっては、驚くべき恵みでもあるわけです。
 
教会の日曜礼拝で兄弟姉妹と共に祈る時、また床の上で朝ごとに、あるいは夕ごとにひとり祈るとき、イエスの弟子としての自覚、弟子とされた恵みを噛みしめながら、これからも「主の祈り」を祈ることができることを感謝しつつ、これを祈るものでありたいと思います。
 
 
2.驚くべき特権、それは神に向かって「父よ」と呼ぶことができる立場
 
 「主の祈り」は他の集団の祈りとは決定的に違います。どこがどう違うかと言いますと、違いは祈りの対象である神への呼び掛けにあります。
イエスは弟子たちの要請に応じて、こう祈れ、と言ったあと、おもむろに、「父よ」で始まる祈りを教えられたのでした。
 
「そこで彼らに言われた、祈るときには、こう言いなさい、『父よ』」(11章2節前半)。
 
 現代の私たちが祈る「主の祈り」の最初の呼び掛けは、教会歴史の中で少々典礼化されて、「天にまします我らの父よ」と重々しくなっていますが、原型は「父よ」(2節)でした。
 
エレミアスは、イエス時代のユダヤの文献を見ても、創造者である神に向かって第一人称で「父よ」と呼び掛けている例は皆無である、そして、それが出来るのはイエスのみであった、イエスのみ、天地万物の創造者に向かって「父よ」と呼び掛けることのできる身分であった、その神に向かって自分と同じように「父よ」と呼びかけることを、イエスは自分の信者に対してゆるしてくれた、それが「父よ」で始まる「主の祈り」であった、と説明していたように思います。
 
エレミアスはアラム語の専門家であって、アラム語では幼児の父親への呼び掛けの言葉が「アバ」であったことから、「父よ」は「アバ」であったのではないか、とも書いていたように思います。つまり「父よ」という呼び掛けは幼児が親密さと信頼感に満ちてその父親に呼び掛けるいわゆる「パパ」「ダディ」、日本語でいう「お父ちゃん」ということになります。
 
エレミアスはイエス時代のユダヤ人の言語はアラム語であった、という立場なのですが、一方、ユダヤ学の専門家の中には、パレスチナではアラム語ではなくヘブライ語が使用されていた、だからこそ福音書にはいくつかのアラム語が保存されていたのだと言う者もおり、現段階ではどちらとも言えません。
 
もしも「父よ」の原語が、子供が使う「アバ」であったのであれば、私たちは天地の神に向かい、親しみを込めて幼児のように呼び掛けることが可能なのだということになります。
確かにイエスは神に向かって「アバ」と呼び掛けていたようです。マルコの伝えるところによれば、イエスは最後の晩餐のあと、オリブ山において祈りの時を持つのですが、そこでは神に向かって「アバ」と呼び掛けています。
 
「そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ』」(マルコによる福音書14章35、36節前半)。
 
 マルコによる福音書もギリシャ語で書かれていますから、マルコは読者のためにあえて「『アバ』(すなわち)『父よ』」(36節前半)と、説明をしているわけです。
 
偉大な神をイエスのように身近な父のように呼ぶことができるのであれば、それは神を厳格なイメージで捉えていた人々にとってはまさに画期的なことでした。
しかし、もしもそうであるならばそうであるからこそ、一方では親しみを込めて「アバ、父よ」と呼んだとしても、他方、教師や親に対して友達に対するようなぞんざいな口のききかたをする最近の子供のように、神に向かって不遜な態度をとっていいわけではありません。
 
放映中のNHKの朝の連続ドラマの主人公は、困っている人を見ると放っておけない、人情に厚いという性格であることはいいのですが、とにかく非常識で、がさつ、おまけに登場人物がことごとく自己中心的な人物のため、耐えきれなくなって視聴をやめてしまったという人が増えているそうです。確かにまるでいつも喚いているか泣き叫んでいるかしている韓国ドラマを見ているようで、六週間を過ぎた今の段階では視聴率が下がるのも、無理からぬことかも知れません。
作者があの高視聴率ドラマの「家政婦はミタ」の脚本家ですから、今後の展開がどうなるかは誰にもわかりませんが。
 
これに対し、高い視聴率を保持したまま終わった前のドラマの主人公は、父親に対して他人行儀と思われるくらい、常に丁寧語、尊敬語を使っておりました。
それは「親しき仲にも礼儀あり」という行儀作法の教えが生きていた戦後の時代であったからかも知れませんが、その丁寧さ、父親との間に保たれていた一種の距離間あるいは距離感は、神と人との関係にも通じるものでもあるようです。
 
イエスが神に向かって「父よ」と呼び掛けることをゆるしてくださったからと言って、過度に馴れ馴れしくなってはならず、やはり畏敬の思い、上下の関係を保持しつつ神に向かうべきです。
 
それは礼拝や祈り、奉仕や捧げものにおいても、です。百十年以上前に新渡戸稲造が英文で書いた「武士道」の「礼」の章には、物の贈答における西洋と日本の習慣について論じている箇所があります。
 
アメリカでは贈り物をするとき、贈る側は受け取る人に向かってその品物をほめそやす。しかし日本では、その品物の値打ちを軽くいったり、悪くいいたてたりさえする(つまり、著者はここで、日本人の「つまらない物ですが」という贈答時における口上を言っているのでしょう)。
 
アメリカ人の心情はこのような場合『この品物は素晴らしいものです。これがよい品物でないとすると、あなたに差しあげようなどとは思いもよりません。よい品物でないものを差しあげることはあなたを侮辱することになります』ということになる。
 
これに対して日本人の論理はこうである。『あなたは立派な方です。どんな贈り物も立派なあなたにはふさわしくありません。私があなたの足許に置く品物は私からの感謝のしるしとしてしかお受け取りになれないでしょう。どうぞこの品をその物の価値ではなく、私の心からのしるしとしてお受け取りください。最上の品物でもあなたにふさわしい、といえばそれはあなたの品格を傷つける侮辱となるでしょう』。
 
この二つの考え方を並べてみると、つまるところの思想は同じである。どちらも非常に『おかしい』ことではない。アメリカ人は贈り物となる品物のことを述べ、日本人は贈り物をする気持ちのことを述べているのだ」(奈良本辰也訳 三笠書房)。
 
 ここで新渡戸稲造が説く、贈答における「日本人の論理」は、私たちの神への姿勢にも通じるものがあると思います。
神の前に出る時、礼拝をし、祈るとき、また奉仕をし、捧げものを捧げるときに、それは神に向かって「父よ」と呼び掛けることができることは決して当然のことではなく、まさにあり得ないことであると言う理解に立って、すなわち新渡戸稲造が説く「日本人の論理」によって神を呼ぶものでありたいと思います。
なぜならば、「父」なる神はあくまでも下から上に仰ぐべきお方であるからなのです。
 
 
3.心に刻むべきこと、それは人を神の子とするため、神の子が人となった事実
 
 ではなぜにイエスの弟子となった者のみが、天地の創造者である至高の神を「父」と呼ぶことができるのかと言いますと、それは神の子が人となったからです。
栄光に満ちた神の子が、天から降(くだ)ってきて人となったのは、私たち、滅びつつある人の子たちを神の子とするためであったのです。
 
使徒パウロは紀元五十年代のはじめ、ローマ帝国の属州、ガラテヤに建てたキリスト信徒の群れに書簡を送りました。ガラテヤ人への手紙です。パウロはその手紙の中で、人を神の子とするために神の子が人となったという事実とその理由とを簡潔に説明しております。
リビングバイブルで読むことにしましょう。
 
「しかし、ちょうどよい時が来ると、神様は自分のひとり息子を、女から生まれた者、ユダヤ人として生まれた者として、お遣わしになりました。それは、おきての奴隷となっていた私たちを買い戻して、自由の身とするためであり、神様の子供として迎えてくださるためなのです。このように神様は、子としての私たちの心に、神の子の御霊を送ってくださいました。それで今、神様を『お父さん』とお呼びできるのです」(ガラテヤ人への手紙4章4〜6節 リビングバイブル294p)。
 
 人となった神の子は、襲いかかる罪の誘惑の悉くを退(しりぞ)けながら清い生涯を送り、その清い体を十字架につけて人類の罪の身代わりとなってくれました。この事実を信じる者はたといどのような過去を生きてきた者であっても、天の神を「父」と呼ぶことのできる神の子となれるのです。
 
私たちが自らの心に刻むべきこと、それは尊い神の「ひとり息子」(4節)のイエスが、赤の他人の私に神の子という身分を授けるために、人の世に現われてくださったという事実です。
 
今日の礼拝では七五三に因んで幼い子供たちのために神の祝福を祈る子供祝福式をしましたが、日本の将来を担う幼子たち、子供たちにもこの事実が伝えられ、信じられ、受けいれられるならば、日本の荒廃にもまた、歯止めがかかることでしょう。
 
天の神に向かって、「父よ」と呼び掛けることが許されている幸いを自らが享受すると共に、この恵みを心燃やして伝える者でありたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-11-04 16:25:45 (2520 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年11月4日  十一月日曜特別礼拝説教(第六回)

「人は神により、神を喜び楽しむ者として創造された」  

   創世記1章31節〜2章4節(旧約聖書口語訳2p) 
 
 
はじめに
 
 昨年の十一月末、アメリカ航空宇宙局(NASA)が「キュリオシティ」と言う名称の火星探査機を搭載した宇宙船を打ち上げました。宇宙船は順調に飛行して火星上空に無事到達し、八月六日に、探査機を火星に着陸させることに成功しました。キュリオシティは二年かけて火星表面の土や岩石等を解析し、火星における生命体の存在を探求するとのことです。
 
 探査機の名称「キュリオシティ」は好奇心という意味だそうですが、「キュリオシティ」の火星着陸の模様についてはNHKが先月、NHKスペシャル「火星大冒険 地球外生命を発見せよ!」という番組で特集をしておりました。ごらんになった方もおられると思います。
 
火星は地球型惑星に分類され、太陽系の中では太陽からの距離が地球に次いで四番目に近い惑星で、たこのような火星人の想像図でなじみ深い星です。
 
火星には生命が存在するのかどうかは、確かに「好奇心」をかき立てます。火星ではひょっとすると極めて原始的な微生物の存在の痕跡程度は発見されるかも知れません。しかし、火星には人類のような知的生命、高等生命は存在しません。
それは火星の大気が主に二酸化炭素から成っていて、平均気温もマイナス55度の低温という生命の存在に劣悪な環境であるからではありません。火星には生命が存在する理由も必要もないからです。
 
生命が存在する惑星は、この広大な宇宙の中で地球のみ、です。それは地球のみが、創造者である神によって、人類の住まいとして設計、施工された特別な惑星だからです。
地球は偶然に出来たのではありません。創造者である唯一の神の意図と構想のもとに造られたのです。何のためかと言いますと、人類が地球を住まいとして、創造者である神を喜び楽しむために、です。
 
本日で、六月から毎月、月の初めの日曜日に行ってきました特別礼拝の最終回となりました。そこで本日は「人は神により、神を喜び楽しむ者として創造された」というタイトルにより、「神と人間」についてのシリーズの締めくくりとしたいと思います。
 
 
1.        人は神によって、創造の冠としてこの世に送り出された
 
 先月の特別礼拝では、人間と自然、地球環境の関係について、特に自然に対し、人間の立場は所有者ではなく管理人であるということについて学びましたが、では人間は神の創造のわざの中でどのような位置を占めているのかと言いますと、人間は神の最高傑作なのだと聖書は言います。
 
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1章31節 旧約聖書口語訳2p)。
 
 「終わりよければすべてよし」と言います。創造のわざの最後に造られたものが人間であって、神は最後の作品である人間を見て、「はなはだ良かった」(31節)と言われたのでした。「はなはだ良かった」とはベリーグッドということです。
 
 確かに、人間そのものを見たとき、「はなはだ良かった」といえるかどうかは、はなはだ疑問です。
 
いま、連日のようにニュースを賑わしている事件報道が、尼崎遺体遺棄事件の報道です。そのあまりの残虐さに身の毛がよだつ思いがしますが、「従軍慰安婦」問題を捏造して世界に日本の残虐さなるものを喧伝している隣国で、珍しく自己を美化せず、まともに、正直に自国の問題点を指摘、分析している報道を見つけました。
「希望不在の大韓民国」という題の朝鮮日報八月十九日の社説で、筆者の肩書きは社会政策部長です。  
 
世界最高の自殺率、伝染病のように広がるうつ病、学級崩壊、増加する性犯罪、大統領府や国会から工事現場の寄宿舎に至るまで漫然としている腐敗や汚職…。このような現状を見て誰かが『韓国社会はアノミー(混沌状態)』に陥っている」と判断しても、『違う』と否定する根拠が見出せない。韓国社会のアノミー的症状は、手術などですぐに治療可能な急性の症状ではない。    
 
まるで大地震の後、余震が続くかのようにこの20年の間に何度か発生した、国を揺るがす大きな衝撃が、韓国社会や家庭、個人に静かに浸透し、そうして蓄積された膿(うみ)が同時に噴き出した姿と言いえる。
 
文民政府(登場の)後、韓国社会が迎えたのは成熟した市民意識、責任ある自由、他人に配慮する生活ではなく、自分勝手や秩序破壊、真実を踏みにじる偽りや不法行為だった。
 
バスや地下鉄に70―80代の高齢者が乗ってきても若者たちは見て見ぬふりをし、その代り50−60代の人が席を立ち、譲るのが当然のように思われるような世の中になった。
 
隣人たちはエレベーターのなかであいさつを交わさなくても、もはや不自然に感じなくなった。真夜中や明け方にクラクションを鳴らし、他人の睡眠を妨害する。対向車に道を譲ってもらってもありがとうと笑顔を見せることもない。
 
子どもたちが先生を殴り、教室が修羅場となっても誰も責任をとろうとしない。教育の根幹を崩壊させる子どもたちの非倫理的な行為から、大人たちは目をそむけ、耳をふさぎ、時間が過ぎることだけを願っている。
 
過去に類をみない猟奇的な殺人事件の数々は、韓国社会のアノミーが威力を増大させていることを感じさせる。他人に向かう呪いや殺気が、かつて韓国社会に形成されていた線を越えている。
 
今、われわれは政治、経済など全ての分野で崩壊してゆく社会を立て直すリーダーも、ロールモデル(手本となる存在)も、メンター(助言者)もいない状態だ。韓国の未来が希望あるものだという強い信念を与えてくれる人物も見当たらない。そのため、さらに希望が見えなくなっている…
 
 しばしばネットで韓国の主要新聞を覗きますが、これほどまでに正面から自国の状況、惨状を分析した評論を読んだことはありません。そしてこの社説が、その結びを「さらに希望が見えなくなっている」で終わらせているところに、希望を持てなくなった筆者が「深い淵」(詩篇130篇1節)の底に佇んでいることがわかります。
 
日本には、信徒が全国民の三十五パセントの割合を占めるキリスト教の影響によって、韓国は倫理性の高い国となっていると称賛する人がいますが、にも関わらず、その実態はこのように無残であるようです。
もしもこの社説の読者が、そして一般国民が、お家芸ともいうべき責任転嫁の習慣に陥らずに、記者が指摘した事実を自らの課題として正面から受け止めるならば、この「希望不在の」国にもまだ望みはあるかも知れませんが。
 
日本国憲法の前文に象徴されるように、日本人は性善説に立って物事を見るのに対し、中国人は韓非子(かんぴし)の思想である性悪説に立っている、という見方があります。
 
紀元前四世紀の法家を代表する思想家であった韓非子は、その師匠格にあたる荀子(じゅんし)の「人の性は悪なり」という考えに立って、「人はムチで脅し、アメで懐柔して操縦しないと禍を招く」と教え、「法治(ほうち)」を強調しました。
 
ただし、韓非子のいう「法治」とは現代の西欧的法治国家の法治ではなく、自由の対極の、賞罰による否応なしの強制を意味します。そういう意味での法治国家が大陸の現在の隣国です。
 
そして我が国です。虎の子の政権を延命させることを最優先事項とする政権が、「マニフェストになかった消費税法案が国会で可決されたなら、『近いうち』に国民に信を問う」と明言したにも関わらず、解散を一日延ばしに延ばし続けている、そういう節操のない国が我が国の現状です。
 
 先行きの暗い半島の隣国にせよ、他国の領土を虎視眈々と付け狙う大国の隣国にせよ、そして優柔不断な我が国(の為政者)にせよ、「はなはだ良かった」筈の人類は、一体ぜんたい、どこに行ってしまったのでしょうか。
 
しかし、創造の最初に、人類は神の作品の中でも最高の傑作、比類のない特別なものとして造られたのでした。そして、現在の人類がいかに劣化してしまっているとしても、人間が神の創造の冠として造られたという事実は決して変わることはありません。
 
「原点を戻れ」という言い方があります。人類の原点、それは創造の昔に「はなはだ良かった」ものとして造られたという事実にあります。人は神により、最高傑作としてこの世に生み出されたのです。そしてそれは今も同様です。
人はおのおの、親を通してですが、神の作品、神の最高傑作としてこの世に送り出されてきているのです。例外はありません。
 
 ヨブは試練の中で「わたしの生まれた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」と、自らの出生を呪いました(ヨブ記3章3節 旧約聖書口語訳699p)。
程度の差はあれ、ヨブのように自らの誕生、そしてその存在を寿(ことほ)ぐことの出来ない人はこの日本にも数多(あまた)居ることと思います。
 
 しかし、私たち誰もが、その誕生の際には親、祖父母、親族と共に、創造者である神が「はなはだ良かった」と祝福してくれた筈なのです。人はみな、神の最高傑作としてその生を始めている、それが、人が認識すべき第一の原点です。
 
 
2.        人の歩みは、安息日に神を喜び楽しむことから始まる
 
 創世記では天と地とは六日間で造られたことになっています。そして人類の創造は最終日の六日目です。
 
「夕となり、朝となった。第六日である」(1章31節後半)。
 
もちろん、それは時計が刻むクロノロジーという時間と同じ六日間ではありません。宇宙物理学では地球の誕生は四十六億年前です。この「第六日」というのは、神の世界創造の順序とそのわざの完了を意味する表現です。
 
「こうして天と地と、その万象(ばんしょう)とが完成した」(2章1節)。
 
 しかし、それで終わりではありません。この「完成」(1節)は次の段階の始まりを意味します。
 
たとえば、家が出来た、家具も搬入した、電化製品も買い整えた、夫婦が入居した、それで完了、ではないのです。そこから新しい生活が始まります。
「天と地と、その万象とが完成した」(1節)とは、その後の新しい生活の始まりを意味する宣言なのです。新しく始まる生活とは、人が人生のパートナーである神を喜び楽しみ、人生を喜び楽しむ生活でした。
 
 神はご自分が造られたものを点検して、ベリーグッドと言われ、満足し、作業を終えた七日目に「休まれた」と創世記には記されています。
 
「神は第七日に、その作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた」(2章2節)。
 
 しかし、神は「休まれた」(2節)だけではありません。その七日目を特別な日として聖別したのでした。
 
「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。これが天地創造の由来である」(2章3、4節前半)。
 
 これは「天地創造の由来」(4節前半)であると共に、安息日の「由来」でもありました。
 
 紀元前一二九〇年のエジプト脱出後に、神の恵みによってイスラエル共同体が形成されたとき、指導者モーセを通じて十の戒めが授けられましたが、その中の一つが安息日規定でした。
 
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはなあない。…主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである」(出エジプト記20章8〜10節前半、11節)。
 
 この「七日目」は神にとっては作業を終えられた日ですが、六日目に創造された人間にとっては初日です。そしてここに人間の創造の目的がありました。つまり神に創造された人間が最初になすべきことは、神が休まれた七日目に神の創造のみわざを称え、創造の神を礼拝すること、そして礼拝と祈りを通して神を喜び楽しむことだったのです。
 
そもそも地球は、地球環境は、人類のために、そして神と人類とが親しく交わることを目的として神が用意してくれた人類の住まいであり、礼拝の場所なのです。住まいができたから、もう神様には用がない、というのであればそれは恩知らずの人非人(にんぴにん)ということになります。
 
神は人の下僕でも便利屋でもなく、崇められるべきお方であり、一方、神を礼拝し讃美することが神に造られた人間の本分です。そのことを強調したのが詩編の作者でした。
 
「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を讃美するために民は創造された』」(詩編102編19節 新共同訳)。
 
 安息日の「第七日目」は土曜日です。しかし、西暦三二一年、ローマ皇帝コンスタンティヌスはイエス・キリストが墓から復活した日曜日を公式にローマの、つまり世界の休日に定め、以後、キリスト教会は日曜日を聖日として礼拝をするようになりました。
 
 そして明治政府も明治九年三月、太政官布告によって土曜日の午後と日曜日を休日とする法令を発布し、これによって、日本にも西欧のキリスト教国同様、週七日制が導入されるようになったのでした。
 
 日曜日は全人類が挙って創造の神を礼拝し、復活の御子を讃美することによって、神を喜び、神の恵みを楽しむ日なのです。それが人が顧みるべき第二の原点です。
 
 
3.人の幸いは、平日の道を造り主と共に歩むことにある
 
 では礼拝さえしていればそれでよいのかと言いますと、そうではありません。月曜日から金曜日、あるいは土曜日までの平日もまた、大事な日です。
 
「六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをせよ」(出エジプト記20章9節)。
 
 人は六日の間、それぞれの仕事に精を出して働き、勤労の実を得るのですが、人は休息を必要とします。休息が平日の勤労のエネルギーとなるのです。 
ですから安息日規定は単なる律法規定などではなく、ともすれば働き過ぎてしまう人間を慮(おもんばか)って神が定めてくれた「労働基準法」でもあったのでした。そしてそれはまた、家の主人や使用者だけではなく、使われる、弱い立場の者たちへの神のご配慮でもあったのです。
 
「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである」(20章10節)。
 
 週に一日、たとい強制的にであったとしても、仕事を離れ、体を労わることによって、人は心身に安息を与えること、それによって明日への英気を養うことが必要です。特に日本人は勤勉です。働き過ぎてしまってその結果、過労死に至ることがあります。
 
 安息日とは幸せな平日のため、平日の充実した勤労、勉学のために神によって設けられた恵みと祝福の日です。日曜日に神を礼拝することは人のためでもあるのです。 
日曜日に仕事をしなければならない職業の人はどうなるか。そのような人は休日を聖別して神を礼拝する日とすることによって、神との交わりを平日のためのエネルギーとしたら良いのでしょう。
 人の幸せは、平日の道を自分の造り主と共に歩むことだからです。
 
「エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神と共に歩み、男子と女子を生んだ」(創世記5章22節 6p)。
 
 この節の「神と共に歩み」に使われている動詞は再帰動詞と言いまして、これが繰り返し、行ったり来たりするという意味の言葉だということは、ヘブライ語の授業の最初に習います。
 エノクが「神と共に歩」(22節)んだということは、エノクが神がどこに行ってもその神についていく一方、神もまたエノクと常に共にいた、という意味なのです。
 
日曜日に神を礼拝し、神を喜んで、それで終わりなのではありません。神は平日の道も、神を信じる者に同行してくださるのです。
 
人の幸いとは平日の道を、それは労苦の多い困難な道であったとしても、神を仰いで神と共に歩むことでもあります。
そしてそれを認識することが、人が戻るべき第三の原点です。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-10-28 16:12:24 (2007 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年10月28日  日曜礼拝説教

「方向転換の機会を逃すな−ユダを惜しんだイエス」     マルコによる福音書14章1、2,10、11,17〜21節(新約聖書口語訳75p) 

  
はじめに
 
 二十一世紀を迎える直前の西暦二千年に、「話を聞かない男、地図が読めない女」というタイトルの、男女の脳の違いを説いた本がベストセラーになりました。著者はアラン・ピーズとバーバラ・ピーズという夫婦でした。
 
この本では、男というものは女から問題が持ち出されると、解決策を提示しなければならないと思うあまりに、女の話を最後まで聞かない、また女は空間把握能力が弱いため、方角を知るための地図を読むことができず、縦列駐車も苦手だ、というような男女の脳の特性分析が、実例と共に興味深く展開されていました。
 
読んだ時には妙に納得をしたものですが、しかし、では自分のように「話しを聞かない男」で、おまけに「地図が読めない」となると一体どうなるのかと、思ったことを覚えております。
その少し前、一念発起して自動車免許を取って(初めからオートマにしておけばよいのにミッションのコースを選んだこともあってとにかく苦労しました)運転を始めていたのですが、思い返すと運転時間の総合計の三分の一くらいは、目的地とは逆の方向に走ってしまい、貴重なガソリンと時間とを随分無駄にしたものでした。
 
進んでいる方向が間違っていることに気づいたらどうするか。後悔しながらそれでも間違った道を「ここまで来たのだ、今さら後戻りはできない」と言って進む人はおそらくはいないでしょう。大概の場合、間違いに気付いた時点で方向転換をすることになります。
ところが人生という道においては、判断や選択を誤ったために間違った道を進んでいるということに気付いているにも関わらず、それでも間違った道を進んでしまうという人が意外に多いのです。そのような場合、しなければならないことは何かと言いますと、もちろん、方向転換です。
 
長い人生、迷い戸惑うことも多くあり、いつの間にか本来の道とは違った道を進んでいるという場合もあります。そんな時、私たちの話しをよく聞いてくれるお方である救い主、そして人生の地図を正確に読んで、正しい道へと道案内をしてくれる救い主を知る者は幸いです。
 
今週はマルコによる福音書から、「方向転換の機会を逃すな」という、イエスの真心からの叫びをそれぞれの心に聞きたいと思います。
 
 
1.常に点検すべきこと、それは行為の背後に潜む目的と動機
 
 エルサレムに入城したあとのイエスとユダヤ当局との間はまさに一触即発の状態となっていました。でも当局(サンヒドリン)は自制をしていたようです。
それはもしも過越の祭の最中にイエス謀殺を図ったならば、イエスをメシヤと信じる外地からの巡礼たちが、エルサレムにおいて騒乱を起こす危険性がある、そうなるとローマの官憲と軍隊が介入してきて、エルサレムに政治的混乱が起こり、その結果、ユダヤ当局がローマから責任を追求される事態になる、ということを案じたからでした。
そこで当局は正月の十四日から二十一日までの除酵祭の一週間は、その企みの実行を控えるつもりでおりました。
 
「さて、過ぎ越しと除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは、『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない』と言っていた」(マルコによる福音書14章1、2節 新約聖書口語訳75p)。
 
 「祭司長たちと律法学者たち」(1節)とは、大議会サンヒドリンを指す用法です。ところが思わぬところからイエス抹殺の機会が彼らに舞い込んで来ました。何とイエスの弟子のひとりが、イエス逮捕の手引をすると申し出てきたのです。そこでサンヒドリンは予定を変更して過越の祭の期間中にも、イエスの逮捕、殺害計画を実行することにしたのでした。
 
「ときに、十二弟子のひとりイスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引きわたそうとして、彼らの所へ行った。彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた」(14章10、11節)。
   
 ユダがなぜイエスを売ろうとしたのか、というわけについては古来、諸説が入り乱れてきました。一般的理由としては祭司長たちが「金を与えることを約束した」(11節)とあることから、金に目が眩んだからとされています。しかし、数カ月の給料分程度の金で師を売るなどの行動に出ることは考えられませんので、他の理由が推測されました。
 
見方としては、ユダは、ダビデ王国再建のための軍事的、政治的メシヤとして期待したイエスが一向に革命的行動に出ないので、イエスの弟子であることに幻滅したのだ、あるいは、一向に決起しないイエスをサンヒドリンによる捕縛、拘束という切羽詰まった危機的状況に追い込むことによって、イエスが神の力を発揮して一気に神の国を地上に樹立する方向に持って行こうとしたのでは、という穿った見方をする者もいます。
 
あるいは田舎のガリラヤ出身の弟子たちの中で唯一、ユダヤ出身のインテリであるにも関わらず、ペテロやヨハネのようなイエスの側近になることができないというユダの競争心の歪みが原因ではないかと推測する者もあります。
 
太宰治による「駈け込み訴え」は、イエスへの嫉妬心、対抗心、敵意、愛情などの愛憎取り混ぜたユダの感情がイエスを売ったという解釈で仕上げられていますが、それは作者がユダに自分をダブらせたからであって、小説家の想像以外の何物でもありません。
ただ、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」で始まるこの作品は、内容はともかくとして、テンポ、リズムなど文章としては秀でたものであることは確かです。
 
一九七〇年代に、一六〇〇年もの間、エジプトの砂漠で眠っていたパピルス文書が発見されました。それが二〇〇一年になって入手、苦労の末に解読、翻訳されて二〇〇六年に我が国でも出版された「原典 ユダの福音書」(日経ナショナル ジオグラフィック社発行)でしたが、正典の四福音書とは視点をまったく異にしていて、イエス自身がユダに自分への裏切りを命じており、ユダこそ、イエスを理解した使徒であるという、正統教会からは異端の教えとして退けられた解釈によって書かれたものでした。
 
「ユダの福音書」の理解は論外としても、諸説入り乱れる解釈のどれが的を射たものであるかは別として、ユダの裏切りの原因は、ユダがイエスの弟子となった動機、目的にあると考えることができるでしょう。
 
それは他の弟子たちも同様なのですが、ユダの場合は特に、イエスの弟子になることによって自らの野心を実現できると考えた、つまりユダはイエスを愛して弟子となったのではなく、イエスについて行けば必ず栄達といううまい汁を吸うことができるという計算で弟子になった、だからその目算が外れた時、彼にとってイエスは無用の存在となったとするのが、ユダがイエスを裏切った理由であると思われます。
 
 もちろん、最初は何らかの目的、特に悩みの解決などのいわゆるご利益を求めて神を求めるということはあります。そしてイエスは寛容にも、ご利益を求めてご自分のもとに来る者を拒むことをせず、大らかに彼らを迎え入れてくださいました。
しかし、最初の動機、目的が個人的利益の追求であったとしても、イエスを知る内にイエスとの関係がご利益授受の関係から人格的信頼の関係へと変化していくのが弟子なのです。つまり、群衆から弟子への変化です。
 
ところがこの変化がないまま、ご利益関係での関係が続く場合、順境の時が過ぎて逆風が吹くと、神を捨て、信仰を捨てるということになります。そして個人的利益を主な目的として信仰を持っている人の特徴は、人との関係においても個人的利益を優先させがちです。ですから、人間関係において自己中心的である人の場合は、神との関係においてもユダのように躓く危険性が出ています。
 
国際社会における国家と国家の場合はそれでもよいのです。国益を追求する公的立場にありながら、利害が衝突する相手国の側に立って自国の方針や政策を非難するような大使などは、厭な言葉ですが差し詰め「売国奴」と呼ばれるに値する輩(やから)と言えます。
 
しかし個人の場合、神との関係、人間関係において得か損かで考える癖のある人はいつしか周囲からは信用をされなくなります。
人生において最も重要なポイントは、行為の背後にある目的、動機が利害得失計算ではなく、純粋であるかどうかです。最後の審判における神の判断基準も動機、目的の評価に置かれます。
 
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節 282p)。
 
もちろん、動機が良ければ結果は問われないというわけではありませんが、しかし神との関係、人との関係においては純粋な動機、目的を保持するという、より高きを目指して行動したいと思います。
 
 
2.真に仰ぐべきもの、それは弱さを持つ者を惜しまれる救い主
 
 イエスはユダが自分を裏切るということを知らなかったのでしょうか。いいえ、イエスはユダの心の動き、策謀を見抜いていたと思われます。イエスは単純な思考の持ち主が多い弟子たちの中で、この異質と思われるユダを他の弟子同様、愛しておりました。ですから過越の食事の際に、イエスを裏切るという恐ろしい罪を犯すことがないようにと、ユダにだけわかるように警告を発したのでした。
 
「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒にそこに行かれた。そして、一同が席について食事をしているとき言われた、『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのひとりで、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている』。」(14章17、18節)。
 
 上智大学の渡部昇一名誉教授が月刊誌「歴史通11月号」で、「韓国の英雄はテロリストばかり」というタイトルで、中国ハルビン駅で伊藤博文を暗殺したとされる安重根をはじめとして、韓国で英雄とされる者は暗殺者、テロリストばかりであるという事実を指摘しています(なお、最近の調査では伊藤に当たった弾丸は安重根のものではなく、ロシアの騎兵銃、つまりカービン銃であったそうですが。安重根の使った銃は拳銃で、伊藤の体にあった弾痕は拳銃のものではなかったとのことです)。
 
 テロリスト以外、英雄と称えられるような人が皆無であるという事実は、プライドの高い隣国の悲劇といえます。
安重根は獄中で、伊藤博文を暗殺しようとした理由を十五ほど挙げていますが、ほとんどが事実誤認に基づくものか、彼の思い込みによるものであって、第一、伊藤は日本の韓国併合政策には否定的立場の人だったと言われています。そして伊藤の死の八カ月後の一九一〇年、韓国併合が実現してしまいます。
 
この夏、現職の大統領が日本の天皇に土下座による謝罪を要求したという、死んだ独立運動家の多くも、実は内部闘争によって死んだようです。事実、独立運動によって日本に処刑されたという運動家はひとりもいないということです。
 
 昭和四十年代末に世間を震撼させた連合赤軍による群馬県山中における「総括」と称する大量リンチ殺人も、裏切り者とされた仲間への陰惨な処刑でした。国の内外を問わず共産主義運動や過激派の運動には裏切り者へのリンチが常に付きまといました。
事件の主犯とされた森恒夫は拘置所で自死しますが、葬儀が石原嘉宣牧師(中央聖書教会主管 日本アッセンブリー教団総務局長)の司式によって行われたこともあって、とりわけ印象深い事件ではありましました。
 
しかしイエスはご自分を売ろうとしていたユダを「総括」も処分もしません。イエスがなぜユダを処分、糾弾しようとしなかったのか、それはユダの自由意志を尊重したからであり、何よりも弱さを抱えたユダを深い憐れみを持って惜しまれたからでした。
そのイエスの血を吐くような胸中を吐露した言葉が、最後の晩餐の席における「その人は生まれざりし方よかりしものを」(文語訳)という有名な一言でした。
 
「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去っていく。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(14章21節)。
 
 文語訳で「然(さ)れど人の子を賣(う)る者は禍災(わざわい)なるかな、その人は生まれざりし方(かた)よかりしものを」と訳されたイエスの言葉には、ユダを惜しむイエスの心情が溢れています。
 そしてユダを、ユダの人生を惜しまれたイエスは、現代に生まれた私たちひとりひとりをも惜しんでくださっておられます。
 
かつて十字架の言葉に感激して「イエスは主なり」と告白し、神から遠い者のために心を注いで熱い執り成しの祈りを捧げた、けれども今は信仰も薄らぎ、神の言葉を聞くこともないままにその日を暮らす人を、イエスは惜しんでおられます。
「生まれざりし方よかりしものを」とは、折角生まれたのだから、いい人生を生きて欲しい、折角信仰を持ったのだから、その信仰を持続して欲しいというイエスの切なる願いが込められた言葉なのです。
 
 ユダを惜しまれたイエスは、神から離れがちな者、神に従い得ないと嘆く者、自分の弱さに人知れず泣く者を、今も深い憐れみをもって惜しまれるのです。
  
 
3.逃してはならないもの、それは人生を決める方向転換の機会
 
 食事の席でイエスはなぜユダの名を公表しなかったのでしょうか。それはユダが思い返してイエスを裏切るという行為をやめて、神に背を向けて進む滅びの道から立ち返ることを期待したからにほかなりません。だからこそ、それをユダが悟るようにと、「わたしと一緒に同じ鉢にパンを浸している者が、それである」と言ったのでした。
 
「弟子たちは心配して、ひとりびとり『まさか、わたしではないでしょう』と言いだした。イエスは言われた、『十二人の中のひとりで、わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者が、それである』」(14章19、20節)。
 
 邦語訳のほとんどで「裏切る」(18節、21節)と訳されている言葉の原語は「引き渡す」という意味を持つ言葉であって、単に裏切るというような単純な行為を指すものではありません。
それは文語の訳のように「人の子を売る」という卑劣な背信行為を意味したのでした。そういう点では命惜しさに思わずイエスのことは知らないと言ってしまったシモン・ペテロ、あるいは恐怖のあまりにイエスを見捨てて逃げ去った他の弟子たちの行為に較べると、それは意志的であって、悪質さは極めて顕著です。
 
 そしてそのような大罪を犯す寸前のユダを心から惜しんで、今からでも遅くない、その決心を捨てて方向転換をするようにと願ったイエスの思いが、「わたしと一緒に同じ鉢にパンをひたしている者」(20節)という、ユダ個人への指摘となったのでした。
後年、ペテロがユダヤ人に対して悔い改めを迫ったことが使徒行伝に記録されています。
 
「するとペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい』」(使徒行伝2章38節 183p)。
 
 「悔い改め」ることと「悔いる」こととは似ているようでいてその実、まったく違ったものなのです。ユダはイエスを売ったことを悔いはしましたが、悔い改めることはしなかったようなのです。
「悔い改め」の原語は方向転換を意味します。自動車の運転で言えば、間違った道を進んでいることがわかったら、ユーターンをするかして、正しい方向を目指します。それが悔い改めるということなのです。
 残念なことは、イエスがユダに与えた方向転換の最後の機会を、ユダが逃してしまったことでした。
 
 方向転換はいつしたらよいのでしょうか。方向転換は気がついた時にすぐにすべきです。神学生であった頃、北海道で聞いた、大衆伝道者の本田弘慈先生の説教での話しを思い出します。
 
 二人の不良少年がつるんで悪さをしていた、彼らはたまたま教会の前を通りかかった、ひとりが言った、「おれは教会に行ってみる」、もう一人はそれを鼻先で笑った、月日が経ってアメリカ合衆国に新しい大統領が誕生した、そのニュースを一人の死刑囚が監獄の中で聞いて涙を流した、大統領になったのはかつて教会に入っていった少年で、死刑囚はその少年を鼻で笑った方であった、一人は方向転換をして刻苦勉励をし、ついに大統領に選ばれるまでになり、ひとりは方向転換の機会を逃し続けて、悪の道を走っていき、ついに死刑の執行を待つ身となった、これは実話である、という話しでした。
 
 決して逃してはならないもの、それは人生における方向転換の機会です。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-10-21 16:44:42 (2497 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年10月21日  日曜礼拝説教

「古い契約から新しい契約へー最後の晩餐の意味」 

マルコによる福音書14章12〜16節 22〜26節(新約聖書口語訳75p)

 
はじめに
 
日本に住んでいる永住外国人に対して、地方参政権を付与しようとする法案が論議されていますが、結論から言いますと、これは国家の主権に関する重大問題であるだけでなく、明白な憲法違反です。
 
在日外国人が政治に参加したいというのであれば、所定の手続きに従って日本国の国籍を取得すればよいのであって、外国籍のままで参政権を行使しようとするのは、的外れの考えです。
 
日本の国籍を取得すれば地方政治だけでなく国政にも参加できますし、選挙権どころか被選挙権も持つことができますから、国会議員になってさらに総理大臣になることも可能です。
 
米国は国籍を持たない者の参政権は、国政はもちろん、地方レベルでも認めていませんし、外国人がたとい米国籍を取得したとしても、アメリカ合衆国で出生をしていないと、大統領になることはできません。
米国の現職大統領バラク・フセイン・オバマは、父親はアフリカ・ケニア出身の黒人、母親はカンザス州出身の白人ですが、人種や出自に関係なく、ハワイ州で出生しているために、大統領に選ばれる資格を持っているのです。
 
これに較べると日本は開かれているということもできます。どこで生まれていようと、どんな出自であろうと、日本国籍さえ取得していれば、総理大臣になることさえ出来るのですから。
 
国籍を取得する以上、ひとりの国民として、その国に対して忠誠を誓うのが最低の条件であることは言うまでもありません。ただ、日本国籍を取得する人の中には、日本政府が発行するパスポートなら、世界中どこででも信用される、だからビジネスに便利、そこで日本国籍を取ったと、テレビ番組で公言する輩がいるのは残念なことですが、一方、オリンピックに出たいばかりに選手層の薄い国の国籍を取得したお笑い芸人も出てきていますから、日本人も劣化したものです。このお笑い芸人には日本国籍に戻ろうなどとは考えずに、その国に住んで、ひとりの国民として骨を埋める覚悟で国の発展に貢献してもらいたいと思います。
 
ところで国籍取得を通常「帰化」と言いますが、個人的にはこの言葉は廃語にした方がよいと考えております。「帰化」という言葉は後漢書(ごかんじょ)の童恢伝(どうかいでん)に出てくる言葉だそうで、その意味は「君主の徳に感化されて服従する」とのこと。そうであれば現代の国籍変更を表現する用語としては少々そぐわない言葉だと思うからです。
 
ただし、キリスト教信仰においては、神の恵みを表わす言葉として「帰化」ほど最適のものもないと思われます。罪びとである私たちが神の国の国籍を与えられるという様態は、まさに君主であるキリストの徳に感じて服従をするという様を示しているからです。
 
二十数年前に建てた教会納骨堂の正面に刻んだ聖句が「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙3章20節)でした。実にいい聖句を選んだものです。私たちは納骨堂に詣でるたびにこの聖句を読んで、神の恵みに感謝し、感激を新たにします。
 
我が国においては外国籍の人が正当な手続きを踏んで日本国籍を取得することは、決して難しいことではありません。しかし、罪びとが神の子供とされて国籍を神の国に持つということは、天地がひっくり返っても不可能なことでした。
 
その到底不可能なことをイエスひとり、可能なこととしてくださったのです。
 
今週の日曜礼拝では、有名な最後の晩餐の場面を通して、イエスのみわざの意味を確かめることにしたいと思います。そこで今週の説教題は「古い契約から新しい契約へー最後の晩餐の意味」です。
 
 
1.過越の小羊として人類の身代わりとなったイエスに、信仰の祈りを
 
 現代の暦では紀元三十年四月七日の金曜日、ユダヤ暦では正月の十五日、イエスは弟子たちと共にエルサレム市内において「過越の食事」をなさいました。
その情景を描いたものがあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチによる最後の晩餐の絵です。この絵はイタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィアという教会の壁に描かれているものですが、予約見学が可能だそうです。ミラノに行かれる時はぜひ見学を。
 
「除酵祭(じょこうさい)の第一日、すなわち過越(すぎこし)の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、『わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか』」(マルコによる福音書14章12節 新約聖書口語訳76p)。
 
 「除酵祭」はイスラエルの暦で言いますと、正月の十四日から二十一日にかけて行われ、「過越の食事」は厳密に言えばその二日目の夜に行われました。これらの規定は出エジプト記十二章とレビ記二十三章に詳しく記されています。
 
「正月の十四日の夕は主の過越の祭である。またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日(なぬか)の間は種入れぬパンを食べなければならない」(レビ記23章5節 旧約聖書口語訳169p)。
 
 「過越の食事」(12節)のメニューの一つが小羊の丸焼きでした。これは、イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトを脱出する際に、小羊を屠(ほふ)ってその血を家の柱と鴨居に塗ったことを想起させるものでした。
脱出の夜、神から送られた死の使いが、小羊の血が塗られた家の前を「過ぎ越し」て、血が塗られていないエジプト人の家に災いをもたらしたという故事に基づいて、奴隷からの解放という神の恵みを忘れないためにと定められたものです。
 
「過越の小羊」は「除酵祭」の第一日目に神殿で祭司によって屠られ、その夜、つまり二日目に各家庭で食されたのでした。ユダヤでは一日は日没から次の日没まででした。ですから初日の十四日は日没で終わり、新しく二日目の十五日が日没から始まるというわけです。
 
 弟子たちはイエスの指示に従って、食事の段取りを致しました。
 
「弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の用意をした」(14章16節)。
 
 聖書はイエスこそ、「過越の小羊」としてわたしたち全人類の身代わりになって屠られたお方であり、この方のお陰で、イエスを主、救い主として受けいれた者の前を、恐ろしい死の使いが過ぎ越してくれるのだと主張します。この事実を、感動をもって、生涯かけて宣べ伝え続けたのが使徒パウロでした。
 
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(コリント人への第一の手紙5章7節 261p)。
 
 誰であってもイエス・キリストを「わたしたちの過越の小羊」として個人的に信じ、心と人生に救い主として受け入れた者は、死の使いから守られるだけでなく、その国籍を天に持つ者となって永遠を生きることができるようにされているのです。
 
ですから、もしもまだ、イエスを主と告白していないのであれば、いま、ただちにイエスを救い主として信じ受け入れるとの信仰告白をなさってください。イエスはあなたのために過越の小羊となってくださったのですから。
もしも信じ方、受け入れ方がわからないというのであれば、教会では個人的にご指導することができます。
 
 
2.犠牲となることによって新しい契約の仲立ちとなったイエスに、信頼の祈りを
 
過越の食事においては、小羊のほかに数種類の食材が用意されました。それはエジプトにおける奴隷状態の苦しさを忘れないための苦いハーブ、脱出を急いだので、パン生地を膨らませる時間的余裕がなかった先祖たちに思いを馳せるための種入れぬパン、つまり酵母菌を使わずに焼いたパン、そして幾杯かの葡萄酒でしたが、重要なものの一つが葡萄酒でした。
 
日没になってイエスと弟子たちとは食事のために移動します。
 
「夕方になって、イエスは十二弟子たちと一緒にそこに行かれた」(14章17節)。
 
 そして十五日の金曜日、「過越の食事」が始まりました。
 
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ」(14章23節)。
 
 この葡萄酒は、「過越の小羊」が屠られる際に流した血を象徴するものでした。イエスはその葡萄酒が入っている杯を弟子たちに回しながら、これは神から離れて彷徨っている世界人類のために私が十字架で流す血を表わしているのだと言われたのです。
 
「イエスはまた言われた、『これは多くの人のために流すわたしの契約の血である』」(14章24節)。
 
 ここでイエスは「契約の血」(24節)という言葉を使いました。「契約の血」とは何のことかと言うことですが、その前に「契約」とは何なのかということを確かめておきたいと思います。
 
 実は、神はエジプトから救出したイスラエルの民との間で、約束の地に至る途中の荒野、シナイの荒野において一つの契約を結んでおりました。
シナイの荒野で結ばれたので「シナイ契約」と呼ばれます。それは、民が神の掟、戒めをきちんと守るならば、つまり民が戒め遵守という条件を果たすならば、神も民を祝福するという内容の契約でした。出エジプト記二十四章三節から八節に詳述されています。
 
 この契約の際に、契約のしるしとして動物の犠牲の血が流されました。それが「契約の血」です。
 
「そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、『わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います』。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、『見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である』」(出エジプト記24章7、8節 旧約聖書口語訳109p)。
 
 しかし、イスラエルの民は契約の条件である掟や戒め、つまり律法を守ることが出来ませんでした。表面的には守ることは出来たとしても、その中身を守ることができなかったのです。
できなかったということは契約に違反したということになります。それが永遠の生命を受けるために何をすべきかを問うた富める青年議員の例で見ることができます(マルコによる福音10章17節 詳細は3月18日「永遠の生命に至るためのもう一つの道」)。
 
 契約は違反によって破棄され、そして契約終了となります。違反者は契約に伴う祝福を受けることができません。そこで登場してくれたのが神から送られたイエスでした。
 
イエスは神との契約の条件を別のものにしてくれたのでした。それは律法を遵守する方法、つまり律法の行いによってではなく、イエスを救い主として信じ受け入れるだけという、つまり信仰という条件の契約に替えてくれたのでした。人は最初の契約では神の祝福を受けることが困難であったからです。
 
そしてその契約を成り立たせるためにイエスは、十字架で血を流して下さったのでした。
 この、イエスが自らの血によって神との間に交わしてくれた契約が新しい契約、新契約でした。この結果、人間の行いを基とした契約は古い契約、旧契約と呼ばれることとなりました。
 
 イエスこそ、ご自分の血によって、神と人間との間を取り持ってくださる新しい契約の仲立ち、難しい言葉を使えば仲保者なのです。契約違反者として神から見捨てられても文句の言えないイスラエルの民だけでなく、全人類のために、イエスは自ら進んで身代わりとなり、命を投げ出してくださったのでした。
 自らを犠牲とすることによって新しい契約の仲立ちとなってくださった主に、心から信頼の祈りを捧げるものは幸いです。
 
 
3.新しい契約の仲立ちとなるために罪と戦い続けたイエスに、感謝の祈りを
 
 では、なぜイエスの血が新しい契約の締結の上で有効なのでしょうか。それはイエスの生涯には一点の罪の染みもなかったからです。つまりイエスのみが、律法を守り切るという古い契約においても、神の掟、神の戒めに対して何一つ違反のない生涯を送ったのです。
 
私の運転免許証はゴールドです。無事故、無違反です。当たり前です。何しろ長い間、運転をしていないのですから違反のしようがありません。
毎日のように自動車を運転していて、無事故無違反のゴールド免許という人もいる筈です。しかし、交通法規を完全に守っているかとなると、速度制限、徐行、車間距離、一時停止など、故意ではないとしてもまったく違反をしていない、という人は皆無の筈です。
 
ましてやそれが律法の精神である神を愛すること、隣人を愛するということにおいて、その細部まで、特に精神まで完璧に守るとなると、すべての人は不合格となるでしょう。しかしイエスは違いました。イエスは律法のかたちだけでなく、その精神をも完全に守り切ったお方だったのです。
 
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられてもおびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙2章22、23節 新約聖書口語訳368p)。
 
 この証言は、イエスが言葉においても律法を守り抜いていたことを証しするものです。言葉において過ちがないということは、その思考、心、感情などの内面においても過ちがなかったことの証拠です。なぜならば、人は内なる思いを言葉や表情に出さないではいられない生き物だからです。
 
 過越の食事では、除酵、つまり酵母菌を入れずに焼いたパンを食べました。それはパンの練り粉に酵母菌を入れる時間がなかったからでしたが、後年、ユダヤでは酵母菌の発酵は腐敗と同一視されるようになりました。イエスは罪の腐敗とは無縁の生き方を貫いたお方でした。つまりイエスは二重の意味において種入れぬパンとして、人類の身代わりとなられたのです。
 
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』」(14章22節)。
 
 イエスは新しい契約の仲立ちとなるため、その資格を得るためにも、罪と戦い続け、罪の誘惑をことごとく退けて生きていたのでした。そして清い生涯の最期を私たちのために十字架上で罪人となって遂げられたのでした。
 
 イエスが清い生涯を送ったからこそ、その罪のないイエスが流した血は清い血として神に認められ、その結果、イエスの血は新しい「契約の血」(24節)としての効力を持つに至ったのです。
 
 レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の壁画は世界文化遺産に登録されている見事な芸術作品です。見る者を感動させます。
 
しかし、最後の晩餐の画を見るとき、そこにイエスが自分のためにしてくれた救いのわざの意味を見る者こそ、幸いな人といえます。なぜならばイエスのみが私たちのため、古い契約から新しい契約への契約変更を実現してくださった救い主だからなのです。
 
自らの身を捨てて、新しい契約の仲立ちとなってくださったイエスを我が主キリストとして信じ、拠り頼み、そして感謝し続ける者でありたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-10-14 16:04:31 (1804 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年10月14日  日曜礼拝説教

「真実の愛は、目先の損得に囚(とら)われない」     マルコによる福音書14章3〜9節(新約聖書口語訳75p)

   
はじめに
 
 ノーベル賞の季節を迎え、その初日の先週、十月八日の月曜日の午後、生理学・医学賞を山中伸弥京都大学教授が受賞したというニュースをマスコミが速報で伝えました。日本列島は歓喜に沸きましたが、興味深かったのは半島の反応でした。
 
半島はこの事実をその日のマスコミは一切触れず、翌日の報道では、朝鮮日報が「日本人、2年ぶり19人目のノーベル賞 また日本、また京大… 山中伸弥教授にノーベル生理学・医学賞 英ガードン教授と共同受賞」と題して受賞の事実そのものを報道すると共に、記事においては受賞の理由であるiPS細胞の研究がいかに画期的なものであり、また人類への貢献が大であるかということを正確に述べているのですが、一方、中央日報の方は「ノーベル医学生理学賞に山中教授とガードン博士…韓日の格差広がる」をタイトルとした上で、記事の中ではその業績を分かり易く解説しつつ、最後の締め括りでは、「山中教授のノーベル賞受賞で日本と韓国のノーベル賞受賞成績は1対19に広がることとなった」と、両国を「成績」という言葉で比較して嘆いておりました。
 
 その後の半島のネットには「韓国は(PSYの江南スタイルの)ビルボードチャートで(熱狂し)、日本はノーベル賞で歓喜…。なんだか悲しい」など、彼我の差を嘆く声や、日本に較べ、韓国はなぜノーベル賞と縁がないのかという声が充満したようです。
 
記事の中の「1対19」は平和賞や文学賞を入れた場合であって、しかも唯一の賞である二千年の平和賞は南北首脳会談の実現を評価されての受賞でしたが、その後、大手企業グループから北朝鮮に対して五億ドルもの不法送金が行われていたことが明らかになり、首脳会談はその見返りではなかったのか、との見方から、「金で買ったノーベル賞」とも評されてしまいました。
 
もともと、選考基準が曖昧な平和賞や文学賞などを除いた自然科学部門でいえば「成績」は0対16ということになるのですが、半島でなぜ自然科学部門での受賞者が皆無であるかという理由は、その国民性にあると考えられています。
 
 一つは、燃えやすく冷めやすいという民族的性格です。一つの課題に長く取り組むことが苦手であるため、長期の地道な苦労を必要とする基礎科学への取り組みが苦手のようなのです。
 
二つ目が、派手で目立つことを好み、賞を栄誉と考える性向から、世間から注目されることの少ない基礎分野が敬遠されがちとなる、というわけです。
 
そして三つ目が、目先の実利に関心を持つという国民性のため、直近の実利が期待される応用科学分野ばかりが注目されて、すぐの実利が計算できない基礎科学分野には優秀な人材が集まらないという傾向がある、つまり、その動機に問題があると言うのです。
 
韓国社会のノーベル賞(これをノーベル症と揶揄する者もいますが)騒ぎの本質的問題点は、受賞することが国家あるいは個人の名誉や富の獲得という目的に収斂されていること、つまり受賞自体が目的化されていて、ノーベル賞の本来の趣旨である人類への貢献という視点がすっぽりと抜けているという本末転倒状態になっていることにあって、実はそれこそが「0対16」の最大の理由であるとされているようです。
 
そのことは山中教授の発言を聞くとよくわかります。
山中教授は記者会見において、iSP細胞の研究の目的はただ一つ、それは「現代の医学、医療では治すことのできない患者を治す」ということであって、「今はまだ誰ひとり、患者さんを治していない、だから一日も早く実用化に取り組みたい」という最初の動機を明確にしているのです。
 
それを陳腐な表現を使えば患者への愛ということでしょう。
そこには己の名誉も利益もなく、ただただ難病で苦しんでいる人への純粋で真実な愛情が動機となって日夜研究に打ち込む研究者の姿が見え、私たちはそこに本来の日本人はこうだったという、原日本人を見る思いがして胸が熱くなるのです。
 
しかもこの栄誉についても山中教授は受賞の当日の記者会見で、「私は無名の研究者に過ぎなかった。日本という国に支えていただいて、日の丸のご支援がなければ、この素晴らしい受賞はなかったと心の底から思った。まさに日本という国が受賞した賞だと感じている」と述べ、さらに同時受賞のジョン・ガードン博士については、「ガードン博士の研究があって、私の研究があった」と謙虚に語り、ガードン博士の方もまた、「山中さんのおかげで私の(埋もれていた)研究への関心も高まった」と述べて、ひたすら山中教授の功績を称えていました。
そこには欲得も功名争いのかけらもなく、ただただ清々しい気分が漂っていました。
 
今週の日曜礼拝では「真実の愛は、目先の損得に囚(とら)われない」というタイトルで、目先の利害を度外視して、イエスへの真実の愛、純粋な愛を行為で示したひとりの女性に焦点をあてることによって、たましいの養いとしたいと思います。
 
 
1.真実の愛は判断を間違えない
 
 紀元三十年の四月二日の日曜日にエルサレムに入城したイエスは、昼は主に神殿を拠点として教えることに精力を注ぎ、夜はエルサレム近くのベタニヤ村で弟子たちと共に宿泊をしておりました。
そこは「重い皮膚病の人シモンの家」でしたが、その家で一つの事件が起きました。イエスとその一行がこれから食事をしようとした時のことです。ひとりの若い女性がイエスに近寄ってきて、イエスの頭に香油を注ぎかけたのです。しかも、香油の入っている小さな壺を砕いて、中の香油全部を注いだのでした。
 
「イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(マルコによる福音書14章3節 新約聖書口語訳75p)。
 
 「ナルドの香油」(3節)とはヒマラヤ原産の植物であるナルドから抽出された香油で、希少なものであることから非常に高価であったようです。
 この行為に対して、その食卓にいた人々、おそらくは村の有力者たち、またイエスの弟子たちの何人かが、「何という無駄なことをするのか、香油を注ぐのであれば数滴で十分ではないか」「高価な香油全部を注ぐくらいならば、これを三百デナリ以上で売って、その金を貧しい人々に施した方が賢明ではなかったのか」と、賢(さか)しら顔で女性を非難し、厳しい言葉で彼女の行為を咎めたのでした。
 
「すると、ある人々が憤って互いに言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに』。そして女をきびしくとがめた」(14章4、5節)
 
 「デナリ」(5節)はローマ帝国の正規の貨幣の単位で、一デナリは当時の男性労働者が日の出から日没まで働いて得る一日分の労賃にあたるものでしたから、「三百デナリ」(同)は年収分相当という多額の金額です。
 しかしこれらの非難に対してイエスが即座に反応しました。イエスは男性たちとは反対にこの女性の行為を肯定するだけでなく、行為自体に豊かな意味づけをして、彼女を全面的に弁護したのでした。
 
「するとイエスは言われた、『するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである』」(14章6〜8節)。
 
 イエスは彼女の行為を「よい事」(6節)と肯定的に評価し、しかもそれは「わたしに」「してくれた」「よい事」であると、イエスのための行為であると言い切ったのでした。
「よい事」の「よい」はただよいというだけでなく、美しく、魅力的な良いという意味です。それは何よりもイエスにとって麗しく、そして嬉しい行為であったのでした。
 
確かに貧しい者への施しも尊い行為です。しかしこの女性はこの時、イエスに対して自分が持っているものを差し上げたかったのです。愛が人の中で活動する時、愛はその時々で何が先か、真っ先に何をしたらよいかを的確に判断させます。
 
しかもイエスは、香油を注いだ女性自身、考えてもいなかった意味をその行為の中に含ませたのでした。それは彼女の行為を、彼女がイエスの「葬りの用意をしてくれた」(8節)と解釈したことでした。
 
この女性が香油をイエスの頭に注ぎかけた際、香油の全部を残さずにイエスのために使うつもりであったからと思われるのですが、彼女はこの時「ナルドの香油が入れてある石膏のつぼを…こわし」(3節)ておりました。
実はユダヤの葬儀では、遺体を洗浄してから体全体に香油を塗るのが習慣だったのですが、その際に、香油が入っていた壺はその場で割られて、破片は墓の中に遺体と共に残されたのだそうです。
 
そして誰も、弟子達ですら信じていなかったのですが、実際にこの二日の後、イエスは自身が予告していたようにユダヤとローマ両方の法によって罪人とされて処刑され、墓に葬られることになるのです。
実にこの女性は、高価な香油をイエスに注ぎかけることにより、知らずしてイエスのために「よい事」すなわち「葬りの用意を」(8節)したと受けとめられたのでした。
 
愛が満ちる時、しかも純粋で真実の愛が満ちる時、その愛がその時々で、相手のために、自分は今、何をしたらいいのか、何を先にすべきかを考えさせ、適切かつ的確な判断へと導くのです。
 
 
2.真実の愛は善行を躊躇わない
 
愛は、純粋な愛は人をして的確な判断へと導くと共に、その判断を行動に移すことにおいて、ためらうということを致しません。
真実の愛は、良しと判断したことを行動に移すということにおいて、躊躇わせることをさせないのです。
 
この女性は香油をイエスの頭に注ぎかけるという行為に、恐れを感じていたかも知れません。実際、この後、彼女は冷ややかな非難の声を浴びせかけられることになります。この女性がだれであるかということについて、マルコは口を噤んでおりますので、それがだれであるかは不明です。
 
当時の習慣では、裕福な家の場合、招いた客をもてなす食事は中庭で行われ、そこにゲスト教師の講話を聴くべく、近所の人たちが訪れるということはよくあったことでした。そして、もしもこの機会を逃すならば、イエスに対し、気持ちを示す機会は二度と来なくなる、今しかない、彼女の直感が彼女にそう告げたのでしょう。
 
彼女は決断をし、香油が入っている壺を抱えて自分の部屋を出て、シモンの家に行き、その家の中庭で開かれている宴にイエスの姿を認めて近寄り、勇気を奮って、香油の入っている小さな壺を砕き、そしてありったけの香油をイエスの頭に注ぎかけたのです。
 
真実の愛、純粋な愛は、良いと思うこと、感じたことを後回しにはしないのです。それがイエスの好評価につながります。
 
「この女はできる限りのことをしたのだ」(14章8節前半)。
 
この箇所を読むと、滋賀県にある重度心身障害者施設、止揚学園の創立者である福井達雨園長の著書にあったエピソードを思い出します。
 
ある時、福井園長が高熱を出した、その時、ひとりの園児が自分のおやつを園長先生に食べてもらうと言ってきかない。職員は園児に向かって、園長先生の分は園で用意をしている、だから自分のおやつは自分で食べるようにと説得をした、しかし園児は一向に聞こうとせず、ついに根負けした職員が福井園長のところに行って経緯を話し、園長から自分のおやつは自分で食べるようにと説得して欲しいと頼んだところ、福井園長はこの職員を一喝したというのです。
 
福井園長曰く、「そのおやつは我々にとってはどうということのないものかも知れない、しかし(重度の心身障害を持っている)その子にとって、そのおやつは宝なのだ、それを私に食べてもらおうとするのは、大事な、大事な宝を私に贈ろうとしていることなのだ。それが分からないのか」と。
園児は今、高熱を出して苦しんでいるであろう愛する園長に、自分の大事な宝にも匹敵するおやつを食べてもらうのは今しかないと思ったのでしょう。明日ではだめ、今でなければならない、そこでその子は躊躇わずに、そして何度説得されても強情と思われても、初志を貫徹しようとしたというわけでした。
 
純粋な愛は良いと判断したことを行動に移すことを躊躇わせないのです。
たとえば、日曜礼拝を長く休んでいて、今度は行こうかな、次は行けるかもしれない、と思った時、躊躇ってはなりません。それが明らかに良いことであると判断したことを行動に移すことを、決して躊躇ってはならないのです。
 
 
3.真実の愛は損得を計算しない
 
 愛の特質、それは判断と行動にあたっては、相手、対象のことのみを考えて、自分自身の損得計算をしないというところにあります。
対象の幸せが自分の幸せであり、相手の喜びが自分の喜びとなる、それが愛です。
 
愛は自分の持っているもの、自分のしたことが相手の足りないものを埋め、必要を満たすことに言い表せない幸せを感じるものなのです。
 ユダヤでは、「ナルドの香油」(3節)は未婚の女性にとって、結婚のための支度金のようなものであったそうです。彼女たちが婚礼の日に備えて、少しずつ少しずつ小さな壺に溜めて増やすもの、それがナルドの香油でした。その香油のすべてを彼女は惜しげもなくイエスに注ぎかけたのでした。
 
 ユダヤ社会では、埃だらけの道路を歩いてきた客の頭に、家の主人が数滴の香油を垂らすという習慣がありました。しかし、壺の香油全部はやり過ぎだという主張にも一理はあるかも知れません。
 
 損得を計算する世界では答えが損と出てくることがあります。でも、そのような利害得失を超える世界もあるのです。真実の愛は目先の損得計算を超えます。 
そして損得計算を超えて、愛に基づいて行動した人がイエスその人であったのです。利害計算で行くならば、神が人となり、しかも罪びとの汚名を着せられて、文字通り罪びとである人間たちの身代わりとなって刑死するなどという選択は、常軌を逸したものとなります。
しかし真実の愛は合理性という計算を超えて行動に移されました。それが神の御子のイエスの、人としての存在でした。
 
 利害得失で物事を判断する人にはイエスの行為もまた「むだ」(4節)にしか見えない筈です。そしてイエスの行為が「むだ」に見える人には福音は理解できません。
 
 先週、都島教会の片平 勝先生のおかげで、東日本大震災の二週間後に書いた、地震と津波に関する考察「3・11東日本巨大地震について」を教会のホームページに載せることができ、そこで改めて一年半前に書いたものを読み直してみたのですが、隣国の著名な牧師さんが地震直後に語ったという、「日本を国家的次元で支援すべきだと思う。日本を助けてよい関係を結んでおけば、日本は独島(註 竹島のこと)を自分の領土と言わないだろう」という発言を読んで、善意の発露であるべき支援という行為にも計算が働くその心根が変わらない限り、そして無償の愛という概念が育たない限り、この国の人が自然科学分野、とりわけ生理学・医学賞の対象分野ににおけるノーベル賞を受賞するのはずっと先の事になるだろうという思いを、(余計な事かも知れませんが)改めて持ちました。頭脳自体は優秀な国であるだけに、何とも残念なことです。
 
 すべてが、こうすればこう返ってくるという利害得失計算の上に成り立っている社会では、この女性の行為は理解不能でしょう。そして、私たちが捧げる礼拝や奉仕、あるいは捧げものは、真実の愛を知らない者にとっても「むだ」(4節)な振る舞いにしか見えないと思います。
しかし、イエスはそれらをご自分への「よい事」(6節)として受けいれてくださいます。なぜならばイエスこそ、壮大な「むだ」(4節)な犠牲を私たちへの愛のゆえに払ってくださったお方だからです。
 
 損得計算、打算を超えた世界を持つ者は幸いです。そして、打算を超えた行為こそが真に価値あるものとして人の心を揺り動かし、長く記憶に残るのです。
 
「よく聞きなさい。全世界のどこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(14章9節)。
 
とりわけ、山中教授のこのたびの受賞が日本人の心を打つのは、ノーベル賞という世界に冠たる名誉を受けたからだけではなく、その打算を超えた心情と純粋な動機とが、戦後の日本人が忘れていたものを記憶の底から呼び起こしてくれるからなのです。
 
そしてそれこそが二千年前、わたしたち罪びとのためにイエスが完全な形で見せてくれたものだったのです。


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