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わたしたちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です

寝屋川福音キリスト教会
(ファミリーチャーチねや川)
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
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投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-05-02 23:19:32 (1303 ヒット)

 キリストは一点の染みもない人生を生きた唯一の人であった

▽クリックすると大きく表示されます。  

 刑法上の犯罪を犯したという人は、そうはいないと思います。しかし、毎日のように車を運転しながら、交通違反で一度も警察の厄介になったことがない、という人は少ないのではないでしょうか。
 かく言う私の場合、以前、守口から寝屋川に帰る途中の深夜、うっかり赤信号の交差点に進入してしまい、反則切符を切られたことがあります。
 
 パトカーの後部座席に座ったのは初めての経験でしたが、手続きを済ませ、自分の車に戻って発進、という段階でエンジンがかかりません。動転していたのか、点灯したままだったので、バッテリーが上がってしまっていたのです。
なかなか発進しないため、不審に思った警察官が様子を見に来てくれて、パトカーからバッテリーケーブルを繋いで充電してくれました。親切な警察官でした。つまり、この時の私は二重の意味で警察のお世話になったわけです。
 
 地獄で死者の生前の罪を裁くのが閻魔(えんま)様ですが、ある時、地獄で「嘘つき大会」が開かれました。亡者が次々と閻魔様の前で嘘をつくのですが、閻魔様を満足させるような嘘ではありませんでした。そして最後の出場者となり、その出場者が口を開いて言ったことは、「すみません、わたしには出場資格はありません。なぜなら、私は今まで一度も嘘をついたことがないからです」
 これを聞いた閻魔様は腹を抱えて笑い、そして言いました、「優勝はこの男だ、わしはこれまでに、これ程の嘘つきは見た事がない」
 
 長い人生、どんな人でも叩けば多少の埃は出てくるものです。しかし、いくら叩いても少しの埃も出ない人、一点の染みもない人生を生きた人がひとりいたのです。それが人としてのイエス・キリストでした。
 イエス・キリストはユダヤの法廷、ローマの法廷で有罪を宣告されましたが、宣告をしたユダヤの大祭司やローマの総督は、イエスの人生には一点の染みもないことがわかっていたのでした。
 
 ある人が言いました、「もしも目で人を殺すことができるならば、街路は死人で満ちるであろう」 目は心の奥の感情と繋がっています。ですから、心の中で「あんな奴、いなければいいのに」と思って人を見たならば、そのとき、目で殺したことになるわけです。そのような見方をすれば、罪のない人など、どこにもいません。
 しかし、イエス・キリストだけ違いました。イエスにとってはどのような人も常に慈しみの対象、救いの対象であったのです。
 「一点の染みもない人生を生きた」キリストを教会でぜひ知ってください。
 
 日曜特別礼拝にぜひ、おでかけください。ご来会を歓迎いたします。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-03-01 19:14:08 (1825 ヒット)

 日曜日とキリストの復活

 
  日本人の多くが健康で長生きなのは、イエス・キリストのおかげである、ともいえます。実は我が国の暦は1868年の明治維新になっても旧暦(太陽太陰暦)のままでした。
 ところが、明治5年の11月9日になって、明治政府は突然、その年の12月3日を西暦(太陽暦)6年1月1日に改暦するという太政官布告を発したのでした。何とも乱暴な政策です。
 
その表向きの理由にあげられたのは、西暦を採用している欧米の先進国に日本が歩調を合わせるため、ということでしたが、隠された理由は政府の懐(ふところ)事情、つまり財政事情にありました。
 
実はこの少し前、明治政府は官吏(国家公務員)の給料を年俸制から月給制に変えたばかりだったのですが、旧暦の場合、翌年の明治6年は閏年であるため、一年が13カ月となり、そうなりますと一カ月分の給料を政府が余分に払わなければなりません。
そこで財政難の政府は、その一カ月分と前年つまり明治5年の12月分とを節約するために太陽暦への改暦を企てて、そして12月3日を正月にした、というのが真相なのです。
 
 私たちが普通に使っているカレンダーは、今でこそ七日単位の七曜制ですが、七曜制はこの時の改暦の際に、キリスト教国である西欧から我が国に導入されたものでした。
 
 ところで現代の私たち日本人は当然のように日曜日を休日としていますが、昔、商家の奉公人などの場合、藪入といって年に二回だけ、盆と正月に休みをもらって実家に帰るという、苛酷な労働状態の中にいたのでした。
 
一方、明治政府は維新(1868年)の9月に太政官布告で、毎月1と6のつく日を休日に定めていました。しかし、それですと日曜日を休日としている欧米諸国との交易や交際に支障をきたすことになります。そこで明治政府は太陽暦に改暦した三年後の明治9年3月になって、土曜日の午後と日曜日の一日を休日とすることを定めたのです。
 
 では欧米諸国が日曜日を休日としているはなぜでしょうか。それはイエス・キリストが墓からよみがえったのが週のはじめの日である日曜日だったからです。その日曜日は、西暦30年の4月9日でした。
 
 キリスト教がローマ帝国で国家の公認宗教となった今からちょうど1700年前の西暦313年に、イエス・キリストの復活を記念するため、日曜日が公式に休日に定められました。
 
私たち日本人が少なくとも週に一日、日曜日に公然と仕事や学校を休めるようになったのは、そういう意味では、イエス・キリストの復活のおかげ、とも言えます。そういうわけで、キリストの復活は私たち日本人の日常生活とも、密接に関係しているのです。
 
このキリストの死からの復活を記念する2013(平成25)年のイースター(復活祭)は、今年は3月31日の日曜日です。
 
今年、街角の小さな教会で行われるイースター・復活祭礼拝に、よろしければぜひお出かけください。
 
あなたのご来会を心より歓迎いたします。
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投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-09-26 14:52:07 (1148 ヒット)

 により、地球管理者として立てられた

 
ネットに流れている一つの有名なジョークがあります。
 
神は最初に天と地を造った。海をつくり、山をつくった。
そして日本という国を造った。
日本には四季豊かな気候と、世界一美しい風景と、世界一おいしい食べ物を与え、世界一勤勉な民族を住まわせた。
そこで天使が言った、「神様、これではあまりにも日本が恵まれ過ぎています」
神が答えた、「心配するな。日本の隣りに中国と韓国と北朝鮮をつくっておいた」
 
このジョークがネットに流れ始めたのは数年前のことですが、卑劣な拉致事件は言うまでもなく、竹島、そして尖閣をめぐる近隣諸国からの常軌を逸した攻撃は、「あまりにも恵まれ過ぎてい」る代償としても、日本としては少々うんざりです。
 
ところで「四季豊かな気候」「美しい風景」「おいしい食べ物」は自然の恵みですが、この自然という地球環境と人類との関係が軋(きし)んできています。
古来、日本人は、すべての物には神が宿るという汎神論(はんしんろん)的価値観に基づいて、自然を天の恵みと考え、自然と共生することを文化、伝統としてきました。
これに対し、自然は神によって造られた被造物に過ぎないと考えたキリスト教国は、いつの間にか自然に対して支配者として君臨するようになり、結果として自然破壊、環境汚染という問題を引き起こし、その反省に基づいて、近年、環境保護、エコロジー運動を展開するようになりました。
 
聖書は言います、地球、そして地球環境という自然は創造者である神のものである、と。では人類と自然、あるいは地球環境との関係はというと、神は人類を地球の支配者ではなく、管理者として立てたのだと言います。
 

「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1章24節)。

 
 そこには確かに「地を従わせよ」「すべての生き物とを治めよ」とありますが、それはあくまでも、神が造られたものを神の意思に沿って管理せよ、という意味です。
 人は神により、地球あるいは地上世界の管理者に立てられた存在なのであって、所有者ではありません。しかし人類が管理人としての立場を逸脱して、所有者である神をないがしろにした時から、人類に対する自然からの反抗が始まりました。その一つが自然の破壊、環境の汚染なのです。人類は創造者である神を認めると共に、自らが神により、地球の管理者として神に立てられたものであるという本来の位置を認めた時、改めて自然の恵みを有り難く満喫することができるようになります。
 
毎月の第一日曜日には、創世記を通して「神と人間」「人間と自然」など、人生の根源的な問題についてのわかり易い講話を聞いていただく機会を用意しております。 
 
初秋の十月七日の日曜日、街角の小さな教会で、ゴスペルの歌声で心を癒され、聖書の講話を通して人生を考えるひととときを是非持ってください。
ご来会を心より歓迎致します。
 
◎クリックすると大きく表示されます。⇒


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-08-01 14:35:34 (1363 ヒット)

により、あるいはとして創造された
 
 テレビをつけると、化粧をして女性のかっこうをした「おじさん」が出演しているのをよく見かけます。
この人たちは女装趣味でそうしているのではなく、生物学的には男性であっても、脳、つまり意識においては自分が女性であると感じている人たちのようです。
 
このような人たちを医学的には「性同一性障害(せいどういつせいしょうがい)」というのですが、どのくらいの割合かというと、日本精神神経学会の発表によりますと、日本全体で二二〇〇人から七千人くらい、とのことです。彼ら、彼女らはそのような自分自身に違和感を覚えながら、人知れず苦悩してきたと思われます。決して差別の目で見てはなりません。
 そして圧倒的大多数の人は、生物学的にも自意識の面おいても自分が男あるいは女であることを疑うことなく生活をしているのですが、それは神が人というものを男あるいは女として創造したからです。
人というものは神の呼び掛けに応える、いわゆる応答性を持つ「神のかたち」に創造されると共に、具体的には男または女に創造されたのでした。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(旧約聖書 創世記1章27節)。
 
 つまり、少数の方々を例外とすると、この社会には男と女しか存在しないわけですが、もう一つ、厳然たる事実があります。それは、人はみな、自らの性を自分自身で選択をすることなしにこの世に男あるいは女として誕生してきたという事実です。
男性には男性特有の、そして女性には女性特有の悩みがあることもまた一つの現実です。
 
しかし、それぞれの性は決して偶然の結果なのではなく、その誕生の際に創造者である神が介在して、ある人を男に、ある人を女に選んでこの世へと送り出してくれた、そしてそれは自らが幸いな人生を生きるだけではなく、出会う人たちを自らの存在を通じて幸せにするためだったのでした。
そしてそのことを教えてくれるのが「神は(人を)男と女とに創造された」という聖書の言葉です。
 
晩夏の九月二日の日曜日、街角の小さな教会で、ゴスペルの歌声で心を癒され、聖書の講話を通して人生を考えるひととときを是非持ってください。

あなたのご来会を心より歓迎致します。 

 

   ◎クリックすると大きく表示されます。⇒


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-07-01 09:14:01 (1249 ヒット)

人は神により、
神に応答する者として創造された

 
日本では普通に、年の初めの正月は神社に初詣に行き、葬式ではお寺さんのお世話になり、結婚式はキリスト教式であげ、さらにはキリスト教の一大行事であるクリスマスになると、ケーキやプレゼントで盛り上がります。
これを、日本人は宗教的に無節操である、と批判する向きもありますが、見方によればこれらの習慣は日本人が持っている宗教心の豊かさを示しているとも言えます。
 
ところで聖書の創世記には、人は神により、「神のかたち」に創造された、と書かれています。

「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1章27節)

「神のかたち」とあることから、ということは、神は人間のような形(かたち)なのかと思ってしまうのですが、「神のかたち」はラテン語では「イマゴ(かたち)・デイ(神の)」で、「イマゴ」は英語の「イメージ」の原型です。
つまり人が「神のかたちに創造された」とは、人が神のイメージに似せて造られたという意味なのです。では神のイメージとは何でしょうか。
 
ドイツの神学者で国際キリスト教大学でも教鞭をとったことのあるエミール・ブルンナーは、「神のかたち」を「神への応答性」として説明しています。
つまり、人が神のかたちに造られたということは、人が神の呼びかけに対して応答する機能を持つ者、そして、神に向かって呼びかけることのできる者として造られたという意味だというわけです。
 
どのような未開の部族にも祈りや宗教がある一方、人間以外の動物が神に向かって祈ることも礼拝をすることもないのは、人のみが「神のかたち」に創造された特別な存在だからなのです。祈りや礼拝という行為は、人のみに与えられた特権であり、人が人であることの最大のしるしなのです。
 
そして、この「神のかたち」は宗教性と呼んでも差し支えありません。
宗教心は「神のかたち」に造られた人間が潜在的に持っている、人間を超える存在への畏敬の思いの現われです。日本人は昔から、恐れ多いものへの尊崇の念を確かにしてきました。そういう意味において、宗教性に富んでいる日本人は、創造者である神にとりわけ愛されている民族といえるかもしれません。
 

私たちの教会では、毎週日曜日に日曜礼拝を開催しておりますが、特に六月から十一月までの第一日曜日の礼拝を、初心者の方にも分かり易い聖書の講話と、心を癒す讃美歌(ゴスペル)特別礼拝としております。

 

次回、八月五日の日曜日の午前、街角の教会に、ぜひお気軽に足をお運びください。

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