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わたしたちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です

寝屋川福音キリスト教会
(ファミリーチャーチねや川)
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
https://ag-kansai.com/

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投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-10-05 19:35:02 (1074 ヒット)

 キリストは今日もあなたを訪れて心の扉を叩いている

倍返しとお礼参り―人が神さまに

TBSテレビのドラマ「半沢直樹」の最終回の視聴率が四十パーセントを超えたというので、評判になりました。そしてこのドラマで一躍有名になった行動が「土下座」で、流行語になったものが「倍返し」でした。

ただ、この「倍返し」はドラマの中では「やられたらやりかえす。倍返しだ!」というように、「仕返し」という意味で使われていたため、違和感を持つ方もいたのではないかと思います。

古くは一般には「不祝儀は半返し、祝儀は倍返し」というように、お礼の意味でするものが倍返しであったからです。しかし、いつの間にか、仕返しを意味する言葉になってしまったようで、寂しい限りです。

これと似たものが「お礼参り」でしょう。「お礼参り」も最近では暴力団などの仕返しを意味するようになってしまいましたが、本来は願いが叶えられたことや、日々の無事を感謝して行う宮参りを意味しました。

「お参り」「礼拝(らいはい)」と言いますと、「商売繁盛」「無病息災」「家内安全」などの個人的なお願いをするために行うことと思われていますが、日本人にとっての「お参り」や「礼拝」は本来、何事かを祈願するというよりも、日常生活の中で神さまから頂いている恩恵や庇護を感謝するために「人が神さまに」行う「お礼参り」であったのです。

神の訪れ―神さまが人の方に

ところで、日本は先進国の中では最も治安がよく、犯罪率の低い国ですが、それでもやっぱり、窓や玄関の戸締りはしっかりとしていなければ不安です。そこでホームセンターなどでは訪問客の顔が映るカメラ付き、録画機能付きのインターホンが売れているそうです。 

通常、礼拝と言いますと、人が神のおられる所に詣でることを意味しますが、不思議なことに聖書においては、「人が神に」ではなく、最初に「神さまの方が人を」捜し求めて訪問して来る、ということを強調します。

 

十字架に架けられて墓に葬られたキリストは、「三日目に復活をした」と聖書は言います。では、復活をした神の子キリストは今どこにいるのでしょうか。

聖書によりますとキリストはエルサムの東側にあるオリブ山という山から昇天をしたとされています。そのキリストは天においてくつろいでいるのか、と言うと、そうではありません。日夜、弱い私たちのために神に対して執り成してくれているのです。 

しかし、キリストの究極の願いは、自分が命を懸けてまで愛した人々と共にいて、苦楽を共有したいということです。そこでキリストはこの地上において、呻吟する私たちのところまで、天を駆け下って訪ねてきてくださり、心の扉を叩いているのです。人が神さまに、ではなく、「神さまが人の方に」来てくださるのです。

 

「ごらんなさい。わたしは戸の外で、しきりにたたいています。その呼びかけにこたえて戸を開ける人なら、だれとでも、わたしは中に入って、親しく語り合います。そして、お互いに楽しいときを過ごすのです」(ヨハネの黙示録3章20節)。 

 教会では、わたしたちの人生を訪れてきてくれるキリストとはどういう救い主であるか、また心の扉の開け方、キリストの受け入れ方をご紹介しております。

台風一過の十一月の最初の日曜日、一度、ぜひ教会へお出かけください。ご来会をお待ちしております。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-09-01 15:18:41 (1370 ヒット)

 キリストは一度は死んだが今も生きている救世主である

 
四十九年前と七年後、そして三十二年後
 
 二〇二〇年のオリンピックが東京に決まりました。九月八日の日曜日早朝の五時二〇分、多くの日本人が固唾を飲んでテレビ画面を見つめる中、ロゲIOC会長が「トーキョー」と言った時、大袈裟に言えば日本中が歓喜に包まれました。
そしてこの時、日本人のほとんどが東京でオリンピックが開催される七年後に自分が何歳になっているかという計算をしたようです。その際、余裕しゃくしゃくで「○○歳になっている」と言える人もいれば、「その時もう自分は…」と心細い気持ちになった人もいたと思います。
 
でも、心細くなった方も今から四十九年前の一九六四年(昭和39年)に、アジアで初めて開催された最初の東京オリンピックは鮮明に覚えていることと思います。
一方、余裕しゃくしゃくで七年後を迎える方は、四十九年前にはおいくつだったでしょうか。「まだ生まれていなかった」「子供だったからよく覚えていない」と言われるかも知れません。
では、三十二年後はどうでしょうか。日本が誇る超電導リニア中央新幹線の品川―大阪間の開業は二〇四五年(平成57年)の三十二年後だそうです。四十九年前の東京オリンピックを若い頃に観ていて、三十二年後のリニアにも乗車をするという幸運な人は、流石に少ないのではないかと思います。
 
「四十九年」「七年」「三十二年」という数字は、時間というものが人に対して楽しくも懐かしい思い出というものを刻んでくれる反面、誰の人生にも必ず終焉が訪れるという非情な一面を実感させます。人は時の流れという制約の中にいる存在なのです。
  
B.C(紀元前)とA.D(紀元後)
 
 ところで、時間というものに拘束されない存在がいます。イエス・キリストです。どういうことでしょうか。
世界史で「紀元前」を表わす記号が「B.C」、「紀元後」を示す表示記号が「A.D」であるということはどなたもご存知だと思います。
では、「B.C」とは何で、「A.D」とは何なのか、ですが、「B.C」は「Before(ビフォー 以前)」と「Christ(クライスト キリスト)」という英語の頭文字で、「キリスト以前」、つまり「キリストの誕生以前」という意味です。
 
 それでは「A.D」は、と言いますと、これは「ANNO(アンノ 年)」と「DOMINI(ドミニ 主の)」というラテン語の頭文字で、「主の年(世界の主であるイエス・キリストの年)」を表わします。
つまり、世界の歴史はイエス・キリストの誕生を境にして、「キリスト以前」と「キリスト以後」に区分されているのです。この「A.D」は主に西洋で使用されてきましたので、一般的には西洋の暦(西暦)として知られています。
 
 これだけでも驚きなのですが、もっとびっくりするのは、A.D(西暦)三十年四月九日に十字架に架けられて死に、確かに墓に葬られたイエス・キリストがその三日目に死者の世界から復活し、そして今も生きていると明確に聖書が告げていることです。
 
もちろん、俄かには信じられないことと思います。しかし、死者の世界からよみがえることによって、時間を超える永遠の存在となったイエス・キリストは、まことに有り難いことに、今日、ご自分を信じる者をキリストご自身と同様に、時間を超えた存在、永遠を生きる存在としてくださるのです。
 
酷暑の夏も過ぎて、爽やかな秋を迎えています。この秋の十月、教会の礼拝において、聖書の講話とゴスペルを通して、過ぎ去った日々を思いつつも、今を、そしてこれからの将来を見つめる機会となさっていただけましたら幸いです。
ぜひ、十月の日曜特別礼拝にご来会ください。お出でを心よりお待ち申し上げております。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-08-01 22:35:46 (1214 ヒット)

キリストは望みなき罪びとに永遠の生命を与えた

残念ながら、逆回転はできません
NHKの連続ドラマ、「あまちゃん」が人気です。アイドルグループGMTを首にされたヒロインの天野アキが、その後出演した幼児番組「見つけてこわそう」で、こなごなに割れた壺などを逆回転のジェスチャーによって元のかたちに戻すという場面があるのですが、それを見ていて、人生、失敗を帳消しにして元に戻すことのできる逆回転が可能ならばどんなに幸せかと思った人もいるのでは、と思います。
 
長く生きれば生きるほど、映画「男はつらいよ」の主人公の車寅次郎が旅先から送るハガキの決まり文句、「思い起こせば恥ずかしきことの数々、今はただ後悔と反省の日々を過ごしております」を実感することが多いからです。
残念なことですが「覆水、盆に返らず」で、私たちの人生においては、逆回転はできないのです。
 
逆回転はできないけれど、出直しは可能です
しかし、逆回転はできなくても、人生の出直しは可能です。
西暦三十年四月七日の金曜日、二人の犯罪人がイエス・キリストと共に十字架に架けられました。彼らは当時ユダヤを統治していたローマ帝国への抵抗からローマの要人暗殺に走ったテロリストたちでした。十字架の上で彼らの心は、ローマへの恨みと自らの無力さ、そして救済の手を一向に伸ばしてくれない神への苛立ちの感情で煮えたぎっていました。
 
でも、テロリストの一人はキリストの、「父よ、彼らをどうか赦してやってください」という神への祈りを聞いて自身を省みるようになります。「今の今まで、神や人を責めてきたけど、悪いのは自分だったのだ」と。
 
彼はそこでキリストに向かってそれまでの罪を悔い改めるのですが、キリストは「今さら、悔い改めても遅い」などと言わず、「今、私はあなたに永遠の生命を与える」と言って、終わりの筈の彼の人生に新しい出発の機会を与えてくれたのでした。
人生、元の姿への逆回転はできないけれど、出直しは可能なのです。使徒パウロは告げています。
 
「だれでもキリストのうちにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(新約聖書コリント人への第二の手紙5章17節)。
 

気象庁によれば、だれもが「これまでに経験をしたことのないような」猛烈な暑さが続く今年の夏ですが、九月の最初の日曜日、街角の小さな教会に足をお運びになり、聖書の講話とゴスペルを通して、日々の歩みを見つめるひとときとなさってください。ご来会をお待ち申し上げております。 


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-07-01 08:34:14 (1292 ヒット)

 キリストは赦し難い敵のために神の赦しを祈った

 
色眼鏡
ある主婦が肉を買おうとスーパーに行きました。肉売り場で肉を選んでいたら、お隣に中年のカップルが。
奥さんらしき人がガラスケースの中の肉に手を伸ばしたところ、「それは色が悪い!」という男性の声。そこで女の人が別の肉を取ろうとしたところ、またまた「それも色が悪い!」
男性なのにずいぶんシビアな人だなと思った主婦がその声の主の顔を見たところ、何とその顔にはしっかりと濃い目のサングラスが(笑い)。これは実話です。
 
どんなに新鮮で良い肉であっても、サングラスをかけて見れば不良品に見えてしまうものです。
 
人はとかく、人や物事を見る際に先入観や偏見という色眼鏡ごしに見がちで、そのために対象を正しく把握することができないということがあります。
 
私も十代のころ、無知であったため、「キリスト教は外国の宗教だ」、「宗教なんて、弱い人間が頼るものだ」と勝手に思い込んでいたものでした。
しかし、その考えは偏見でしかありませんでした。
 
色眼鏡をはずす
 「奴は悪人だ」という偏見と先入観で、イエス・キリストは十字架にかけられてしまいました。西暦三十年四月七日の金曜日のことです。
 十字架刑というのは、両足は縛られて台の上に乗せられますが、両手には太い釘を打ち込まれて、そのまま死ぬまで放置されるという、拷問と処刑の両方を兼ねた極めて残酷な死刑方法でした。
 
 もしも冤罪(えんざい)で処刑されたならば、通常、人は何を叫ぶでしょうか。恐らくは自分が無実であることを訴え、あるいはよく調べもせずに自分に死刑を宣告した司法当局に対する恨みを叫ぶことと思います。しかし、十字架上のイエス・キリストの口から出たものは、冤罪を訴える言葉でもなく、敵を呪う言葉でもなく、また、復讐を神に求める言葉でもありませんでした。
 
 驚くべきことにイエス・キリストは神に向かい、赦し難い敵たちのために「父よ、彼らを赦してください」と、心からその赦しを祈ったのです。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをゆるしてください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節)。
 
 かつてこのような人がいたということをあなたは聞いたことがあるでしょうか。このイエス・キリストの物語は、その場にいた人の証言によるものなのです。
 
私たちは物事を無意識のうちに色眼鏡で見ているということがよくあります。そのような場合、かけている色眼鏡をはずして見たら、それまでとは違った風景が見えてきて、その結果、新しい発見をすることができるかも知れません。
 
暑さの盛りですが、街角の小さな教会に足をお運びになり、聖書の講話とゴスペルを通して、日々の歩みを見つめるひとときとなさってください。十字架の物語は、あなたの人生に何ごとかを語りかけてくれることと思います。
 
ご来会をお待ち申し上げております。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2013-06-01 23:31:17 (1213 ヒット)

 キリストは罪びとを最後の審判から救うために到来した

 

▽クリックすると大きく表示されます。  

2013年7月日曜特別礼拝 古典落語に「お血脈(けちみゃく)」という有名な噺(はなし)があります。
信州信濃の善光寺にお血脈という印鑑があって、百疋、今の貨幣価値でいえば二万円ほどを払うと、これをおでこに押してくれる、すると押された人の罪障が一気に消滅して、どんな極悪人でも極楽往生できるというので、それこそ押すな押すなの盛況となりました。
しかし、みんなが極楽に行ってしまうので地獄は開店休業状態で衰微の一途、そこで閻魔大王が対策会議を開いて協議したところ、地獄にとっては禍の元であるそのお血脈なるものを盗み出してはどうか、という案が採用されて、選ばれたのが釜ゆでにされた石川五右衛門でした。彼は夜陰に紛れて善光寺に忍び込み、忍術を使って首尾よく目的のものを盗み出したまではよかったのですが、思わず昔の癖が出て、「まんまと首尾よく…、ああ、ありがてえ、かたじけねえ」と芝居気たっぷりに見栄を切ってそのご印を額の前に押しいただいたので、そのとたん、そのまま極楽に行ってしまった、というのがオチの噺です。
人はなぜ死を恐れるのでしょうか。一つはこの世の生活への未練があるからであり、もう一つは家族をはじめとする、愛する者との別離の悲しみを味わわなければならないからです。しかし、それだけではありません。人は死んだらどうなるのか、死んで骨や灰となってその存在を終えるのか、死後の世界があるのか、あるとしても、果たして自分は極楽や天国に行けるのか、それとも地獄に堕ちてしまうのか、と不安になるからでもあるのです。
ところで聖書にはこうあります。
 
「人間には、一度死ぬことと、死んだのちに審判を受けることが定まっている」(新約聖書 ヘブル人への手紙9章27節)。
 
 地上でどんなに長寿を誇っても、人はいつか必ず死を迎えます。例外はありません。そしてどんな人も死後、神の審判を受けることになるのです。これを「最後の審判」と言います。すべての人は真の神の前に出て行って、生前の生き方を評価される審判を受けなければならない、と聖書は言います。
そして審判の結果、死後の行き先が決まるのです。そこではコネも賄賂も効きません。すべてが白日のもとにさらされて、公平に審かれます。
 しかし、有り難いことに、イエス・キリストは、脛に傷持つ私たち罪びとをこの最後の審判から救うために、天から下ってきてくれた救い主なのです。
 
このイエス・キリストを七月七日の礼拝でご紹介いたします。ぜひこの礼拝にお越しください。あなたさまのご来会を心より歓迎致します

 


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