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投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-01-19 16:14:12 (989 ヒット)
2014年礼拝説教

14年1月19日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り神の支配としての神の国は、人の心の中から始まる」
 
マタイによる福音書6章10節前半(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
昨年末のことです。妻がどこで仕入れて来たのか、安倍晋三首相が、招かれた結婚披露宴でするスピーチで最も受ける祝辞が、「家庭の幸福は妻への降伏から」というものだと教えてくれました。
 
「幸福」と「降伏」をかけたわけで、まあ、至言ではあります。「確かに」と思ってしまいます。
 
では、安倍首相夫婦の間で揉め事があった場合、安倍首相は奥さんに対して自分の方から「御免」と謝るのかと言いますと、どうもそうでもないようです。
 
年が明けた一月五日に配達された朝刊に、作家の曽野綾子と首相夫人の安倍昭恵の「新春対談」が掲載されていました。
 
曽野綾子 けんかをしても晋三先生の方がさっと謝られるのでは?
安倍昭恵 そういえば、謝らない!「ごめんなさい」というのを聞いたことがないです。
曽野綾子 じゃあ、どうやってけんかをお収めになるの?」
安倍昭恵 なんとなくで。いつの間にかお互いが忘れてしまうという感じです。
曽野綾子 夫婦の間というのは、うやむやにするのが一番でしょうね。国と国の間もそうなのかも。うやむやにできない国が周りに多くて困りましたね。
 
昭恵夫人は夫からの「ごめんなさい」を聞いたことがないそうですが、対談の終りの部分には、すべてを帳消しにするようなエピソードが語られていました。
それは、一年に一回の結婚記念日のときに安倍首相から届くメールで、それには「昭恵のおかげで今の僕がいます」とあるそうなのです。つまり、「妻への降伏」を身を以て実行しているとも言えるのかも知れません。
ところで「降伏」には条件付きの降伏と無条件降伏とがありますが、人生の幸福は「天にいますわれらの父」である創造主なる真の神への無条件降伏であると言っても過言ではありません。
 
「主の祈り」の三回目、そして神に関する祈願の二番目は、神の支配についての祈願ですので、そこで神の支配に服するとはどういうことかについて教えられたいと思います。
 
 
1.「我らの父」である神の支配としての神の国の到来を祈る
 
「主の祈り」の神に関する三つの祈願の二番目は「み国を来たらせ給え」です。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…御国(みくに)がきますように」(マタイによる福音書6章9、10節前半 新約聖書口語訳8p)。
 
伝統的なプロテスタントは二番目の祈願を「み国を来たらせたまえ」と祈りますが、先週もご紹介したローマン・カトリックと聖公会の共通口語訳は「み国が来ますように」で、カトリックの文語訳は「み国の来たらんことを」でした。
 
なお、原文は「御国(みくに)」の前に明確に「あなたの」とありますので、あくまでも「天にいますわれらの父」であるあなたの「み国がきますように」という祈願です。
 
では「御国」とは何であるのかということですが、「御国」と訳された原語は「バシレイア」です。そして「バシレイア」は統治とか支配を意味する用語でもあります。
 
国、あるいは国家とは何かということについて、Wikipediaで検索しますと、「国家(こっか)は、国境線で区切られた領土に成立する政治組織で、地域に居住する人々に対して統治機構を備える。領域と人民に対して排他的な統治権を有する政治団体もしくは政治的共同体である」と定義しています。
 
つまり、一定の領土、領海、領空という「領域」と、そこに住む「人民」つかり国民や住民、そして統治権力という三つの要素を備えていることが国家成立の条件なのですが、第二次世界大戦後、世界とりわけアジア諸国にとっての厄災となっているお隣の大陸国家は、虎視眈々とその境界線を拡張しようと躍起になっていますし、その属国としての地位に甘んじることの長かった半島の南側にある国家も、大東亜戦争に敗れた日本が主権を回復する寸前のドサクサに、勝手に海の上にラインを引いて日本の領土である竹島を奪い取ってしまいました。しかし、一応、国家ではあります。
 
一方、二国に比べて民主化が進んでいて民度も文化レベルも高く、経済的にも発展している台湾はなぜか「国家」ではなく「地域」という扱いなのですが、台湾こそ立派な国家として扱われるべきだと思われます。
 
ところでその来たらんことを求めよとされた「御国」とは何なのかを正しく理解することこそ、聖書を正しく理解する秘訣であるとも言えます。
 
神の国の到来を熱心に待ち望んでいたユダヤ人は誰もがみな等しく、それを地上に建てられる政治的、軍事的国家であると思い込んでおりました。そしてその思い込みはイエスの弟子たちも同様であって、それは復活したキリストへの弟子たちの問いにも表れています。
 
「さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか』」(使徒行伝1章6節 180p)。
 
 でも、「御国」すなわち神の国は、目に見えるかたちで待望されるものではなかったのでした。それはイエスがエルサレムに向かう途次、イエスがパリサイ人たちの質問に応えた答えで明らかにされました。
 
「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない』」(ルカによる福音書17章20節 119p)。
 
 「見られるかたち」とは可視的な、という意味です。少なくとも地上的な意味での領域を持つものではない、というもの、それがイエスが示す「御国」「神の国」だったのです。
 
 イエスが言う神の国とは神の「バシレイア」つまり、神の統治、神の支配を指すものでした。つまりイエスは主の祈りにおいて、神の支配としての御国の到来を祈るようにと言われたわけです。
 
 
2.神の国は先ず、イエスを信じ仰ぐ者の心と人生に始まる
 
では、「御国」すなわち神の支配はどのようなものなのか、どこでどのように始まるのか、と言いますと、それはイエスを主として信じ仰ぐ者の心の中に建てられる、とイエスは言われたのでした。
 
「また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節 119p)。
 
 「あなたがたのただ中」(21節)とは第一に、あなたがたの心の中に、という意味です。
 
聖書には心と訳されている言葉は数多くありますが、代表的なものが「カルディア」です。「カルディア」はもともと、心臓を意味しましたが、古代の人は人間の精神的、感情的機能としての心と、体の重要な臓器である心臓とを同一視しました。
 
「あなたの宝のある所には、心(カルディア)もあるからである」(マタイによる福音書6章21節)。
 
現代でも感覚的に心の痛みを表現する場合、心臓がある左胸を押さえることが通常です。そして心理学が発達している現代においても精神的機能としての心と肉体機能としての心臓とを関係づけていますし、文学も同様です。
 
心理学は人の心には表面の意識としての理性と、内奥の意識としての無意識に分けて、これを深層心理などと呼びました。
ガラスのコップに氷を浮かべた場合、上に浮かんでいる部分が意識、沈んでいる部分が無意識、深層心理というわけです。
 
通常、人を動かすものは表層部分の理性ですが、本音は隠れた無意識の部分にあり、そして人を動かしているものが、実はこの隠れた部分なのです。
イエスが言われた「あなたがたのただ中」(21節)とは、この意識の下に隠れている深層心理、無意識に他なりません。
そこは住宅で言えばお客さんを応接する玄関先や客間ではなく、日常の生活空間としての居間であり、キッチンであり、寝室であり、書斎です。
 
 「御国が来ますように」(マタイによる福音書6章10節)という祈願はまさに、この私の心、日常の生活を営む心の中心部分にこそ、神の支配が及びますように、そのために私は今日もあなたに降伏し、この心をあなたに明け渡して服従をします、という祈りを捧げることなのです。
 
 
3.神の国は次いで、神の御名を崇める者たちの間に実現する
 
そして、パリサイ人に答えたイエスの言葉、「あなたがたのただ中に」にはもう一つの意味があります。これは「あなたがたの間に」と読むことが可能です。もう一度、ルカの福音書を開いてみましょう。
 
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカによる福音書17章21節後半)。
 
 そして、口語訳も新改訳も「あなたがたのただ中に」と訳した「ただ中に」という言葉は、直訳すれば確かに「中に」を意味する言葉なのですが、それは「間に」とも訳せます。ですから、新共同訳は「あなたがたの間に」と訳しました。
 
「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(同 新共同訳)。
 
 イエスは当然これをギリシャ語ではなく、恐らくはヘブライ語で語った筈ですから(最新のユダヤ学ではイエス時代の日常語はアラム語などではなく、ヘブライ語だというのが通説のようです)、これが心の中を指すのか、間を指すのかは、断定することはできませんが、両方を意味するものと言ってよいでしょう。
 
ただし、物事には順序というものがありますので、神の国すなわち神の支配は、先ず、イエスを主として信じ受け入れた者の心と人生に始まり、そしてイエスを主として信じた者、つまり創造主なる「天にいます」神を「われらの父」として崇める者同士の間に神の支配が実現するという展開になるのです。
 
もちろん、実生活において、とりわけ関係が密になればなるほど、揉め事が起こる頻度は高くなります。
 
しかし、そうなった場合でも落ち込む必要はありません。主の祈りでは「御国がきますように」と、神の支配の実現を将来に求めるかのような表現となっておりますが、「将来」とは「将(まさ)」に「来」たらんとするという表現です。それは「もう、すぐそこまで来ている」という意味なのです。
 
そして、エルサレムへの途次におけるパリサイ人への教えで、イエスは神の国、神の支配は「あなたがたのただ中に(すでに)あるのだ」と、現在形で宣言します。私たちはこの「まさに」と「すでに」の言葉によって、神の支配はすでに始まっていて、それは完成を目指して前進しているのだということを知るのです。
 
歴史的にはキリストがこの地上に来られた時以来、そして私たちの人生という歴史においては、私たちが聖霊によって「イエスは主である」(コリント人への第一の手紙12章3節後半)と告白した時以来、神の支配は終わりに向かって、すなわち完成を目指してすでに始まっているのだということを改めて認識したいと思います。
 
神の支配はイエスを通して天地の神を「我らの父」と呼ぶ「あなたがたの」心の中にすでに生まれており、同時に「あなたがた」の間、すなわち人間関係、対人関係の中にも始まっているのです。もし仮に思うような状態になっていないとしても失望してはなりません。神の支配の到来と実現を祈るようにと命じられたのは、真実そのもののイエス・キリストなのですから。
 
神の支配というとき、思い出すのが中国で十六世紀の明(みん)の時代につくられたとされる伝奇小説「西遊記」の孫悟空です。
三蔵法師のお供として知られる孫悟空は、もともと石から生まれた石猿で、身に付けた神通力をいいことに乱暴狼藉を繰り返す鼻つまみ者でしたが、高慢にも釈迦如来に向かって挑戦的な言辞を弄したため、釈迦から「お前は私の掌(てのひら)から脱することもできない」と言われます。
 
そこで腹を立てた孫悟空は、ひと飛び十万八千里を行くという斗雲(きんとうん 漫画のドラゴンボールの孫悟空の場合は筋斗雲ですが)に乗って天の果てと思われる地点に到達するのですが、そこで五本の巨大な柱を発見します
(因みに現在の一里は四劼任垢、この時代の一里は六百辰曚匹世辰燭修Δ任后それにしても超高速です。何しろ、白髪三千丈の国ですから)。
 
そこで悟空は真ん中の一番高い柱に墨黒々と「斉天大聖到此一遊」、つまり「俺様、斉天大聖はここまで来たぞ、どうだ」と書いて意気揚々と出発地点に戻ったところ、釈迦が悟空に示したその右手の中指には、何と悟空が天の果てで書いた筈の文字があった、所詮、彼は釈迦の掌を行き来したに過ぎなかったのだ、という話ですが、この寓話は、人類がどんなに知識を増やし、技術を発達させたとしても、所詮、世界を創造した神の支配の手の中にあるのだということを教えてくれます。
 
今日の説教後、讃美歌の二六七番を歌いたいと思います。十六世紀の宗教改革者、マルティン・ルターが作詞作曲したものだそうです。
聖歌では二三三番ですが、今回は一般に知られている讃美歌の方で歌いたいと思います。
 
大いなる神の支配権を認めて、その偉大なる神に降伏することこそ、人生の幸福であるということを確かめながら、讃美したいと思います。
 
(一節)神は我が櫓(やぐら) 我が強き盾
苦しめる時の 近き助けぞ
おのが力 おのが知恵を頼みとせる 
陰府(よみ)の長(おさ)も など恐るべき
 
(四節)暗きの力の よし防ぐとも
主の御言葉こそ 進みに進め
我が命も 我が宝も 取らば取りね
神の国は なお我にあり
 
お一人ひとりの日々の暮らしの中に、今年も神の支配が一段と深く浸透しますように。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-01-12 16:52:12 (1200 ヒット)
2014年礼拝説教

14年1月12日 日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈り◆慍罎蕕良磧戮慮飜召倭潅呂膿鬚瓩蕕譴襪戮である」
 
マタイによる福音書6章9節後半(新約聖書口語訳8p)
 
 
はじめに
 
 段々と日本語がおかしくなってきました。言葉が入り混じってしまったために意味が不明になった四字熟語?の代表的なものが「汚名挽回」でしょう。
「汚名」を「挽回」したらいつまでも汚名は着たまま、着せられたままです。
これは「名誉回復」と「汚名返上」がこんがらがったものだと思われますが、「汚名」は「返上」すべきものであって、「挽回」しなければならなのは穢された「名誉」です。
 
今、お隣の半島の国が諸外国において、血相変えて取り組んでいる運動が「ジャパン・ディスカウント」運動です。
ジャパン・ディスカウント、つまり日本の評価、評判を貶めるためには何でもする、という方針のもとに反日工作活動やロビー活動を展開するキャンペーンで、その先兵になっているのがVANK(ボランタリー・エージェンシー・ネットワーク・オブ・コリア)を名乗る団体です。ボランティア団体と言っていますが、政府から補助金を交付されている準国家機関ともいえる団体です。
 
夜郎自大の彼の国にとって、諸外国、とりわけ欧米諸国において、自国を差し置いて日本の評価が高まることはどうしても我慢することができないようで、日本の名を穢し、下落させることに総力を上げているのですが、そのことが自国の評価を下げているということにまったく気付いていないのは、何とも悲しいことです。
 
 しかし、謂れなき批判や攻撃に対しては、とりわけ諸外国で生活をしている日本人のため、特に陰湿な苛めに遭っている子供たちのためにも、貶められている日本という国の名を守る運動を展開するのは、国の務めです。特に外務省にはがんばってもらいたいと思います。
 
 わたしたちは日本人の一人として、根拠のない一方的な中傷によって貶められている日本の名誉の回復を願う一方、キリストにある者としては、穢されている神の名の尊厳の回復にも努めなければなりません。
 
 私たちの教会の礼拝では、先週から、「主の祈り」についての取り組みを通して、祈りの精髄、祈りの真髄に迫ることになりました。
 
第一回目の先週の「主の祈り」では、まことに勿体ないことながら、イエスを通せば創造主なる神に向かって「(我が)父よ」あるいは「天にいます我らの父よ」と呼び掛けることが出来るという恵みについて改めて教えられましたが、「主の祈り」は前半が神に関する事柄、後半が人の必要に関する事柄に分けられていることも知りました。
 
そこで今週は神に関する事柄の最初の祈願である「御名を崇めさせ給え」について取り上げたいと思います。
 
 
1.天地を創造した「我らの父」の御名は、別格の聖なる名として全地で崇められねばならない
 
 私たちが毎週の礼拝において唱える「主の祈り」の最初の祈願は、プロテスタントでは「御名をあがめさせたまえ」ですが、ローマン・カトリックと日本聖公会が共通のものとして二〇〇〇年に制定した口語訳では「み名が聖とされますように」です。なお、それまでのローマ教会におけるものは「み名の尊(とうと)まれんことを」でした。
 
では、福音書の原文はどうなのでしょうか。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名(みな)があがめられますように」(マタイによる福音書6章9節 新約聖書口語訳8p)。
 
 主イエスは弟子たちに対し、弟子のしるしとしての「主の祈り」を与えて、天地を創造した神に向かって「天にいますわれらの父よ」(9節)と呼び掛けることを許しましたが、その際、最初にその創造主である「我らの父」(同)の「御名が」(同)全地で「あがめられ」(同)ることを期待して祈るようにと命じられました。
 
 ところで「あがめられますように」(9節)と口語訳が訳した原語は、「聖別する」を意味する動詞「ハギアゾー」を語源としたものであって、「(それが)聖なるものとして取り扱われよ」という意味です。
 
 そして「聖別する」という言葉には、それを他の物と区別して異なったものとするという意味もありますので、つまり、神の「御名があがめられますように」という祈りは、天地万物を創造した神さまが、そんじょそこらの神々とは区別されて、まさに別格の神、特別な神、至上にして無比の神として取り扱われることを祈願するという意味なのです。
 
 これは当然と言えば当然です。なぜかならば、天と地とを創造し、しかも生けるものすべてに生命の源となる自然界を与えて、その生命活動を支えているのは、他でもない「天にいますわれらの父」(9節)だからです。
そのお方が他の神々と区別されて、別格の神として全地で特別に崇められ、創造者としての尊敬を一身に集めるのは当然のことであるいえます。
 
もちろん、礼拝の対象は異なってはいても、他宗教の行事、儀式はマナーとして尊重をしなければなりません。
ローマン・カトリックの信者として知られる作家の曽野綾子が随筆の中で書いておりました。
 
彼女が言うには、「アフリカの南スーダンで働いている知り合いのシスターから送られてきたクリスマスカードに、クリスマスの時期になると、現地のイスラム教徒の女性から『クリスマスおめでとう』という挨拶を受ける、クリスマスはあなたがたキリスト教徒にとって大事な日だから、という理由だそうで、そこで自分たちもイスラム教の重要な行事である断食明けの日には『おめでとう』と返すのだ」というのです。
これは狭量なキリスト教ファンダメンタリスト(根本主義者)にとっては許容できないことでしょうが、しかし、挨拶は信仰の問題ではなく常識の問題、マナーの問題です。
 
 NHKの大河ドラマで、黒田官兵衛を主人公にした「軍師官兵衛」が始まったようです。黒田官兵衛については昔、司馬遼太郎の「播磨灘物語」を一気に読んだことを思い起こします。
戦国時代に活躍した武将の黒田官兵衛は、一度はキリスト教の洗礼を受けるのですが、豊臣秀吉が発令した「伴天連(ばてれん)追放令」を受けて棄教をしたとされています。
 
しかし、秀吉が一五八七年(天正十五年)に出した「伴天連追放令」はキリスト教の信仰自体を禁止したものではなく、伴天連つまり外国人宣教師の活動の禁止を意味したものでした。
 
そしてそのいくつかの理由のうちの一つが、外国人宣教師による日本の女性たちの人身売買が目に余るようになったこと、そしてもう一つの理由が宣教師に扇動された一部のキリシタン大名や信者たちによる神社、仏閣を邪宗とする教えからくる破壊、焼き打ちという出来ごとにあったとされています。
 
前者のケースは俄かには信じられないかもしれませんが、人身売買は火薬と引き換えに戦国武将たちと伴天連たちとの間で行われたのは史実のようです。
そして後者の神社・仏閣を破壊、焼き討ちをするという例も、西日本において顕著な出来ごとだったそうです。
 
前者もキリスト教宣教師の行為として言語道断の事例ですが、後者の場合も、熱心が狂信に傾くとそれが却って神の御名を穢すという悪しき事例です。
 
「御名があがめられますように」という祈願は、崇められねばならない筈の神の尊名が穢されているという現実を踏まえたものでした。
天地万物を創造した神の御名の栄誉の挽回は、異教徒を弾圧する、あるいは異教の施設を破壊するという暴挙によってではなく、神の創造の事実と、人類に対する神の無限の愛の伝達によってなされるべきものだからです。
 
 
2.贖いを成し遂げた「我らの父」の御名は、全人類、全民族の中で崇められねばならない。
 
もう一つ、「我らの父」の御名が聖なる御名としてすべての人に崇められるべきわけは、「我らの父」こそが、人類の根源的問題である原罪を処理して、贖いを成し遂げてくれたお方であるからです。
 
 キリスト教教理でわからないものの一つが三位一体(さんみいったい)という教理です。
 
 神学校の夜間コースで「神学概論」という教科を担当してきましたが、色々な神学者たちが「例えば」と言って類似のものを例に挙げて三位一体説を説明しようとすると、それが意図に反して異端の教理になってしまうという事例にはほんとうに閉口したものでした。
 
典型的な例は水です。水はそのままでは液体であるが、蒸発すると気体となり、凍ると固体に変化するという説明があるのですが、これはまさに父が子となり、子が聖霊となるという、いわゆる様態的三位一体論、つまりオンリージーザスとかワンネスなどといわれる異端説の例証なのです。
 正直に申し上げますと、三位一体説は知性の領域では説明不能です。ただし、その役割から説明することは可能です。
 
 重い病に罹った病人が受診をするとします。
 
医師は病人を問診し、触診をし、さらに各種の検査を行って最終的に病名を決定し、入院措置をとって、病に有効な薬剤を処方します。
 
薬剤師は医師が処方した処方箋に基づいて薬剤を調合します。
 
しかし、病人は自分の病状について戸惑い、初めて飲むその薬について疑心暗鬼です。飲み方も薬効も分かりません。そこで看護師の出番となります。
看護師は不安の中にいる患者に対し、分かり易く薬の効能を説き、納得のいくまで説明をした上で、患者が薬を飲む手伝いをしてくれます。
 
つまり、一人の病人の治療と回復が、主治医となった医師と、医師が処方し、薬剤師が調合した薬効あらたかな薬と、その薬を服用させてくれる看護師との協力のもとに展開されることとなります。
 
この場合、病人を診察し、病気を診断して適切な薬剤を処方する主治医、それが父なる神です。
父なる神は人類が罹っている原罪という、放置していれば必ず死に至る病を治すために、治療計画を立て、効果ある薬剤を処方してくれたのです。
 
そして死に至る病を癒して滅びから人を救うため、神の独り子であるイエスは十字架に架かって血を流し、身代わりとなって死に、三日目に死の世界からよみがえってくださいました。まさにキリストこそ、死にいたる病を癒す効き目ある薬剤となってくださったのでした。
 
その結果、このイエスを神の救い主として信じ受け入れれば、誰でもあっても滅びから解放され、救われるという原理、救済の道が整備されました。
 
 
しかし、人の心は頑ななに上に理解力も衰えています。力のない医者にかかって散々な目に遭っていて、気持ちが頑なななっているかも知れません。そして、そんな頑迷固陋の心の持ち主が納得するまで、懇切、かつ丁寧に救いの真理を解き明かしてくれるのが、聖霊なる神なのです。
 
私たちの教会では、誰かが信仰告白にまで導かれるの、牧師による個人伝道で、ということが多いのですが、しかし、その個人伝道の過程で、聖霊なる神がその人の心に神の真理を示したからこそ、素直な気持ちになり、納得もして「イエスは主である」という告白に導かれるのです。
 
「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(コリント人への第二の手紙12章3節後半 270p)。
 
 人類の罪からの贖いという壮大な救済計画を立案したのは父なる神です。
そしてその父なる神の立てた計画に、自らを捧げて協力したのが子なるキリストでした。確かに、キリストが自発的に犠牲となって下さらなければ救済は実現しませんでした。
 
しかし、人類の救済という計画を立案しただけでなく、気が遠くなるような長い時間をかけて忍耐強く計画を推進してくださったのは、父なる神だったのです。贖いを成し遂げて下さった「われらの父」の御名こそ、全人類、全民族に崇められるべきです。
 
 
3.「我らの父」の聖なる御名は、神の子とされた者たちを媒介としてその周囲で崇められることを期待する
 
 
では、神の聖なる「御名」は誰を介して伝えられるべきかというならば、それは先に神の救済に与った神の子たちを媒介者として、神が愛してやまないすべての人に伝えられる、それが神の御計画です。
 
まだ若かった頃、若い有志の牧師たちと一緒に、勉強会を立ち上げました。神学校を卒業してしまいますと、雑務に追われて学ぶ機会がなくなるからでした。
勉強会の立ちあげにあたって、「何を学ぶか」ということになり、ある人の発案で「古典がよかろう」ということになりました。「では古典とは何か」「プロテスタントの古典は何と言ってもカルヴァンの基督教綱要だろう」ということで、スイスが生んだ宗教改革者ジャン・カルヴァンが著わした「基督教綱要」の四章目の「教会論」をテキストにして学ぶことになりました。
前にもお話しましたが、カルヴァンは「使徒信条」の構成に沿って、これを著わしました。ですから、神、キリスト、聖霊、そして教会となるのです。
 
その際のテーマは「何が我々を牧師たらしめるのか」というものだったと思います。牧師の大きな仕事は説教なのですが、一人の人が講師となって読み進めて行くうちに、びっくりするような記述に出会いました。
 
カルヴァンは問います、「神は神の尊いお言葉を伝えるのに、神の聖なる御使いではなく、なぜ過ちの多い不完全な人間をあえて用い給うのであろうか」 
 
そしてカルヴァンは問いつつ、また答えます。
それは、神の言葉を説教というかたちで聴く聴衆一人一人に、神が謙遜というものを学ばせるためなのである
 
 
効率という点からいえば、福音の宣教も神の御使いが担えば効率よく出来るのではないか、と私たちは思ってしまいます。しかし、神は敢えて人を神の言葉の伝達者とされました。神の言葉、神の威光を人に伝えるのに、同じ不完全な人間を媒介者として伝えること、それが神の御心なのだとカルヴァンは書いていました。
 
まさに、神の御名の栄光の輝きは、土の器のひび割れた部分を通してさえ、外へと漏れ出て、光り輝くからです。
大事なことは神の御名の輝きである主なる神を自らの内に持ち続けることです。
 
「しかし、わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント人への第二の手紙4章7節 281p)。
 
 但し、大事なことが一つあります。それはこの私こそが神の栄光を現わさなければならないと意気込み過ぎないことです。大事なのは自然体です。
 
ある牧師さんの体験です。彼はある地域で月に一回、数人の専業主婦を対象にした聖書研究会を行っておりました。聖書研究会は持ち回りで行われており、当番の家がお昼の軽食を用意することになっていたそうです。
ある家に時間通りに牧師が行ったとき、他のメンバーが何かの都合で遅れていて、その家の奥さんが軽食の準備をしており、傍に四歳くらいの女の子がおりました。
 
若いお母さんが言うには、「この子は先日、原因不明の病気になって病院で治療を受けた、でもそれがこの子にとってはつらい経験だったようで、それ以来、医者や看護婦の白衣を見ただけで怯え、近所に住んでいる祖父母が来ても私の後ろに避けてしまうし、父親にも抱かれようとしない」という話をしてくれたそうです。
 
そんな話を聞きながら、牧師はお母さんと自分の中間あたりに座っていた女の子に、おもちゃを見せたり、話しかけたりしているうちに、その子が少しずつ近づいてきて、胡坐をかいている牧師の膝の上にあがってきて、そのままウトウトし始めたというのです。振り返ったお母さんはびっくり仰天しました、何と父親にさえ抱かれることを拒んでいた娘が、月に一回しか会わない「おっちゃん」の膝の中で眠っているのを見たのですから。
 
その夜、帰宅した夫に昼間のことを話すと、夫は憮然として言ったそうです。「ぼくには信じられない」父親としては無理もないことだと思います。
 
なぜ、そんなことになったのかはよくわからないそうです。その牧師さんはどう見ても幼児に好かれるようなキャラクターではなかったようですから。
考えられるのは、その幼い女の子がその時点で、治療や心労により極度の疲労状態に達していて、矢も盾もたまらず、眠り込んでしまったのではないかということです。
 
しかし、どんな状況であったにせよ、また、偶然であったにせよ、この幼な子がひとりの牧師の膝の中で安心して眠ったという事実は、それが牧師であったからこそ、牧師という肩書が背負っている神の名の栄誉につながることとなったと思われるのです。
 
 
大事なことは頑張り過ぎないこと、意識し過ぎないことです。いくら頑張っても、地は出てしまうものです。ですから自然体で振る舞って、そこに神様の御名が崇められるという結果が出ればよいのです。
 
 「自分は土くれから作られた土の器に過ぎない」という自覚のもとに、どこにいても、何をしていても、尊い、そして聖なる特別な「御名」を周囲に媒介する者として選ばれてあるということをただただ、心から感謝をする日々でありたいと思います。それが「御名を崇めさせ給え」という祈りにつながります。
 


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-01-05 16:50:43 (1019 ヒット)
2014年礼拝説教

14年1月5日 二〇一四年第一回日曜礼拝説教

「祈りの精髄としての主の祈りゞ辰べきは創造主を『我らの父』と呼べる立場への招き」

マタイによる福音書6章7〜9節前半(新約聖書口語訳8p)

  
はじめに
 
 いわゆる西暦(西洋暦)、正式に言えばキリストの生誕年を起点とするキリスト暦の二〇一四年、そして現在の天皇即位を起点とする元号で言えば平成二十六年という年が明けました。
改めて新年おめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
 
 年が改まったからといって、とりわけ新しいこともなく、これまでにしてきたことを積み重ねる日々となることとは思いますが、その日々の歩みに信仰の筋を通すという意味で、年明けの一月、二月の日曜礼拝では「主の祈り」を取り上げたいと思います。
 
 私見ですが、近隣の二国との間に、最近とみに政治的、軍事的、経済的緊張が高まっている背景には、ナショナリズム、つまり民族主義の高まりが相互にあるからではないかと思うのです。
近隣二国の場合、従来から国策としての民族教育が盛んでしたが、反面、我が国の場合、教科書までもが一体、どこの国の教科書かと思えるくらい、国の特徴というものが見えていませんでした。
 
しかし、近隣二国からの不当とさえ見える圧力が却って歴史に疎い、あるいは無関心と言われていた我が国の若い世代や女性たちの心を刺激して、現代史への関心を呼び起こし、結果として国民意識の高揚、良い意味でのナショナリズムとも言える感情を呼び起こしてきたようです。
 
年末の十二月二十六日、現職の総理大臣としては七年ぶりの靖国神社参拝が行われました。予想通り、近隣二国と左傾化しているマスコミからは非難の嵐となりましたが、各種の世論調査では参拝を当然とする声が圧倒的に多くあがり、新年の靖国神社の参拝者は長蛇の列で、従来の数を大きく上回る参拝者が訪れたとのことでした。
 
ナショナリズム、あるいは愛国心にも健全なものとそうでないものとがあります。郷土愛の延長線上に愛国心があり、その郷土愛の源が家族愛であるとするならば、国民にとり、あるいは国民によって構成される国家には、健全なナショナリズム、つまり愛国心は不可欠となります。当然、家庭や学校では健全な国を愛する心を育成するためのカリキュラムの導入、あるいは雰囲気の醸成は否定されるべきものではないと思われます。
 
願わくは私たちの国が特定のイデオロギーの強調による、ナショナリズムの自虐的否定という極端、そして同時に排他的な風潮を生み出す不健全なナショナリズムの勃興という極端の二つから解放されて、「右にも曲がらず、左にも逸れず、ただまっすぐに進む」(聖歌657番「雄雄しくあれ」2節後半)模範的国家として世界に貢献することのできる進路をこれからも取ることができますよう、今年も天の神に祈りたいと思います。
 
ところで、私たちの国籍は天にあります。
 
「しかし、わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙3章20節前半 新約聖書口語訳312p)。
 
 もしもそうであるとするならば、自分の国籍がある地上の国の歴史や文化、伝統についてもしっかり学ぶと共に、もう一つの国籍がある天のみ国、神の国についても、もっともっと知るように努め、神の国の構成員に与えられている神の恩恵についての知識を得たいと思うのです。
 
そして、実は私たちが日曜ごとに祈る「主の祈り」にこそ、神の国に所属する者が受ける恵みと力とが溢れているのです。
 
年のはじめの二カ月、日曜礼拝において、ご一緒に「主の祈り」に溢れている神の国の恵みを汲み上げてまいりたいと思います。
 
 
1.主の祈りは祈りの真髄
 
主の祈り」とは、主イエスがその弟子たちに与えた祈り、という意味での祈祷文です。四つの福音書のうち、マルコとヨハネにはなく、マタイとルカが記録しています。
ただ、冒頭の神への呼びかけが、マタイが「天にいますわれらの父よ」と、「父」の前に「われらの」、そして「天にいます」という一種の説明が付くのに対し、ルカの方では「父よ」とシンプルです。
 
「だから、あなたがたはこう祈りなさい『天にいますわれらの父よ』」(マタイによる福音書6章9節前半 新約聖書口語訳8p)。
 
「祈るときには、こう言いなさい『父よ』」(ルカによる福音書11章2節前半 106p)。
 
この違いはどこから来るのか、という点については、保守的立場を取る超保守派は、違う場面での説教がそれぞれ収録されているからだとし、同じ保守派でも穏健な保守派は、福音書が伝承され、また書きあげられた状況が違うからだろう、と考えます。
 
実際、マタイの方はイエスの教説が三章にもわたってまとめられている山上の説教(昔は山上の垂訓と言いました)の真ん中あたりにあり、ルカの方はイエスが祈りのあと、弟子たちの求めに応じて与えたものとされているのですが、私の考えではルカの「父よ」の伝承の方がオリジナル、つまり原型であって、マタイの方の「天にいます我らの父よ」はそこから分かれた伝承がもとになったのではないかと思います。
 
なお、ルカの読者は異教徒からの改宗者が多かったことから、必然的に創造者なる神への祈りに慣れていないため、祈りが続かない、すぐに止めてしまう、そこで「しきりに願う」(ルカ11章8節)という粘り強さが祈りには必要であるということが強調された、一方、マタイの読者は専らユダヤ教徒出身者であって、彼らは幼いころから祈り慣れているため、「言葉かずが多ければ、聞き入れられる」(マタイ6章7節)という先入観があり、そこで「あなたがたの父なる神は、(くどくどと求めなくても)求めない先から、あなたがたの必要をご存じなのである」(8節)と釘を差したのでは、と考えることができます。
 
そういうわけで、私たちの教会では祈り慣れている人々を対象にして書かれたマタイの方を元にして、主の祈りを学ぶことにしたいと思います。
 
ところで、主の祈りの構成なのですが、主の祈りは主に二つから成っています。前半は三つの祈願の、
 
御名をあがめさせたまえ
御国をきたらせたまえ
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
 
は、偉大なる神、全能の父なる神の全地における栄光の現われに関するものです。
 
一方、後半の三つの祈願、
 
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ
われらに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」「我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ
 
は人の必要、とりわけ、私たちの現在の必要である日々の「糧」を求める祈り、過ぎ去った日々における忌まわしい「罪」の赦しを求める祈り、そして未来を脅かす誘惑としての「試み」をもたらす「悪」からの救出を求める祈り、すなわち現在、過去、未来に関する祈りとなっております。
 
つまり、主の祈りこそ、祈りの精髄であり、祈りのすべての要素が詰まっているものといえます。
 
願わくは、主の祈りの説教が終わる二カ月後には、初心者のワクワク感による新鮮な祈りと、ベテラン特有の円熟した祈りを身に付けた祈り人に変えられていることを目指して、今週は創造主なる神を「我が父よ」、「我らの父よ」と呼び掛けることのできる立場にある恵みを感謝したいと思います。
 
 
2.「父よ」そして「我らの父よ」
 
ルカが伝える伝承では、「主の祈り」は祈り終えたイエスに向かって弟子が懇願したことから与えられた祈りとなっております。
 
「また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』。そこで彼らに言われた、『祈るときには、こう言いなさい』」(ルカによる福音書11章1、2節前半 106p)。
 
 生まれた時から祈ることに慣れている生粋のユダヤ人が、「祈ることを教えてください」(1節)と懇願しているのは何とも違和感を覚えますが、実はこれは「ヨハネがその弟子たちに教えたように」(同)とあることから、イエスの弟子のしるしとしての祈祷を与えてください、という意味でした(2012年11月11日礼拝説教「天の神に向かって『父よ』と呼ぶことのできる幸い」参照)
 
当時の宗教集団には独自の祈祷というものがあったようです。そしてこの弟子たちの要請に応えてイエスが与えた「主の祈り」には、他の集団には見られない大きな特徴がありました。それは天地の主なる神に向かって「父よ」と呼び掛ける祈祷であったからでした。
 
「祈るときには、こう言いなさい、『父よ』」(ルカによる福音書11章2節)。
 
 これはユダヤ人であった弟子たちにとっても、思いもかけない呼び掛けでした。なぜならば、ユダヤ人にとって神は人間と隔絶した偉大なる存在であったからでした。
ところが彼らの師であるイエスはその祈りにおいて神に向かい、「父よ」と呼び掛けることが常でした。
彼ら弟子たちはそれを驚きつつも、また羨望の念を覚えつつも、それは師であるイエスのみにゆるされたものであって、我ら弟子ごときには到底許されるものではないと思い込んでいたのです。
 
 ところが何と、イエスはそれをゆるされたのでした。「祈るときには、こう言いなさい、『父よ』」(2節)と。
恐らく彼らは夢見る者のようになって恐る恐る「父よ」と神に呼び掛けたのではないかと思われます。
 
まことに勿体ないことなのですが、私たちはイエスを主と信じるがゆえに、キリストであるイエスの功績によって創造主なる神に向かい、「父よ」と呼び掛けることができるのです。
 
「父よ」は個人的な呼び掛けですが、イエスはご自身を信じる者を神の子とするだけでなく、神の家族の一員としてくださいました。ですから、神の家族の一員として神に向かい、声を合わせて「我らの父よ」と呼び掛けることもゆるされているのです。
そしてマタイの伝承は、信じる者たちが孤立した存在ではなく、一つの群れ、一つの共同体となっていることを示すものでもありました。
 
 実際、マタイによる福音書が成立したのはエルサレム神殿が破壊され、イスラエル共同体という国家が地上から消え失せた紀元一世紀の末のことでした。
 
 私たちのほとんどは平和な日本列島のどこかに居住しており、どこにいても法治国家である国の法律が行き渡るところにおいて、法律によって守られています。
 
それはたとい国外であったとしても、日本国民であるという身分と立場により、国家の庇護の中にいます。
しかし、世紀末のユダヤ人キリスト者はどこにいても流浪の民であって、しかもイエスをキリストと告白する信仰のゆえに、ユダヤ人が集まるシナゴーグ(会堂)にも行けず、まことに心細い状況下にあったと思われます。
 
 
そういう意味でキリストの名によって繋がる教会において、信仰を共にする者同士が生ける全能の神に向かって「我らの父よ」と呼びかけることができたということは、どんなに心強いことであったことかと思います。
 
マタイによる福音書はそういう状況下でまとめられた福音書でした。そしてそういう観点から読みますと、「主の祈り」の呼びかけが「我らの父よ」であることの意味がより理解できるのではないかと思います。
 
 実際、異教徒の中にあって神を「我が父よ」と呼び、共通の信仰の連帯の中で「我らの父よ」と祈るとき、神はわたしを知っており、私の状況をご存じであり、現在の必要をも正確に把握してくれているという実感を強くしたことと思います。
 
「だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ」(マタイによる福音書6章8、9節前半 8p)。
 
 「我が父よ」と祈り、また「我らの父よ」と祈ることのできる幸いを
改めて感謝したいと思います。
 
 
3.天にいます我らの父よ
 
日々に変化していくもの、それが地上の在り方です。昔は数え年と言いまして、年を新たにする毎に年が加えられたものでした。ですから、「門松は冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」という狂歌が生まれたりもしました。
 
親の脛を齧って安穏としている放蕩息子には、「いつまでもあると思うな親と金」という戒めが語られもしました。通常、親の方が子供よりも先にあの世へと旅立つからであり、逆の場合には逆縁と言って、つらいものの代名詞ともなりました。
 
地上の出来ごとは変化していきます。しかし、変わらないものがあります。それは神の言葉、神の約束です。イエスから主の祈りを賜った弟子の一人であるシモン・ペテロは後年、ペテロが書いたとされる書簡の中でイザヤの言葉(46章6〜8節)を引用して、信じる者たちを励ましました。
 
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生ける御言(みことば)によったのである。『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る』」(ペテロの第一の手紙1章22〜24節 367p)。
 
 もちろん、多くの人はこの地上において自らに与えられた責任を誠実に果たし、懸命に生きてこの地上の生を終えていくのですが、どんなに家族を愛していたとしても、いつまでも共にいるわけではありません。心を残しながらいつの日にか、彼の世へと旅立ってまいります。
 しかし、「天にいます」父は永遠に「我が父」であり、「われらの父」なのです。
 
「天にいますわれらの父よ」(6章9節前半)。
 
 「天」(9節前半)といいますと、何か、遠い空の彼方というイメージがあるかも知れません。しかし、「天」を空間あるいは場所として考えるのは間違いです。
「天」は神の住まいではありますが、場所ではありません。では天はどこにあるのかと言いますと、実は「天」は地上にある私たちのすぐ傍にあるのです。つまり、「天」とは状態であり、関係を意味します。つまり、神との間に良好な関係が結ばれていれば、「天にいます」神は私たちと共にいると言えるのです。
 
ですから、私たちが厳しい現実の戦いの中で、神に向かって「天にいますわれらの父よ」(9節)と祈るとき、有り難い事にその呼び掛けは確実に天地の主なる全能の「父」に届いているのです。
イエスを主とする者にとり、はるかなる「天」にいると思い込んでいた「天にいます」神はいつまでもあなたの「父」であり、どこにあってもあなたの変わらぬ保護者です。
今年、神に向かって「天にいますわれらの父よ」と呼ぶことができる立場とされていることを、改めて感謝したいと思います。


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