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投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-09-21 16:48:05 (1244 ヒット)
2014年礼拝説教

14年9月21日 日曜礼拝説教 

「慰めに満ちたる神 キリストを知る知識の香りを至るところに放つ」
 
コリント人への第二の手紙2章14〜17節(新約聖書口語訳280p)
 
 
はじめに
 
一昨日の金曜日、英国を構成する地域の一つであるスコットランドの、英国からの独立の是非を問う住民投票が行われました。
我が国では英国またはイギリスとして知られる同国の正式国名は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」であって、イングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの四つの地域で構成されています。
 
その四つのうちの一つであるスコットランドが、「連合王国」からの離脱の是非を問うたのですから、世界中から注目されました。
そして行われた投票は、独立賛成が44、7%、反対が55、3%という結果となり、スコットランドのいわゆる「英国」からの独立は否決されました。
 
独立の回避という結果は立場によって悲喜交々となったと思いますが、投票結果の発表を固唾を飲んで待ち、そして誰よりも安堵したのは、スコットランドまで出かけて行って、「わたしのことは嫌いでも」などと、AKBの前田敦子みたいな演説をしてまで独立を思いとどまらせようとしたキャメロン英国首相でしょう。結果がはっきりするまでは「気が気でなかった」筈だからです。
 
気が気でなかったといえば、「涙の手紙」を持ってコリントに赴いた弟子、テトスからの報告を待つパウロも「気が気でな」かったようです。もっとも、同じような「気が気でない」という気持ちでも、自らの状況把握の甘さから思わぬ国家分裂の危機を招いたキャメロンさんとは違って、パウロがとった判断と行動は常に的確なものでしたが。
 
「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニヤに出かけて行った」(コリント人への第二の手紙2章12、13節 新約聖書口語訳280p)。
 
その「マケドニヤ」(13節)州の、おそらくはピリピにおいて、テトスの帰還を今や遅しと待つパウロに、テトスが持ち帰ってきた報告が、神の慰めに満ちた朗報でした。
 
七章に跳びます。
 
「さて、マケドニヤに着いたとき、わたしの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めてくださった」(7章5、6節)。
 
 コリント人への第二の手紙は二章の十三節から七章の五節に一気に跳んで読むと、つながりが理解できます。
 
 二章の後半から六章にかけては、「テトスの到来によって」(6節)悲哀と不安から一転して、欣喜雀躍状態となったパウロによる神への讃歌、告白、そしてコリント集会への訓話、勧告が迸り出た文章として読んでください。。
 
そこで「慰めに満ちたる神」の二回目のテーマは「キリストのかぐわしい香り」についてです。
 
 
1.キリストの凱旋行列に加えられているという特権
 
テトスからの報告を聞いたパウロの心に溢れ、そして口をついで出たものが、「神様に感謝をします」という素朴な言葉でした。
 
「しかるに、神は感謝すべきかな」(2章14節前半)。
 
 感極まったそのパウロが最初に挙げた事柄が何かといいますと、「神はどんな時、どんな場合でも私たち神に付く者を、キリストの凱旋行列という勝利の列に加わらせてくださっている」という事実でした。
 
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、」(2章14節)。
 
 皆さまは「ベン・ハー」という映画を観たことがあるでしょうか。チャールトン・ヘストン主演のスペクタル映画で、特に有名なものが戦車競走の場面です。
 
「ベン・ハー」の原作者であるルー・ウォーレスについてはいつかお話をしたいと思いますが、原作の副題が「キリストの物語」とありますように、紀元二十年代から三十年代にかけての歴史的出来事がその背景となっております。
 物語の主人公はユダ・ベン・ハーというユダヤ人の青年ですが、もうひとりの主人公はイエス・キリストです。
 
物語では、ローマ総督暗殺未遂の廉で逮捕されて、ガリー船の漕ぎ手に身を落とした主人公ユダ・ベン・ハーが、海戦の際にローマの司令長官アリウスの生命を救ったことから、ユダを気に入ったアリウスにより、奴隷の身分から解放されるだけでなく、彼の法的養子という身分を与えられます。
 
そしてここからは原作と映画とでは少し違う展開となるのですが、映画ではローマに帰還したアリウスの勲功を称賛するため、(わたしの記憶では)マケドニヤとの海戦に勝利をしたという功績により、きらびやかな凱旋行列が行われ、そこにユダ・ベン・ハーが加えられることとなります。
 
 映画における凱旋行列の映像は、当時の様子を知るのに参考になるのではないかと思われますが、このローマにおける凱旋行列についてウィリアム・バークレーは、その註解書の中で、まるで見て来たかのように説明をしてくれています。
 
 バークレーによりますと、凱旋のコースはローマの街道をジュピター(ユピテル)神殿までで、行列の先頭にはローマの高級官僚と上院議員が進み、次にラッパを吹き鳴らすラッパ手が、そしてその後ろに征服地からの分捕り物が運ばれ、更に生贄の牡牛が続いたあとに、鎖で繋がれた捕虜たちが連行されていき、そして最後に馬に引かせた戦車に乗った凱旋将軍が威風堂々と進み、沿道に立つ群衆が彼に向かって歓呼の声を浴びせかける、という具合なのだそうです。
 
映画では確か、将軍の養子となったベン・ハーが、戦車に乗った将軍の傍らに立って行進をしていたように記憶しています。
 
 使徒パウロは民族的、宗教的には生粋のユダヤ人でしたが、ローマ市民権を持つローマ市民でもありましたので、このような凱旋行列を何度か、ローマで見る機会があったのではないかと思われます。
 
ユダ・ベン・ハーはひょんなことから将軍の養子となりましたが、私たちキリストを信じる者たちは何の取り柄もなかったにも関わらず、ただ「あわれみ」(1章3節)によって、「主イエス・キリストの父なる神」(同)の養子という身分、立場を与えられているのです。
 
そればかりか、私たちの日々はまさにこの凱旋行列でもあると、パウロは言うのです。
 
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、」(2章14節)。
 
 「いつも」(14節)です。人生は喜ばしい勝利の時だけではありません。心が悲哀に支配されて気持ちが沈んでいるような時でも、凱旋将軍であるキリストの行列は進んでいるのです。それはパウロの実感であった筈です。
 
そのことを覚える時、「感謝を神に」(14節 直訳)という神への讃美が思わず、パウロの口を衝いて出たのでしょう。
 
 
2.キリストの香りとして、キリストの芳香を至る所に放つ
 
バークレーによりますと、凱旋行列に欠かせないものが、凱旋将軍の前を行く祭司が振る香炉、そして香炉から放たれる芳しい香りであったようです。
 
つぎに、かんばしいかおりを放つ香炉を振りながら歩いている祭司たち。そして、いよいよ将軍自身の登場である。彼は馬に引かせた戦車の中に立っている。彼は黄金のしゅろの葉を刺しゅうしたむらさきの上着を着ている(バークレー著 柳生直行訳「聖書註解シリーズ9 コリント」233p ヨルダン社)。
 
 ここでは祭司が振る香炉から放たれる香りから、「キリストを信じる者たちは、キリストを知る知識の香りを至る所に放たれるキリストの香りである」と、パウロは言います。
 
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放ってくださるのである」(2章14節)。
 
 私ごとですが、いつだったか、おそらくは十年前くらいであったか、妻から、「最近、体臭がする時があるよ」と言われました。「自分は(関西では相手のことを自分と言います)男の人としては若い時から体臭がまったくといっていいほど無い、と思っていたけれど。最近、お風呂で体、ちゃんと洗ってる?」「洗っているよ」と言いつつ、それからは手抜きをしないで体を洗うように努めているのですが、日本人はもともと、体臭は強い方ではありません。
 
しかし、近年、匂いに敏感な時代になってきたようです。
そして重宝がられているのが洗濯をした後でも香りが衣服に残る洗剤だそうです。でもこれがまた、匂いに敏感な人にとっては苦痛となるという問題が起こったりして、ほんとうに難しい時代になりました。
 
 ところで凱旋の行進において、祭司が振る香炉から香る香りは、凱旋する者たちにとっては命と栄光をもたらす香りであるが、捕虜にとっては滅びの印しであるとパウロは言い切りました。
 
「わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである」(2章15、16節前半)。
 
 ここで「わたしたち」(15節)がパウロたち一行を、そして「救われる者」(15節)はコリントの従順な者たちを、また「滅びる者」(同)が頑迷な敵対者らを指すのであるかは何とも言えません。
 
ただ言えることは、キリストに正しく繋がっている者は誰もが「キリストのかおり」(同)であって、それはある者にとっては「滅び」(同)という「死から死に至らせるかおり」(15節)となり、また、ある者にとっては「救」(同)いという「いのちからいのちに至らせるかおり」(同)となるという働きをしているということです。
 
 
3.キリストの香りの存続のため、キリストを知ることに努める
 
しかし、香りは時間の経過と共に、徐々に薄らいでしまうものです。もしも香りが消えてしまったら、「かおりを至る所に放」(14節)つことができなくなります。
 
どうしたらよいのか。答えはただ一つ、香りの元と交わり、接触をし続けることです。ですからパウロは香りについて「キリストを知る知識のかおり」(14節)と言ったのでしょう。
 
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至るところに放ってくださるのである」(2章14節)。
 
香りの元、それはイエス・キリストご自身です。このキリストと個人的に交わることによって、キリストの香りを受け継ぐのです。
 
その際に大切なことは、キリストを、そしてキリストの言葉を正しく理解することです。コリントの集会の致命的な問題は、パウロが伝えたいのちの福音を変質させてしまったことでした。
 
ですからパウロは言います、私は神の言葉を混ぜ物として売るようなことはしないと、
 
「しかし、わたしたちは、多くの人のように、神の言葉を売り物にせず、真心をこめて、神につかわされた者として神のみまえで、キリストにあって語るのである」(2章17節)。
 
 口語訳の「多くの人のように、神の言葉を売り物にせず」(17節)を新改訳は、「多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず」と訳していますが、適訳です。
当時、不正な小売商はしばしば、利益を捻出するために、売り物に混ぜ物をして売っていたようなのです。
 
私たちがキリストの香りを保つ方法は、混ぜ物のない真正な御言葉を聞いて、「キリストを知る」(14節)ことにあります。そうすれば、「キリストを知る知識のかおりを、至る所に放」(同)ち続けることが可能となるのです。
そしてそのためには、御言葉を解き明かす者に、神の御霊の助けと導きが常にあるようにと、日々に祈っていただきたいと思います。
 
願わくは私たちの教会では、そして日本の各教会においてはバッタモノではない福音が正しく説かれ、信じられることによって、「わたしたちを通しててキリストを知る知識のかおり」(同)を「神」(同)が「至る所に放って下さ」(同)いますようにと祈るものです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-09-14 16:13:35 (949 ヒット)
2014年礼拝説教

14年9月14日 日曜礼拝説教

「慰めに満ちたる神 キリストの父なる神は、憐れみ深き父にして慰めに満ちたる神」
 
コリント人への第二の手紙1章2〜7節(新約聖書口語訳278p)
 
 
はじめに
 
例年に比べ、今年二〇一四年の夏は雨が多く、各地に大雨による被害をもたらした夏として記憶されることと思います。そんな夏もいつの間にか終わって、九月に入りましたが、この秋はパウロによる「コリント人への第二の手紙」を通して、パウロの信仰と情熱に触発されたいと思います。
 
回心後のパウロは計三回の長期伝道旅行を行っておりますが、その第二次伝道旅行の折り、西暦五十年の夏から一年半にわたって、当時のアカヤ州、つまりギリシャのコリントにおいて精力的な伝道活動を行い、コリント集会を形成致しました。
 
「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。…パウロは一年六カ月の間ここに腰をすえて、神の言葉を彼らの間に教えつづけた」(使徒行伝18章1、11節 新約聖書口語訳212p)。
 
 しかし、パウロを敵視するコリント在住のユダヤ人が騒乱を起こしたこともあって、パウロは三年半に及んだ第二次伝道旅行をそこで終了し、出発地のシリヤのアンテオケに戻ります(同18章18節)。
それは五十二年の春のことでした。
 
しかしその翌年つまり五十三年の春、パウロは第三次伝道旅行を決行します。伝道の虫が騒いだのでしょう。
 
「そこにしばらくいてから、彼はまた出かけ、ガラテヤおよびフルギアの地方を歴訪して、すべての弟子たちを力づけた」(同18章23節)。
 
 「しばらくい」(23節)た「そこ」(同)とは、シリヤのアンテオケのことです。また「ガラテヤおよびフルギアの地方」(同)とは現在のトルコ中部です。しかし、パウロの活動はそこで終わりません。彼は奥地を通って西に向かい、アジア州のエペソに行きます。
 
「アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた」(19章1節)。
 
 そのエペソでは二年という長期にわたって、パウロは聖書、つまり旧約聖書を解き明すことによって、十字架に架けられたナザレ人イエスこそ、神が送られた救世主であることを説き続けます。
五十三年の夏から五十五年の夏にかけてでしょうか。
 
「それが二年間も続いたので、アジアに住んでいる者は、ユダヤ人も皆、主の言葉を聞いた」(19章10節)。
 
そして、このエペソ滞在中に、コリントの教会に起きている様々のトラブルのニュースが、彼の許に届きます。そこでパウロは、それらのトラブルに対処すべく、計四通の書間をコリント集会に宛てて書き送ることになるのです。
最初の手紙が「前の手紙」として知られています。
 
「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、…」(コリント人への第一の手紙5章9節 261p)。
 
 私たちが「第一の手紙」として知っている手紙よりも「前」(9節)に書かれた「手紙」(同)があったということになります。ということは、少しややこしいのですが、新約聖書の「コリント人への第一の手紙」は「第二の手紙」であったということになります。
 
 当時のコリント集会には実に多くの問題がありました。まず、教理的な問題があり、それに加えて倫理的な問題が生じていました。そしてその上に、というよりもそれらから派生した問題としての分裂、分派、権力闘争まで起こっておりました。
 
「はっきり言うと、あなたがたはそれぞれ、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケパに』『わたしはキリストに』と言い合っていることである」(1章12節)。
 
 これらの中で一番性質(たち)が悪いのはどれかと言いますと、「わたしはキリストに」(12節)というグループです。「キリストに(つく)」と言っているのだから、いいことじゃないか、と思ってしまいがちですが、彼らはキリストの死が罪の身代わりであるという贖罪論を否定すると共に、人は特別な霊知を持ったキリストと直接的に関係することによって救済をされると考えたグループでした。
 
これらのグループの最大の敵は、正統的な信仰を広めようとするパウロでした。ですから彼らは、コリントの集会を支配すべく、集会におけるパウロの影響力を排除しようとして、パウロの使徒職の正統性に対する疑義を吹聴し、公然とパウロに敵対してきたのです。
 
 そこで、パウロは第三の手紙を書き送って、首謀者たちの悔悛を迫りました。それが「涙の手紙」として知られるものであったのです。
 
「わたしは大きな患難と心の憂いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書き送った」(コリント人への第二の手紙2章4節前半 279p)。
 
その、厳しい叱責の言葉を含んだ手紙をコリントに持参したのが、弟子のテトスでした。
ところが、テトスからの連絡はパウロの許には一向に届きませんでした。今なら差し詰め、携帯電話かスカイプで連絡を取り合うことができるのですが、テトスからの連絡が待てど暮らせど、ありません。
待ちきれなくなったパウロはついに、海を渡ってマケドニアに出かけます。
 
「さて、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、わたしのために主の門が開かれたにもかかわらず、兄弟テトスに会えなかったので、わたしは気が気でなく、人々に別れて、マケドニアに出かけて行った」(3章13節)。
 
 そしてそこでコリントから朗報を持って帰ってきたテトスと会い、その無事を確認すると共に、コリント集会が悔い改めに導かれ、かつ集会が再生をしたという報告をテトスから受けることとなります。
 
「しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めてくださった。ただ彼の到来によるばかりではなく、彼があなたがたから受けた慰めをもって、慰めてくださった」(7章6、7節前半)。
 
 こうして、テトスからの喜びの報告を受けて書き送った「第四の手紙」が、現在の「コリント人への第二の手紙」である、ということになるわけです。
 
 では「多くの涙をもって…書き送った手紙」(2章4節)、つまり第三の手紙はどこに行ってしまったのか、ということですが、一般的には失われてしまったとされている「第三の手紙」は、実は「第二の手紙」の後半部分の十章から十三章として残されているのではないかとする学説があります。
 
それは「第四の手紙」である「第二の手紙」の九章までが穏やかな内容と筆致であるのに対し、十章からの四章は、厳しい叱責と訓解の言葉に満ちているからです。たとえば、以下のような文章です。
 
「わたしは、前に罪を犯した者たちやその他のすべての人々に、二度目に滞在していたとき警告しておいたが、離れている今またあらかじめ言っておく。今度行った時には、決して容赦しない」(13章2節)。
 
 つまり、私たちが手にしている「コリント人への第二の手紙」は、一章から九章までが問題が解決したことを喜んで書かれた「第四の手紙」であって、十章から十三章までは悔い改める以前のコリント集会に宛てて、パウロが涙を流しつつ書いた「第三の手紙」である可能性が高い、ということなのです。
 
その上で本論に入りたいと思います。
 
 
1.キリストの父なる神は、慰めに満ちたる神である
 
パウロは「コリント人への第二の手紙」、実質的には「第四の手紙」の冒頭、通常の挨拶に続いて己が信じるところの神を讃えるのですが、その際、三つの表現で神に言及します。
 
一つは、神が「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」であること、二つ目は、その神は信者にとっても「あわれみ深き父」であること、そして三つ目が、その「父なる神」は「慰めに満ちたる神」であることでした。
 
「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」(コリント人への第二の手紙1章3節 新約聖書口語訳278p)。
 
 ここでコリントの集会に対し、パウロがとりわけ強調したかったことは、パウロが信じる神が、「慰めに満ちたる神」であるという一事であったと思われます。
 
と言いますのは、一章の三節から七節までに、「慰め」という名詞、あるいは「慰める」という動詞が計九回も使われているからです。この「慰め」という言葉については、新約学者のウイリアム・バークレーの註解をご紹介したいと思います。
 
新約聖書においては、慰めということばは、相手の苦痛 をやわらげるような同情というふつうの意味よりもはるかに深い意味をもっている。そこではこのことばの原意はつねに生かされている。
つまり、この語の語源はラテン語のフォルティスであって、フォルティスは勇気のあるという意味なのである。キリスト教的慰めは勇気をもたらす慰め、人をして人生のあらゆる苦難に立ちむかうことを可能ならしめる慰めである(ウィリアム・バークレー著 柳生直行訳「聖書註解シリーズ9コリント」216p ヨルダン社)。
 
打ちひしがれた者に「勇気をもたらす慰め」(バークレー)の源が、「イエス・キリストの父なる神」(3節)であって、その「父なる神」は「あわれみ深き父」(同)であると共に、「慰めに満ちたる神」(同)なのです。
 
パウロは「ほむべきかな」(同)と、この神を称えましたが、彼にとってそれは常套語ではなく、実感の伴った、心から溢れ出る讃美であったのでしょう。
 
 
2.慰めに満ちたる神により、患難の中で慰められる
 
では、パウロはどのような状況下で神の慰めを経験したのでしょうか。それは激しい患難の中にいる時であったと思われます。
 
「神はいかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、」(1章4節前半)
 
 この「患難」という語は、「上から強く圧(お)す」という言葉が語源であって、肉体的、物理的、心理的、精神的に、上からあるいは外から強く圧迫された状態を意味しました。
 
それが具体的に何であるかということについては、パウロは「アジヤで会った患難」とだけしか言っていません。
「アジヤ」とはアジヤ州のことで、現在のトルコの西部です。そこで彼は筆舌に尽くし難い、つらい「患難」を経験したようです。
 
「兄弟たちよ、わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。私たちは極度に、耐えられないほどに圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った」(1章9節)。
 
 「患難」(8節)がどちらかと言えば外部からの「圧迫」(同)であるのに対し、内部に生じる心配事が「憂い」です。
 
そしてパウロは外からの激しい「患難」と、コリント集会についての「憂い」の中で「第三の手紙」である「涙の手紙」を書いたのでした。
 
「わたしは大きな患難と心の憂(うれ)いの中から、多くの涙をもってあなたがたに書き送った」(2章4節前半)。
 
 パウロが心に抱いた「憂い」(4節)とは、具体的にはコリント集会において、パウロを敵視する一部の指導者たちの存在と活動であり、彼らに影響されて、パウロの教えから逸れつつある一般会衆のたましいのことだと思われます。
 
この指導者たちがどのような者であったのかということについては、諸説があるのですが、彼らがユダヤ人でかつ、ギリシャ的異端思想であるグノーシス主義にかぶれた者たちではないかと思われます。
 
彼らがコリントの集会からパウロの影響を除去するために取った手段は、パウロのキリストの使徒としての正統性と正当性を疑わせることにありました。
 
「涙の手紙」が「コリント人への第二の手紙」の十章から十三章であるならば、それがよく符合します。なぜなら、十章から十三章まではまさに、パウロによる使徒職の正当性の弁明であるからです。
 
 たとえば、福音を伝える教師の生活を支えるサポートについてです。
当時のギリシャ世界では、教師は教えることによって収入を得ることは当然とされていました。そしてパウロが皮肉で「大使徒」(11章5節)と呼んだ彼の敵対者たちも相当額の教師給をコリント集会から受けていたようです。
 
ところがパウロはある時期まで、一つの地域に止まっている間は、他の地域、他教会からのサポートでその生活費と伝道費用を賄うことを常としていて、当の地域の人たちに負担をかけないことを信条としていたようです。
それを敵対者は、パウロが使徒でないからだと非難したのです。
 
「それとも、あなたがたを高めるために自分を低くして、神の福音を価(あたい)なしにあなたがたに宣べ伝えたことが、罪になるのだろうか。わたしは他の教会をかすめたと言われながら得た金で、あなたがたに奉仕をし、あなたがたの所にいて貧乏をした時にも、だれにも負担をかけたことはなかった。わたしの欠乏は、マケドニヤからきた兄弟たちが、補ってくれた」(11章7〜9節前半)。
 
 この方式は現在でも海外宣教師が取っている方式であって、例えば、私たちの教会が属する教団の海外宣教師の場合、その生活費と伝道活動費は日本国内の募金で賄い、宣教地では報酬を受けません。
 しかし、その宣教師が海外宣教の働きを終えて国内で教会担任の教師として任命されれば、当該の教会から生活費を受けることとなります。
 
しかし、敵対者たちはパウロの行動を悪意によってねじ曲げて解釈をし、その上でパウロを偽使徒としてコリント集会から排撃しようとしたのでした。
 
最近、ある意図をもって、事実をねじ曲げて解釈し、報道をしたという事例が明らかとなり、ついに当該の報道機関の社長が謝罪と弁明の記者会見を行う仕儀となりました。先週の木曜日、九月十一日のことです。
 
その報道機関である朝日新聞社が謝罪をした事例の一つは福島第一原子力発電所の所長であった吉田昌郎(まさお)元所長の調書、いわゆる「吉田調書」をめぐるものであって、これを独自に入手した同社は、今年の五月二〇日の朝刊で大々的に報じました。報じたこと自体はよいのですが、問題はどのように報道したか、ということです。
その報道記事の見出しは、「所長命令に違反 原発撤退 福島第一所員の9割」というものでした。
 
そして先週木曜の社長による謝罪会見において、「『東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる、およそ650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した』と報じた同日の記事を間違いであったとし、取り消して謝罪をする」として、頭を下げたわけでした。
 
このスクープ記事がもしも事実であるならば取り消す必要は全くない筈なのですが、一方、同日午後に政府が公開した「調書」からは、「東電の多くの社員が所長の命令に違反して、撤退をした」とは、どのように読んでも読めるようなものではありません。
 
なお、「調書」はネットで「内閣官房ホームページ」で閲覧することができます。四〇四ページという厖大な分量ですが。
 
その「吉田調書」には吉田元所長の発言としてこうあります。
 
私は福島第1の近辺で線量の低いところに1回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2F(福島第2原発)にいってしまったというんで、しようがないと。(中略)よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しい(調書)。
 
 これを朝日はこう報道しました。
 
3月15日朝、第1原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田(昌郎元所長)氏の待機命令に違反し(中略)福島第2原発に撤退していた(2015年5月20日朝日新聞)。
 
 謝罪会見で朝日新聞側は「記者の思い込みやチェック不足があった」が「意図的なねじ曲げはない」と釈明しました。しかし、その「記者の思い込み」こそが、この誤報というよりも虚報の本質であった、つまり、「記者の思い込み」に合わせて、吉田元所長の証言に対して「意図的なねじ曲げ」を施したというのが真相であると思われるのです。
 
この朝日新聞による歪められた報道は米国、英国の報道機関において、「命令違反」「職場放棄」「恥ずべき物語」として報道され、韓国では「日本版セウォル号」として報じられたりもし、災害当時、世界中で「福島の勇敢な五十人」と高く評価された技術者、作業者たち原発関係者の名誉が穢されたのみか、日本の評価も地に落ちたのですが、問題は誤報道の背後の動機です。
 
「吉田証言」の取り扱いを任せられた記者たちは、当然、朝日新聞社が選りすぐった記者たちでしょう。資料の解析、文章の読み取りに関してはプロ中のプロの筈です。
そのような専門家が、中学生が読んでも読み誤まる筈のない文章を読み誤る筈がありませんから、当然、ある種の方針、物語あるいは願望に基づいて、敢えて「意図的」に「ねじ曲げ」を行ったとしか考えられません。
 
では、その意図あるいは目的とは何かと言いますと、これはあくまでも私見なのですが、国内外において日本の評価を貶しめること、これに尽きるのではないかと改めて思わせられました。
 
そしてその「反日」活動の意図を探っていくと、日本という国に対する直接否定に行き着くわけであって、その動機は二つ、一つは日本という国を悪として全否定することによって、そう否定する自らは善であり、義であるとすることを証明すること、そしてもう一つは自らが信ずるところの思想を日本中に行きわたらせるところにあったと思われます。
そのためには白を黒と言い変えることも厭わなかったのでしょう。
 
このことにつきましては八月十日の礼拝説教、「『信教の自由を守る日』に寄せて 何を何から、あるいは誰から守るのか―共同体への正しい関わり方」で触れたとおりです。
 
話をコリントの手紙に戻します。パウロの敵対者たちがパウロを非難する目的もまた、パウロの評判を地に落とすことによって、会衆の心をパウロから離反させ、同時にそれによって集会を彼らの自由にしようとしたと解釈するのが妥当な見方ではないかと思われます。
 
しかし、テトスが持参した「涙の手紙」はコリント集会を覚醒させました。彼らは悔い改めたのです。
パウロに対する誤解は氷解し、コリント集会は再生したのでした。それがパウロに対する神の「慰め」でした。
 
「そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔(く)いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めに至ったからである。…こういうわけで、わたしたちは慰められたのである。これらの慰めの上にテトスの喜びが加わって、わたしたちはなおいっそう喜んだ。彼があなたがた一同によって安心させられたからである」(7章8、9節前半 13節)。
 
 テトスの報告を受けて書かれた手紙がこの「第四の手紙」、つまり「コリント人への第二の手紙(1章から9章)」であると考えられます。なおこの手紙はパウロがテトスと会ったマケドニア州の恐らくはピリピで書かれたことと思います。
 
 
3.神に慰められた者が、患難の中にある者を慰める
 
 最後に、大きな患難の中で、あるいは心の憂いの中で神の慰めを受けた者は、神から受けた慰めを以て、今、苦難の中にある者を慰める者となることができる、とパウロが書いていることに思いを向けたいと思います。
 
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にいる人々を慰めることができるようにして下さるのである」(1章4節)。
 
 パウロは決して超人ではありませんでした。激しい痛みをもたらす持病に罹っており、傷つき易い心を持っていました。
このような弱点を持った人が神に用いられた秘訣は何かと言いますと、パウロ自身が、キリストによる苦しみが加われば加わるほど、キリストによる慰めもいや増しに満ち溢れることを知っていたからでした。
 
「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである」(1章5節)。
 
 パウロの信仰の先輩である詩篇の作者は、苦しみの効用について告白しています。
 
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」(詩篇119篇71節 旧約聖書口語訳857p)。
 
 普通、「苦しみにあったこと」が「わたしに良い事で」あるなどとは言えません。しかし、詩篇の作者はそのように告白をしたのでした。
では、それはなぜか。それは彼が神の「おきて」(71節)を「学ぶこと」つまり体得することができたからでした。
「おきて」とは何か。この「おきて」は単なる戒律のことではありません。神のお心、神の意思、神の心情がかたちとなり、文字となったもの、それが「おきて」なのです。
ですから「おきてを学ぶことができ」(同)たということは、神の思いや心情を正しく知ることができたという意味です。苦難を経て、神の思いや心情を知った者は、苦悩、苦痛の中にある人を、神からいただく豊かな慰めをもって慰める神の器となることができるのです。
 
人が生きていく上で降りかかってくる「患難」や、湧き上がってくる心の「憂い」は、その時は決して喜ばしいものではありません。
しかし、苦しみを通して神のお心を感じ、人生と信仰の主であり師であるイエスの思いというものを、人は知るに至り、その結果、痛みの中にある人を、最も適切な時に、最も適切な方法で「慰めることができるように」(4節)なるわけです。
 
まさに「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれむ深き父、慰めに満ちたる神」(3節)は、「ほむべき」(同)お方です。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-09-07 16:04:36 (1045 ヒット)
2014年礼拝説教

14年9月7日 九月日曜特別礼拝説教 

「日本人とキリスト教 日本人の精神と
 キリスト教の精神―大和魂と自己放棄」
 
マタイによる福音書18章21、22節(新約聖書口語訳29p)
 
 
はじめに
 
土木工学に興味を持ち、土木系の仕事に進む女性が増えているそうです。
 
最近では、そのような女性を主人公にしたコミックも人気で、こういう女性たちを「土木女子」、これを縮めて「ドボジョ」というのだそうですが、「ドボジョ」は響きが悪いから、呼ぶなら「なでしこ」がいい、という声もあるようです。
 
「なでしこ」は女子サッカー日本代表の愛称でもお馴染みですが、その「なでしこジャパン」は二〇〇四年のアテネ・オリンピック出場を前に日本サッカー協会が一般公募の中から選んだもので、「清楚で凛とした美しさを持つ日本女性を讃える言葉『大和撫子』からの『なでしこ』に、世界に羽ばたくようにと『ジャパン』を組み合わせたもの」だそうです。
 
秋の七草のひとつでもある「撫子(なでしこ)」という花は、日本人にとり、とりわけ、心を魅かれる花なのでしょう。
 
「なでしこ」は清少納言も「枕草子」の第六十四段で、「草の花は、撫子(なでしこ)、唐(から)のはさらなり、大和(やまと)のもいとめでたし」(花は何と言っても撫子である。特に唐(中国)の撫子は良いし、「大和のも」つまり日本の撫子もまたすばらしい)と書いています。
 
いくつかの撫子のうち、「カワラナデシコ」という種類が特に「大和撫子(ヤマトナデシコ)」と呼ばれるようになったようですが、これはまた、可憐で清楚、繊細であるが、芯の強さを併せ持った日本女性を撫子の花に見立てて呼ぶものとして知られています。
 
そして今日、第四回目の日曜特別礼拝における「日本人とキリスト教」では、「大和」という言葉から、とりわけ日本人の精神性を示す「大和魂」、あるいは「大和心」とは何かを解明し、他者のための「自己放棄」という崇高なるキリスト教の教えと、キリスト教の精神そのものである「赦し」、について考え合わせることにより、日本人であることの幸せと、イエス・キリストという人格に繋がって生きることの幸について、改めて感謝をする機会としたいと思っております。
 
 
1.「大和魂」あるいは「大和心」に日本人の精神が具現した
 
大相撲の七月場所が終わった直後の七月三〇日、モンゴル人の活躍が目立つ大相撲に日本人大関が誕生しました。境川部屋の豪栄道豪太郎です。
 
豪栄道はわが寝屋川市の出身で、寝屋川市立明和小学校、第四中学校を経て、相撲の名門である埼玉県の埼玉栄高校に進学し、卒業を待たずに二〇〇五年一月場所で初土俵を踏みました。
 
そして精進に精進を重ねた結果、ついに大関への昇進を果たすことになりましたが、その大関伝達式での豪栄道の口上が、「これからも大和魂を貫いてまいりますでした。
 
「これからも」ということは「これまで同様」という意味です。付け焼刃で意味もわからずに丸暗記をした四字熟語の口上とは重みが違います。
 
この「大和魂」について辞典はどう説明しているかといいますと、デジタル大辞泉では「日本民族固有の精神、勇敢で潔(いさぎよ)いことが特徴とされる」とありますように、それはそもそも「日本民族固有の精神」であり、具体的には「勇敢で潔いことが特徴とされる」精神であるということでした。
 
でも、「大和魂」と言っただけで、軍国主義、戦争という単語を連想する、想像力の豊かな人がいるようです。その的外れのターゲットになったのが「日本男児」です。
今年の二月、日本中を沸かせた人がソチオリンピックで金メダルに輝いた羽生弓弦選手でした。表彰式のあと、羽生選手の優勝を祝う電話が安倍首相からかかってきました。
「本当に羽生選手のあの素晴らしい演技、そして氷に向かって一礼するあの佇まいが流石、日本男児だと思いました。どうかこれからも頑張ってください」
 
ところが何と、これにいちゃもんをつけた新聞社が出てきました。北海道新聞です。
同紙は「卓上四季」というコラムで、「日本男児」は戦時中、いざ征(ゆ)け つわものニッポンーダンジーなどと歌われ、代表的な“戦中用語”だった。かつての用例を知ってか知らずか…いや承知の上だろう。そんな言葉がさらりと口をつくような人物に、教育の『再生』を叫ばれてはたまらない」と批判したのです。
 
しかし、その三年前、イタリアのセリエAのインテルでサイドバックとして活躍している長友佑都選手が書いた自伝のタイトルが「日本男児」であって、それは二年後、同じ書名で子供向けにも発刊されていることを「知ってかしらずか…いや承知の上」で(このような情報をジャーナリストが知らなかったとするならば、ジャーナリスト失格でしょう)、それには何も言わずに安倍首相の発言を問題にするのは不公正であって、あまりにも物の見方が偏向しているとしか思えません。
 
同紙のコラムの執筆者が、自伝のタイトルを敢えて「日本男児」とした長友佑都を、そして同書を出版しポプラ社を批判したという事実がないということは、このたびのコラムがある種のイデオロギーを動機としたイチャモン以外の何物でもないことを証明していると思われます。
 
ところで「大和魂」ですが、「大和魂」が「日本民族固有の精神」であるということは、千年前の平安時代に書かれた、紫式部の源氏物語でも確かめることができます。
そこには、光源氏が葵の上との間にできた十二歳の息子夕霧の元服の際、夕霧の祖母にあたる、葵の上の母親に向かって夕霧の将来を綿々と語る場面があり、そこに「大和魂」が出てまいります。
 
なほ、才(さえ)をもととしてこそ、大和魂の世にもちゐらるる方(かた)も強うはべらめ…(紫式部「源氏物語 第二十一帖 少女(おとめ)」)
 
この場合の「才」は学問、つまり、中国から渡来した知識や知的体系としての漢才のことで、夕霧の父親である光源氏は、「そもそも大和魂という精神は、学問、知識、教養の基礎があってこそ、十分に発揮することができると思います」と、外からの知識と日本的心情の両立を強調しているわけです。
 
これが江戸中期以降になりますと、「大和魂」は「大和心(やまとごころ)」として、国学者である本居宣長(もとおりのりなが)などによって、人を陥れる謀略や欺瞞が背後にある中国思想としての「漢意(からごころ)」とは違った、日本固有の「嘘、偽りのない、ありのままの潔(いさぎよ)い心」として称揚されることになります。
 
そしてその「大和心(魂)」を形に表したものが「桜」の花でした。「武士道」において著者の新渡戸稲造は、本居宣長が自画像に書いたとされる有名な三十一文字を引用して、「大和魂」を説明しています。
 
本居宣長は、
 
しきしまのやまと心を人とはば
朝日ににほう山さくらばな(肖像自讃)
 
とよんで、日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表わした。たしかに、サクラは私たち日本人が古来からもっとも愛した花である。そしてわが国民性の象徴であった(新渡戸稲造著 奈良本辰也訳「武士道」164、5p 株式会社三笠書房)。
 
なお、「しきしま」は敷島で日本国を、そしてそこに住む日本人を意味します。
 
ところで「大和魂」の大元は神道用語であるという説をネットで見つけました。古学(国学)や古神道の研究家である紀瀬美香さんという方の、「きのせみかの大和撫子な生活」というブログから、勝手に引用させてもらいます。
 
大和魂(やまとだましい)という言葉で多くの人が連想するのは「神風特攻隊」のように、「命を捨てる覚悟」という精神ではないでしょうか?しかしその大元は、神道用語の「おおにぎみたま」で、「大いなる和魂(にぎみたま)」という意味です。
「和魂」とは和らいだようすを表しており、調和して穏やかなことを意味しており、この和魂のはたらきが大きい人は温厚で篤実(とくじつ)な人とされています」(紀瀬美香ブログ「きのせみかの大和撫子な生活」2011.08/17[Wed]「大和魂」とは「大いなる和魂(にぎみたま)のこと」)。
 
 本来の大和魂が「調和して穏やかなこと」であるという説明から、私たちが思い到るのが、聖徳太子が作ったとされている十七条憲法の第一条です。
 
一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ(日本書紀 書き下し文)
 
この「和を以て貴しとなす」は一般には、「とにかく対立は避けて、妥協できることは妥協する、とにかく何事も穏便に」というように理解されていますが、求められているのは対立を克服した「調和」です。
 
そして、この精神に憧れて日本に帰化して日本人になったのが、いま、評論家、著述家、大学教授として活動している呉 善花(オ ソンファ)さんです。
 
新聞のインタヴュー記事です。
 
私が(韓国で)子供の頃に思っていた日本は、ほとんど今の日本そのままだと思います。
やさしく親切な人が多く、世界で最も貧富の格差が少ない豊かな社会があって、世界で最も治安の良い平和な国です。日本の文化、精神性を今も探り続けています。
世界が理想としてつくり上げることができなかった社会、それを日本はつくり上げることができた。それはなぜか。
日本人に特有な「和をもって尊しとする」調和の精神があるからこそです。
日本人はことさら対立を嫌い、ことさらに融和を好む、他に例を見ない平和な国民だと思います。
世界の一部で誤解されていますが、今はそこに気づいている人たちが増え続けています(産経新聞 平成26年8月8日 オピニオン 話の肖像画 評論家 呉 善花ァ 峇攅颪茵日本よ…融和への思い」)。
 
 「韓国よ、日本よ…融和への思い」という記事のタイトルに、この方の、生まれた国と帰化した国への熱い思いが溢れています。
 
日本が平和なのは「平和憲法」があるからではありません。呉 善花教授がいみじくも指摘しているとおり、「和(やわらぎ)を以て貴しと為」すという精神が残っているからです。
しかし、それは一般にはしばしば、「足して二で割る」式の妥協のためと誤解されがちで、それが混乱を引き起こすこととなっています。
 それはまた、時には「長いものには巻かれろ」「強いものには負けろ」という処世術となって、権力に盲従する傾向に陥ることは事実です。
 
その端的な例が戦後の日本人の、GHQへの態度、とりわけダグラス・マッカーサーに対する各界からのお追従(ついしょう)でしょう。
確かに占領軍の言論統制を伴う日本自虐化政策が功を奏したこともあってか、マッカーサーはあたかも解放軍の英雄の如くに持て囃されました。そのお先棒を担いだのが朝日新聞社です。
そして日本人の多くは素人同然の米国人が即席で作った新憲法を、有り難く押し戴きもしたものでした。
 
それでも、大和魂を受け継ぎ、「和(やわらぎ)」を大事にしてきた日本人には豊かな可能性があります。
二十一世紀の今を生きる日本人に求められていることは何かと問うならば、それは、日本人は旧来のように横からの声を聞くだけでなく、天を仰いで、上からの声、すなわち神の言葉を聞くことに精力を傾けることである、それが答えです。
 
神の言葉は命じます、「神がもたらす平和を求めて、これを追え」と。
 
「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず、
悪をさけて善を行い、平和を求めてこれを追え。
主の目は義人たちに注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾く。
しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」(ペテロの第一の手紙3章10〜12節 新約聖書口語訳369p)。
 
 国益というよりも私益のために「舌を制」(10節)することなく平気で「悪を言」(同)い、「くちびるを閉じ」(同)るどころか、何の根拠も示さぬままに歴史と称して「偽りを語」(同)る周辺の国々と、これに呼応して日本を貶しめることにひたすらに精力を費やす一部の日本人学者、政治家、報道機関も含めて、日本人全体がいま、「悪をさけて善を行い」(11節)、神が造り出す真の「平和を求めてこれを追う」(同)ことが求められていると思うのです。
 
 
2.大和魂という精神は、キリスト教の自己放棄の精神の末裔である
 
「大和魂」を実とするならば、その実は大義のために己を捨てるという、忠義と自己放棄の思想として明治維新前夜の幕末に結実致しました。
そしてその代表が、維新の活動家たちに多大な影響を与えた吉田松陰です。
二十九歳で処刑された吉田松陰の辞世の句にも「大和魂」が詠み込まれています。処刑前夜に松陰が弟子たちに書き遺した檄文「留魂録」の冒頭に置かれた三十一文字です。
 
身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 
留め置かまし大和魂
 
有名なものが、危険が自分に及ぶことがわかっていても、それを避けては通れない、という義侠心、言葉を変えれば自己放棄の思いを詠んだ松陰の歌です。 
 
斯(か)くすれば 斯くなるものと知りながら
已(や)むにやまれぬ 大和魂 
 
吉田松陰は1854年(安政元年)、下田沖に停泊していた米国船に乗り込んで密航を企てますが、それに失敗し、江戸に護送される途中、赤穂浪士が祀られている高輪の泉岳寺前を通過した際に詠んだものと伝えられています。松陰このとき、満で二十三歳でした。
 
人の、特に男性の行動の動機に、「男の面子(メンツ)を保つため」というものがあります。女性にはなかなか理解しがたいものが男の面子、プライドというものです。
しかし、男としての面子をかなぐり捨てて、弱い立場にあるものをその命をかけて守るべく、神の言葉に唯々諾々と従った人が聖書に出てきます。マリヤの夫にして、イエスの養父となったヨセフでした。
 
御使いガブリエルから受胎告知をされた時、マリヤはヨセフと法的な意味では既に夫婦でした。ユダヤでは法的に夫婦となってから、一年後に同居して実質的な夫婦になるという慣例がありました。ですから、法的夫婦の段階で妻が妊娠すれば、不倫が疑われまた。
 
だからこそマリヤの妊娠を知った時、ヨセフが悩みに悩んで下した結論が、結婚の解消ということであったのでした。
しかし、彼にはマリヤを妻として家に迎え入れるようにとの神のお告げが与えられます。
 
「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重(みおも)になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現われて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』」(マタイによる福音書1章18〜21節)。
 
 ヨセフはどうしたかと言いますと、神のお告げに決然と従って、マリヤを妻に迎えます。
 
「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた」(1章24節)。
 
 当時のユダヤ社会は一般に早婚でした。ですから推定ではこの時マリヤは十五歳か十六歳の少女、ヨセフは十九かはたちの若者です。
ヨセフにとっては、神が遣わした救い主と、その救い主の母として選ばれた女性を一身かけて守り抜くために、世間の嘲笑、軽侮の視線、屈辱の言葉を浴びることを覚悟しての決断であったのです。
それはヨセフの自己放棄でした。まさに、先に起こることが見えつつ、取った行動でした。すなわち、「斯くすれば、斯くなるものと知りながら」選んだ決断であったのです。
 
「已むにやまれぬ 大和魂」という、自己放棄の精神を吉田松陰が歌った一八六〇年も前に、世のため、人のため、そして神の栄光という崇高な目的のために、一介の職人でしかなかったユダヤの大工が実践をしていたのでした。
 
このように考えてきますと、「大和魂」という日本人の伝統的精神は、ヨセフに代表されるキリスト教の精神の末裔、子孫である、ということができるのではないでしょうか。
 
 
3.大和魂は「七たびを七十倍するまで赦せ」というキリストの教えにおいて完成していた
 
日本の隣りには「恨みは千年、忘れない」という執念深い国があるのですが、先月、その国を訪れたローマ法王フランシスコがミサに集った群衆に向かって教え諭した言葉が、「七たびを七十倍するまで赦しなさい」というキリストの教えでした。
 
ある時、弟子のペテロがイエスに尋ねました。「イエスさま、仏の顔も三度までと言いますが(これはジョークです)、隣人が私に対してひどいことをした場合、私たちクリスチャンはその隣人の罪を何度まで赦せばいいのでしょうか。七たびまでですか?」
 
これに対するイエスの答えがペテロの予想を超えた、七たびの七十倍、ということでした。
 
「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』。イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」(マタイによる福音書18章21、22節)。
 
 確かに「仏の顔も三度まで」と世間で言われていますが、三度の倍にさらにもう一つ上乗せをしたのですから、七たびで十分だろうと俗人である私たちは思ってしまうのですが、イエスは何と、「そうではない、七の七十倍、つまり無限に赦せ」と言われたのでした。
 
 人としてのイエスは、おのれを誹謗中傷する故郷の人々の無知を赦し、神から与えられた使命を淡々と果たす養父ヨセフの背中を見つめながら、父を模範として成長したと思うのです。
 
そして、イエスはその生涯を通じ、そして十字架の身代わりの死という自らの犠牲を通して、究極の「和(やわらぎ)」である神と人との和解を、審判者である神と、原罪を担う人類の仲介者となってなし遂げてくださったのでした。
 
「大和魂」は、ヨセフが自らを放棄して守り抜いた救世主イエスを通して、既に二千年も前に、日本から遠く離れたパレスチナにおいて正しく実践され、完成されていたのでした。
 
日本人よりも、むしろ外国人によって高く評価されている日本人の精神的伝統は、遥かなる昔、聖書の登場人物により、とりわけ救世主であるイエス・キリストによって実現し実践されていたことを覚える時、私たちは神から遠く隔てられているとされる日本人が、実はどこの国の人々よりも神に遥かに近い存在なのだということを知って、勇気と希望を与えられるのです。
 


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-08-31 16:06:32 (1207 ヒット)
2014年礼拝説教

14年8月31日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む ただ一つの願い、それは主の 
 麗しきを仰ぎ見、そして尋ね究めること」
 
詩篇27篇1〜10節 旧約聖書口語訳768p
 
 
はじめに
 
九月三日に行われる内閣改造と政権党の役員人事を前にした一昨日の金曜日、重要な会談が総理大臣官邸で行われました。総理大臣と政権党幹事長との、俗にいうサシでの会談でした。
 
この会談はある意味では現政権が今後、安定的に存続するかどうかを左右するような重要なものであったとされていましたが、結果は幹事長が現総理の軍門に下ったものと評されるかも知れませんし、一方、幹事長が自らの野心よりも党の結束を優先させたとの評を得るかも知れません。
 
私見では、この幹事長さんの安全保障に関する知識と弁証能力は、政権党の中でも一頭地を抜いていると思われますから、今からでも辞退を思い直して、日本のために、そして自らが信じるところを実現する機会が到来したと受け止めて総理の要請に従い、新設予定の「安全保障法制担当大臣」を淡々と受けたらどうかと思っております。
 
ところで、この幹事長さんの母方の曽祖父の金森通倫(ともみち、つうりん)は、同志社において新島襄から洗礼を授けられた人で、後年、総長の新島襄が余命宣告を受けた時には新島襄自身から同志社総長の代理を依嘱された程の人物でした。
 
金森通倫のキリスト教信仰はその孫にあたる母親を通して、その息子の幹事長さんにも伝えられたようですが、政権に復帰する直前の、まだ野党であった一昨年の夏、国会内で開かれたクリスチャン議員による「国政報告会」において、敬虔な信仰者として注目すべき発言を、この人が致しました。
 
インターネット新聞のクリスチャン・トゥデイの記事を引用いたします。
 
4代目クリスチャンである石破茂氏はクリスチャン政治家としての活動について「『自分たちがやっていることは正しいのか』という思いがいつもあります。それは神様に対する恐れ、という気持ちであると思います。『本当にこれで良いのだろうか、御心に適うものだろうか』と常に思っており、『御用のためにお用いください』と祈る気持ちだけは常に持っています」と述べた(20120704 クリスチャン・トゥデイ)。
 
この人は日本の安全保障のためには「『集団的自衛権』の行使容認」は不可欠という立場ですから、その法整備推進のための「安保法制担当大臣」は適任どころか、余人も以て替え難いと、傍目には思うのですが。
とりわけ、昨年末に成立した「特定秘密保護法」の担当となった女性閣僚の国会答弁が、何とも頼りないものであっただけに、その感をより強くします。
 
この人が二年前の国会報告会において吐露した真摯な言葉の通り、「自分の考えが『本当にこれで良いのだろうか、御心に適うものだろうか』」と吟味しつつ、『御用のためにお用いください』と祈り、その上でもしも神が、「その担当を受けよ」と示されるのであれば、「虚心坦懐」になって日本の安全保障のため、持てる知識と能力の限りを尽くしてもらいたいと思うのですが。
 
さて、「詩篇を読む」の最終回、昨夏から通算十回目となる今週は、神との親しい交わりを通して、その尊い御心を伺いつつ、主なる神ご自身を知ることの喜びへと導かれたいと思います。
 
 
1.告白 「主は私の光、私の救い、そして私の命の砦」
 
何も知らない中学生であったころ、生意気にも「宗教などは弱い人間が持つものだ」などと嘯いておりました。まことに厚顔無恥でありました。
 
しかし、人というものは人生経験を積めば積むほど、おのれの弱さ、無力さを知り、自らを超える偉大な存在を意識するようになるものです。私もやがて神の前に、自らの卑小さを思い知らされて、神の偉大さと尊厳性を崇めることになるのですが。
 
詩篇二十七篇の作者がまさにそうでした。彼は生ける神に向かって告白します。あなたこそ、我が光、我が救い、わが命の砦である、と。
 
「主はわたしの光、わたしの救いだ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう」(詩篇27篇1節 旧約聖書口語訳768p)。
 
「光」(1節)も「救い」(同)も「命のとりで」(同)も、助け主が持っている圧倒的な力、とりわけその防御能力をも超えて、生ける神ご自身を指す告白です。
 
ですから、作者は続けて告白します。「だから、たといを命を狙って攻め寄せてくる敵がいたとしても、私が怖気づくようなことはない、決してない」と。
 
「わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。たとい軍勢が陣を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない」(27篇2、3節)。
 
男子、家を出(いず)れば七人の敵あり」とか、「男は閾(しきい)を跨げば七人の敵あり」などという言葉が死語になりつつある時代ですが、しかし、この先人の言葉は今も有効です。なぜならば、昔も今も人は人が怖いからです。
 
そして、それは「男子」だけではなく、女性にも言えることであって、女性もまた別の意味において、外に出れば他者の目や言葉によって傷を負いがちな生き物なのです。それはその造りが男性に比べて繊細にできているため、よりダメージを受け易くなっているからです。
 
でも、全能の神様がボディガードになってくれれば安心です。恐れることは無くなります。
これまでに色々な映画を見てきましたが、ホイットニー・ヒューストンが演じる歌手を守るためにボディガードとして雇われたケヴィン・コスナ―の、ストイックで捨て身のガードぶりを描いた「ボディー・ガード」は、その主題歌と共に心に残る映画でした。
 
恐れに囲まれるとき、恐怖に戦く時、「主はわたしの命のとりでだ」(1節後半)と、大胆に告白することのできる立場にあることを、改めて感謝をしたいと思います。
 
 
2.願望 「生涯かけて主の麗しきを見、そして尋ね究める」
 
二十七篇の作者は告白に続いて、正直に自らの願望を表明します。
その、彼が切望してやまないこととは、神の臨在を象徴する神の幕屋において、主なる神の麗しきを親しく仰ぎ見、かつ尋ね究めることでした。
 
「わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」(27篇4節)。
 
 彼が願い求めているのは神からもらう御利益などではありません。
彼が求めているのはただ「一つの事」(4節)であって、それは主なる神の御顔を親しく仰ぎ見ること、そして主なる神ご自身の思いや考え、御心というものを正しく知ることでした。
 
「主の家に住んで」(同)とは「主と同居する」「主と共に暮らす」という意味です。
「主のうるわしきを見」(同)ることについては、後段の「その宮で尋ねきわめる」(同)で説明されます。
 
この、口語訳が「宮で尋ねきわめる」と訳した箇所を新改訳は「その宮で、思いにふける」と訳し、新共同訳は「その宮で朝を迎えることを」とし、そしてリビングバイブルは「主の宮で黙想にふけり」と、新改訳に近い意味で訳しています。
 
では、原語はどうかと言いますと、当該語句のヘブル語辞典には最初に、「気を付けて調べる」とあります。そこから口語訳は「尋ね求める」としたのかも知れません。
 
それから千数百年後のことでした。使徒パウロはマケドニアの信徒たちに対し、その書間の中で自らの個人的願望を打ち明けます。
それはローマ帝国の首都のローマにおいて、皇帝の裁判を待つ間に書かれたもので、西暦六十三年頃のことだと思われます。獄中で書かれた書間は獄中書間として有名です。
 
少し長いのですが、その箇所をリビングバブルで読んでみたいと思います。
 
「しかし、以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様にだけ望みをかけるためです。
そうです。主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
 
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、また、もはや、良い人間になろうとか、おきてに従って救われようとか考えるのではやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、キリスト様と結ばれるためです。
 
…私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、また死ぬとは、どういうことかを知ることです」(ピリピ人への手紙3章7〜10節 リビングバイブル)。
 
勿論、パウロが「がらくた同然にみなし、全部捨ててしま」(8節)ったものとは、律法を遵守することによって神に義とされるという律法主義的救済方法のことです。
ですから、家族や家庭、仕事や職業、趣味や楽しみはこれまでと同じように大事にしてよいのです。
 
詩篇に戻りたいと思います。作者もまた、「主の家」(4節)で主の麗しきを仰ぎ見、主の麗しさを尋ね究めることこそが、ただ一つの願いであることを言い表します。それはなぜか。
 
それは彼が孤立無援という危機的状況に陥った時に、神が彼を幕屋の奥に匿ってくれたからであり、今後も変わることなく、そうしてくれるお方であると確信していたからでしした。
 
「それは主が悩みの日にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである」(27章5節)。
 
 「悩みの日」(5節)を新共同訳は「災いの日」と訳しましたが、これはもともと、「悪」を表す言葉です。
それは、決して我が身に起きては欲しくない「災い」や「悩み」を意味しました。そして人生、思いもかけぬ災いに見舞われることがあり、その結果、苦悩の日々が続くということがあります。
 
しかし作者はかつて、身も縮むような苦痛を伴う「悩みの日」「災いの日に」、主なる神のみ翼の陰に匿われたという経験があったのでしょう。
だからこそ、彼は神を賛美するのです。
 
「今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう」(27篇6節)。
 
 なお、この詩には「主の家」(4節)、「その宮」(同)、「その仮屋」(5節)、「その幕屋」(同)、「主の幕屋」(6節)という幕屋の時代を思わせる言葉が出てきますが、詩の雰囲気からはこの詩篇が神殿建立以前の、移動式幕屋の時代につくられたものであることを思わせます。
 
しかし、これらの幕屋、あるいはその後の神殿を今日、即、教会堂と考えてはなりません。
 
そもそも、旧約の幕屋あるいは神殿は、キリスト教の教会堂とは異なったものであって、民はそこで犠牲の動物を献納し、とりわけ大祭司は年に一度、聖なる幕屋の奥に入っていって、自らを含めた国民(くにたみ)の罪のゆるし、贖いのために、生贄の血を注いだのでした。
つまり、幕屋または神殿は、罪の贖いのための犠牲を捧げるところでもあったのです。
 
しかし、教会堂では犠牲は捧げません。犠牲は一度、ゴルゴタの丘で罪なき小羊となったイエスにおいて完璧に捧げられたからです。
 
ですから、教会堂の献堂式の式文などで、ソロモン王によるエルサレム神殿奉献の箇所を使用することについては、疑問を感じるのです(なお、このことに関しましては二年前の八月二十六日のマルコによる福音書からの説教「手で造られた神殿から、人手によらない神殿へ」を思い出してください)。
 
では、「主のうるわしきを見」(4節)、「主のうるわしきを」「尋ねきわめる」(同)ところとしての「主の家」(同)とは今日、どこなのかと言いますと、それは主ご自身の御前なのです。
なぜならば復活後、主イエス・キリスト自身が生ける宮となられたからです。
 
「イエスは彼らに答えて言われた、『この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう』…イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである」(ヨハネによる福音書2章19、21節 138p)。
 
 イエスこそ、生ける神殿であって、信じる者は誰であってもこのイエスにおいて罪を赦され、生ける神と交わり、神を知り、そして、神の御心がどこにあるかを探る者となるのです。そして、それぞれが置かれている立場、持ち場において、4代目のクリスチャン議員さんのように、「御用のためにお用いください」という祈りに導かれるのです。
 
 
3.確信 「たとい父母から見限られても、主は見捨てない」
 
 告白、そして願望の次に表明されるもの、それが作者の神への信頼の言葉、確信です。
 
詩篇二十七篇は七節からは雰囲気が一転して、神への嘆願にも見える祈りへと変わります。そこである人は二十七篇は二つの詩篇を一つにしたのでは、と考えます。
でも、よく読めば、一つの詩であることがわかります。
作者は神との親密で個人的な信頼関係に基づいて、神との関係を確認します。
 
「主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに応えてください。あなたは仰せられました、『わが顔をたずね求めよ』と。あなたにむかって、わたしの心は言います、『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と」(27篇7、8節)。
 
作者への神の呼び掛け、「わが顔をたずね求めよ」(8節)と作者からの神への応答、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」(同)の「たずね求め」るは、作者の願望である「主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめること」(4節)を神が是認した結果です。
両者に使用されている語句は同根であって、七節以降も神との親しい関係は続いています。
 
主は今日、私たちに向かって、「わが顔をたずね求めよ」(8節)と言われます。ですから日曜日、さっさと起きて、あるいは眠い目をこすりつつ、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」(同)と応答しながら家を出て、教会での礼拝へと向かうのです。
 
それはまた、朝ごとであり、夕ごとです。一日の始まりの朝、あるいは一日の終わりの夕べ、私たちに向かって主は、「わが顔をたずね求めよ」と言われ、私たちもまた主に対し、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と応答して一日を始め、あるいは一日を終えるのです。
 
礼拝には主の日に捧げる公同の礼拝と、個人として平日に捧げる個人礼拝とがあります。それは朝ごとに、あるいは夕ごとに捧げられ、この個人的礼拝としての神との交わりを、英語で「デボーション」と言ったりします。
 
なお、この、忠誠、あるいは献身を意味する「デボーション(devotion)」という英語は、ラテン語の「devotionem(ディウオティオネム)」からきているのだそうです。
 
そしてそのような神との親しい交わりの中で洩れ出る確信が十節の告白です。
 
「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう」(27章10節)。
 
 最近、「親子とは何であるか」をめぐって、最高裁の判断が下されましたが、通常、親は子供を第一にするものです。
 
しかし、何らかの理由で親がその子を愛せない、あるいは諸種の事情で捨てざるを得ない、という場合があります。
先の戦争時における朝鮮人女性の強制連行を告白した「吉田証言」が、実は真っ赤な嘘であったことを朝日新聞が告白してから一カ月になろうとしています。
 
問題は朝日新聞社の意に反して、沈静化するどころか、燎原の火のように燃え広がりつつありますが、「従軍」慰安婦なるものは高額の報酬目当てに自ら志願した者と、自らの意に反し、親に売られた者、あるいは女衒(ぜげん)の甘言に乗って「慰安婦」とされた者の三種類に分けられるようです。
 
悪徳業者に騙された者も気の毒ですが、親に売られた者もまた悲惨です。何しろ、守り保護してくれる筈の親から見捨てられたのですから。まことに深い同情を禁じ得ません。
 
聖歌は「あり得ぬことのみある憂き世」と歌いますが(612番 3節)、「あり得ぬこと」である、実の「父母がわたしを捨て」(10節)るということが身に起こったとしても、主なる神はその捨てられた者を受け入れ、迎え入れてくださるお方なのだ、「主がわたしを迎えられる」(同)と、二十七篇の作者は言い切ります。
 
その神と私たちの間には血の繋がりはありません。にも拘わらず、憐れみ深い父なる神は、私たち罪びとを我が子とするための手続きとして、愛するその独り子を犠牲にしてくださったのでした。
その結果、有り難いことに神と私たちの関係は、法的な意味での養親と養子という親密な関係に変わったのでした。
 
そしてそれはまさに想像を超えた出来ごとなのですが、そのことが、すなわち、私たちを神の子供とし、神の子供となった者たちとの親密な交わりの実現と継続こそが、実は、父なる神にとって「ただ一つの願い」であったのでした。
 
だからこそ、私たちもまた、「ひとつのことを主に願」(4節)うのです。 
「わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」(同)と。
 
讃美「ただ一つの願い」を歌って、ご一緒に主を崇めたいと思います。
 
ただ一つの願い
 
ただひとつ 私の願い求めは
主の家に住まうこと 命の限り
麗しき主を仰ぎ見て 主の宮に住み 主を想う
麗しき主を仰ぎ見て 主の宮に住み 主を想う
 (作詞 Stuart Scott   訳詞 染本伸行、ひろ子)


投稿者 : famillia 投稿日時: 2014-08-24 16:59:06 (1167 ヒット)
2014年礼拝説教

   14年8月24日 日曜礼拝説教

「詩篇を読む ああ主よ、われ深き淵の底より
   汝(なんじ)を呼べり」
 
詩篇130篇1〜8節 旧約聖書口語訳866p
 
 
はじめに
 
マイナスに働く力の代表は何と言いましても「不信感」でしょう。不信感は対象によって、「人間不信」「自己不信」そして「神不信」として表れます。
とりわけそれが自分自身に向かう「自己不信」は特に警戒要、といえます。
「自己嫌悪」という感情を生みだし、それはしばしば「自己抹殺」に至るからです。
 
この夏の最大のニュースは、過去、「朝鮮半島において多数の朝鮮人女性を慰安婦とするために強制的に連行した」とする「吉田清治証言」なるものをついに、朝日新聞が虚偽であったと告白した八月五日の同紙朝刊記事でしょう。
 
朝日新聞がこの三十二年間に掲載をした十六本の記事はすべて、「吉田清治証言」が史実であるとの認識に立って書かれたものですから、今さらそれが虚偽だったと言われて一番戸惑ったのは、朝日新聞の読者であったことと思います。
 
私は先週、「十年前まで五十年間、朝日新聞の読者であった」と申しましたが、私が子供の頃、我が家では朝日新聞と産業経済新聞(産経)の二祇を購読しておりました。
 
産経は当時は名称の通り、産業経済を中心とした新聞で、まあ、現在の日本経済新聞みたいなものでして、これは父親が通勤途上、電車の中で読むためのものでしたから、家族は専ら、朝日の方を読んでおりました。
 
神学校ではなぜか女子寮が読売新聞で、男子寮が朝日新聞でした。卒業して当地に来てからも当然のように朝日を購読しておりました。
 
やがて子供が小学校の高学年になったとき、新聞を読む習慣を持たせようと考え、朝日は理屈っぽいので子供にも読みやすい(と思った)M新聞に切り替えたのですが、これが京都の吸い物みたいに薄味で何とも頼りない紙面で、それでも二年間、我慢をしたのですが耐えきれずにまた朝日に戻しました。
 
以来、朝日一筋で二〇〇一年を迎えた九月、米国でイスラム過激派による同時多発テロが起こったのですが、朝日の祇面にはテロにやられた側の米国にも非があるかのような論調の記事が見受けられ、「どうもおかしい」と思いつつ、自宅から教会への途中にある、S新聞の販売店で毎朝、朝刊を購入するようになりました。
 
それから一年後の二〇〇二年九月、小泉訪朝の結果、北朝鮮が国家としての日本人拉致に関与していたことを初めて認めたことから、それまで頑なに北朝鮮の関与を否定してきた朝日が観念して、北朝鮮による拉致を渋々感いっぱいに報道する記事を読んで限界を感じ、正式に朝日の購読を止めてS新聞に切り替えたのでした。
二〇〇三年春のことです。
 
その朝日が、「吉田清治証言」が虚偽であり、勤労奉仕である「挺身隊」と職業売春婦である「慰安婦」とを混同していたという発表を行ったのです。
 
では、朝日新聞は「吉田証言」をどのような記事にまとめたのかということですが、二十三年前、一九九一(平成3)年五月二十二日の記事は以下のようなものでした。
 
韓国・朝鮮人の従軍慰安婦の徴用のやり方は、私たち実行者が10人から15人、山口県から朝鮮半島に出張し、その道(どう)の警察部を中心にして総督府の警察官50人から100人を動員します。
そして警察官の護送トラック5台から10台準備して、計画通りに村を包囲し、突然、若い女性を全部道路に追い出し、包囲します。
 
そして従軍慰安婦として使えそうな若い女性を強制的に、 というか事実は、皆、木剣を持っていましたから殴る蹴るの暴力によってトラックに詰め込み、村中がパニックになっている中を、1つの村から3人、5人、あるいは10人と連行していきます(1991年5月22日朝日新聞朝刊「従軍慰安婦 加害者側の証言)。
 
「加害者側」とは吉田清治のことです。読むだにおぞましいこの証言が実は真っ赤な嘘であって、吉田清治という詐話師の作り話であるということが、翌一九九二年の四月に、秦郁彦という現代史家の現地調査によって明らかにされたということもあってか、吉田証言を元にした記事の掲載はその後、下火になります。しかし、問題はそこでした。
 
朝日は一九九七年三月三十一日、吉田清治について「著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」とする曖昧模糊とした記事を掲載したものの、訂正記事は出さないままに、十七年が経ったわけです。
 
なお、朝日新聞社が一九九一年十一月二十五日に発行した、副題を「敵は日本人だった」とする「女たちの太平洋戦争」の第二巻には、吉田清治の証言が「木剣ふるい無理やり動員 ― 加害者として〈千葉県我孫子市〉吉田清治」として、歴史的出来事として転載されていますが(129、130p)、朝日新聞社として、どう対応するつもりなのでしょうか。
 
この「女たちの太平洋戦争」第二巻の副題を朝日新聞社は、「敵は日本人だった」としましたが、ほんとうの「敵は朝日新聞だった」ということが、この夏、日本中に暴露されたわけです。
 
そしてもう一つの、「挺身隊」を「慰安婦」としたことにより、日本軍が「数十万人の女性を性奴隷とした」という、大いなる誤解の基となった記事の一つが以下です。
 
元軍人や軍医などの証言によると、開設当時から約8割が朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身(ていしん)隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる(1992(平成4)年1月11日朝日新聞「用語解説『従軍慰安婦』」)
 
今回の特集記事が出て以来、朝日に購読打ち切りの申し出が相次いでいるようですが、報道の信頼性が根本から崩れたわけですから無理もないことです。
 
そして、私どもが他人事ながら案じるのは、これまで自社を「日本の良心」と信じ込み、真実を報道してきたと思い込んできた真面目な記者たちや一般社員の中に、これによって自社への不信感を通り越して、自らの無知に対する自己不信に悩む者が出てこないかということです。
 
尤も、見方を変えればショックを受けることの方が正常であって、「そんなことはわかっていたよ」と歯牙にもかけずに平然として仕事を続けている社員の方がおかしいのですが。
かつて五十年間、同紙を読んできた元読者の一人として、朝日新聞が外部からの批判と共に、社内の「良心」的な声にも謙虚に耳を傾けて、信頼される報道機関への道を歩んでもらいたいと思うのです。
 
さて、今週の「詩篇を読む」はこの、「自己不信」に陥った者がどのようにしてその深い穴から抜け出るかということが主題です。
 
 
1.深き淵の底からひたすらに主を呼ぶ、「主よ、我が声に耳を傾け給え」と
 
 長い人生、「もう、だめだ」というあきらめの気持ちになることが誰にでもあると思いますが、たといそのような場合であっても、置かれている状況が単なる八方塞がりという場合は、「まあ、何とかなるさ」と、却って闘志を燃やすこともあります。
 
しかし、その「もう、だめだ」という気持ちの原因が、自分自身の無知や愚かさ、罪深さにある場合は深刻です。
 
以前、「主よ、深き淵の底より」という聖歌を歌ったことがあります(二二八番)が、この荘重な聖歌は宗教改革者マルティン・ルターが詩篇一三〇篇に基づいて作詞したものとして有名です(なお、作曲はバッハです)。また折をみて歌いたいと思います。
 
詩篇一三〇篇の背景にあるものは、作者自身が神から遠く離れた所にいるという自覚です。そしてその自覚が「深い淵(の底)から」という言葉になったのだと思われます。
 
「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」(詩篇130篇1節 旧約聖書口語訳954p)。
「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」(同 新共同訳)。
 
「深い淵」(1節)は原語では、「深い」または「深い所」を意味する言葉ですが、それは詩の作者自身がいま、確かに落ち込んでしまっている現実、すなわち神から遠く離れた現実を指したものである、という理解から、新共同訳はこれを「深い淵の底」と訳し、旧約学者として名高かった、故左近 叔(さこんきよし)元東京神学大学教授はこれを、「底なしの深み」と訳しました。
 
 人が祈る場合、そこにはさまざまの事情や局面があります。
 
乏しさに苦しんでいるから、必要なものを与えて欲しいという願い、病気で苦しんでいるから、その病を治して欲しいという祈り、攻撃を受けているから、味方になってもらいたい、という祈願など、それはそれで切実な願いですが、自分自身、神から遠く離れているという意識のゆえに、だからこそ今、自分は神の許へと戻るべきであるという思いをもって、作者は神に祈り、神に呼ばわるのです、深い淵の底から。
 
 これこそが真の祈り、神が求めている祈り、神に喜ばれる祈りなのです。
 
 
2.深き淵の底から主に呼ばわるのは、主には赦しがあることを知っているから
 
詩篇の作者は「深い淵(の底)」(1節)、すなわち神から遠い所にいるという自覚があるにも関わらず、その遠い所から神に向かってなぜ、「呼ばわ」(同)ったのでしょうか。
考えられる理由は三つです。
 
一つは、作者が、自分がいるところがまさに、神から遠く離れた所であることに気づいたからであって、自分が神から遠く離れていることに気づいた時、彼の心には表現のしようのない不安感と恐怖感とが心に忍び込んできたのでしょう。
 
それは喩えていえば、親から逸(はぐ)れた迷子の幼子が抱く感覚に似ているといえます。
 
でも、大多数の者は創造主である神の存在を信じてはいないし、その神から離れてしまっていると指摘されてもピンと来ないというのが現実です。そしてそれはなぜかと言いますと、神を意識する感覚が麻痺してしまっているからではないかと思われます。
 
逆に、今、神から遠く離れているにも関わらず、神を求めて神に呼ばわるのは、神を思う感覚が正常に戻ってきているしるしです。
 
二つ目の理由、それは主なる神に背いたという背信の意識があり、その意識から生じる神と関係者への加害、謝罪の気持ちがあるからだと思われます。
 
人が心理的な意味における深き穴に落ち込んだ場合、境遇が良くなかったからだの、親が悪いの、社会のせいだの、政治のせいだのと、責任を自分以外のものになすりつけて、勝手に人間不信に陥り、その揚げ句に神を恨む人がいます。つまり、神不信です。
 
しかし、まともな感覚に戻った人は、「こうなったのは誰のせいでもない、もちろん、神のせいでもなく、自分のせいだ」と、自らの愚かさを認め、神への謝罪の気持ちを表明するようになります。
 
その代表的な人物が、ゴルゴタの丘で十字架に架けられたも「もうひとり」の方のテロリストでした。
 
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』とイエスに悪口(わるくち)を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことのむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』」(ルカによる福音書23章30〜41節 新約聖書口語訳132p)。
 
 感覚が正常に戻ると、ケースによっては、自分が加害者であり、神こそが被害者であるという事実認識が生まれる場合があります。
そしてその認識が神への罪意識を生みだし、更にその罪意識が観への謝罪の気持ちとなって、神を呼ぶ叫びとなるのです。
 
 そして、神から遠く離れているにも関わらず、この詩の作者が神に呼ばわることができた三つ目の理由、それは主なる神には大いなる赦しがあるということを知っていたからでした。
 
「主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたにはゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」(130篇3、4節)。
 
 主なる神の許には「ゆるしがある」(4節)、だからこそ、人は罪意識を持ちつつも、いえ、罪意識を持つからこそ、恐れおののきながらでも主なる神に向かって大胆に、そして身の程も弁えずに呼ばわることができるのです。 
 
「あなたにはゆるしがある」(同)、これが詩篇のみならず、聖書全体を貫くメッセージであり、音楽で言えば曲の全体を流れる主旋律です。
 この「ゆるし」(同)を作者は別の言葉で「いつくしみ」と表現し、それを「あがない」として説明します。
 
「主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをもろもろの不義からあがなわれます」(130篇7節後半、8節)。
 
 「あがない」(7節)とは奴隷状態に陥って自由を奪われている者を、犠牲や代償を払って自由へと解き放つことを意味します。それは主なる神だけができる行為であり、その「あがない」(同)という主なる神独自の行為の動機が「いつくしみ」(同)です。
 
そしてこの「いつくしみ」(同)とそれに基ずく行為である「あがない」(同)を総称して、主には「ゆるしがある」(4節)、だから、とりわけ罪意識の強いタイプの「人に恐れかしこまれるでしょう」(4節)と、「深い淵」(1節)から告白するのです。
 
神から遠く離れた所である「深い淵」「深い淵の底」(新共同訳)「底なしの深み」(左近 叔)からでも大胆に主なる神に呼ばわることができるのは、主には人知を遥かに超えた大いなる赦しがあるからだということを、主の言葉を通して作者が知っていたからでした。
 
 
3.主には赦しがあるからこそ、人は主に望みを置いて主の御言葉を待つ
 
 そして、この大いなる赦し、確かな赦しを知る時、人は赦しそのものを超えて、赦し給う主なる神に向かって目が開かれます。
作者は単なる赦しを求めているのではありません。作者は赦しではなく、主なる神自身を求め、神ご自身に望みを抱きます。
 
「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁(あかつき)を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます」(5、6節)。
 
 詩篇の作者が深き淵の底で待つもの、それが主なる神ご自身であり、主のお言葉でした。
「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」(5節)は、直訳をしますと「私は待つ、主の言葉を」となります。
 
作者は深い淵の底から主を呼んでいますが、よくよく読むと、深い淵からの救出を求めてはいません。「あなたにはゆるしがある」(4節)と告白しますが、赦されることを求めてはいません。
また、「主には…豊かなあがないがある」(7節後半)と告白はしますが、その「あがない」(同)を求めてもいません。なぜでしょうか。
それは、赦す、赦さないは主なる神の裁量の範囲のことであり、あがなう、あがなわないもまた、主なる神の自由であることを知っていたからでしょう。
 
この詩篇百三十篇の作者と共通するような人物が福音書に登場します。神の御子イエス・キリストによって語られた譬え話に出てくる、いわゆる放蕩息子です。
 
父を嫌って家出した弟息子が故郷の父の許に帰ろうという気になったのは、彼が都会で落魄の身となって食うに困ったからではありません。見栄があればどんなに落ちぶれても恰好が悪くて、知人が大勢いる故郷になど、帰ることなど出来なかった筈です。
 
彼が帰ろうとしたのは良心が疼いたからです。自分は父親に対してとんでもないことをした、ほんとうに申し訳けないことをした、父に対するこれまでの罪を詫び、自分の残りの生涯を父の傍らで下僕となって仕え、一生かけてそれまでの罪を償おうと思ったからこそ、恥も外聞もなく故郷を目指したのでした。
 
赦してもらってあわよくば元の息子の身分に戻してもらって安楽に暮そうなどという気持ちは、彼には寸毫もなかった筈です。
 
厳しい叱責の言葉も当然のこととして受けよう、しかし先ず、父の心を踏み躙(にじ)ってきた過去を心から詫びて自分の気持ちを表し、次に父の言葉を待とうと思ったその時、彼の謝罪の言葉を途中で遮って語られた父の言葉が、期待もしなかった言葉、思いもかけない赦しの言葉であったのでした。
 
「しかし父は僕(しもべ)たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものをはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』」(ルカによる福音書15章22〜24節 116p)。
 
 「最上の着物」(22節)も「指輪」(同)も「はきもの」(同)も、それらはすべて正規の息子のしるしです。
 
つまり、「息子としてではなく、下僕として側に置いてほしい」と願った弟息子に対し、彼が求めもしなかった「ゆるし」と「あがない」が「いつくしみ」として与えられることとなったのでした。
 
 父はいつ、弟息子を赦したのでしょうか。故郷に帰ってきて罪を詫びたからでしょうか、いいえ、そうではありません。父の赦しは弟息子が故郷を出た時から変わらずに有り、それどころか、故郷にいた時から既に有ったのでした。
 
 主なる神の赦しは十字架の出来事以前から備えられていたのでした。
 
 そしてその赦しは神から遠く離れている筈の「深き淵の底」(1節)にも存在していたのでした。赦しが既に備えられていたからこそ、そして詩篇の作者が今いる「底なしの深み」(同)にも赦しの主が共におられたのです。
 
そして神がおられたからこそ、作者はその主なる神に向かって「わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください」(2節)と呼ばわることができたのであり、その「深い淵」(1節)から主を呼ぶ自らの傍らに、主が共にいてくださっていることを、彼は感謝に満ちて知るに至るのでした。
 
底なしの深い淵にも神はいます。独り子を十字架にかけてまで、その深き愛を示してくださった父なる神と、身代わりとなってくださった御子を覚えて、讃美「愛の絆」を御一同で歌い、その後、祈りを共に捧げることとします。
 
愛の絆
 
聞こえてくる 子の叫びが 十字架から父のもとに
血と涙 流しながら 孤独に闘う子の姿
永遠の命 与えるために 泥沼の中から救うために
 
何よりも愛する独り子 犠牲にしても与え続けた
独り叫ぶ我が子の姿に目を閉じても 捧げた父の愛
 
嘲られ 裏切られても 父の心に身を委ねた
溢れ 流れ 滴り落ちる血と涙は 捧げた御子の愛
 
私たちに与えられた 永遠の命と罪の赦しは
父と御子のかけがえのない 愛の絆がもたらしたもの
結び合う愛の絆
              (詞 曲 長沢崇史)


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