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投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-09-08 16:13:11 (2128 ヒット)
2013年礼拝説教

13年9月8日 日曜礼拝説教

ルカによる福音書の譬え話ゞ盪ちとラザロの譬え―現世での生き方が来世の運命を決める」
 
ルカによる福音書16章14〜31節(新約聖書口語訳117p)
 
 
はじめに
 
在世中のイエス・キリストはその説話において、しばしば「譬(たと)え話」というものを用いました。
 
「譬え」を英語で「パラブル」というのですが、「パラブル」はギリシャ語の「パラ」と「ボレー」からできていて、「パラ」は「横に」、「ボレー」は「投げる」を意味します。それで、そこから「パラボレー」とは「横に投げる」、つまり、「譬え話」という物語の横に、語り手が本当に伝えたいことが投げられている、それが譬え話です。
ですから、譬えの末梢部分に拘るのではなく、話の趣旨、中心を読み取ることが譬えの正しい読み方、解き方というわけなのです。
 
そしてイエスは一般のユダヤ人民衆に対し、「譬え話」という手法を用いることによって、深遠な神の国の真理を分かり易く語ろうとしたのでした。
 
そこでこの秋の日曜礼拝では、ルカによる福音書から「譬え話」を抜き出して、二十一世紀の今、日本という国を生きている私たちが知るべき真理と教訓を、ご一緒に把握し咀嚼をしたいと思います。
 
第一回目はよく知られている「金持ちとラザロ」の「譬え話」を取り上げて、「現世での生き方こそが、来世の運命を決める、だからこそ、現世での生き方が重要なのだ」というイエスの教えを学ぶことに致しましょう。
 
ところで、イエスが語られた「譬え話」を正確に理解する上で何よりも重要なことは、語り手の意図に沿って解釈を施すということです。
そのためには、物語がどのような状況で語られたのかを知ること、そしてそのためには物語のみに目を向けるのではなく、物語の「前後の文脈」(これをコンテキストと言うのですが)を知ることが大切です。
 
キリスト教の教職者を養成する神学校の必修科目の一つに「聖書解釈学」という教科があります。聖書は間違って解釈しますと、大変な禍をもたらしかねません。そこで聖書を正しく解釈する「聖書解釈学」は聖書を取り扱う牧師にとって必須教科なのです。
 
一世紀の中ごろに使徒として活動したパウロが書いたとされる手紙は、一世紀の末には地中海世界のキリスト教会に広く読まれるようになりました。
しかし、ある者たちはその手紙に勝手な解釈を施すことによって、教会の中に混乱を起こしていたようです。
 
「このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(ペテロの第二の手紙3章15節後半、16節 新約聖書口語訳375p)。
 
 聖書解釈学の第一の原則は「読み込むな、読み取れ」です。つまり、著者や登場人物が言わんとすることを汲み取る、「読み取」るのが正しい読み方であって、自分の考えや思想、先入観などを「読み込」んではならない、ということです。
なお、勝手な読み込みを聖書に施して、素朴な人々を惑わしているのが「エホバの証人」とか「ものみの塔」とかを呼称するカルト団体です。このような人々が家庭訪問をして来ましたら、婉曲にしかしきっぱりと訪問を断ることが賢明です。
 
「読み込むな、読み取れ」は、私たちの日常会話においてもそうですし、文学作品などを鑑賞する際の原則でもあります。そして、「読み取」るために必要なことが前後の文脈(コンテキスト)を注意深く調べることなのです。
 
たとえば、野口雨情が一九二二年(大正11年)に発表した童謡「シャボン玉」です。
 
シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ  
屋根まで飛んで こわれて消えた
 
これだけを聞けば、「風が吹いてシャボン玉が飛んだ、飛んだのはシャボン玉だけでなく、屋根までもが飛んでいってしまった、飛んでった屋根は壊れてどっかに消えてしまった」と解釈することも可能です(実際、そう解釈していた人もいるそうです)。
 
でも、「シャボン玉が家の屋根の高さにまで飛んだ」と解釈するのは、作詞者が屋根までもが飛ばされるような竜巻のことを童謡にするわけがない、主題はシャボン玉だ、という常識で歌詞を理解していると共に、次節の歌詞から、「こわれて消えた」のは屋根ではなく、健気にも屋根の高さにまで飛んだシャボン玉のことであることがわかっているからです。
 
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 
産まれてすぐに こわれて消えた
 
 「シャボン玉」の前年に三木露風が発表した「赤とんぼ」につきましても、同じことが言えます。
 
夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か
 
歌詞の中の「負われて見た」、つまり背「負われて見た」を、「追われて見た」つまり追い掛けられながら見た、と思い込んでしまっている人は結構いるようです。
以前、軽井沢で行われた神学校の教師研修会の帰途、関西から参加した教師たちと昼食のために滋賀県のとある蕎麦屋さんの二階にあがり、「美味かった」と言い合って帰る際、その二階の出口の横の衝立にあったのが「赤とんぼ」の歌詞で、そこにはしっかりと、「追われて見たのはいつの日か」と書かれていたものでした。
 
これだって、次の歌詞を見れば、語り手が小さかったころに、おんぶをされて赤とんぼを見たことがわかる筈なのです。
 
  姐(ねえ)やは十五で嫁に行き
  お里の便りも絶え果てた
 
  夕焼け小焼けの赤とんぼ
  止まっているよ 竿の先
 
「姐や」とは当時、家の事情で子守りとして働いていた十代前半の少女たちのことです。つまり作者は「竿の先」に「止まっている」赤とんぼを「姐(ねえ)や」の背中に「負われて見た」という小さいころの思い出を言っているということがわかります。
 
 
1.富の蓄積が、良き来世を保証するものではない
 
 そこで本論です。最初に取り上げる「金持ちとラザロ」の譬えは、頑迷固陋なパリサイ人をイエスが諭す目的で語られました。それがわかるヒントは、譬えが語られる前のパリサイ人とイエスとの問答にあります。
 
「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った」(ルカによる福音書16章14節 117p)。
 
 パリサイ人が反応したのは「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」というイエスの弟子たちへの教えに対してでした。
 
「どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(16章13節)。
 
 「パリサイ人」とは「モーセ五書」という成文律法と、その具体的な適用例である「先祖からの言い伝え」という口伝律法を、共に神の律法、トーラーとして崇め、その条文をことごとく遵守することを誓った人々のことでした。
 
しかし、パリサイ人たちの中のある者たちは、「律法を遵守すれば、神がその人を富ませる、だから、富んでいるということは神に受け入れられかつ喜ばれているしるしだ」と考える者たちもいたようです。
 
彼らが十三節の「これらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った」(14節)理由はそこにありました。このような背景があってイエスは「金持ちとラザロ」の譬えを語り始めたのです。
 
「ある金持ちがいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた」(16章19〜21節)。
 
 やがて、このラザロが死に、そして金持ちも死にます。しかし、死は終わりではありませんでした。死後、ラザロは救済され、金持ちは死者の世界の「黄泉」で目覚めます。
 
「この貧しい人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉(よみ)にいて苦しみながら目をあげると、アブラハムのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」(16章22、23節)。
 
 「イエスをあざ笑った」(14節)パリサイ人たちの理解では、金持ちが富んでいたのは神が彼を祝福していたから、だったからであって、当然、金持ちは死後、「アブラハムのふところ」(22、23節)で憩う筈でした。
 
しかし、イエスの譬えでは、神の祝福から除外されていた筈の貧しいラザロが「アブラハムのふところ」(同)にいて、金持ちは死者の国である「黄泉」(23節)で苦しんでいます。
 
ところで、「譬え話」の解釈においては、細部には拘らずに大筋を掴むこと、その上で話の中心ポイントが何かを探るということが大事なのです。この「譬え話」では「ラザロ」はあくまでも脇役であって、重要なのは「金持ち」の方です。
 
 イエスがパリサイ人たちに言いたかったこと、それは富の豊かさ、財の蓄積が必ずしも、良き未来、幸いな来世を保証するものではないのだ、ということでした。
 
 昨年の七月、日本人と韓国人研究者の共著による、韓国という国と韓国のキリスト教を分析した優れた研究書が出版されました。「韓国とキリスト教」という著作です。
 
同書は第一章で、韓国最大の教会として知られる、首都ソウルの中心地ヨイドにある純福音教会の「成長」の理由を、「霊的に恵まれ、物質的に恵まれ、病苦から解放される」という「現世の祝福の過度の強調」に帰着するとする、上智大学教授の見解を紹介し(同書27p)、第五章では、同教会の創立牧師の年収が八千万円にのぼるという、二〇〇七年に超大型教会を番組で取り上げたテレビ局の調査結果を報告しています。
 
イエスの対話の相手のパリサイ人がこれを知ったならば、「どうだ!」と胸を張ったかも知れません。
 
 しかし、同書にはその牧師さんと対極にあるような著名な教職者の例が紹介されています。韓国有数の大教会として知られる永楽教会を生み出した韓 景職(ハン・ギョンジク 1902―2000)牧師です。
 
韓は韓国有数の大型教会の担任牧師としてだけでなく、その社会奉仕の業績が教会を超えて尊敬の念を集めている。著者はいずれも永楽教会とは無関係であるが、韓の生き方には尊敬の念を禁じ得ない。
 
(中略)韓の業績は海外でも評価され、一九九二年には宗教界のノーベル賞と言われるテンプルトン賞を受賞した。(中略)韓牧師は賞金一〇二万ドルを受け取ると、すぐに北朝鮮宣教のために全額を献金した。彼が「一分間、百万長者になった」と言って笑ったという有名な逸話がある(浅見雅一・安 延苑著「韓国とキリスト教 いかにして“国家的宗教”になりえたか」168、9p 中央新書)。
 
韓は清貧な生涯を送った。自身の名義で所有した不動産もなく、預金通帳ひとつなかった。貧しい人々にすべてを分け与えたのである。七〇歳になったのを契機に自ら設立した永楽教会から退いた。その際に永楽教会から家を与えられたが、自分には大きくて贅沢すぎると辞退している。余生は韓国教会と海外布教のために働き、二〇〇〇年四月にソウルの小さな住まいで、九八歳で亡くなった。彼の遺したものは、数着の衣類の他は、四〇年余り使用した一人用のベッドとメガネ、そして愛用の聖書だけだったという(同書 169p)。
 
 韓国は専ら、人殺しのテロリストを英雄として崇めるような国ですが、韓 景職牧師のような人こそ、真の英雄、国民の模範として称えてはどうかと思います、余計なことかも知れませんが。
もっとも、日本人と異なり、「内貧外華」、つまり「内面がどんなに貧相であろうと、外側がきらびやかであるなら、それでよい」というあり方をモットーとする彼の国では、私たちが感銘を受ける韓景職牧師のような生き方は愚かにしか見えないのかも知れませんが。
 
「ラザロと金持ち」の譬えを通してイエスが教える教訓の第一は、富の蓄積が良き来世を保証するものではない、ということでした。
 
 
 
2.現世での生き方こそが、来世の運命を決める
 
イエスの譬えはまだ続きます。この「譬え話」を通してイエスが二番目に言いたかったこと、それは現世での生き方が来世の運命を決める、ということであったようです。譬えを読み進んでみましょう。
 
「そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムは言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた』」(16章24、25節前半)。
 
 以前、「セカンドチャンス」と言いまして、キリスト教神学において、人が死んだ後に悔い改めて救済されるチャンス、つまり「セカンドチャンス」があるかどうか、という問題をめぐる神学論争がありました。そして、その論議において、この「金持ちとラザロ」の「譬え話」の中に「その根拠がある」「いや無い」という議論があったということをあるセミナーで聞いたことがあります。
 
しかし、両者共にナンセンスです。なぜかと言いますと、聖書解釈学では「譬え話」、そしてヨハネの黙示録やエゼキエル書、ダニエル書などの「黙示文学」を教理の材料とすることはできないという原則があるからです。
それは、見方や取り方によっては全く正反対の、あるいは奇妙奇天烈な解釈ができてしまうからなのです。
 
 そしてもう一つおまけに、専門家によりますと「ラザロと金持ち」の「譬え話」はイエスのオリジナルではなく、当時、民間に流布していた伝説「貧しい律法学者と金持ちの取税人」という話をイエスが改変して用いたものだったそうなのです。
 
ですから、ラザロが死後に連れて行かれた「アブラハムのふところ」(22、23節)なるものは、イエスがそのように信じ、教えていたものではなく当時のユダヤ教の一つの考え方だった、ということになります。
 
 紀元前五八六年のソロモンの神殿崩壊以前の古代ヘブル人にとって、「黄泉」は死者の誰もが行く場所、義人も悪人も一様に行く所と考えられていました。
 
しかし、紀元前五一五年の第二神殿再建後に形成された初期ユダヤ教の、特に紀元前後の時代になりますと、「黄泉」は地獄とほぼ同義語とされて、そこは異教徒などの罪人が行くところ、そして律法を遵守したまじめなユダヤ人は「パラダイス」(23章43節)に行くとされました。
 
ユダヤの指揮官でありながら第一次ユダヤ戦争においてローマ軍に降伏して生き残った後、文筆家、歴史家として名を馳せたヨセフスはその著書で、パリサイ人の死後観について言及しています。
 
     そして彼らは、〔霊〕魂(プシュケー)は不死の力を持っていること、さらに、生前に有徳の生活を送ったか否かによって、地下において、よき応報なり刑罰なりがあるものと信じている。
すなわち、悪しき魂の行きつくところは永遠の牢獄であり、善き魂のたどるところは新しき生への坦坦たる大道なのである(フラウィウス・ヨセフス著 秦剛平訳「ユダヤ古代誌 新約時代篇 イエスの時代」14p 山本書店)
 
問題は何が「悪しき魂」で何が「善き魂」かということです。なおここではラザロがなぜ「アブラハムのふところ」に連れていかれたのかということについて触れる必要はありません。
 
また、アブラハムの「あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」(25節)という言葉は、そうなった理由や原因を述べたものではなく、両者の過去の状態、そして現在の状態を述べたものなのです。
 
では、明暗を分けたもの、とりわけ「金持ち」が「黄泉」に落とされた理由が何かということについて、英国の新約学者、ウイリアム・バークレーは大胆にも「(金持ちを)牢獄に入れたものは彼のしたことではない。彼を地獄に落としたものは、彼のしなかったことであった」と断じています。
 
彼はラザロに、玄関から立ち退くように命じなかった。ラザロが食卓から投げられたパンをとっても彼はそれを阻止しなかったし、通るときに足蹴にしたりもしなかった。彼は、自分からはラザロに酷なことをなにもしていなかった。
 
(金持ちの)罪は、ラザロに何の注意も払わなかったということだ。彼はなんとなく、ただ景色の一部としてラザロを見ていただけだった。贅沢三昧に日を送る彼のかたわらに、ラザロが苦痛と飢えにさいなまれていても、彼はそれをごく当たり前のこととしか考えなかった。
 
(中略)(金持ちの)罪は、この世の苦しみと困窮に対して想像力を欠いたことにある。…彼の刑罰は、いわば無視した者への刑罰だったといえよう。
 
(中略)(金持ちの)罪は悪いことをしたことではなく、何もしなかったことである」(ウイリアム・バークレー著 柳生 望訳「聖書註解シリーズ4 ルカ福音書」238p ヨルダン社)。
 
 確かにパウロはギリシャ・コリントの集会に対し、最後の審判における裁定基準は、人の生前の行為であると言っています。
 
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節)。
 
 但し、口語訳には「自分の行ったことに応じて」の前にある「体によって」がなぜか抜け落ちているのですが。
(なお、「最後の審判」については七月七日の礼拝説教「十字架の物語▲ぅ┘后Εリストは罪びとを最後の審判から救うために到来した救世主であった」に述べています)
 
 そして「しなかったこと」もまた、「体によって自分の行ったこと」なのです。
 
イエスはこの譬えにおいて、来世での運命を決めるもの、それが現世での生き方、地上での過ごし方なのだ、ということをパリサイ人たちに言わんとしたかったのかも知れません。
 
 
3.幸いな来世への道標は、神からの言葉に隠されている
 
苦しい「黄泉」に落ちて目が覚めた「金持ち」は地上で自分と同じような生き方をしている五人の兄弟たちのことが気にかかり始めます。そこでアブラハムに向かい、ラザロを遣わして兄弟たちに警告をしていただきたいと嘆願します。
 
「そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告をしていただきたいのです』」(16章27、28節)
 
 自分が無視していたラザロを使いに出して欲しいというわけですから、何とも虫のよい話ですが、金持ちは必死です。
しかし、これに対してアブラハムはにべもなく答えます、「彼らには聖書がある」と。
 
「アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』」(23章29節)。
 
 ここで言う「モーセ」(29節)とはヘブル語聖書におけるモーセ五書のことで、「預言者」(同)とはヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、小預言書の八書を指しました。
 
なお、残りの文書は「諸書」に分類され、その「諸書」の筆頭文書が詩篇でしたので、「モーセと預言者と詩篇」と呼ばれる場合もありましたが、ユダヤ人が「モーセと預言者」(29節)と言った場合は、それで聖書の全部を意味したのでした。 
つまり、「ラザロを遣わすまでもない、彼らには聖書がある、聖書に聞け」というわけです。
 
しかし、金持ちは食い下がります。「確かに我が兄弟たちは聖書を尊重していません、しかし、死んだラザロが彼らの所に行ってくれたら、彼らはきっと悔い改めると思います」と。
 
「金持ちが言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』」(16章23節)。
 
金持ちの嘆願に対するアブラハムの言葉は、「今の段階で聖書に耳を傾けようとしていない者は、だれかが死の世界からよみがえってきたとしても聞きはしない」というものでした。
 
「アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」(23章31節)。
 
 ところで、「譬え話」の場合、語り手が最も言いたいことは結びの言葉に凝縮されていると言われています。
そうであるならば、イエスが「アブラハム」に言わせたこの言葉は特に重要です。
この言葉は、「モーセと預言者とに耳を傾けない」(31節)者、すなわち聖書の言葉の実践家であることを自負するパリサイ人たちのような人々に向かって語られたということになるわけです。
 
 確かに彼らはヘブル語聖書を良く知ってはいます。しかし、ヘブル語聖書の究極のメッセージは、神から送られてくるメシヤ・キリストを素直な心で受け入れることに尽きました。
 そして聖書とはキリスト証言という性格と目的を持った文書なのです。
 
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 144p)。
 
 「死人の中からよみがえってくる者」(31節)の言葉に耳を傾ける者があるとしたら、その人は既に「モーセと預言者」(同)つまり聖書の言葉に素直な気持ちで耳を傾けている人なのです。
 
そしてそのような人は、どんなに多忙でも、神の言葉に耳を傾ける機会を選択肢の第一に持つのだと、イエスは結論付けています。
もちろん、体調、仕事、家庭環境、居住地などの止むを得ぬ事情で礼拝出席が出来ないという方々もおられます。
でも、聖書は今、膨大で高価な巻き物としてではなく、廉価でコンパクトなかたちで入手することが可能です。また、教会のホームページなどを通して神の言葉を読む機会もあります。
 
どうぞ、キリスト証言としての聖書が語りかける言葉に「耳を傾け」(31節)る日々の実現を心掛けてください。
そして幸いな来世を確信しながら、幸いな現世を生き抜いていただきたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-09-01 16:14:07 (2102 ヒット)
2013年礼拝説教

13年9月1日 九月日曜特別礼拝説教(第四回)

「十字架の物語ぅぅ┘后Εリストは、望みなき罪びとに永遠の生命を与えた救世主であった」
  
ルカによる福音書23章39〜43節(新約聖書口語訳132p)
 
 
はじめに
 
NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」も、ドラマチックに展開して
(ドラマですから当たり前なのですが)、物語もいよいよ佳境に入ってきました。
先週末には天野アキと薬師丸ひろ子のダブル主演映画、「潮騒のメロディ」も完成し、ヒロインによる主題歌の録音も無事に完了して、試写会にまで漕ぎ着けました。もっとも次週は東日本を襲ったあの大震災に故郷の人々が遭遇することになるわけですが…。
 
このドラマのヒロインの天野アキがハートフルというタレント事務所をやめて(というよりも首になって)、母親の小泉今日子が立ち上げた事務所の所属タレントとなって受けた最初の仕事が、松田優作の長男が演じるマネージャーが捜してきた幼児向け教育番組「見つけてこわそう」への出演でした。
 
この幼児番組の中でヒロインは、壺などを落として割ったあとに、「逆回転だあ」と言って、両手を回して巻き戻しのジェスチャーをするのですが、その途端、あーら不思議、粉々に割れた壺が元のかたちに戻る、というわけです。そしてこれが幼児に受けて、彼女は一躍、人気者となります。
 
この、粉々に割れた壺が「逆回転」で元に戻る場面を見ながら、人生も逆回転ができたらどんなに幸せだろうかと思う人もいたと思うのですが、しかし、「覆水、盆に返らず」で、盆から零れ出た水を元に戻すことが出来ないように、人生、逆回転はできないのです。
 
因みに「盆」とは日本でいうお盆のことではなく、料理あるいは手を洗うのに使うボウルのことなのだそうですが。ひっくり返ったボウルから一度零れ出た水を元に戻すことはできない、つまり、人生を巻き戻して元のかたちに返すということは不可能なことなのです。
 
しかし、人生、逆回転つまり巻き戻しはできませんが、出直し、やり直し、再出発は可能なのです。古代のギリシャ人が集う教会に宛てた書簡の中で使徒パウロは、出直しは可能だと宣言します。
 
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古い者は過ぎ去った、見よ、すべては新しくなったのである」(コリント人への第二の手紙5章17節 新約聖書口語訳283p)。
 
「キリストにある」とは、キリストに結ばれている、という意味です。では、キリストに結ばれるとはどういうことなのでしょうか。
 
さて、六月から毎月第一日曜日ごとにご紹介しております「十字架の物語」は今月で第四回目ですが、今回は最後まで自分の非を認めずに神を恨み、人を呪って死んで行った死刑囚と、途中で自らの非を悟って悔い改めた死刑囚を対比しながら、キリストの驚くべき恵みについてお語りしたいと思います。
 
 
1.残念なことに、責任を他者に転嫁して自己を義とする者には神の救いはない
 
人の人生、過ぎて行った過去への巻き戻しは出来ませんが、出直しは可能です。でも、十字架に架けられたテロリストの死刑囚は残念なことに、一切の責任を他者に転嫁してひたすらおのれを義なる者とし、正しい者とする感情と思考とに支配されておりました。そしてその姿勢は十字架の上で、隣のイエスへの罵詈罵倒となって示されたのでした。
 
「十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた」(ルカによる福音書23章39節 新約聖書口語訳132p)。
 
 「犯罪人」(39節)とありますが、ローマ帝国の支配下地域では十字架刑はローマの要人暗殺などのテロや反政府暴動、国家転覆の陰謀等、国家への反逆を試み、あるいは実行した政治犯を対象とした処刑方法でした。ですからイエスも凶悪な政治犯として死刑を宣告されたのでした。
 
しかし、イエスの場合、ユダヤ当局の訴えが根も葉もないものであることをローマ総督ピラトは見抜いていましたので、第一回目の審理では、無罪としています。
 
「群衆はみな立ちあがって、イエスをピラトのところへ連れて行った。そして訴え出て言った、『わたしたちは、この人が、国民を惑わし、貢(みつぎ)をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえているところを目撃しました』。…そこでピラトは祭司長たちと群衆とにむかって言った、『わたしはこの人になんの罪も認めない』」(23章1、2、4節)。
 
ところが事態は一変します。エルサレム神殿を中心とする莫大な宗教的権益を独占するにあたり、邪魔なイエスは何としても抹殺をしたいと考えた大祭司一派及びユダヤ当局と、ローマ皇帝から派遣された総督として管轄地域ユダヤの安寧秩序の保持を第一とするローマ官僚ピラトの利害が一致したため、理不尽にも無実と知りつつピラトは罪なきイエスを十字架刑に処することとしたのでした。
 
では、二人の「犯罪人」はどうかと言いますと、彼らは間違いなくローマに対して「暴動を起こし人殺しをしてつながれていた暴徒」(マルコによる福音書15章7節)たち、つまり凶悪な犯罪者、テロリストであって、死刑判決は正当なものでした。
でも、彼らは自暴自棄になり、おのれのことは棚に上げてイエスを罵っていたのでした。
 
「祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう』。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコによる福音書15章31、32節)。
 
 もっとも一人は途中でイエスを罵倒することをやめるのですが、もう一人は罵倒し続けます(23章39節)。
 
この男には二つの誤解がありました。一つは、キリストである筈のイエスが、なぜ十字架に架けられているのか、という理由に関する誤解です。
 
彼は一方的なキリスト観を持っていました。彼にとり、キリストはあくまでもユダヤ人のために神から遣わされた軍事的、政治的救済者であって、「その救済者メシヤ・キリストが敵であるローマによって処刑されているのはおかしい、あんたは偽メシヤ、偽キリストではないか」という考えです。しかし、キリストが軍事的、政治的救済者、という考えは民族主義的な人々の勝手な思い込みでしかありませんでした。
 
 そしてもう一つの誤解が、「自分は正しい、正義の側に立っている」という思い込みでした。「自分は確かに人殺しはした、けれどもそれは救国のため、そして虐げられている民族のためであるから正しい行為なのだ」、つまり目的が手段を正当化する、という論理の中にいたのです。
 
彼の特徴は罪意識、加害者意識が皆無であったことです。そして、正義のために犠性を払ってきた自分、正しい自分がなぜ処刑をされなければならないのか、民族のために決起した自分を同胞はなぜ見捨てるのか、神はなぜ自分に救済の手を伸ばさないのかという憤怒の感情で一杯となり、その怒りがイエスに対する八つ当たりとなったのでした。
 
残念なことに、このテロリストのように責任を他者や神に転嫁して自らを正しいとする者、つまり自己義認を常とする者には、神の救いはないのです。
 
 
2.有り難いことに、自らの非を潔く認めて悔い改める者には神の救いがある
 
しかし、感謝なことに、自らの非を潔く認めて真摯に悔い改める者には、神の憐れみが注がれます。その代表的な人物がもう一人のテロリストだったのです。
 
彼は十字架上で気付きます。それまでは殉教者の気分であった彼は、このような目に遭っているのは自己責任であるということに気づくのです。そこでイエスを罵り続けているもう一人を窘めます。
 
「もうひとりは、それをたしなめて言った、「お前は同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやった事の報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ」(23章40、41節前半)。
 
 「もうひとりは」(40節)突如、罪意識に目覚めたのでした。そしてイエスを弁護します。「我々と違って、このお方には罪はないのだ」と。
 
「しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」(23章41節後半)。
 
 彼はなぜ、そのように言えたのでしょうか。何が彼の自己理解を、そしてイエスに対する見方を変えさせたのでしょうか。
恐らくは、普通であるならば憎んでも余りある敵、呪ってもよい筈の者たちに対するイエスの愛に満ちた執り成しの祈りを聞いたからであったと思います。
 
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(23章34節)。
 
 彼はこのような祈りを聞いたことがありませんでした。そこで彼は悟ったのです。
イエスの祈りの「彼ら」(34節)の中には間違いなく、今現にイエスを罵っている自分たちもいた、自身に向かって悪口雑言を浴びせかける者たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」(34節)と心から祈るこの人が、犯罪者であるわけがない、と。
 
 そして、「やはりこのお方はメシヤ・キリストとして神から送られてきた方に違いない、メシヤ・キリストであるならば神からの権威を授けられている筈だ、自らの過去を省みた時、そこに見えるものは、口では民族の解放、母国の救済を謳いながら、心の中に溢れているものは敵への憎悪と、メシヤの王国が完成した暁にはいいポジションに着きたいという卑しい野心であった、今となってはやり直しが効かない人生であったが、もしも万が一、出直しができるものなら、こんな人生ではなく、もっと別の意義深い人生を送りたいものだった」という思いを込めて言ったのが、イエスへの言葉であったのでした。
 
「そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』」(23章42節)。
 
 二人の犯罪人の明暗を分けたものは何かと言いますと、それは罪意識の有無、にありました。
 
罪には根っこの罪と実としての罪があります。一般的に問題とされるのは行為としての罪、すなわち実としての罪なのですが、根っこがあるから、あるいは幹があるから実がなるのです。そしてこの根っこの罪をキリスト教神学では「原罪」と言います。
 
 最後までイエスを罵っていた犯罪人にはこの原罪意識がありませんでしたが、もう一人の犯罪人が考え方を変えたのは、イエスの祈りを聞き、また祈る姿を見た彼の内部に「原罪意識」が芽生えたからであると思われるのです。
 
 では「原罪」とは何かと言いますと、自己の欲望の充足のために神であれ、他者であれ、利用しようとする姿勢を言います。
 
新潟県佐渡に伝わる民話「鶴の恩返し」あるいは「鶴女房」を題材にして、劇作家の木下順二が昭和二十四年に発表した「夕鶴」について、国際基督教大学教授であった武田清子がその著書「背教者の系譜―キリスト教と日本人」(岩波新書)の中で、「木下順二が日本人への宣教は日本人の中に原罪意識を呼び起こすことから始まる、という考えに基づいて『夕鶴』を書いた」と分析していました。昭和四十八年のことです。
 
 村人にはバカにはされるが、心の優しい与ひょうはある時、田んぼの畦で矢を射られて苦しんでいる鶴を見つけて矢を抜いてあげるのですが、それから間もなく、つうという女性が女房にしてくれと押し掛けてくる、それは実は与ひょうが助けてあげた鶴の化身であった、そしてしばらくは二人の幸せな暮らしが続いたが、つうが織る布、「鶴の千羽織」で金儲けを企む村人に唆されて、金銭欲に囚われはじめた与ひょうの言葉が、つうには理解できなくなってきます。
 
つ  う あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとうに嬉しかったから、あたしはあんたのところにきたのよ。そしてあの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。それをあんたは、そのたびに「おかね」っていうものと取りかえてきたのね。
(少年少女日本文学館木下順二著「夕鶴」165p 株式 会社講談社)
 
与ひょう 布を織れ。すぐ織れ。今度は前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうだ。何百両だでよう。
つ  う (突然非常な驚愕と狼狽)え?え?何ていったの?今。「布を織れ。すぐ織れ。」―それから何ていったの?
与ひょう 何百両でよう。前の二枚分も三枚分もの金で売ってやるちゅうでよう。
つ  う …?(鳥のように首をかしげていぶかしげに与ひょうを見まもる)
与ひょう あのなあ、今度はなあ。前の二枚分も三枚分もの金で。
つ  う (叫ぶ)分からない。あんたのいうことがなんにも分からない。さっきの人たちとおんなじだわ。口の動くのが見えるだけ。声が聞こえるだけ。だけど何をいってるんだか…ああ、あんたは、あんたが、とうとうあんたがあの人たちの言葉を、あたしにわからない世界の言葉を話し出した…ああ、どうしよう。どうしよう。
     (前掲書177、178p)
 
 金銭欲に目が眩んで、金銭の虜になった与ひょうには、つうは金を生み出す道具に見えてきたのです。その結果がつうに与ひょうの言葉が理解できなくなったという状態が生じてしまったのでした。
 
これこそが聖書のいう「原罪」であって、「もうひとり」(40節)の犯罪人は、イエスの祈りを聞いて自らが「原罪」に支配されている罪びとであるということを悟ったのでした。
 
 しかし、自らの非、おのれの罪を認めて心の底から悔い改める者、自分に待っているのは地獄の業火でしかないことを覚悟した者には、何とも有り難い事にどんでん返しの思いもかけない救いが神によって与えられるのです。
 
 
3.キリストは、望みなき罪びとに永遠の生命を与えることのできる救世主であった
 
何十年も生きてきて、それまで正しいと信じてきたことが間違っていたことがわかり、自分の本当の姿が見えた、と思った時、それは「時、既に遅し」であって、そこは死を前にした十字架の上だった、それが悔い改めた犯罪人の姿でした。
 
彼の過去には神の救いを求めるだけの理由は見つけられません。またこれから神の救いを得るに値する行為をしようにも、その機会はもはやありません。すべては手遅れでした。
しかし、「『主イェスよ』と呼び奉りて、拒まれし者、世になし」(聖歌545番4節)です。イエスは信じ難い言葉を彼に返します。
 
それは、「私はあなたの真摯なる悔い改めの言葉を聞き、あなたの心情を理解した、あなたはたったいま、一切の罪を洗われて神の子となり、私と共に神の国に入った」という宣言でした。
 
「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」(23章43節)。
 
 「パラダイス」(43節)とはもともとは古いペルシャ語の言葉であって、それは囲いに囲まれた庭園のことで、この時代、それは世の終わりに出現する神の楽園、神の国を意味しました。そして当時のユダヤ教の理解では、律法違反を避けて、ひたすら善行を積んで精進した特別の者だけが入ることのできる領域とされていたのでした。そこは神の民という身分を与えられた者しか入ることができない世界でした。
 しかしイエスは犯罪人に向かい、「あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」と宣言したのです。
 
しかもイエスは「きょう」(同)と言われたのでした。「きょう」とは今、という意味です。つまりイエスは未来に何の希望もない犯罪人に向かい、あなたはたった今、この瞬間、メシヤである私と共に確かに神の住む神の住まい、「パラダイス」に入ったのだと言われたのでした。
それはこの犯罪人にとってはまことに信じ難い宣告でした。しかし、イエスには罪びとの罪をゆるし、罪びとを神の国にいれる権威があったのです。
 
なぜかと言いますと、イエスの十字架刑は、実は人類すべての罪の身代わり、つまり代償の死であったからでした。イエスがキリスト、救い主であるということは、人間の究極的な難問である「原罪」を克服したということなのです。
 
そのため第一に、イエスはその生涯を通じて、「原罪」と対極にある愛を実践し続けることによって、「原罪」に打ち勝たれた最初の人となったのでした。そのしるしが十字架の上で敵のために執り成しの祈りを捧げたという事実です。それはかたちではありません。愛を動機とした心からの祈りでした。
 
しかし、いくらイエスが「原罪」に打ち勝ったからといって、人類が「原罪」の下にいるという事実に変わりはありませんが、実はイエスが罪なき人生を送ったということは、「原罪」の下にある人類の身代わりに罪の罰を受けることでもあったのです。
イエスが十字架に架かった時、聖なる神は私たち人類の実としての個々の罪だけでなく、根っこの罪である原罪そのものをイエスに負わせることによって処分をしてくださったのでした。
 
もちろん、人がこの地上で人として生きている間、つまり今の時点では、人類を支配している「原罪」から直ちに逃れることはできません。
しかし、自らが「原罪」に支配されている存在であるという自覚、すなわち「原罪意識」を持って、神の前に悔い改めの心を持つ者を、神はイエス・キリストのゆえに受け入れて、神の子としてくださるのです。
 
イエス・キリストこそ、望みなき罪びとにまことの救い、永遠の生命を与える救世主となるために、孤独の中で十字架の苦しみを耐え忍ばれたお方だったのです。
 
そして、このイエス・キリストは二十一世紀の今も、私たち日本人のための変わらぬ救世主なのです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-08-25 16:38:30 (2053 ヒット)

 13年8月25日 日曜礼拝説教

「詩篇を読むた世慮斥佞聾呂譴榛欧鮴犬返らせる」
 
 詩篇19篇7〜11節(旧約聖書口語訳763p)
 
 
はじめに
 
 私も長く生きていますが、この夏ほど猛暑、炎暑、酷暑という言葉を実感した夏はありません。そういう中で、八月の最終日曜日を迎えました。
この夏は特に祈りを深め、信仰を養うため、「詩篇を読む」と題して詩篇一二一篇、三十四篇、二十三篇を読んできましたが、今週は最後の詩篇です。
 
そこで、今週は聖書が神からの唯一無二の啓示であること、聖書の一番の効用は私たちの魂の蘇生にあること、そして聖書は読む人により、また読み方により、甘美にして何物にも替え難い魅力を持つものとなるという三つのことを確認したいと思います。
今朝、取り上げる詩篇は第十九篇です。題して「神の言葉は枯れた骨を生き返らせる」です。
 
 
1.唯一無二の教え、それは神の言葉、聖書
 
詩篇の十九篇は二つの詩篇から成っています。一節から六節までは大自然、つまり神が創造した被造物である、この広大な天体の規則的な運行、とりわけ太陽がもたらす恩恵について流麗な表現で詩的かつ文学的に語ります。
 
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。…それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない」(詩篇十九篇1、6節 旧約聖書口語訳762p)。
 
 キリスト教神学ではこれなどを「自然啓示」あるいは「一般啓示」などと言います。しかし、天体が「神の栄光をあらわ」(1節)す、とはいっても、それは間接的なものであって、痒いところを靴の上から掻くようないわゆる隔靴掻痒的な啓示です。
 
もしも「自然啓示」が神を示す決め手であるならば、世界の民族の中でも自然に対する畏敬感情が特に強い日本人は、とっくの昔にユダヤ教やキリスト教のような唯一神信仰を持っていることでしょう。
しかし、「自然啓示」には限界があるため、日本人は個々の自然を崇めて、これを礼拝の対象とするにとどまってしまいました。
 
この「自然啓示」という間接啓示に対し、神自身が直接、選民イスラエルにご自身を啓示したもの、それが「トーラー(律法)」と言いまして、モーセの「十戒」であり、その「十戒」を基礎にしてまとめられた成文律法、そして成文律法をより細密に解釈した、口伝律法と言われるものでした。
成文律法が「モーセ五書」であり、口伝律法が「先祖からの言い伝え」です。
 
「自然啓示」に対してトーラー(律法)は神の民に対して、神が特別に啓示をしたものですのでこれを「特別啓示」と呼びます。
また「自然啓示」は神を間接的に示す「間接啓示」であるのに対し、トーラーという「特別啓示」は神を直接に示したものですので、これを「直接啓示」と言うわけです。
そしてこの神からの特別な啓示、直接の啓示である「トーラー」「おきて」「律法」の唯一無二性、卓越性を謳ったものが十九篇の後半、七節以降なのです。
 
「主のおきては完全であって」(19篇7節前半)
 
「主のあかしは確かであって」(19篇7節後半)
 
「主のさとしは正しくて」(19篇8節前半)
 
「主の戒めはまじりなくて」(19篇8節後半)
 
「主を恐れる道は清らかで」(19篇9節前半)
 
「主のさばきは真実で」(19篇9節後半)
 
 なお、一節から六節までに「神」と訳されている言葉の原語は通常、神を表わす「エル」あるいは「エール」ですが、七節以降の「主」と訳されている言語は「ヤーウェ」です。
「ヤーウェ」は神が選民として選んだイスラエルにご自分を紹介する際に示した神の名前です。つまり、「神」が普通名詞であるならば「ヤーウェ」は固有名詞というわけです。
 
 「主のおきて」(8節前半)の「おきて」の原語はトーラーで、律法のことです。
そして七節後半以降の「主のあかし」(7節後半)、「主のさとし」(8節前半)、「主の戒め」(8節後半)、「主を恐れる道」(9節前半)、「主のさばき」(9節後半)は、このトーラー、つまり「おきて」の多様な役割や側面を表現したものであって、トーラー(おきて)の性格を端的に表現したものが「主のおきては完全であって」(7節前半)の句です。
 「完全」とは完璧、パーフェクトということで、完全無欠、傷が一切ない、誤りがない、という意味です。
 
「完全であ」(7節前半)るからこそ、「主のおきて」(同)は揺るぎなく「確かであって」(7節後半)、更に「正しくて」(8節前半)まっすぐであり、「まじりなく」(8節後半)純粋で、「清らかで」(9節前半)あり、嘘偽りがなく「真実であ」(9節後半)るという特徴を持つのです。
 
つまり、ここで強調されていることは「信頼性」です。
 
 新政権の登場以来、憲法論議が活発になってきましたが、見逃すことができない論議が、「憲法は政府を縛るものである」、つまり憲法は暴政から国民を守るものだという、一方に偏った主張がいつの間にか大手を振って闊歩するようになってきたことです。
 
確かに憲法は為政者を縛るものであることは事実です。しかし、憲法は同時に国民を縛るものでもあるのです。だからこそ、現行憲法でも国民の三大義務として、労働、教育、納税の三つを国民の義務としているのです。憲法は政権側を規制する一方、他方で国民を縛るものでもあるのです。
 
つまり憲法とは、一つの国において政治を司る為政者と、国を構成する国民とが、共に遵守し尊重すべきものとして定められたものなのです。そしてこの憲法に該当するもの、それが「十戒」でした。
 
 そして、国家と国民の関係を規定するものが憲法であるように、国家と国家の関係を規定するものが条約であるということは誰もが知っています。
ところがこの、国と国との間に結ばれた条約を無視する国が、日本の現地民間企業を悩ませています。
 
つい先ごろ、韓国のソウル高裁と釜山高裁で、戦時中に日本で徴用されたとされる韓国人労働者たちとその遺族が日本企業(新日鉄住金、三菱重工業)に賠償を求めた訴訟の判決がありました。そして、予想されていたこととはいえ、両高裁は日本企業に対して、賠償金の支払いを命じる判決を出したのでした。
 
 韓国の裁判所は戦時徴用を強制と決めつけていますが、当時は半島出身者も日本人として日本の法律の下にいました。そして徴用は日本人すべてを対象としていたのです。ですから訴訟を起こした韓国人労働者の当時置かれていた法的立場を無視しての判決は不当である可能性が高いのです。
 
 また、百歩譲って、その「戦時徴用」において十分な報酬が支払われなかったということがあったとしても、戦時下における個人補償を含めた日韓における戦後処理は一九六五年に締結された「日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)」という二国間の条約において、日本だけでなく韓国も「完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認」(日韓請求権協定第二条)しているのです。
 
この条約において日本側が韓国側に支払いを約束した金額は一ドル三百六十円換算で無償三億ドル、有償二億ドル、合計五億ドルの供与と、三億ドル以上の民間借款で、最終的に十一億ドルという巨額なものでした。
 
皆さまは当時の韓国の年間の国家予算がどのくらいかご存知でしょうか。日韓基本条約が締結された一九六五年当時の韓国の年間国家予算は僅かの三億五千万ドルしかありませんでした。
ですから、無償、有償、借款合わせての日本からの経済援助金はその三倍にものぼる巨額なものだったのです。
 
そしてこの中には実は個人補償金も含まれておりました。条約交渉の中で韓国政府は一括での受け取りを主張し、個人補償は政府の責任で行うということで条約は締結されました。
しかし、韓国政府は日本からの供与の中に個人補償分が含まれていることを国民に秘密にしたまま、当然、その金は個人補償には回さず、すべてを経済復興に注ぎ込んでしまったのでした。そしてその結果が「漢江(はんがん)の奇跡」と呼ばれる韓国の経済成長でした。
 
そして、この事実、特に個人への補償金を韓国政府が一括して受け取っていたという事実を、政府が国民に対して公表したのは条約が締結されて四十年も経ってからだったのです。
ですから多くの韓国民は自分たちが自力で経済復興を成し遂げたのだと思い込んでいたのでした。しかし、日本の金がなければ経済成長などは絵に描いた餅だったのです。
 
この事実から、もしも個人補償を求めるのであるならば、それはそのまま韓国政府に求めればよいのであって、日本側に請求するのはお門違いなのです。
ところがこの事実をソウル高裁も釜山高裁も知っていながら、国民感情に阿って国と国との間で締結された国際条約を無視し、不当な判決を下したのでした。
 
今回の判決は、韓国という国が法治国家などではなく、事情や情緒を優先する「情治国家」(黒田勝弘著「韓国反日感情の正体」38p 角川学芸出版)でしかないこと、国際条約よりも国内法を優先させるような無知、無法な国であるということを端無くも露呈させることとなりました。まさに国際的な笑い物、それが今回の判決です。 
つまり、私たちが相手にしている国は、汚ない言葉を使うと、「条約なんかは糞喰らえ」という民度の国なのだということを心得ておく必要があるのです。
 
この国を見ていると、ついつい箴言の警句を思い起こしてしまいます。
 
「蛭(ひる)にふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う」(箴言30章15節前半 新改訳)。
 
詩篇に戻りますが、「トーラー」つまり「主のおきて」(7節)が「完全」(同)無欠なのは、その信頼性にあります。「トーラー」とは神と神の民との相互信頼に基づく契約をその特徴とします。
 
「それゆえ、きょうわたしがあなたがたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたたちの先祖に誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう」(申命記7章11、12節 257p)。
 
 十九篇七節からの作者は、申命記において確認されたこの「おきて」こそ、他に二つとない唯一無二の完全無欠な「おきて」であるということを強調したのです。
そして「主のおきて」(7節)は今日、どのようなかたちになっているかと言いますと、それは旧約聖書三十九巻と新約聖書二十七巻という「完全」(同)なかたちで整備され、「完全」な内容で保存、伝承されているのです。
 
 
2.神の言葉、聖書の効用、それは枯れた魂の蘇生
 
では、この「主のおきて」(7節)すなわち神の言葉、聖書の効用はどのようなものなのでしょうか。作者は断言します、これを守り、尊ぶ者には神からの報酬がある、と。
 
「あなたのしもべは、これらによって戒めを受ける。これらを守れば、大いなる報いがある」(19篇11節)。
 
その「報い」(11節)とは具体的には人の魂、とりわけ、日々の営みの中で時には疲れ、ともすれば枯れて行くような魂を生き返らせる、蘇生させるという効用として現われる、と作者は言い切ります。
 
「主のおきては完全であって、魂を生き返らせ」(7節前半)
 
ここで「魂」と訳された原語「ネフェシュ」が、先週、比喩について説明した際の「代喩」としての「魂」であるならば、「魂」という言葉でその人の全体を指すと考えてよいわけですし、一方、文字通りの人間の側面としての「魂」であるならば、心理学で言う心、そして心の奥の深層心理とすることもできます。
どちらにせよ、人の大切な命ともいうべきもの、それが「魂」です。
 
そして、「主のおきて」の効用は、死んでいたような、あるいは疲れ、枯れた人の「魂を生き返らせ」(7節)る、蘇生させるところにある、というわけです。
 
それはまた、「無学な者を賢く」(7節後半)し、悲哀の中にある者の「心を喜ばせ」(8節前半)、鈍くなっていた「眼を明らかにする」(8節後半)すなわち、眼に光と輝きとを回復させます。
 
また、「主のおきて」は「とこしえに絶えることなく」(9節前半)、つまり、途中で崩壊したり、行き詰まったりすることなく、しかも「ことごとく正しい」(9節後半)ので、安心なのです。
 
米国という国は、良くも悪くもキリスト教国で、光と闇とが同居している国であると言えると思います。
 
米国における闇の部分というのは人種差別、特に黒人差別であって、黒人差別による冤罪事件が一九六〇年代に起きたルービン・カーター事件でした。
 
ルービン・カーターは「ハリケーン」とあだ名された有名なボクサーでしたが、二十九歳の時、バーで三人の白人を殺害した、という容疑で逮捕され、ニュージャージー州の最高裁判所で終身刑を宣告されます。
でもカーターは、実際は事件とは無関係で、カーターを憎む白人警察官が偽証人を立て、証拠を捏造してカーターを有罪に追い込んだのです。
 
カーターは獄中で「第十六ラウンド」という本を書いて冤罪を訴えたため、モハメド・アリやボブ・ディランなどの著名人がカーターの再審に動くのですが、再審でもカーターは有罪となったため、いつしか人々の熱も冷めていき、カーター自身も気力を失い、人間不信になって、まさに魂が枯れたような状態に陥ってしまいます。
 
そんな時、カナダに住む十五歳のレズラ・マーティンという少年―彼は劣悪な養育環境から読み書きもままならない少年で、カナダで三人の保護者によって育てられていたのです―が、カーターが獄中で書いた「十六ラウンド」という本を古本市場で僅かの二十五セントで購入をし、保護者たちに助けられながら苦労して読了した後、里親たちと協力してカーターの無実を晴らそうとして、カーターが収監されている刑務所を訪問します。
 
しかし、すっかり希望を失くしていたカーターは取り合おうとしません。そこでレズラ少年はカーターに、諦めなければ道は拓けるということを分かってもらおうとして、自分もこれから学業に励む、そしてトロント大学を受験し合格する、と宣言をするのです。
十五歳になるまで読み書きすらろくに出来なかった少年にとって、超難関のトロント大学の合格などはまさに夢のまた夢でしかありませんでした。
しかし、奇跡は起こりました。猛勉強の甲斐あってその三年後、レズラ・マーティンはトロント大学の入試に合格し、合格証書を獄中のカーターに送ります。
 
そしてレズラの合格証書を獄中で手に取ったカーターは、「俺の十六ランドの終了ゴングはまだ鳴っていない」と、冤罪を晴らすべく、意欲を燃やし、そして紆余曲折を経て、事件から二十二年後、レズラやレズラの里親たちの力を受けて州の裁判所にではなく、連邦裁判所に再審を請求し、そして米国連邦裁判所は州の判決を覆して、ルービン・カーターに無罪を宣告するのです。
 
この事件とその経過は一九九九年、名優デンゼル・ワシントン主演で「ザ・ハリケーン」という映画になり、日本では翌二千年に公開されました。
私も梅田の映画館でこの映画を鑑賞致しました。その際に購入したパンフレットを改めて見ますと、映画ではレズラはカーターに高校の卒業証書を送ったことになっていますが、実際はトロント大学の合格証書だったそうです。
 
なおこの話は二月に、「奇跡体験!アンビリバボー」という日本テレビ系列のテレビ番組でも紹介されましたので、観た方もおられるのではないかと思います。
 
レズラ・マーティンはその後弁護士となって、現在、カナダにおいて冤罪問題にも積極的に取り組んでいるそうですが、レズラ・マーティンもカーターと出会うことがなければ、そこまでの問題意識を持つこともないまま、無為の人生を送ったかも知れませんし、何よりも枯れた魂を抱えて獄中に沈んでいたカーター自身、レズラの熱意に刺激されたからこそ、おのれの問題と向き合う意欲を再燃させることができたわけです。
 
この話には聖書は出てきません。しかし、その背景や経過を深く知れば知るほど、暗闇を照らし、穴倉に沈んでいる人の「魂を生き返らせ」(7節前半)、「無学な者を賢くし」(7節後半)、更にその「心を喜ばせ」(8節前半)、「眼を明らかにする」(8節後半)キリスト教の精神、「主のおきて」(7節前半)への信頼というものが米国やカナダというキリスト教国に浸透をしているのだということを改めて感じさせられるのです。
 
神の言葉、聖書は飾りではありません。今もなお、打ちひしがれている者に勇気を与え、枯れた「魂を生き返らせ」(7節)る効用があるのです。
私たちはもっともっと、神の言葉、聖書の効用に目を向けて行きたいと思うのです。
 
 
3.神の言葉、聖書の体験、それは何よりも慕わしく、また甘美
 
 最後に、神の言葉、聖書は、それを体験した者にとっては、決して苦痛をもたらすものではなく、何よりも慕わしく、また蜜よりも甘いものなのだということを作者は強調します。
 
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(19篇10節)。
 
 新約聖書、特に福音書やローマ人への手紙などを読みますと、一世紀のユダヤ教が律法主義、善行主義として否定的に捉えられているように見えます。
 
しかし、土岐健治一橋大学名誉教授の「初期ユダヤ教の実像」(新教出版社)などによりますと、イエス時代のユダヤ人らの信仰生活は非常に積極的で明るく、そして口伝律法を含めてトーラー(律法)自体を心から喜び楽しんでいたということです。
 
どんなによい食材でも、料理の仕方で不味くもなり、せっかくの栄養価もふっとんでしまいますが、同じ食材でも逆にほっぺたが落ちるような美味な料理になることもあります。
 
聖書の場合、読み方次第で苦くもなれば甘くもなるのです。
以前も申し上げましたが、私は聖書の命令形が苦手でした。命令形が出てくると読み飛ばすのが常でした。心を責められるからです。
でもある時、先輩教職が教えてくれました。命令法は直説法で読むとよい、と。つまり、「〜をせよ」「〜をするな」という命令形は、神が、「私がそれを出来るようにしてあげよう」という恵みの約束として読めばよいのだ、と。
 
目から鱗が落ちる思いとはこのことでした。今は出来なくても、神はいつの日にかその命令を実行できるようにしてくれるという希望と信仰、そして感謝の気持ちで読むことができるようになったからです。
 
 そして何よりも、神の言葉、聖書は天地の創造者である神が、私たち罪びとに向かって宛てた愛の手紙なのだということを肝に銘じて読むことです。
 
聖書全体を通じて主なる神は主張します、「誰が何と言おうと、あなたは私の目にはかけがえのない存在として映っているのだ」と。
 
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節 新改訳)。
 
このことがわかるようになりますと、聖書は自ずから、金よりも慕わしく、蜜よりも甘いという、神の言葉の慕わしさ、甘美さを実感することのできるものとなり、「昼も夜もそのおきてを思う」(詩篇1篇2節)者となっていくのです。
「詩篇を読む」は今週で終了ですが、これからもそれぞれが詩篇から神の豊かな恵みを味わってください。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-08-18 16:51:09 (1989 ヒット)
2013年礼拝説教

13年8月18日 日曜礼拝説教

「詩篇を読むA看修凌世鬚錣羊飼いとして仰ぐ幸い」
 
  詩篇23篇1〜6節(旧約聖書口語訳p)
 
 
はじめに
 
相変わらず、アベノミクスへの批判が絶えませんが、それならばアベノミクスに代わるような良案があるのかと言いますと、批判者は批判をするばかりで一向に対案を出そうとしません。
つまり、ケチをつけることが目的の批判であることが知られてしまいました。
 
確かにTPP交渉参加、あるいは消費税率引き上げの問題など、下手をすればまた滝壺に転落するような危険性もある現下の状況から、庶民の一人としてはハラハラドキドキの時期ですが、政治とは、国民生活の「安定」と「安全」「安心」の三つの課題の向上を目的として営まれるものですので、傍観視するのではなく、為政者のために神の助けと祝福を祈りたいと思うのです。
 
エジプトにおける政治混乱が収まりそうにありません。エジプトは二年半前、アラブの春とやらで独裁政権が倒れ、一年後に実施された大統領選挙においてムスリム同胞団に推されたモルシという人が大統領になりました。
 
しかし、この新大統領、経済政策の失敗も何のその、支持母体であるイスラム原理主義組織、ムスリム同胞団の意向を受けて性急にイスラム化の政策を推し進めたことから反発が募り、ついに軍部のクーデターによって大統領は軟禁状態に置かれ、その結果、暫定政権が発足したのですが、暫定政権側がイスラム同胞団を非合法化する方向であるということから、危機感を持ったイスラム同胞団はデモを敢行し、これを治安部隊が力づくで抑え込むという事態により、現在までに千人近い死亡者が出ています。
 
世界を見ますと、なんだかんだ言っても日本という国はほんとうに恵まれています。そしてこの恵まれている国であっても、生活や暮らしの「安定」、生命や身体の「安全」、そして心や精神の「安心」は、まだまだ不十分です。
 
況して、古代においては誰もが求めて止まない「安定」と「安全」そして「安心」は保障の限りではなかったのです。
しかし、古代の、神を信じる神の民には力強い後ろ盾がありました。その後ろ盾の存在について、今週は詩篇の二十三篇から教えられたいと思います。
 
 
1.全能の神が必要を満たしてくれるから、「私には乏しいことがない」と言える
 
物事を分かり易く説明する方法が比喩です。比喩には色々あって、先々週の説教で引用しました「興奮は骨を腐らせる」(箴言14章30節)の「骨」は、人体の中の骨格部分を指すのではなく、人の全存在を意味します。
つまり、興奮すなわち嫉妬の感情がその人の全体を腐らせる、ダメにしてしまう、という意味です。このような用法を「代喩(だいゆ)」と言います。
 
なお、「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」「その人は、水路のそばに植わった木のようだ」(詩篇1篇2、3節新改訳)は「明喩(めいゆ)」という用法を使っています。「〜のようだ」と比較したことがはっきりしているからです。
 
比喩の中には「隠喩(いんゆ)」と言いまして、「〜だ」と言い切るものもあります。その例が今朝の聖書テキストです。
 
「主はわたしの牧者であって」(詩篇23篇1節前半 旧約聖書口語訳766p)。
 
 ところで「牧者」とは何かということですが、「牧者」とは羊を飼う「羊飼い」のことで、少々古い言い方です。ですから、口語訳よりも新しい新改訳や新共同訳は羊飼いと訳します。なお、牧師という呼称はこの「牧者」からきていて、「羊飼い」という意味です。羊のような神の民を大牧者である神に命じられて世話をするからです。
 
「主は私の羊飼い」(新改訳)。 「主は羊飼い」(新共同訳)。
 
古来、イスラエルでは、国民の指導者や政治家などが羊飼いの役目を担いました。指導者というものはまさに「先憂後楽」、民に先だって憂い、そして民に遅れて楽しむ者の筈なのですが、中には自分と自分の身内の利益を優先させて、神から委ねられた群れを後回しにしてしまう者もいましたので、神自らが迷える民の羊飼いとなると宣言する場合もありました。
 
「わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自分を養うが、わが羊を養わない」(エゼキエル書34章8節後半 )。
 
「主なる神はこう言われる、見よ、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す」(同 34章11節1 198p)。
 
 詩篇二十三篇の特徴は作者と主なる神との関係の親密さにあります。作者は「主はわたしたちの」とは言わず、「主はわたしの」牧者であると言い切ります。
そして続けて告白します。主なる神が私の羊飼いであるのだから、私は乏しくなることはない、と。
 
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(23篇1節)。
 
 古代、民衆の多くはその日暮らしの毎日でした。一日の労働は夜明けと共に始まり、日没で終わりました。八時間労働どころか十二時間労働が普通で、暑い夏の場合などは十三時間労働になったりもした筈でした。
 
神の配慮としての安息日規定、週休一日制度があるために過労死は免れることは出来ましたが、それだけ働いても、やっと食べていくことができるという生活状態でした。
そのような暮らしの中で詩の作者は言い切ります。「主なる神が自分の羊飼いとなってくれているから、暮らしを維持する上で私には乏しいことがない、足りないことがない」と。
つまり、日々の暮らしと生活の安定は保たれている、と告白します。
 
 その羊飼いである主なる神が、自分の羊をどのように養ってくれているのかという描写が二節と三節前半の言葉です。
 
「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ(る)」(23篇2、3節前半)。
 
作者にとって主なる神は、物質的、経済的に、そして精神的、心理的に羊の生活と暮らしの安定を保障し、必要を満たしてくれる羊飼いなのです。
そして何よりも有り難いのは、私たちが「主はわたしの羊飼いです」と告白する前に、主なる神が私たちに向かって、「あなたは私の羊である」と宣言してくださっている事実があることです。
 
全能の神、主なる神が羊飼いとして私の必要を満たしてくれるので、つまり、暮らしと生活の安定を保証してくれるので、「私には乏しいことがない」と言えるのです。
 
 
2.共に戦ってくれる全能の神が傍にいるから、「私は禍いを恐れない」と言える
 
生活や暮らしの安定と共に、この世において私たちが必要とするもの、それは生命や身体の安全です。私たちの羊飼いである主なる神は、ご自分の羊の状態をよく知っていて、その必要を慈愛深くも満たしてくれるお方ですが、同時に、その羊のために戦ってくれる羊飼いでもあるのです。
 
私たちが恐れるものには、災害や病気や事故、外からの攻撃などの、外側から降りかかってくる災いと共に、自分にも責任の一端があると思わずにはいられないような、身に覚えのある禍いというものもあります。
しかし、羊を守る羊飼いは問題に対し、共に取組み、共に戦ってくれる羊飼いなのです。
 
「主は、…み名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(23篇3節後半、4節前半)。
 
 先週、高校野球を見なくなったと申しましたが、実は日本のプロ野球への関心も薄らいでいて、朝刊でセ・パ両リーグの順位を把握するくらいです。嫌いな巨人と楽天が共に首位に立っているので余計、なのかも知れませんが。
 
 先週水曜日の夜、たまたま点けたテレビに、阪神タイガースのマートン選手が激高してアンパイアに執拗に抗議をしている場面が映っていました。マット・マートン選手は自らがクリスチャンであることを世間に明らかにし、信仰の証しを大事にしている人です。
 
「醜態を晒しているなあ、マートン兄弟よ」と思いながらチャンネルを変えたのですが、翌々日金曜の朝刊スポーツ欄には、「マートンおわびの決勝弾」という見出しで、試合後のお立ち台でマートンが「『すみません、ばか外人です。きのうはごめんなさい』とフアンに謝罪。チームの勢いまで奪った行為に『軽率だった』と神妙に振り返」たという、好意的な記事がありました。
 
マートンにはマートンの言い分があったと思います。しかし、アンパイアの裁定は絶対です。
新聞によりますと、翌日の木曜日、来日中の、奥さんの父親と、甲子園で行われている高校野球を「少年のような気持ちで見た(本人談)」ことが初心に戻るきっかけとなったようですが、神を信じるマートン選手のことですから、興奮から醒めたあと、神の前に祈り、悔い改めて、その結果、「み名のために正しい道に導かれ」(3節後半)たのであろうと思いました。
 
隣国を見るまでもなく、独り善がりの正義感に基づく怒りの感情は、常軌を逸した行動に至らせることがあります。しかし、生ける神を羊飼いとして仰ぐ者は、怒りの感情をいつまでも引き摺らず、反省をし、悔い改めことを躊躇しません。
少々大袈裟に言えば、マートン選手は色々な意味での「死の陰の谷」(3節)に入りこんでしまっていた、そしてその死の陰の谷から羊飼いなる主によって引き上げられるという経験をしたのではないかと思います。
 
ところで、四節には、羊のために命懸けで敵と戦う羊飼いのイメージがあります。
 
「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます」(23篇4節)。
 
 「むち」(4節)と「つえ」(同)は羊飼いの必需品でした。
「むち」は先に金具のついた棍棒のことで、羊飼いはこれで羊の群れを襲う獅子や狼を撃退しました。
また「つえ」の柄は記号のクエスチョンマークのように丸く曲げられていて、これで道に迷った子羊を正しい道に戻し、崖下に落ちた子羊を引き上げたりもしました。
 
危険を顧みずに羊を助け、体を張って敵と戦ってくれる羊飼いが一緒なので、羊のように爪も牙も持たない者たちも勇気づけられて生きることができるのです。
 
「慰めます」(同)は励ます、勇気づけるという意味の言葉です。
 
 このように弱い者と共にいて戦いを共にしてくれる「主が共におられるから」(4節)、人生の「死の陰の谷を歩む」(同)ような状況に陥っても「わざわいを恐れません」(同)と告白することができるのです。
 
ただし、作者は禍いに遭わないとは言っていません。禍いが来ることがあっても「わざわいを恐れません」と言っているのです。
 
この詩篇の前書きには「ダビデの歌」とあるところから、作者はダビデだという人もいるのですが、恐らくは、無名の作者がダビデの生涯を追想しながら作った詩であると思われます。
 
旧約のサムエル記には、王の将軍として数々の武勲を立てながら、その圧倒的人気を恐れた王サウルに追われて、各地を放浪していたダビデが、サウルの子であり、親友でもあるヨナタンに対して、自分の置かれている危機的状況を説明した言葉が記録されています。
 
「わたしと死との間は、ただ一歩です」(サムエル記上20章3節後半 423p)。
 
 この時のダビデは身の置き場のない、いつどこで命を失うかもわからない危機的状態を生きていたのです。
文字通り、彼と死との間はただ「一歩」(3節)の距離しかなかったのです。しかし、この「一歩」がそれ以上縮まることは決してありませんでした。
サウルが戦いの中で死んだ後、イスラエルの王位に着いたのは神によって選ばれたダビデだったのです。
 
ダビデのためにダビデと共に闘う神、全能の主なる神によって、ダビデと「死との間は、ただ一歩」のままであったのです。なぜでしょうか。それはダビデと「死」との間に主なる神が立ち塞がってくれていたからでした。
 
敵との戦いにおいては勇猛果敢な武将であったダビデでしたが、サウルとの関係においては、羊飼いなる神が彼の命と体の安全を保証してくれる守り手であったのでした。
 
この主なる神を「わたしの羊飼い」とするものは、その偉大なる助けにより、「共に戦ってくれる全能の神が傍にいるから、わたしは禍いを恐れない」と告白することができるのです。
 
 
3.全能の神が恵みをもって追い掛けてきてくれるから、「私は問題に立ち向かえる」と言える
 
生活や暮らしの安定、生命や身体の安全と共に、人が必要とするもの、それは心や精神の安心です。
 
ご自分の羊の必要を満たし、羊の敵と戦ってくれる羊飼いなる神は、敵の手を逃れてその天幕の中に逃げ込んでくる者を歓迎し、客としてもてなすと共に、もしも手傷を負っているならば手当てをし、介抱もしてくれる慈悲深い主人に譬えられています。
 
「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます」(23章5節)。
 
 「宴」は食卓のことです。古代イスラエルにおいては、強盗や敵に追われた旅人が自分の天幕に逃げ込んできた場合には、その旅人を受け入れ、食事を提供し、傷ついていれば手当てをするという習慣があったとのことです。
「敵の前で、わたしの前に宴を設け」(5節前半)という記述はその習慣を窺わせます。つまり、主なる神が私たちを客として遇し、もてなしてくれるというのです。
 
「礼拝を捧げる」と言います。「献金を献げる」と言います。牧師、教職者は「身を献げた」献身者です。しかし、私たちが何かをする前に神ご自身が私たちのために身を捧げてくださり、尊い命を捧げてくださったのです。
 
 礼拝とは何か、と言いますと、基本的には主なる神が私たちを客として招いてくださり、供応してくださるというそのことが礼拝のベースにあって、その神へのお礼として捧げるものが日曜ごとの礼拝であり、讃美であり、奉仕であり、感謝の献金であるわけです。
 
  「こうべに注がれる」(5節)「油」(同)は主人が客を歓迎しているしるしです。「あふれる」(同)「杯」(同)も同様です。
 
主なる神はこの「わたし」を愛し、賓客として迎えてくれているのです。
この「杯」に主なる神のゆるしと慈しみ、憐れみを一杯に受けて、溜まりに溜まった疲れを癒され、心の全体が上から来る平安と安心に包まれる者でありたいと思うのです。
 
 いわゆる従軍慰安婦の問題をめぐって橋下徹大阪市長が内外からバッシングを受けました。この人は思いつきで発言するところから、上げ足を取られて顰蹙を買うところがあるのですが、今回の発言でも「強制はなかった」ということだけを言えばよかったのです。生半可な知識を振り回すからその発言を利用されてしまうのですが、このたび、大阪市長と同姓同名で漢字が一字違いの橋本徹という人のことを思い出しました。
 
橋本徹さんは五十代のときに、三大メガバンクの一つであるみずほ銀行の前身の富士銀行の頭取を務めた人です。
橋本さんは子供の頃、クリスチャンであった母親に連れられて毎週日曜日に教会学校に通い、高校生になってからは特に熱心に聖書を読むようになり、やがて自分の罪深さを痛切に自覚し、イエス・キリストがこの自分の罪を贖うために十字架にかけられたのだということを心から受け入れてクリスチャンになったとのことでした。
 
ところが大学を卒業して富士銀行に入行した最初のうちは信仰を堅持していたのですが、雑事にまぎれていつしか教会から足が遠のいてしまったのだそうです。
 
四十五歳の時、米国のヘラーという金融会社を買収するという密命を帯びてニューヨークに出張いたしました。しかし、予期せぬ事態に次々と直面して夜も眠れないという状態が続いたそんな時、宿泊しているホテルの近くの教会に行って、そこで久しぶりに神に祈り、説教を聞き、讃美歌を歌う中で心に平安が戻り、内に新たな力が湧くという経験をしたというのです。
 
お蔭で懸案の重要案件を実現することができ、それ以後、毎晩、寝る前にベッドの中で聖書を読み、一日の出来事を振り返って神の恩寵に生かされていることを感謝しながら、今に至っているとのことです。
 
実は橋本さんは現在七十八歳ですが、二年前、請われて政府が百パーセント出資する日本政策投資銀行という銀行の代表取締役に就任し、国家的重責を担う立場にいるのですが、それもまた、神からの使命として引き受けたとのことでした。
 
詩篇二十三篇の作者は最後に告白をします。神の恵みと慈しみが私を追いかけてくる、と。
 
「わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしが伴うでしょう」(23篇6節前半)。
 
 口語訳が「伴う」と訳した言葉は、専門家によりますと「追いかけて来る」と訳した方がよいそうです。ニューヨークで信仰に立ち返り、心と精神の平安を取り戻した橋本徹さんの場合も、橋本さんの後を、今も神の恵みと慈しみが追い掛けてきているというわけです。
 
高齢者社会に突入しましたが、主なる神は、神を「私の羊飼い」として仰ぐ者の後を、その「いのちある限り、恵みと慈しみとはいつも(新共同訳)」追い掛けてきてくれるのです。
 
 そして、日々の戦いのあとでわたしたち神の民が戻るところ、それが主の宮です。
 
「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」(23篇6節後半)。
 
 「主の宮」(6節)とはキリスト以前は建築物としての神殿を意味しました。しかし「主の宮」とは「主の家」(新共同訳)であって、今日では救い主イエス・キリスト自身を意味し、「主の宮に住む」とは、イエス・キリストとの交流を意味するのですが、口語訳が「住む」と訳した言葉は旧約学者の左近淑元東京神学大学学長によりますと、「戻る」という意味でもあり、これをもっと強く訳せば、「悔い改めて引き返す」ということなのだそうです(左近 叔著「低きにくだる神」181p ヨルダン社)。
 
信仰から離れていた橋本徹さんは、ニューヨークで教会に行き、そこで上からの平安と安心を得ましたが、まさにその時、橋本さんは「主の家」に戻り、しかも「悔い改めて引き返」してきたのでした。
引き返すにあたって、「もう遅い」「遅すぎる」ということは決してありません。流行りの言葉で言えば、「いつやるのか、今でしょう」ということになります。
 
そして、今日、改めてご一緒に告白をしたいと思います、「全能の神が恵みをもって私の後ろを追い掛けてきてくれるから、私は平安と勇気をもって困難な問題にも立ち向かっていけるのだ」と。
 
何にもまして幸いなのは、全能の主なる神を「私の羊飼い」として個人的に仰ぐことが許されているということです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2013-08-11 16:50:46 (1725 ヒット)
2013年礼拝説教

 20138月11日 日曜礼拝説教(「信教の自由を守る日」に寄せて)

「今、求められていること、それは自虐からの却」

ペテロの第一の手紙5章5節(新約聖書口語訳371p)
 
 
 
はじめに
 
私たちの教会が属している教団は八月十五日を「信教の自由を守る日」と定めています。
しかし、「信教の自由」も、国あってこその自由です。国家が蹂躙され、あるいは他国の支配に屈するようになれば、自由も人権もあったものでありませんし、たとい独立は保持し得たとしても、身に覚えのない汚名を着せられて末代までも辱められるようなことになれば、神の栄光を穢すことにさえなりかねません。
 
そこで本日の礼拝ではいつもとは少し趣を変えて、国際政治問題、社会問題そして歴史問題に踏み込んで、私たち日本人が、そして日本のキリスト者が意識的に取り組む必要がある喫緊の課題についてご一緒に考えたいと思います。
 
本日の礼拝説教テーマは「今、求められていること、それは自虐からの脱却」です。
 
「イマジン」という歌をご存知のことと思います。元ビートルズのジョン・レノンが一九七一年に発表した歌です。
 
ジョン・レノンはこの作品の歌詞の冒頭に「イマジン」つまり「想像してみよう」という言葉を置いて、「想像してみよう、天国もない、地獄もない、あるのは青い空だけ、想像してみよう、国家なんてない、だから殺すことも殺されることもない。想像してみよう、宗教もない世界を、(宗教もないから)みんな平和に暮らせる」と言葉を繋ぐのですが、その詞には、死後の命を否定するだけでなく、あたかも宗教が平和の敵であるかのような宗教否定の唯物思想と、なまじ国家などがあるから戦争が起こるんだ、国家なんかなければいいのに、という無政府主義的思想(アナーキズム)を窺わせる思想を歌った歌、それが「イマジン」です。
 
 そもそも、国家というものは国家を国家たらしめる主権、領土、領海と、国に所属する国民の生命、安全、人権、財産などの大事なものを守るために神が備えたものなのです。ですから、国家は否定をしたり、敵対視したりする対象ではありません。
この夏も多くの日本人が海外に出かけていることと思いますが、国家が保障するからこそ、日本政府が発行するパスポートが世界中で通用するのです。
 
夏の高校野球が始まりました。私は性格が捻くれているのか、今は高校野球にあまり関心がありません。最も昨年は別で、神奈川県代表の桐光学園高校二年生ピッチャーの松井裕樹が、快刀乱麻を断つが如く、バッタバッタと三振の山を築く光景に、胸のすく思いをしたものですが。ただし、松井の高校は予選で敗退したため、この夏の甲子園には出ていません。出ていれば観戦するのですが。
長い目で見れば予選敗退は松井のために幸いであったと思います。なぜかと言いますと、大事な肩を酷使せずに済むからです。
 
 高校野球に興味を失くしたきっかけは、二十一年前の明徳義塾高校による星稜高校の四番打者、松井秀喜に対する五打席連続の敬遠作戦でした。
明徳の投手は松井との対決を熱望したそうですが、監督の指示は五打席とも敬遠。結局、この敬遠策が功を奏して明徳は星稜に勝利をするのですが、そこまでして勝ちたいのか、と呆れたものでした。こうなりますともう、高校野球の精神は雲散霧消してしまいますし、それはもはや高校生のための野球などではなく、勝利を請け負った職業監督の戦いに堕してしまう、それが甲子園の側面だと思うようになったからです。
 
打者が一球ごとにベンチを見て監督の指示を仰ぐのは異様です。選手はいつから監督のロボットや将棋の駒になり果てたのでしょうか。いつのことでしたか、選手が「監督を甲子園に連れて行ってあげたい」と言っているインタヴューを見て、本末転倒も甚だしいと慨嘆したものでした。
「高校」野球であるならば、試合が始まったら監督は引っ込んでいるというわけにはいかないのでしょうか。
 
特定のピッチャーに、無理を承知で連投に次ぐ連投を課し、その結果、有望なピッチャーが肩を壊して投手生命を縮め、以後、啼かず飛ばずの末路を辿るのも、結局は優勝請負、勝利至上の職業監督が前面に出てきているからだと思うのです。試合が始まったら監督は応援席に引っ込む、そうしたら「高校」野球といえるのではないかと思います。
 
 そしてもう一つ、そもそも甲子園大会は都道府県の代表校によって争われるものであるにも関わらず、代表校によっては、出場選手の多くが他府県出身者で占められている学校もある、という事実を知ったこと、それも興味を殺がれるきっかけでした。
特にひどかったのは数年前の東北の代表校で、チームのレギュラーのほとんどは大阪府の出身者であって、彼らは大阪では競争が激しくてレギュラーになるのは難しい、ならば地方からということで、一時的に住民票を地方に移して甲子園に出場していたわけですが、そんなのは果たして「おらが故郷代表」と言えるのかどうか、です。
 
自分が生まれ育った地域を故郷とするのは、自然の感情です。甲子園大会というのはそういう素朴な郷土愛の発露の機会なのかも知れません。
そしてこの郷土の延長にあるものが、ジョン・レノンが否定する「カントリーズ」つまり国、国家なのであって、郷土愛の延長線上に自然に育まれるものが国を愛する心なのではないかと思います。
 
人が故郷を愛するように、国あるいは国家は愛の対象です。そして残念なことに、戦後の日本人は愛の対象である自らの国を憎み、国家の一員であることを恥ずかしく思うように育てられてきたのでした。
 
 
1.今、日本人と日本の教会に求められていること、それは誤った自虐からの脱却
 
今年も敗戦の日である八月十五日が近づいてきました。戦後、日本はひたすら世界の優等生であることを目指して経済復興、経済成長に力を注ぎ、戦後二十年足らずで国際オリンピック大会を成功させ(一九六四年 東京)、二十五年で世界万国博覧会を実施する(一九七〇年 大阪)程の国となりました。
 
しかし、その原動力の一つには、過去の日本を恥ずかしく思う自虐という自己認識があった、と言われています。
自虐とは自分で自分を虐めること、虐待をすることです。では何で日本人は自らを虐待するのかと言いますと、日本は悪い事をしてきたという刷り込みが植え付けられているからで、それは具体的には過去の日中戦争、そして日中戦争に続く米英などを相手に戦った大東亜戦争(太平洋戦争)が悪しき侵略戦争であったとする理解に基づいて形成されました。
 
自虐という自己理解の最たるものが、広島市の平和記念公園に設置された「原爆慰霊碑」に刻まれている文章です。碑にはこうあります。
 
安らかに眠ってください。過ちは、繰り返しませぬから
 
この碑文には主語がありません。主語がないので一読して、「過ち」を「繰り返しませぬ」と決心したのが誰なのかが曖昧ですが、原爆を投下した米国を指したのではないことは明らかです。
つまり隠された主語は日本であり日本人なのです。原爆を投下されて無数の悲惨な被害者を出した日本がなぜ、「過ちは、繰り返しませぬ」と誓わなければならないのでしょうか。後に、主語は日本人を含む人類全体を意味するというようになったそうですが、それがこじつけであることは誰でもわかることです。
 
戦勝国が敗戦国を裁く報復裁判といわれた東京裁判(極東国際軍事裁判)においてただ一人、被告人たちの無罪を主張したのがインドのパール判事でしたが、彼が一九五二年、広島で行われた世界連邦アジア会議出席のため、来日した時のことでした。
 
会議終了後、パール判事が記念公園を訪れて菊の花を手向けて慰霊碑に黙祷をささげた際、碑の文章を、通訳を通して知るや否や、不審の色を浮かべて語った言葉が次のような言葉でした。
 
この「過ちは繰り返さぬ」という過ちは誰の行為をさしているのか。むろん日本人をさしていることは明らかだ。それがどんな過ちであるのか、わたしは疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明らかにして、「わたくしはふたたびこの過ちを犯さぬ」というのなら肯(うなず)ける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではないし、その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることは明瞭だ。
 
(中略) 国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない。原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない(ラダビノード・パール著 田中正明編著「パール博士『平和の宣言』」91、92p 小学館発行)。
 
パール博士は「国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない」と言っていますが、自虐とはまさにこの「その良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっている」状態を意味するのです。
パール博士にとり、何でもかんでも、とにかく私が悪かったと謝ってしまう日本人が歯痒かったのではないかと思われます。
 
しかし、悪くない事までも謝る必要はないのです。戦後の教育はひたすら、日本が悪かった、日本人は悪かったと教え、謝罪し続けることを要求してきました。しかし、むしろそれは不義です。
 
東京裁判の実質的主宰者であったダグラス・マッカーサーが更迭、退任後の一九五一年五月、米国の上院軍事外交合同委員会において、日本人が「戦争に飛び込んで行った動機の大部分が(彼らの)安全保障上の必要に迫られてのことだった」、つまり自衛のための戦争であったと証言しているのです。
 
過日の戦争が如何なるものであったのかは、まだまだ検証する余地があります。戦後六十八年、戦勝国の一方的な判断を受け入れざるを得なかった時代は過ぎ去りました。公平で多面的、多角的な検討が必要です。
 
ペテロの手紙において、書き手は読者に謙遜であることを勧めます。
 
「また、みな互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(ペテロの第一の手紙5章5節後半 新約聖書口語訳371p)。
 
 自虐と「謙遜」は別物です。自虐とは実態以上に自らを矮小化することですが、「謙遜」とは自分の姿を正確に捉え量ることであって、自身を買いかぶって過大評価したりすることではありませんし、過小評価することでもありません。
 
「謙遜を身につけ」(同)るようにと著者は勧めますが、それは自らを正しく知れ、という意味なのです。
そして日本人に、そして日本の教会に求められているものが何かというならば、それは理由も根拠もない自虐思想から脱却をすることです。
 
 
2.自虐からの脱却のために一刻も早くなすべきこと、それは幻想と捏造の克服
 
では、自虐から脱却するためにはどうしたらよいのかと言うことですが、必要なことは、幻想と捏造という二つの欺瞞を克服することです。
 
幻想とは実態のない幻、事実とは全く違うファンタジーを意味します。そして日本人の自虐意識を高めてきた幻想の一つが、半島の「韓国併合は悲惨な植民地支配であった」とする主張でした。
 
確かに一九一〇年、日本は朝鮮半島を併合しました。しかし、いわゆる植民地支配はしておりません。植民地支配の特徴は搾取にあります。そして西欧諸国によるアフリカ、アジア、中近東支配こそ、搾取を目的とした植民地支配でしたが、日本の朝鮮、台湾統治は西欧のそれとは根本的に違いました。
 
第一に、西欧は植民地の住民に対し、本国と同様の国籍も人権も認めませんでしたが、日本は朝鮮人や台湾人を法的に同じ日本国民として扱いました。
 
そして第二。西欧は植民地から資源や富を搾取するだけでしたが、日本は半島や台湾に多額の資本を投下して、教育を振興し、各種のインフラを整備し、殖産興業を推進するなどして、民生の向上に努めました。
 
この結果、半島の場合、併合後二十五年で人口は五割以上も増加し、学校教育を受けることができるようになった児童生徒は併合前と比べて二十四倍にもなったのです。(詳しいことは昨年の2月12日礼拝説教「敬虔の修練が永遠を左右する―自身に塩を持つ」を)
 
半島の場合、地政学的状況から、もしも日本が統治しなければ、早晩、清(中国)あるいは帝政露西亜に占領統治されて、現在のチベットやウイグルのような悲惨な地域になっていた筈です。それを承知しているからこそ、台湾は親日なのです。
 
誇りだけは高い韓国がこの幻想、ファンタジーから解放されることは恐らくは困難でしょう。しかし、日本人自体が韓国併合を悪とする幻想から解放されるべき時にきていると言えます。
 
もう一つ、自虐意識から脱却するために克服しなければならないことは歴史の捏造という問題を見つめることです。
 
たとえば、日本軍が一九三七年(昭和十二年)に、中国の南京を攻撃した際、南京市民を大虐殺したとされる事件が、実は中国による捏造であったということが、段々と知られてくるようになってきました。
 
 第一、当時の南京市の人口は二十万人です。どうやって三十万人、四十万人もの市民を殺害することができるでしょうか。しかも日本軍の南京駐留後ほどなくして市の人口は以前より二割から三割も増えているのです。虐殺があったのであれば恐ろしくて誰も町には近寄らない筈です。
 
南京虐殺なるものは中国政府のプロパガンダ(宣伝工作)による捏造、つまりでっちあげだったのです。虐殺の証拠写真とされた五百数十葉の写真もすべて、事件とは関係のないものであることは証明済みです。
 
日本をターゲットにした数ある歴史捏造の中でも、特に深刻なのは韓国による「従軍慰安婦」なるものの捏造です。つまり、「戦時中、日本の官憲は半島に住む二十万人もの若い女性たちを家から強制的に拉致、誘拐して性奴隷とした」という根も葉もない主張です。
 
結論から言えば、「従軍慰安婦」なるものはなく、貧しいがゆえに親に売られ、あるいは金目当てに自ら募集に応募した人々、それが慰安婦でした。厭な言葉ですが、この人たちは金銭を代価として受け取る職業売春婦だったのです。
 
そしてこの時代、悲しい事ですが売春は合法的職業でした。日本が「売春防止法」を制定したのは一九五六年のことですが、韓国が「性売買特別法」という法律を制定して売春を非合法としたのは何と二〇〇四年、つい最近なのです。そして韓国の悩みはこのあと国内において売春の合法化を要求する売春婦たちによるデモが頻発したこと、そして規制を嫌った十万人もの女性が米国や日本に出かけて行って商売を行い、現地でトラブルを起こしているということなのです。
 
そもそも、この問題が一九七〇年代になって急に浮上した理由は、吉田清治なる詐欺師紛いの元陸軍軍人が、戦時中、済州島で女性たちを日本軍が拉致、強制連行をした、とする証言を各地でし始めたのが起因です。
一九八三年に至って、吉田清治は著書の中でこれを事実として発表しました。著書の第三話「済州島の『慰安婦狩り』」の結びは以下の通りです。
 
私は翌朝、二百五名の済州島の女を船倉へ収容して、定期船は小雨の中を出港した(吉田清治著「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」151p 三一書房)。
 
なお、吉田清治はその前年の一九八二年六月、大阪森の宮のピロティホールにおける講演で、慰安婦の強制連行を事実として証言しています。
 
私は昭和一七年から敗戦までの約三年間、数千人の朝鮮民族を強制連行しました。その中には千人近い慰安婦を強制連行致しました(前掲書付録1「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」155p)。
 
この吉田清治という詐話師の告白を真に受けて、検証もしないまま、これを事実として大々的に報じたのが朝日新聞でした。
 
しかし、その後、秦郁彦という著名な現代史家が済州島で現地調査を行って、吉田の証言に何の信憑性もないことを明らかにしたこともあってか、吉田清治自身、一九九五年になって、慰安婦に関する自分の主張が自身による創作であったということを告白するのですが、吉田の証言を事実として報道し続けた朝日新聞は、今に至るまで頬かむりをしたまま、誤報を訂正しようとしていません。
 
二十年前には、いわゆる河野談話なるものが出て、その談話で、あたかも日本の官憲の関与があったかのような表現がなされたため、韓国はこの談話を根拠にして日本政府に謝罪と賠償を執拗に求めるようになり、最近は日本の名誉を貶めることに血道をあげて、特に米国等の外国においてまで、日本を指弾する運動を国をあげて行っているのです。
 
勿論、慰安婦制度というものはそれ自体、人権意識の進んだ現代の価値観で見れば是認できるものではありませんし、訴えられていることが歴史的な事実であるならば、謝罪もしなければなりません。しかし、この件に関し、拉致や強制連行の事実は一切ないのです。「従軍慰安婦」という訴えは彼の国の得意技である歴史の整形です。
 
実は中国は、自分たちの主張が捏造であるということは百も承知で騒いでいるのですが、韓国の場合、事実と信じ込んでいるためにより厄介です。それはカルトに嵌ったカルト信者によく似ていると言われています。困ったものです。
 
しかし、だからと言って、韓国や韓国人そのものを忌み嫌ってはなりません。私自身、数人の韓国人の知人がいますが、いずれもバランスのとれた思考の出来る人格者であり、尊敬できる人たちです。
 
大事なのは「事実」です。事実に基づいて冷静かつ論理的に反論しつつ、しかし、大事なのは日本人自身が、幻想というファンタジーの背後にある真実、プロパガンダの裏側に潜む隠された動機というものを知って、根も葉もない幻想と捏造に対峙し、これを克服していくことです。それが、自虐に基づく自己イメージを変える機会となるのです。
 
 
3.幻想と捏造の克服のために取り組むべきこと、それは事実に基く歴史教育と健全な聖書解釈
 
では、幻想と捏造を克服するにはどうしたらよいのかと言いますと、それは二つです。
 
一つは事実に基づく歴史教育を徹底することです。「イマジン」という歌には作者が培われてきたと思われる思想やイデオロギーが隠されています。
 
先週、歌手の桑田圭祐(私は個人的にはこの人の声と歌い方がどうも受け付けないのですが)が五年ぶりに出した「ピースとハイライト」という楽曲が評判なので、視聴をしてみました。
しかし、歌詞にはいくつかの疑問を感じました。「何気なくニュースを見ていたらお隣りの人が怒ってた」という冒頭から、お隣り、つまり韓国の怒りというものを前提にしている気配があります。
 
内容に入りますと、「教科書は現代史をやる前に時間切れ そこが一番知りたいのに何でそうなるの」はその通りで、この部分は日本の歴史授業の現状を嘆いているわけですが、「歴史を照らし合わせて助け合えたらいいじゃないか 硬い拳を振り上げても心開かない」は、韓国に行って韓国人に向かって歌ってほしいものです。
「心を開か」ずに「硬い拳を振り上げて」、「歴史を忘れた民族に未来はない」と喚いているのはお隣りの国の人々だからです。
 
おまけに、「歴史を照らし合わせて助け合」うことなどは夢想です。なぜならば、彼の国は自分たちの理解こそが歴史の事実として正しい、だから日本は我らの主張に合わせよ、と主張するからです。
 
確かに何があったのかという正確な事実に基づいた近現代史を学校で教えることは重要なことです。そうすれば、何が事実か幻想なのかを見分けることができますし、歴史の歪曲を見抜くことも可能となります。
 
歴史の幻想と捏造を克服するために必要なのは、確かに桑田圭祐が歌うように、「現代史」をそれも捏造された歴史ではなく、正確な事実が書いてある「教科書」で丁寧に学ぶことであると思います。
 
そしてもう一つ、日本の教会もそうなのですが、特に韓国の教会に取り組んでもらいたいものが健全な聖書教育であり、適切な聖書解釈を身につけるということでしょう。
 
約十年前のことです。ある教区の聖会において、招聘された韓国人講師が会衆に向かい、「どのようにして、私(たち)は天国に行けるようになりましたか」という質問をしたそうです。会衆が答えました。「イエス様を信じることによって、生まれ変わるから」これに対し、講師は答えます、「イエスを信じて救われます。それは基本です。しかし私が求める答えではありません」
 
では講師が求めた答えは何かと言いますと、「私が求める答えは、親が私を生んでくれたからです。(親が私を生んでくれたから)人になったので、(その結果)私はイエス様を信じることができ、神の子となりました」「(だから)親孝行をしなければなりません」というものだったのです。
 
親孝行自体は大切なことです。しかし、この話には信仰による救済という教理と、生活における行為としてのキリスト教倫理が混同されている上に、そこに親孝行という儒教的教えに基づく独特の文化的要素が混入されて話しがややこしくなったわけですが、その後、その教区ではお隣りの国から講師を招聘していないようです。
 
一つの価値観が歴史を変質させ、またキリスト教教理をも歪めてしまうような傾向が、隣国にはあるとするのであればそれはとても残念なことです。
 
正確な事実に基づく歴史教育と、バランスのとれた聖書解釈、神学教育こそが、偏った考え方や見方を排することとなり、また、それによって事実に基づかない思い込みの幻想や意図的捏造を見抜くことが可能となります。
 
そして私たち日本人がそして日本の教会が、幻想と捏造を見抜くことができるようになれば、自ずから、有害にして無益な自虐思想そのものからも解放されて、等身大の自分に誇りを持って生きることができるようになると思うのです。
 
国防、つまり国を守るということには外的な守りと内的な守りとがあります。昔、非武装中立などという夢みたいなことを唱える人々もいましたが、武力による攻撃や侵略行為に対しては、スイスのように軍事的守りを固めることは常識です。
 
しかし、軍事的守りがあれば国防は万全かというと、そうではありません。一国を弱体化するためには内的な侵食という方法がとられます。それが国民の自虐意識を強めてその抵抗力を減殺するという方法であって、戦後の米国の占領政策はまさにこのことを目的として展開され、その意図は見事に達成されてしまいました。そして今、この方法を忠実に実施しているのが東アジアの二国なのです。
 
この内的な守りの必要を強調したのが、原爆慰霊碑を前にしてパール博士が指摘した、「国民がその良心をゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない」という言葉です。
 
今年も間もなく八月十五日を迎えますが、日本人として、そして日本のキリスト者として、悩みながら、そして考えながらこの問題に取り組んで、そして主なる神に喜ばれる一方、同胞からも信頼されるキリスト者、他国からも尊敬される国民を目指したいと思います。
 
真の謙遜は、事実、実態の正しい認識なくして身につくことはないからです。もう一度、ペテロの手紙を読みましょう。
 
「みな、互いに謙遜を身につけなさい」(ペテロの第一の手紙5章5節)。


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