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投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-30 16:39:56 (1225 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年8月30日 日曜礼拝説教 

 
  詩 篇 を 読 む
 
時期が来れば、実は必ず結ばれる
 
詩篇第1篇1〜3節(旧約聖書口語訳750p)
 
 
〈今週の説教アウトライン〉
 
1.幸いな人とは、神を仰ぎながら日々を歩む人
2.神を仰ぐ人の特徴は、神の言葉を喜ぶことにある
3.神の言葉を喜ぶ人の人生は、時期が来れば実を結ぶ
 
 
はじめに
 
中国の経済がおかしくなってきたと中国ウオッチャーが言うようになりました。独裁体制が傾き始めた兆候でしょうか。
 
わが国に対しては「歴史を正視せよ」などと声高に要求しつつ、歴史を改竄(かいざん)し続けてきたのが彼の国でした。来週には「抗日戦勝七十年」を記念するとかいう行事を、民主化を求めた多数の学生を戦車が轢き殺した天安門事件の現場である天安門広場で開催をするようですが、かつて戦場であった中国大陸において日本軍と戦ってきたのは、蒋介石が率いていた国民党軍であって、毛沢東の共産軍ではありませんでした。
 
共産軍はいつも国民党軍の後方にいましたし、第一、日本軍を負かしたのは圧倒的な物量を誇った米軍であって、国民党軍は日本軍に連戦連敗のまま、終戦の日を迎えたのでした。それが歴史の事実です。
 
でもそうなりますと政権の正統性というものが根底から揺らいでしまいます。一党独裁の現体制を維持するためには、史実を捩じ曲げてでも、国民には共産党軍が日本軍に勝利したと信じ込まさなければなりません。
そこで荒唐無稽の抗日ドラマが生まれ、捏造(ねつぞう)された歴史が学校で教えられているというわけです。
 
今回の行事はもう一つ、「反ファシズム」が強調されていますが、全体主義を意味するファシズムというものを、現代に体現している体制が何を言っているのだろうと、識者は訝しがります。
 
ところで聖書は言います、時期が来れば「実(み)」は生(な)るのだ、と。
「実」には良い「実」と悪い「実」とがありますが、どちらにせよ、実が結ばれたとき、大きな意味では歴史の、そして小さな面では個々人の真実が明らかになる筈です。
私どもの場合も、時期が来れば必ず良き実が生ると信じて、日々の務めに精出し励み、神の言葉に依拠する歩みを続けていきたいと思います。
 
八月も下旬、酷暑の夏も終わりつつあります。暑さとの戦い、みなさま、本当にお疲れ様でした。詩篇の方も今週の十五回目で、本年はひとまず、最終回です。
そこで今夏最後の詩篇は第一篇から、そしてタイトルは「時期が来れば、実は必ず結ばれる」としました。
 
 
1.幸いな人とは、神を仰ぎながら日々を歩む人
 
百五十篇もある詩篇の冒頭の詩の最初の言葉が「幸いなるかな」であることは、それが詩篇全体を貫く主題であることを示します。
 
「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人は幸いである」(詩篇第1篇1節 旧約聖書口語訳750p)。
 
 
口語訳では一節の終わりに「さいわいである」として訳出されていますが、これを新改訳は原文通りに文章の始めに持ってきて「さいわいなことよ」と訳し、新共同訳も同様に冒頭において、「いかにさいわいなことか」と訳しますが、これは文字通り、幸福な状態を表現する言葉です。
 
 どのような人が「幸い」なのか。それは、「造り主なる神を無視して、自分の思いのままに歩んでいる人の仲間に加わらない人である」と、詩人はいいます。
 
 それはまず第一に、「悪しき者のはかりごとに歩ま」(1節)ない、つまり悪しき影響というものを受けない人のことです。
「悪しき者」とは義なる人の対極を行く生き方をする自己中心的な人、一口で言えば神を敬わない不敬虔な人のことです。
 
次の「罪びとの道に立たず」(同)とは、「罪びと」の原意が的外れですので、神の心を知っていながら敢えて神の心を無視する者とは行動を共にしないように、ということです。
 
三つ目の「あざける者の座にすわらぬ人」(同)とは、「あざける者」が積極的に神を、宗教を、信仰自体を嘲る者を指すことから、そのような交わりに深くのめり込まない人、という意味になります。
 
ここでは「歩まず」「立たず」「すわらぬ」と、徐々に良からぬ状態へとのめり込んでいく過程が描写されています。
大事なことは深みにはまる前にきっぱりと手を切ることです。
 
しかし、この教訓は異教社会において信仰者が、信仰の異なる者や、信仰を持っていない人たちと交際をしないように、という意味ではありません。
 
私の限られた知識や経験では、日本社会にはこの詩篇が言うような「悪しき者」「罪びと」「嘲る者」はそんなに多くはおりません。ほとんどの日本人は宗教的であり、敬虔であり、他者の信仰や信条を尊重する人たちです。
 
確かに、外国人宣教師やその影響を受けた日本人伝道師の中には、日本の伝統や宗教を頭ごなしに悪と決め付ける狭量な人々がいます。
一時、話題となった神社仏閣への「油まき事件」などは、道を外れた狂信者の、日本の伝統、宗教への一方的な見方によって起こされた事件でした。
 
ただ、宗教そのものをバカにし、神への祈祷や礼拝行為を愚かで無意味として蔑む人々が、私たちの周囲には一定数存在することは確かです。
ではそのような人とは絶縁すべきかというと、そうではなく、関係や交流はほどほどにして、その影響を受けないように心がけることが大切です。
 
幸いな人とは、何が善であり悪であるか、何が神に喜ばれるかということを見極めて、生ける真の神を仰ぎながら日々を歩む人のことです。
 
 
2.神を仰ぐ人の特徴は、神の言葉を喜ぶことにある
 
 では、神を仰ぐ人の特徴は何であるかと言いますと、それはひたすら、神の言葉を喜ぶところにある、と詩人は言います。
 
「このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う」(1章2節)。
 
 口語訳が「主のおきて」(2節)、「そのおきて」(同)と訳した「おきて」の原語は「トーラー」です。ですから、直訳をすれば「おきて」「律法」なのですが、「トーラー」とは本来、神の言葉を成文化したものですから、要するに主の言葉のことであって、今日でいえば聖書のことです。
 
神を仰ぐ人の特徴は何と言いいましても、神の言葉を尊ぶこと、具体的には神の言葉である聖書が言わんとすることに喜んで耳を傾け(主のおきてを喜び)、寝ても覚めても神の言葉を思い続ける(そのおきてを思う)ところにある、と詩人は言います。
 
 口語訳が「主のおきて」(2節)と訳した「トーラー」を、新改訳、新共同訳共に「主の教え」としていますが、聖書は単なる「教え」の集積本ではなく、神の心、神の思い、神の計画など、神に関する事柄が詰め込まれた文書であり文献です。
 
 文書や文献などといいますと堅苦しくなりますが、これを別の言葉で言えば書簡つまり手紙です。聖書は天の神さまから人に宛てて書かれた手紙、という性格を持った文書なのです。
 
 神さまからの手紙であるからこそ、詩人は「昼も夜もそのおきてを思う」(同)のです。口語訳で「思う」と訳された言葉は、新改訳や新共同訳のように「口ずさむ」とも訳せる言葉です。
 
「口ずさむ」のは、それが心にしっかりと記憶されているからであり、記憶されているのは、その言葉に感動したからです。感動して心に刻み込まれたからこそ、折りに触れて、読み、かつ聞いた内容が心の中から湧き上がってくるのです。
 
 神の言葉が慕わしいものであるかについての告白は詩篇十九篇の十節でしょう。
 
「これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よるも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19篇10節)。
 
 この箇所は昨年の七月二十七日の「詩篇を読む」の七つ目の説教「神の言葉は純金よりも慕わしく、蜂の巣の滴りにもまさって甘い」でご紹介しました。
 
 勿論、ある意味では聖書という文献は、「取り扱い注意の危険物」という側面もあります。実は聖書は、間違った解釈を施してしまうことによって、読む者や聞く者の道を誤らせてしまうという危険性のある文書でもあるのです。
 
ですから聖書の調理人である説教者は、聖書を取り扱う上での専門的訓練を積み、言うなれば聖書の「調理師免許」とでも言うべき資格を与えられて説教壇に立ちます。
その資格証明書が各教団が発行している「按手礼授與証(あんしゅれいじゅよしょう)」です。
そういうわけで、当教会の日曜礼拝では、安心して聖書の言葉の豊かさを味わってください。
 
ところで旧約で三十九巻、新約で二十七巻、合計で六十六巻もの厖大な文書の集合体である聖書がなぜ「よろこ」(2節)ばしく、また「昼も夜も」(同)口ずさむほどに「思」(同)えてならないのかと言いますと、それは聖書の中心、主人公が、あのイエス・キリストだからです。
 
イエスの時代、つまり西暦二十年代のユダヤ人も先祖同様、聖書を敬い大事にしてはきました。なぜかと言いますと、聖書には永遠の生命に至る秘密が隠されていると彼らが信じていたからでした。
しかし、イエスは彼らに対して大胆に、聖書は私イエスについての証言の文書であると告げたのでした。
 
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 新約聖書口語訳144p)。
 
 イエスの時代、聖書といえば「トーラー」という、この場合は創世記から始まる「モーセ五書」というものを中心として、歴史書や預言書などの「預言者」の書、そして詩篇を中心とした「諸書」という文書群で構成されていましたが、イエスはこれらの文書の集合体である「聖書」(39節)を、後の時代に神が送る救世主到来の予告の書であるとしたのでした。
 
つまりキリストであるイエスに関し、旧約聖書は、後の時代にこういう救世主が「出現する」とした預言の書であり、イエスの死後に編まれた新約聖書は、確かにこういう救世主が「到来した」という歴史的事実を報告する報告書なのです。
 
救世主のことがおぼろげでしかなかった時代の人々がそれ程までに、救世主到来の予告の書である聖書を慕わしく思っていたのであれば、福音書を通し、使徒行伝を通し、そして使徒たちの書簡を通してより具体的にイエス・キリストについての報告を聞くことのできる現代の私たちは、もっともっと聖書というものを喜ばしくもまた、慕わしく懐かしいものとして「思う」(2節)ことができる筈です。
 
 
3.神の言葉を喜ぶ人の人生は、時期が来れば実を結ぶ
 
 そして、詩人は言います、神の言葉を喜ぶ人の人生には、時期がくれば大いなる実が必ず結ばれる筈である、と。
 
「このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える」(1篇3節 750p)。
 
 十六世紀の初頭、ルターやカルヴァンなどの宗教改革者のよって起こされたプロテスタント運動を聖書論という観点から見れば、「聖書解釈の自由化」ということでした。
 
つまりそれまで、ローマ教皇庁が独占していた聖書の解釈権が自由化されて、だれもが自由に聖書を読み、そこから意味を汲み取ることができるようにされたのでした。
 
ですからルターはローマ教会の追手を遁れている間に、聖書を平易なドイツ語に翻訳する作業に没頭します。こうして、小学生程度の国語力さえあれば誰でもが聖書を読むことができるようになったのです。
 
しかし、聖書解釈の自由化」には弊害もありました。聖書にとんでもない解釈を施す異端が出現したのでした。
 
その、聖書解釈の自由化、曲解によって生じた仇花のような神学の一つが、異端とまではいえませんが、二十世紀に生まれた「繁栄の神学」というものです。
 
これは簡単にいえば、熱心な信仰が現世的御利益を生みだす、という神学です。これは中南米や韓国などの貧しい発展途上国に発達し、それが今日、日本には一種の教会成長運動として流入しています。
 
この神学の危険性は、繁栄が信仰の目的となり、信仰が繁栄を生みだす動機になってしまうことにあります。
 詩篇の一篇でいえば、熱心に聖書を読み、集会に出席し、奉仕と献金に励んでいれば、それが投資となって多くの実の収穫につながる、というものです。
 
 当市で開拓伝道を始めた頃、市民会館で行われた超教派の集会に出席したのですが、献金の勧めに立った司会者が、「皆さまがスプーンで献げれば神様はスコップで返して下さいます、もしもスコップで献げれば神様はバケツで返してくれるのです」とアピールしていたのを思い出します。
 
 この勧めがおかしいのは、神への奉仕や献金などの信仰的行為が利益を生みだす投資のようになってしまっていることです。
しかし、それらは投資などではなく、神の無償の愛と恵みに対する感謝の気持ちの現われとしてなされるものなのです。
 
今のうちに老いた親の世話をしておけば、遺産相続で有利になるなどと考えてする親孝行が不純であるように、「繁栄の神学」にはどうしても、信仰が利益をもたらす手段となるという側面が窺えるのです。
 
確かに詩篇の一篇は「主のおきてをよろこび、その教えを思う…人は…そのなすところは皆栄える」(2、3節)と言い切ります。
しかし、「栄える」ことは目的ではなく、結果です。「繁栄」が熱心な信仰の目的となった時、それはもはや、神の喜ぶ信仰とは言えなくなります。
 
 「エホバの証人」または「ものみの塔」というキリスト教の新興団体があります。熱心な家庭訪問で迷惑がられている団体です。この団体のメンバーさんは確かに熱心ですし、末端の方々の多くはまことにまじめで柔和です。
 
これらの活動家には主婦が多いのですが、家事や家族を犠牲にしてまでも伝道のための家庭訪問に打ち込みます。
 以前、この団体の幹部と差しで週一回の割合で三カ月ほど、聖書の勉強会をしたことがあります。そこでこの団体幹部さんと話していてわかったのは、彼女たちの熱心な活動の理由が、自分自身が救済されるためであるということでした。
つまり、伝道に従事し、伝道の成果をあげないと世の終わりの救済から、自分が洩れてしまうという不安が、活動の動機になっているというのです。
 
末端の活動家もまた、誤った聖書解釈が生み出す誤った教義の犠牲者、被害者ですが、これもまた、結果が目的となってしまう、一種の「繁栄の神学」が生み出す悲劇かも知れません。
 
 純粋に神を愛して神に仕え、神の言葉を喜び慕う者の人生に「実」(3節)が「結」(同)ばれて、「そのなすところは皆栄える」(同)という結果が与えられることは事実です。
 
そして、その理由は極めて論理的です。つまり、運河という「流れのほとりに植えられた木」(3節)は、恵まれた環境にあって根が十分な水分を吸収しますので、時期さえ来れば「実を結ぶ」(同)ことになるのは必然だということです。
 
 ただし、それは「時が来ると」(同)、つまり時期が到来すれば、です。そしてこの時期という「時」、ギリシャ語でいえば「カイロス」は人によって異なり、ある人にとっては植えられて間もなく「時が来る」かも知れませんし、ある人にとっては長い「時が」かかるかも知れません。まさに「桃栗三年、柿八年」です。
 
この「時がくると実を結」(同)ぶという自然界の法則は、信仰の世界でも真理です。
なぜならば、「神は正しい者の道を知られる」(6節)お方だからです。そこに希望があります。
 
神の言葉を喜ぶ人の人生には、時期さえくれば、いつの日にか大いなる「実」の「結」ばれる日が訪れます。それが詩人の確信でした。
 
 そこで最後に、バビロニア捕囚から帰還したエルサレムの住人たち、「苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者」たちに対する、神からの励ましと慰めの言葉を読んで、詩篇の確かさを心に刻みたいと思います。特に十三節の約束、「あなたの子らは主の教えをうけ、あなたの子らは大いに栄える」です。
 
「苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁をことごとく宝石で造る。あなたの子らは主の教えをうけ、あなたの子らは大いに栄える」(イザヤ書54章11〜13節 1023p)。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-23 16:08:32 (1032 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年8月23日 日曜礼拝説教 

詩 篇 を 読 む
 
空しいのは一度しかない人生を、自らの造り主なる神を無視したままで生きること
 
詩篇127篇1、2節(旧約聖書口語訳865p)
 
 
〈説教のアウトライン〉
 
1.尊いのは、自らの務めを果たそうとする勤労精神
2.空しいのは、自らの造り主なる神様抜きの頑張り
3.有り難いのは、時に応じて与えられる神からの支援
 
 
はじめに
 
夏の甲子園が神奈川代表の東海大相模高校の優勝で終わりました。決勝戦は宮城県代表の仙台育英高校との間で行われ、双方共、死力を尽くしての激戦となりましたが、栄冠は東海大相模のものとなりました。
私は神奈川県出身ですので、普通ならば神奈川代表に肩入れするところですが、今回は東北の悲願である「白河の関越え」が実現できればよいかも、などと思いながら、仕事の合間にテレビ観戦をしておりました。
 
東海大相模は「とうかいだいさがみ」ですが、あわてんぼうがこれをうっかり、「とうかいおおずもう」と読んでしまったそうです。
確かに「相模」は「相撲」という字とよく似ていますので、有り得ることとは思いましたが、間違えたとはいえ、「相撲」という字を知っていることの方が驚きです。
 
さて今年の夏は、例年になく蟻の活動が目立ちました。
蟻を見ますとイソップ物語の「アリとキリギリス」あるいは「アリとセミ」の話しを思い出しますし、旧約聖書の箴言にある、「なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、夏のうちに食物をそなえ、刈り入れの時に、かてを集める」(6章6〜8節)という教訓が頭に思い浮かんできて、暑さを言い訳にして怠惰に陥りがちな夏の日々を戒められているように思えました。
 
それにしましても、この炎暑の中、平日は朝早くから仕事に励み、日曜日には神を拝すべく早起きをして教会に集う皆さま方の上に、神の限りなき祝福がありますように、また、諸般の事情で礼拝を共にすることができなくても、いつも寝屋川にある教会を覚えて、祈り、献げ、協力することを惜しまない方々の上に、神の恵みが豊かにありますように。
 
夏は詩篇から「サラッとした」説教をと願っておりますが、残暑の厳しい八月の下旬の今週は、一二七篇の前半から、神と共に勤しむことの幸いを確認したいと思います。
そこで今週の説教題は「空しいのは、自らの造り主である神様抜きで生きること」です。
 
 
1.尊いのは、自らの務めを果たそうとする勤労精神
 
先々週の説教でも触れましたが、先祖のイスラエル民族同様、その末裔であるユダヤ人もまた、勤勉であることを旨としていたようで、詩篇一二七篇にも、何かを造り上げるという勤労、そして大事なものを守り抜く労苦というものを前提として、教訓が展開されます。
 
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(詩篇127篇1節 旧約聖書詩篇)。
 
 ここには「建てる者の勤労」(1節)とあります。また、町を「守る者のさめている」(同)とありますが、ここでは「家を建て」るという「勤労」つまり働くということ、そして、町の安全対策の責任を担う者が、がその職務を果たすため、常に目が「さめている」(同)という状態を維持する努力が前提となっています。
 
信仰を持つ以前、カール・マルクスが言ったと勝手に思い込んでいた言葉を思い出します。「働かざる者、食うべからず」ですが、実はこれと似た言葉が二千年も前に、使徒パウロが書いた書簡にあったことを知ったのは衝撃的でした。
 
「また、あなたがたの所にいた時に、『働こうとしない者は、食べることもしてはならない』と命じておいた」(テサロニケ人への第二の手紙3章10節 新約聖書口語訳326p)。
 
 この箇所は、文語訳では「働かざる者」ではなく、「働くことを欲せずば」と訳されています。そして、「働かざる者、食うべからず」では事情に関係なく、「労働に従事していない者は食うべからず」ということになります。
 しかしパウロが言っているのはそうではなく、あくまでも働く能力、働く機会があるにも関わらず「働こうとしない者」、働く意欲を持たず、誰かに寄食して暮らすという生き方は止めましょう、ということでした。
 
ですから、長年にわたり汗水流して働いてきて、その成果で今、悠々自適の生活を送ることができているならば、それは結構なことですし、働く意欲はあるけれど、種々の事情がそれを許してもらえていないという場合は、胸を張って法律による公的支援を受けつつ、健康の回復や社会的事情等の変化を俟つことは、決して責められることではありません。
 
尊いのは、与えられた機会を生かして、自らの職務に精進すること、勤労意欲を燃やし続けることです。
 
 
2.空しいのは、自らの造り主なる神様抜きでの頑張り
 
 
では、頑張っていればよいのかと言いますと、そうでもないのです。勤労自体は尊いけれど、誰のもとで働くか、誰の指導で働くか、誰と共に働くか、ということが問われます。
詩人は言います、自らの造り主であり、天地の支配者である神様抜きの勤労、努力は空しいのだ、と。
 
一二七篇の一節と二節には計三度も、「むなしい」という言葉が出て来ます。二節の前半も含めてもう一度、お読みしましょう。
 
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることはむなしいことである」(127篇1、2節前半)。
 
 ここで使われている「むなしい」(1、2節)という言葉は、無駄になる、無意味だ、というような、結構厳しいニュアンスの言葉です。
 
ところで、ここで詩人が例にあげている「勤労」や労苦の内容は、一つは「家を建て」(1節)ることであり、もう一つは「町を守」(同)ることです。
 
 「家を建て」るが何を指すのかということですが、いくつかの意味が考えられます。
一つは主の「家」としての神殿の建設を指す場合、二つ目は国「家」(こっか)の運営、そして三つ目が個々が所属する「家」庭(ホーム)の形成です。
 
もしもこの詩篇の背景に、捕囚の民がバビロンから帰還したあとの時代、神殿崩壊のままの時代の様相が反映されているのであれば、預言者ハガイの指摘、神の民にとっては何よりも優先すべき「主の家」なる神殿再建を後回しにしておいて、自宅の建築や生活再建を優先させているという実態に対する嘆きがあるのでしょうか。
 
「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか」(ハガイ書1章4節 1307p)。
 
 もしもそうであるならば、「家」庭形成の上で、生活の基盤としての住まいの確保も大切なことではあるが、神様抜きでのマイホーム建設優先は、所詮「むなしい」、という教訓がここに込められているのかも知れません。
 
 先週八月十六日の説教の中で、英語の「エコノミー」を訳したものが「経済」で、その「経済」は中国古代の文献にある「経世済民(けいせいさいみん)」の略であって、その意味は「世を経(おさめ)民を済(すくう)」ことであり、「エコノミー」の語源はギリシャ語の「オイコノミア」であったと申しました。
 
 なお、先週は「オイコノミア」を動詞の意味から説明しましたが、「オイコノミア」そのものは「オイコス」と「ノモス」という二つの単語から成っています。つまり「オイコス」は「家」、「ノモス」は「法」ですので、これは「家を建てる」(1節)という意味の言葉だということになります。
 
 また、「町を守」(同)るということは、大きく言えば自身が住んでいる町である国家や地域社会の安全を「守」ることを意味します。
それは、一つは国の防衛、一つは治安の維持、そしてもう一つが防災です。
 
まず国を防衛するということですが、国防は国家の責務です。
八世紀の中国の詩人、杜甫は「春望」という五言律詩において、「国破れて山河あり」と詠じましたが、戦争で国の防衛が破れて外敵が攻め込んできたならば、法の支配も人権も自由もへったくれもない、悲惨な立場に陥ります。
ですから国家にはどうしても外敵から自国を「守る」(1節)強固な防衛力が必要なのです。
 
そもそも「国」の旧字の「國」は「或(わく)」という字と「口(くにがまえ)」から出来ており、「或(わく)」は「口(くにがまえ)」と「戈(ほこ)」とから成っています。
「口(くにがまえ)」は人々が居住している町を囲った城郭を指し、そして「戈(ほこ)」は武器や兵器を表します。
 
つまり、兵器を持った兵士たちという「守る者」(2節)が「守る」邑(むら)や町である「或(わく)」にさらに強固な外囲いをしたものが「國(くに)」なのです。
 
そういう意味では日夜、国(國)を守る任務に挺身をしている人々が、働きにふさわしい尊敬と待遇を受けることは健全な在り方であるといえます。
 
一方、治安と言えば何といいましても警察です。
この寝屋川市でむごたらしい事件が起きました。男女の中学生が市内に住む変質者により拉致されて、無残にも殺害され、駐車場と竹林に遺棄されるという事件でした。
一昨日の二十一日、この憎むべき犯人が警察に逮捕されましたが、容疑を否認しているもようです。
 
それにしましても深夜から明け方にかけての、二人が雨宿りをしていた駅前の商店街に設置されていた防犯カメラの映像を視ながら浮かんだ疑問は、「店の前を行ったり来たりするのみか、店の前に置かれているベンチに座り込んでいる子供たちに、二十四時営業の弁当屋の店員がなぜ声を掛けなかったのか、なぜ、警察に通報しようとしなかったのか、警察に電話さえすれば、駅の西側に設けられている駅前交番から三分で警察官が駆けつけてきて、二人を保護してくれる筈であり、そうすればこの忌まわしい、悲しみに満ちた事件は未然に防ぐことができたかもしれないのに」というものでした。
今でもとても残念でなりません。
 
一方、海の警察が日夜、尖閣を中国の侵略から守っている海上保安庁です。海上保安庁は国土交通省の管轄下にあります。
 
そして防災といいましたら何といっても「119番」の消防、救急です。
 
 詩篇一二七篇の一節と二節で詩人が言いたいのは、たとい、どんなに頑張ったとしても、神様抜きの勤労や労苦は空しい、ということなのです。
 
 いま、大型の台風十五号が沖縄と九州を窺っていますが、台風のニュースでお馴染なのが気圧の単位を表す「ヘクトパスカル」です。
この「パスカル」という単位は、「パスカルの原理」などの発見者としても知られている、フランスの数学者、キリスト教の弁証家として名高いブレーズ・パスカルからとられたものです。
 
このパスカルが三大告白録の一つとされる「パンセ」の中で強調したのが「神なき人間の悲惨。神とともなる人間の幸福(田辺 保訳「パスカル著作集第六巻 パンセ機廝苅苅陝ゞ喫鹸曄ということでした。
 
 詩人も言います、「主が家を建てられるのなければ、建てる者の勤労はむなし」(1節)く、「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」(同)のだ、神様抜きでは「早く起き、おそく休む」(2節)などの勤勉によって得た「辛苦のかてを食べることはむなしいこと」(同)なのだ、と。
 
自らの務めに向かって日夜励み、頑張ること自体は尊いことです。でも、空しいのは、自分自身の造り主を忘れての労苦、神様抜きでの頑張りです。
 
 
 
3.有り難いのは、時に応じて与えられる神からの支援の賜物
 
 先々週の説教で、十戒の「安息日規定」とは、ついつい働き過ぎて過労死しかねない働き者への配慮から定められた規定でもある、ということを申し上げましたが、一二七篇の前半は神の配慮に満ちた励ましの言葉で締め括られます。
 
「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」(127篇2節後半)。
 
 労働基準法の規制も何のその、睡眠時間を削ってまでも働きづめに働き、やっとの思いで労働という「辛苦の」(2節)実である「かてを食べる」(同)ことができる者に向かい、「眠ることは決して怠惰なことではない。休息と睡眠は神からの贈り物であるのだから、咎めの気持ちを持つ必要はない。なぜならば、主はあなたを愛し給う、そして主はご自身が愛してやまない者の米櫃(こめびつ)に関しても、責任を持ってくださるのだ」と、詩人は自身の体験を語るのです。
 
 実は二節の後半を新共同訳は「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」と訳します。
それは文語訳でも同様に訳されていることから神学校時代、授業で睡魔に負けてしまった際などに、「主は愛する者に眠りを給う」などとこの箇所を自分に都合よく使ったりしたものでした。
 
この箇所で使用されている原語を直訳すれば、確かに「眠りを」であることは事実です。
しかしこの場合は口語訳や新改訳のように、人が「眠っている時にも」(口語訳)、「眠っている間(ま)にも」、主なる神が人の暮らしに「なくてならぬものを与えられる」(口語訳)、「備えてくださる」(新改訳)という意味で読んでも差し支えないと思われます。
 
勤労は確かに美徳です。
真面目な性格は主なる神様からの贈り物です。
しかし、働き過ぎはよくありません。適度な休息は健康な生活を維持するためにも必要です。
 
この「なくてならぬもの」(2節)とは何か、ということですが、領土、領海のみならず、国民ひとりひとりの生命と暮らしと自由を守ることを責務とする為政者たちにとっては、国政推進のための知恵でしょう。
 
また、庶民一同にとって「なくてならぬもの」は日々の糧であり、働く機会や場であり、健康な心身でもあります。
そういう意味では石川啄木の「はたらどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」(一握の砂)という歌を、実感として思うこともあるかも知れません。
そういう時にはこの詩人の言葉を神への告白としたいと思います。
 
健康もまた、「なくてならぬもの」(2節)の一つです。睡眠不足は病気や怪我のもとでもあります。
健康に不安のある方はこの二節後半の言葉を通して、健康の恢復を祈願してください。
 
何よりも有り難いのは、辛苦している者の日々の必要を知り、「なくてならぬもの」を与えてくださる神のご配慮です。
神は神の支援という賜物を必要とするものに対しては、不断にサポートしてくださる全能の神さまなのです。
 
神とともなる人間の幸福」(パンセ)を、この夏の終わりにも、そして間もなく迎える収穫の秋にも、更に深く深く味わいたいものだと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-16 16:22:12 (1043 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年8月16日 日曜礼拝説教

 詩 篇 を 読 む
 
すべての恩恵(めぐみ)の源なる天の神を誉め称(たた)えよ
 
詩篇65篇9〜13節(旧約聖書口語訳802p)
 
 
説教アウトライン
 
1.生けるもののため、天然資源を恩恵として備えた神を誉めよ
2.天然資源を活用する知恵と能力を、人に授けた神を称えよ
3.造られた者は、勤労意欲という美徳を人に備えた神を拝せよ
 
 
はじめに
 
大東亜戦争(太平洋戦争)は正式には、昭和二十年(1945年)九月二日のミズーリ号上における降伏文書への調印によって終結しましたが、実質的には八月十五日の正午の、天皇による「大東亜戦争終結の詔書」の放送によって終戦となりました。
そういうわけできょう八月十六日は、敗戦後の日本が敗戦という代償を払って、戦後の第一歩を踏み出した記念の日でもあります。
 
敗戦から僅か二十一年後の昭和四十一年(1966年)、戦争の痛手を克服した日本は、東京オリンピックを開催するまでに国力を回復し、更にその四年後の昭和四十五年(1970年)には、大阪万博を開催するまでになりました。
 
東京オリンピックの開催に合わせて、東京と大阪を三時間十分で結ぶ東海道新幹線が開通したのは昭和四十一年の十月でした(開業当初は四時間、一年後に予定通りの三時間十分)。
 
米軍を苦しめた高性能の零戦の例が示すように、日本の航空機技術の高さに恐れをなした米国は戦後、日本が航空機を開発、製造することを禁じました。そのため、航空機の設計、開発、製造にあたっていた技術者たちが新幹線構想により、その開発、製造に採用されて、そこで世界が驚く日本の「シンカンセン」となったのです。
 
ただ、日本の驚異的な国力の復興と経済発展は、東西冷戦という国際情勢の結果でもあったことは事実です。
第二次世界大戦後、世界は東と西に分かれて覇を競うようになりました。そして東側からの攻撃を恐れた米国は、昭和二十六年(一九五一年)、サンフランシスコで行われたサンフランシスコ講和条約締結の際に、日本との間で日米安全保障条約を結びました。
 
これは米国が日本の安全保障に全面的に責任を負う代わりに、日本は基地を米国に提供するという条約で、この結果、日本は防衛費を最少にして、その分、多額の予算とエネルギーを経済発展につぎ込むことができるようになったのです。
 
一九六十年代から七十年代にかけて、経済成長を続ける日本を、「経済的な利益ばかりを追求する動物のような国」という意味で自虐的に、「エコノミックアニマル(経済的)」と呼ぶ表現が流行りました。
 
しかし、経済に力を入れることは悪いことではありません。「経済」は「経世済民(けいせいさいみん)」の略であって、それは「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味であり、英語の「エコノミー」の訳として用いられました。
 
そして「エコノミー」はギリシャ語の「オイコノミア」が語源であって、この言葉は「家事を支配する」という動詞から来ているのですが、それは「家計を管理する」ということだけでなく、天の神による壮大な人類救済計画を指す「摂理」という意味でも使用された言葉でした。
つまり、「経済」とは天然資源も含めた、神の大いなる恩恵を人がどう受け止め、どのように生かすかという動的な活動でもあるわけです。
 
そこで今週の「詩篇を読む」の第十三回目は、六十五篇の後半から「すべての恩恵(めぐみ)の源なる天の神を誉め称(たた)えよ」です。
 
 
1.生けるもののため、天然資源を恩恵として備えた神を誉めよ
 
詩篇六十五篇の九節から終わりまでは(新共同訳では10節から)、人類をはじめとする生きとし生けるものの生命の保持、とりわけ作物の収穫等になくてはならない「水」が、神の恩恵によるものであることを詩的に謳いあげます。
 
「あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのようにして備えして彼らに穀物を与えられる。あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立ちをもって柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、またその恵みをもって年の冠とされる」(詩篇65篇9〜11節前半 旧約聖書口語訳802p)。
 
 古代の中近東における飢饉の原因は、一つは蝗(いなご)の大群の襲来による害、つまり「蝗害(こうがい)」で、もう一つが水不足による「旱魃(かんばつ)」でした。旱魃とは日照りという意味の漢語です。激しい日照りと水不足が飢饉という災害をもたらしました。
 
とりわけ、収穫に不可欠の「水」(9節)という資源は、自然の創造者であり支配者である天の神の恩恵(めぐみ)として、雨となって天から「そそ」(同)がれて、「田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立ちをもって」(10節)大地を「柔らかにし」(同)、その結果として無くてならない食糧としての「穀物」(9節)生産に至らせてくれていたのでした。
 
大阪万博が開催された次の年、ベストセラーとなった「日本人とユダヤ人」において、著者のイザヤ・ベンダサン(山本七平)は、駐日イスラエル公使館(大使館の前身)の書記官の言葉として、「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」19p 角川文庫)と指摘しました。
確かに日本という国が「水」に代表される自然に恵まれていることは事実です。
 
 詩篇六十五篇の後半は自然という恩恵(めぐみ)、とりわけ「水」という資源を雨として天から降らせる恵みの神を、感謝の気持ちで誉め称える詩歌として有名です。
 
「自然」といいますが、「自然」は決して自然に、あるいは偶然に出来たものではありません。それは偉大な存在である天の神の緻密な設計と精巧な作業によって造られたものなのです。
 
通常、私たちは二カ月にいっぺん、使用してきた水道の料金を、請求された通りに市に支払っています。天から降り注がれる水を、市の水道局が浄化をし、水道水として加工、提供してくれているからです。
水に限らず、天然資源を無代価で、つまり恩恵として惜しみなく提供してくださっている天の神を、心低くして誉め称える者は幸いです。
 
 
2.天然資源を活用する知恵と能力を、人に授けた神を称えよ
 
水」(9節)に象徴される自然という神の恵みは、差別なく、地に住む者たちに注がれています。主イエスの言葉です。
 
「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者の上にも、雨を降らして下さるからである」(マタイによる福音書5章45節 新約聖書口語訳7p)。
 
そして人にはこの天与の賜物を賢く管理し、生活の質の向上のために生かす知恵が与えられました。たとえば水道です。
日本では十七世紀初頭、江戸ではすでに上水道が敷かれていました。
そして二十一世紀の今、蛇口から出る水をそのまま飲むことができる国は、世界中で十三カ国だけ、アジアでは日本のみで、日本の水道水はペットボトルに詰められて販売されている程です。
 
日本人は自然の恵みを天からの賜物という認識の下、天与の知恵を駆使して高度の技術を発展させ、水資源を生かしてきたのでした。
 
しかし一方、大陸の大国はといいますと、かつては豊富な自然に恵まれていたにも関わらず、乱開発と利己的な経済活動、そして行政の劣化により、堆積されたゴミの山から滲み出た有害な毒素が地下水に浸み込み、河川へと流れ込んで、それらの汚染水によって生産された農産物は、出荷はしても生産者自身は決して口にはしないという状況です。
その結果、富裕層が日本の森林資源、水資源に目を付け始めているとのことです。
 
さて詩人は、収穫の豊かさを天の神の恩恵として喜び歌います。
 
「野の牧場はしたたり、小山は喜びをまとい、牧場は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をもっておおわれ、彼らは喜び呼ばわって共に歌う」(65篇12、13節)。
 
 この箇所は心が躍るような詩的、文学的表現で記されています。しかし、豊かな収穫と生産は勝手に生まれる、というものではありません。それは人間の側の不断の創意と工夫、技術の革新があっての結果です。
 
天の神は人間に資源、原料を与えるだけでなく、それらの資源や原料を使って生活に必要な物資を生産、製造する技術を発展させるなど、社会を潤す知恵を与えて下さっているのです。
 
神は溢れる程に、生き物が生きるために必要な天然資源を豊富に用意してくれました。しかし、生き物の中で、資源を有効利用し、原料を用いて新しい資材を造り出す知恵は、人間だけに与えられているのです。
そのような知恵を与えて下さっている恵みの神を、感謝しつつ崇めたいと思います。
 
 
3.造られた者は、勤労意欲という美徳を人に備えた神を拝せよ
 
 資源、原料が備えられ、それらを加工して生活材を生みだす知恵や能力が与えられていても、それがなければ宝の持ち腐れとなるものがあります。
何かと言いますと、労働意欲、勤労意欲です。少し前、ギリシャ危機が問題となっていました。その際、明らかにされたのが、ギリシャ人の国民性、資質ということでした。
 
少し前、あるテレビ番組で、「EU加盟国におけるアンケートによると、『EU加盟国で最も勤勉な国はドイツ、最も働かない国はギリシャ』が共通の意見であったが、ギリシャ国民のみ、『最も勤勉な国はギリシャ』と答えた」という内容に、出演者が大笑いをしている場面がありました。
確かに同じアダムの子孫でも長い年月、風土や環境、歴史や文化によって異なってくるようです。
 
その点、イスラエル民族はゲルマン民族や大和民族同様、極めて労働意欲に富んだ資質を持っているようです。
 
紀元前十三世紀はじめ、エジプトから救出されたイスラエルの民に、モーセを通して「十戒」が授けられます。その「十戒」の中でも特に有名な戒めが四番目の安息日規定です。
 
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。
六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたのむすこ、娘、」しもべ、はしため、家畜、またあなたの門にいる他国の人もそうである。
主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を造って、聖とされた」(出エジプト記20章8〜11節 102p)。
 
 「六日のあいだ働いて」(9節)、「七日目は」(10節)は労働を休め、というこの規定が何で定められたのかといいますと、一つの理由は、イスラエルの民が過労死に陥ることを避けさせるためでした。
 
勿論、「ブラック」雇用者から雇い人を守るという労働基準法的要素もありはしましたが、何よりも労働者自身が働き過ぎて、その結果、自らの健康を損ね、あるいは過労死しかねないという状況を未然に防止しようとする神の配慮が働いた規定であった筈です。
 
ということは前提として、イスラエル民族の気質が勤勉であったから、という推測は当たらずとも遠からずです。
 よく似ているのが日本人です。先週、トルーマン大統領から公職を解任されたマッカーサーの、米国上院の軍事外交合同委員会における証言をご紹介しましたが、その中でマッカーサーが日本人の勤勉性について言及している箇所があります。
 
「日本人の半数が農業に従事し、半数が工業生産に従事している」との発言の後です。六年間の日本体験は、偏見に満ちていたマッカーサーの日本観を劇的に変えたようです。
 
私が知る限り、日本の潜在的な労働力は量的にも質的にも、どこにも負けないほど優れている。彼らは既に、労働の尊厳と呼ぶべきものを発見している。
すなわち、人間というものは怠惰でいる時よりも働いている時の方が幸福であるということを、である。この厖大な労働人口の余裕は、彼らには働くための仕事が必要なことを意味する(19510503 米国上院軍事外交合同委員会)。
 
 マッカーサーの証言を俟つまでもなく、日本人は古来、勤労意欲というものを天然資源同様、天与の賜物として受け止め、老いも若きも働くこと自体を美徳としてきた民族でした。
 
二十世紀初頭、ドイツの経済学者、社会学者のマックス・ヴェーバーはその著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」において、「資本主義は勤労を美徳としたプロテスタント諸国において発達した」としていますが、開国後、近代日本に資本主義が根付き、発達したのは、日本人にはプロテスタント同様、勤労を美徳とする伝統が脈々として伝えられていたからでした。
 
その明治日本が西欧のキリスト教国と接する中で導入した画期的なシステムが日曜日を休日とする「七曜日制」でした。これによって過労死する人は激減をし、平均寿命は画期的に伸びることとなったのでした。
安息日規定は単なる戒律ではなく、勤勉な人々を働き過ぎ、過労死から守る神の配慮でもあったのです。
 
安息日規定が授けられたもう一つの理由、それは、神に造られた者が、創造者である神と共に体を休めつつ、救済者でもある神を礼拝することで魂の安息を得ることにありました。
もう一つの資料の申命記五章です。
 
「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導きだされたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである」(申命記5章15節 254p)。
 
 出エジプト記(二十章)における安息日規定は、神の天地創造の由来が理由となっておりますが、申命記においては奴隷という苦役からの解放としての出エジプトの出来事が、その理由となっております。
 
つまり、ただ体を休めるという休息ではなく、贖い主である神への礼拝を通して、体と共にたましいの安息を人が楽しみ、そこから新しい明日に臨むように、という意味です。
 
神の民は、神の賜物を受けて働きかつ休み、その上で神を礼拝する人生という幸いに招かれているのです。ですから毎週の日曜礼拝は、義務などではなく、私たちに対する神の恩恵、神の配慮の現われなのです。
 
今週は天然資源という恵みだけでなく、それらを活かす知恵、そして勤勉性という賜物を惜しみなくお与えくださる天の神を、思いも新たに誉め称えたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-09 16:27:36 (1040 ヒット)
2015年礼拝説教

15年8月9日 日曜礼拝説教 

「信教の自由を守る日」に寄せて
 
命と暮らしと自由を守る真の安全保障とは
 
ネヘミヤ記4章6節(新約口語訳669p)
 
 
説教のアウトライン
 
1.何としても守らねばならないもの
2.幻想を当てにすることの愚に気付く
3.現状より少しでもましな選択を
 
 
はじめに
 
私たちの教会が所属している教団が八月十五日を「信教の自由を守る日」に定めてから三十三年が経ちました。
 
制定が議決された年の前年、一九八一年の教団総会において、志村教会の長屋勇牧師(当時)が、「わが教団に『信教の自由を守る日』がないのはおかしい。制定を検討すべきではないか」と発言したのがきかっけとなり、その提言を重んじた当時の教団理事会が検討を理事会のブレーンである総務局会議に命じ、結果、翌一九八二年秋の教団総会において「信教の自由を守る日」の制定が決議されました。
 
石原嘉宣総務局長(当時)を中心とした検討会議の中で、「信教の自由を守る日」の導入は当然としても、それをいつの日にするかが論議されました。
 
当時、「信教の自由を守る日」を設けていた他教団のほとんどは、建国記念日の二月十一日を「信教の自由を守る日」に定めていたのですが、会議の中で私が、「天皇がポツダム宣言の受諾を宣言して、事実上の終戦の日となった八月十五日はどうか」と言ったところ、「それは良案だ」ということになり、答申を受けて一九八二年の教団総会に提出された教団理事会提案が承認、可決され、翌年からの実施となったわけです。
 
その数年後、教団から推薦されて委員となっていた日本福音同盟の社会委員会において、「アッセンブリーの『信教の自由を守る日』は八月十五日である」と言ったところ、二月十一日が大半であった他教団の委員たちから、「ウチも八月十五日にすれば良かった」という声があがったものでした。
 
制定以来、私どもの教会では八月十五日に最も近い日曜日の礼拝において、「信教の自由」に関する説教を通し、信教の自由とは何か、信教の自由を守ることがなぜ重要なのかということなどについてお語りし、ご一緒に考え、祈ってまいりました。
 
昨年の八月十日は「何を何から、あるいは誰からどのように守るのか―共同体との正しい関わり方」という説教を準備しておりましたところ、強烈な風雨を伴なう台風十一号が大阪に襲来するとの気象情報により、来会者の身の安全こそが最優先と、礼拝の中止を決定しました。
如何なる理由であれ、日曜礼拝の休会は教会開設以来、初めての措置でした。できればこれが最初で最後ということであって欲しいと思います。
 
さて、本年は戦後七十年という節目の年でもあることから、色々な世論調査が発表されていますが、先月下旬に報じられた共同通信社による、「仮に外国が日本を攻撃してきた際の対応をどうするか」という設問に対する調査結果に正直、度肝を抜かれました。
 
通信社は初めから四つの対応案を用意していたようですが、設問に対し、「武器を取って戦う」が29%、「非暴力で抵抗する」が41%、「逃げる」が16%、「降伏する」が7%で、この、非交戦派が64%という結果を報道したある地方新聞(琉球新報)などは、「安倍政権が目指す『戦争のできる国』を国民は拒否したと見るべきだ」と、この結果を高く評価しておりました。
 
しかし、他国からの武力による攻撃に対し、「非暴力」でどうやって「抵抗する」のか、どこに「逃げる」のか、「降伏」したら無事で済むのか、という疑問には何の答えもありませんでした。
 
家族、隣人をはじめとする同胞が外国人により、自分の目の前で虐殺されたり凌辱されたりしても、言葉で抗議したり、「やめて下さい」と嘆願するということなのでしょうか。
 
戦後二十五年の昭和四十五年(西暦一九七〇年)に自決した三島由紀夫がその数カ月前に、日本の未来を予測して言ったという、「日本はなくなって、その代わりに無機質的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の富裕な抜け目のない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と言う言葉が、改めてよみがえってきます。
 
共同通信によるこの調査結果に慄然とするのは、自分さえ生き残れば、「日本はなくなって」も構わない、家族や同胞が犠牲になってもやむを得ないと言っているようにも思えることです。
 
ただ不思議に感じるのはこの調査の意図です。もしも外国からの攻撃があれば、真っ先に反撃するのは自衛隊であって一般国民ではありませんし、外国からの攻撃に対応するために締結されているのが日米安全保障条約です。
 
自衛隊、そして日米安保の存在を敢えて無視するこの調査方法は、日本が「非交戦派」が多数であるということを強調したいがための、現実を無視した恣意的な調査としか思えませんが、それが却って、日本が置かれている安全保障上の脆弱性を浮かび上がらせることになってしまったことは、何とも皮肉です。
 
そこで、戦後七十年のこの夏の「信教の自由を守る日」に寄せての説教は、「命と暮らしと自由を守る真の安全保障とは」とすることにしました。
 
 
1.何としても守らねばならないもの
 
 
世の中には無くなって欲しいものもあれば、無くなっても構わないもの、何としても守らねばならないものがあります。
無くなっても構わないどころか無くなって欲しいものの筆頭は、生活保護費の受給直後に受給者が駆け込むパチンコ屋でしょう。韓国は数年前にパチンコを法律で禁止しましたが、日本はなぜか温存されています。また、「百害あって一利なし」の煙草なども無くなってほしいものです。
無くなっても一向に構わないものは、同じ顔ぶれのお笑い芸人が掛け持ちで出演しているテレビの深夜番組です。
 
しかし一方、無くてならぬもの、何が何でも守り切らねばならない大事なものもあります。
私たちが必死になって、何としても守り切らねばならないものは三つです。
 
第一は言うまでも無いことですが、人の命です。
命は一つしかありません。人の命はかけがえのないものです。
政治というものは究極的には国民ひとりひとりの生命とその安全を保障するという目的に向かって営まれるものです。そして政治の課題の一つである国防も、国民の大切な生命を守るためのものです。
 
 守るべき二つ目のものは「暮らし」です。
今週の末には戦後七十年を踏まえての首相談話が発表されるそうですが、「侵略」という文言を入れるか否かで喧しくなっております。確かに満州事変に関しては見方が分かれてはいますが、支那事変(日中戦争)を含む大東亜戦争(太平洋戦争)は、侵略戦争などではなかったという見方が近年、有力です。
 
ただし、何としても侵略戦争を起こした国として、日本を断罪したかった連合国側は、敗戦国に対する戦勝国の報復裁判と揶揄された極東国際軍事裁判(東京裁判)において、「事後法」という国際法では禁止されている法律までも用いながら、日本の指導者を「平和に対する罪」を犯した、いわゆる「A級戦犯」として裁いたのでした。
 
この「平和に対する罪」とは、日本がポツダム宣言を受諾することを決めた昭和二十年八月十日の僅か二日前に、米国、英国、フランス、ソ連の四カ国によって締結された「ロンドン協定」に盛り込まれたものであって、それが「極東国際軍事裁判所条例」の第五条(イ)項にあることから、「A級」戦犯と称されたのです。
 
日本語文の(イ)項は、英語の原文では(a)です。(a)項ですから「『A』級戦犯」とされたのです。これを等級と思い込んでいる人が今でも国内外に大勢いるのは何とも嘆かわしいことです。
 
もっと嘆かわしいのがこの裁判の主宰者たちです。彼らは「事後法」によって被告たちを有罪とし、処刑にまで持ち込みました。
ただし、「裁判所条例」が「事後法」に基ずくものであるからという理由で、被告の無罪を主張した人がいました。インドのパール判事です。
 
「事後法」とはどんなものかと言いいますと、例えば制限速度が百キロの道路が、八十キロ制限に変更されたとします。適用は新しい制限速度が導入された日以降になるのですが、それまで百キロ近くの速度で走っていた者を、過去に遡って違反者として摘発したら、非難轟々ということになる筈です。
 
法の不遡及(ふそきゅう)ということは近代法の常識です。後からつくられた法律で過去の出来事を裁くという、前近代的な法律が堂々と罷り通っている国は半島の国ぐらいです。
 
彼の国では十年前、「親日反民族行為者財産国家帰属に関する特別法」という長ったらしい名称の「事後法」が定められ、これにより、何十年も前の日本統治下の時代に、親が日本に協力したことによって得たとされる財産を、国家に没収されるという人達が出てきました。
 
「東京裁判」の話に戻ります。侵略戦争を行ったとして何が何でも日本を断罪したかった連合国は、「裁判所条例」が「事後法」であることは十分に承知しながら、法律の常識に目を瞑ってまでも、この「事後法」によって被告たちを裁いたのでした。理不尽もいいところです。
 
しかし、この「東京裁判」を主導したGHQの最高司令官、ダグラス・マッカーサーは後になって、自分の過ちに気付きます。
トルーマン大統領によって公職を解任された直後の一九五一(昭和二十六)年五月、米国上院軍事外交合同委員会に召喚されたマッカーサーは、衝撃的な発言をします。
ヒッケンルーパー上院議員の質問に対しての発言です。
 
あなたには日本が八千万になんなんとする厖大な人口を抱える国であって、それらが四つの島にひしめいていることをご理解いただきたい。
そのおよそ半数は農業人口で、あとの半数は工業生産に従事している。
 
…彼らは工場を建設し、労働力を抱えていた。しかしながら、基本的な資材を持っていなかった。
日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もなかった、彼らには綿が無く、羊毛も無く、石油の産出もなく、錫(すず)も無く、ゴムも無く、その他の多くの資源も欠乏している、(しかし)それらの全部はアジア海域に存在していた。
 
(もし連合国による日本への経済封鎖により)これらの原料の供給を断ち切られたら、日本では一千万人から一千二百万人の失業者が発生するであろうことを日本政府は恐れた。
したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった(1951年5月3日 米国議会上院軍事外交合同委員会質疑)。
 
つまり、日本の日米開戦は経済的問題の打開という「安全保障」上の動機からきた自衛のためのものであって、決して侵略戦争ではなかったという意味です。
 
あの時点で日本の「暮らし」つまり経済的状態に、連合国側の目が正確に向いていれば、日米英戦争は起こらず、その結果、真珠湾攻撃も、沖縄の悲劇も、そして広島、長崎への悲惨な原爆投下も、そしてソ連の参戦による理不尽極まりないシベリヤ抑留もなかったということになるわけです。
もちろん、米英を相手にした戦争が、勝つ見込みのない無謀なものであったという責任論はまた別の問題ですが。
 
守らねばならないのは「暮らし」です。そういう意味では「TPP」もまた、「暮らし」を守る安全保障の一環であると共に、タンカーが通るホルムズ海峡や南シナ海などは、我が国の国民の「暮らし」を中心とした安全上の生命線なのです。
 
守るべきものの三つ目が「自由」です。
「非暴力で抵抗する」という対応が非現実的でナンセンスなのは、自由を奪われて国を失い、奴隷的状態とされた地域、民族が日本のすぐ近くにあることに気づこうとしていないからです。
 
たとえばチベットです。独立国であったチベットに中国の人民解放軍が侵入したのは戦後の一九五〇年のことでした。
結果、独立国であったチベットは「チベット自治区」として中国の一部とされ、抵抗した者は虐殺され、多くの寺院、僧院は破壊されました。
チベットは今、宗教の自由や信教の自由どころか、すべての基本的人権、自由が抑圧されて、伝統も文化も言語も破壊され、中国化の途上にあります。
 
そのような不法な国家が日本を攻撃してきた場合、「非暴力で」どうやって「抵抗する」というのでしょうか。目の前で家族が殺され、凌辱されてもただ眺めるだけで見て見ぬ振りをするというのでしょうか。
仮に生物学的な意味での命は保障されたとしても、それで「命が助かった」「良かった、良かった」と喜べるのでしょうか。
 
同国におけるキリスト教会への当局による弾圧もまた、激しくなっている模様です。
先週の火曜日(8月4日)の東京新聞電子版には、「中国、教会弾圧本格化 浙江省で数千破壊、公認も対象」という見出しで、キリスト教会への弾圧の様子が報じられていました。
 
【北京共同】中国でキリスト教の活動が盛んな浙江省(せっこうしょう)で、当局が5月以降に共産党系組織に属さない非公認の教会の弾圧を本格化させたことが関係者の話で4日までに分かった。
同省で既に数千の教会が十字架撤去や破壊などの被害を受けたとの推計を明らかにした。当局は一部で党系組織に属する公認の教会の十字架撤去も開始している(東京新聞電子版 2015年8月4日)。
 
 ひとたび、その支配に服したならば、信仰の自由どころか、言論、表現、報道の自由をはじめとする各種の自由、基本的人権などが蹂躙される危険性があることがお分かりかと思います。
 
知恵の書である箴言を読みたいと思います。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4章23節 旧約聖書口語訳884)。
 
 ここで言う「心」(23節)とは思考の中心としての思慮、判断力を意味します。「心」が壊れてしまえば、残るものは奴隷化され、支配者の言うがままに行動するだけのロボット同様の体です。
 
「守れ」(同)とありますが、これは「見守れ、見張れ」という意味でもあります。国民の命、暮らし、自由を守ることは、為政者が神から課せられた責務ですが、迫りくる危機に対し、あなた任せであってはならないのです。
 
そういう意味において、共同通信の調査が女性や後期高齢者を対象にしたものであるならば、それはそれで理解できなくもありません。
しかし、それが男性も対象としたものであったとするならば、そして「非暴力で抵抗」、「逃げる」、「降伏する」が調査対象の男性たちの本音の回答であったとするならば、三島由紀夫の未来予測の通り、「日本は終わり」「日本はなくなった」ということになるでしょう。
 
戦後七十年のこの夏、日本人として、そしてキリストを生きるキリスト教徒として、何としても守り抜かなければならないものがあることを、改めて認識したいと思います。
 
 
2.幻想を当てにすることの愚に気付く
 
では、何がかけがえのない国民の生命、暮らし、自由を守ってくれるのでしょうか。
 
ところで戦後七十年の今も、憲法九条が日本を守ってくれている、と本気で信じている人々がいます。
共同通信社が行った世論調査でも、憲法を「このまま存続すべきだ」が60%で、「変えるべきだ」の32%を上回ったとして、「憲法や平和の重要性が再認識されているといえそうだ」と評価していました。
 
この、憲法を変える、変えないという論議は「九条」を指してのことであって、それは改正のことだけでなく、解釈の変更をも意味していると思われます。
確かに多くの憲法学者は、制限されている、いないに関わらず、集団的自衛権の行使容認を違憲としているようです。
 
実際、朝日新聞が六月末に行ったという、209人の憲法学者を対象にした調査では、122人の回答のうち、政府提案の安全保障関連法案を「憲法違反にあたる」とした回答が104人、「憲法違反の可能性がある」が15人と、違憲または違憲の可能性あり、とする者が圧倒的でした。
 
しかし、回答した122人のうち、自衛隊の存在を「憲法違反にあたる」とした者が50人、「憲法違反の可能性がある」とした者が27人、合計で77人、比率でいうと63%もいたという調査結果については、紙の新聞には伏せられていて、デジタル版の方にだけそっと掲載されていたのです。
 
今、一般国民の大多数は自衛隊の存在を合憲としています。
ですから、自衛隊を違憲とするような憲法学者が集団的自衛権を違憲とした場合、かえって彼らの非現実性が浮き彫りにされて、折角の調査の信頼性が崩れてしまいかねません。
 
平和安全法制に反対する新聞社としては、これは一般読者には知らせたくない、しかし、掲載しないとまた隠蔽、操作と非難される、そこで読者の少ないデジタル版にそっと掲載して、「当社は隠してはおりません」と言い逃れようとしたと勘繰られても仕様のない報道の仕方でした。
 
ある意味で、憲法学者が自衛隊を違憲とするのは当然です。
「九条」はどう読んでも戦力の保持も、交戦そのものも否定しているからです。
 
日本国憲法第九条
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない
 
「戦力は、これを保持しない」とありますし、「交戦権はこれを認めない」とある以上、集団的自衛権どころか、専守防衛の根拠となっている個別的自衛権すら、九条に違反していることになりますし、自衛隊もまた、その名称がどうであれ、どこから見ても立派な戦力であり、軍隊そのものですから、保有自体、憲法違反ということになります。
 
厳密に言えば憲法違反である「専守防衛」という軍事戦略が、そして国民の安全を守るために必要不可欠とされる自衛隊の存在が合憲とされるようになったのは、戦後の歩みの中で「憲法解釈の変更」が施されたからでした。
つまり、「解釈改憲」が行われた結果、自衛隊は合憲とされ、専守防衛の概念もまた、合憲とされたのです。
 
ということは、憲法の解釈変更によって自衛隊、そして個別的自衛権を合憲としておきながら、集団的自衛権行使容認は解釈の変更だから違憲、とするのは筋が通らないことになります。
集団的自衛権の行使容認を違憲とするなら、個別的自衛権の、更には自衛隊の存在の違憲性も主張しなければなりません。
 
そういう意味では憲法学者たちの多くが、限定的とはいえ、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障法案を違憲とする一方、自衛隊をも違憲とするのは、一貫性があるといえなくもありません。
尤も、彼らにとって重要なのは国家、国民の安全という差し迫った現実の必要よりも、字句の解釈なのかも知れませんが。
 
現政権が進める安全保障法制の論点の一つは、「限定された集団的自衛権の行使」容認にあることは確かです。
そしてこれに関しては反対派も問題です。特に憲法を盾に取って平和安全法制に反対しながら、過去の解釈改憲に目を瞑る野党やマスコミが問題です。
 
とりわけ、多くの憲法学者が違憲としているのだから安保法案は違憲であるとして、憲法学者の判断を錦の御旗にしつつ、自衛隊の存在の合憲、違憲という重要な問題については、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。これをご都合主義といいます。
 
中でも問題なのは朝日新聞です。自社の主張に沿うような調査結果のみをペーパーに発表して、都合の悪い結果はデジタル版にそっと載せるという掲載方法は、情報操作を疑われて、社の信用性を落とすだけだと思います。
 
何よりも、違憲、合憲の判断は憲法学者や法制局長官が下すのではなく、三権の一つである最高裁判所が持っている「違憲立法審査権」の下にあるのです。
 
ところで教会は聖書観から、三つに大別できます。
 
一つは「聖書は人間の言葉である」とする立場、二つ目は「聖書は神の言葉である」とする立場、そして三つ目が「聖書は人の言葉であるが、聖霊の働きによって神の言葉になる」という立場です。
 
そして我が国では一つ目と三つ目が進歩派(リベラル)、二つ目が保守派(コンサバティブ)とされています。
 
もともと、日本のリベラルな教会は、明治時代からマルクス主義の影響を受けていて、そのために自由、平等、平和などを謳い文句にした唯物史観の社会主義者、共産主義者との間には親和性があり、戦後は九条の絶対擁護派として、左翼運動と繋がっておりました。
 
ところがその影響が保守派にも浸透してくるようになりました。二十七年前の天皇即位に伴う大嘗祭反対運動がきっかけでした。
この結果、リベラルな教会で構成される日本キリスト教協議会(NCC)の影響が、保守派の教会の連合体である日本福音同盟(JEA)に及ぶようになったのです。
 
こうして今や日本のキリスト教界は護憲一色となり、九条に関しては、神の存在を認めない筈の政党どころか、過激派の極左団体とも区別がつかないような、絶対擁護派になっています。
最近では反原発の主張が、極左のそれと区別がつきません。
 
特に日本のキリスト教会の場合、実に不思議なのは、それが「九条教」と言ってもいいくらい、九条を絶対視するところにあります。「九条があるから日本は戦争に巻き込まれずに済んだ、「九条」が有る限り、未来永劫、平和は保たれる」と信じて疑わないことなのです。
 
しかし、冷静になって見れば、日本が外国の攻撃や侵略を受けなかったのは憲法九条があったからではありませんでした。
曲がりなりにも平和が保たれてきたのは僥倖もありますが、何と言っても米国との間に締結されている日米安全保障条約と、「平和主義」の九条に解釈改憲を施して合憲とした結果生まれた自衛隊とが機能していたからだということは、中学生でもわかることです。
 
日本の教会もそろそろ「九条」という幻想を当てにする愚に気付き、「九条教」という宗教を捨てて、神のみを神とする一神教に戻らなければならないのではないか、現実の事態や、日々に変化する国際環境に目を向ける時期にきているのではないか、という指摘があります。
 
ということは、日本の教会はもう一度、十戒の第一条と第二条を確認する必要があるということでしょうか。
 
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」(出エジプト記20章3、4節前半 102p)。
 
 神の存在を否定する無神論者が政権奪取の手段として、あるいは革命の途上の便宜として、九条を絶対無誤の神のように崇めて錦の御旗にすることは、それなりに理解することはできます。
しかし、唯一の神を崇めるキリスト教会が、九条をキリストの福音と同等視したり、あたかも神であるかのように担ぎ崇めることは、十戒の一条と二条とに抵触する事態なのかも知れません。
 
 
3.現状より少しでもましな選択を
 
では、何が日本国および日本人の命と暮らしと自由を保障してくれるのか、クリスチャンにとって重要な、あらゆる自由の根幹である「信教の自由」を守ってくれるのか、ということですが、結論から言いますと、完璧なものはありません。
 
そこで第一に、政権が国民を守るために導入するとする「平和安全法制」というものを、先入観に捉われることなく、丁寧に読んでみることから始めてはどうか、と思います。
 
「説明が足りない」という声があるようですが、説明が足りないというよりも理解しようとする気持ちがないことが、理解できないという原因かも知れません。頭から悪いものと決めつけてしまっていれば、いくら説明を聞いても理解できないと思います。
 
 伝道者に成り立ての頃、比較宗教学の権威として知られる牧師さんが、教職研修会で語ったことを思い出します。
この先生はこう言われました、「もしも仏教を理解しようと思うならば、仏様の慈悲に感激するほどに身を入れて学ばなければ、理解することは決してできない」と。それは確かに真理です。
 
「平和安全保法制」に反対でも構いません。とにかく、「これで国を守る」「戦争をしないようにするための法案だ」という提案者の声を、提案者の立場に立って聞き、その上で法案全体を読んでみることです。
 
読もうと思えば「平和安全法制」の概要 内閣官房でネット検索すれば、図解入りで出てきます。
 
この法案は二つで構成されています。一つは「平和安全法制整備法」というもので、これは自衛隊法をはじめとする十本の法律から成っています。
もう一つが「国際平和支援法」という新規制定の法律です。
そしてこのうち、「平和安全法制整備法」のうちの五番目の「事態対処法」という法律と「国際平和支援法」が、「日本が外国の戦争に巻き込まれる」のではないかという不安の本となっているようです。
 
しかし、反対を叫ぶ人はどこまで法案の内容を学んでんいるのか、先入観に囚われて勝手に「戦争法案」などと呼んだりしているのではないかという批判もあります。
 
確かに、極めて限定されたものとはいえ、同盟国が攻撃をされた場合には、支援活動を行うという内容が法案には盛り込まれています。
提案者は、「自分が攻撃された時には支援してもらう、しかし、他国が攻撃されても助けられません、では、世界では通用しない」と言います。
 
「法案」の提案者は、現代は一国だけで自国を防衛するのは困難だと言います。そういう意味では集団的自衛権あるいは集団安全保障は「持ちつ持たれつ」の精神を形にしたものかも知れません。
「持ちつ持たれつ」の精神といえば、やはりパウロの勧めでしょう。
 
「すなわち、今の場合は、あなたがたの余裕があの人たちの欠乏を補い、後には、彼らの余裕があなたがたの欠乏を補い、こうして等しくなるようにするのである」(コリント人への第二の手紙8章14節 新約聖書口語訳286p)。
 
反対者の中には、「世の中の雰囲気がそうだから」とか、「戦争に行かされるから」などと口走ります。
でも、「徴兵制の導入」はあり得ません。徴兵制自体、明確に憲法違反ですし、何よりも高度な軍事力の交戦となる近代戦では、やる気のない兵士は足手まといとなります。
 
根拠のない噂を信じる、主体性のない人がいますが、法案に対する賛否は別として、何が現行よりもましな安全保障政策であるかを研究することは、国民としても、そしてひとりのクリスチャンとしても大事な務めであり、責任でもあります。
 
 また判断の一つの要素として、この法案にどの国が賛同していて、どの国が反対しているのかを見極めることも大事です。国家というものは正義ではなく、自国の国益というエゴイズムで動きます。
 
ですから、日本の安全保障政策が整備されて一番困るのはどの国か、逆にに歓迎している国はどこなのかを知れば、自ずから、法案が良いものか良くないものかがわかってきます。
そのためには、日本を取り巻く環境、特に政治的、軍事的環境についての情報を収集することです。
 
 先月の半ば、ある新聞のコラムが、映画「たそがれ清兵衛」の一場面を引用して、法案についての説明をしておりました。
 
映画では主君から上意討ちの討手を命じられた真田広之演じる井口清兵衛が、当該の家に乗り込んで相手と言葉を交わすうち、田中泯(みん)扮する余吾善衛門と意気投合し、気を許すあまりに思わず、自分が腰に差している大刀は実は竹光であるということを打ち明けてしまいます。
その途端、画面では田中泯の目つきが変わり、刀を抜いて真田広之に切りかかってくるのです。
激闘の末、やっとのことで田中泯を打ち果たした真田広之は、怪我を負いながら、子供と宮沢りえが待つ我が家へと帰っていきます。
 
コラムの趣旨は、日本にとっての軍事的脅威である中国に刀を抜かせないためには、集団的自衛権の行使を可能にする法律が必要なのだ、ということだったと思います。
 
確かに、安全法制の整備の目的の一つは、日本に野心を持つ外国が、「刀を抜く」という武力行使の誘惑にかられないようにすること、つまり戦争の抑止にあるといえます。
防衛力の整備が重要なのは、防衛力の整備と同盟の強化とが、戦争の抑止力となるからであって、それが国際政治の常識であるとする見解は重要なことかも知れません。
 
紀元前六世紀、バビロン捕囚から故国に帰還したユダヤ人が真っ先にしたことは、破壊された神殿の再建でしたが、その次にエルサレムの住民が取り組んだことは、外敵からの攻撃から自らを防衛するための「城壁」の修復工事でした。彼らはこれをペルシャの支援を受けながら実施しました。
 
「こうしてわれわれは城壁を築いたが、石がきはみな相連なって、その高さの半ばにまで達した。民が心をこめて働いたからである」(ネヘミヤ記4章6節 669p)。
 
近隣の民の悪質な妨害を受けながら、城壁は完成します。城壁が完成した段階で、それまで妨害をしていた近隣の民は、ユダヤへの攻撃を断念します。城壁の修復工事完了が抑止力となったからです。
 
「われわれの敵が皆これ(城壁の完成)を聞いた時、われわれの周囲の異邦人はみな恐れ、大いに面目を失った」(同6章16節前半)。
 
完璧な安全保障体制などはあり得ません。要は、これまでと同様でよいのか、または、今までよりもましかどうか、今より安全が保障されるようになるかどうかということです。
 
当たり前と思って楽しんできた命と暮らしと自由とを、誰が、そして何が守ってくれるのか、また、誰が損なうのかを見極めて、今より少しでもましな選択をすること、それが、戦後七十年を生きている私たちに、神が委ねて下さった使命ではないでしょうか。
 
思いは色々とあるかと思います。しかし、一つの論調や世の中の雰囲気に流れるのではなく、自分の頭、自分の感性で判断していきたいと思います。迷った時には白紙になっての学び直しが大切です。
 
猛暑の夏の礼拝説教は、「サラッと短く」を目標にしていますが、今週だけは例外で、時間を大分超過してしまったようです。申し訳ありません。その分、来週は「短くサラッと」を心がけたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-08-07 20:03:06 (1296 ヒット)
2015年礼拝説教

15年8月2日 第三回日曜特別礼拝説教 

祝福された人間関係 その三
 
人間関係における感情の制御
 
コロサイ人への手紙3章15節(新約口語訳317p)
 
 
〈説教のアウトライン〉
 
1.否定的な感情
2.否定的な感情の制御
3.否定的な感情から肯定的な感情へ
 
 
はじめに
 
茶の湯といえば何と言いましても千利休(せんのりきゅう)です。
利休は豊臣秀吉の側近としてその寵愛を一身に受け、茶人としてその名を天下に知らしめた人物ですが、その晩年に至って秀吉の怒りを買い、切腹を命じられて、天正十九年、西暦でいえば一五九一年、京都で切腹して果ててしまいます。
しかも死後、利休の首は梟首(きょうしゅ)といいまして、一条戻橋(もどりばし)で晒し首にされます。
 
利休の何が時の権力者の逆鱗に触れたのか、そしてなぜ、晒し首にされる程の怒りを買うことになったのかということについては諸説があり、確定していませんが、どのような理由であったとしても最終的には利休の年齢に関係するといわれています。
 
つまり利休は時の権力者の要求に対し、どんな時にも柔軟に対応していたけれど、高齢になるに従って忍耐力あるいは自己抑制力が衰えていき、ついに権力者の忌諱(きき、きい)に触れるような行動、態度、あるいは表情を取ってしまったのではないかというわけです。
確かにこの年、利休は数えで七十歳となっていました。
 
なお、朝鮮半島への出兵というオペレーションもそうですが、この時期の秀吉の判断、行動は異常ともいうべきものであって、自らの欲望や感情を制御できないような状態に陥っていたと思われます。
 
利休を切腹させたこの年、秀吉は大陸の明(みん)の征服を見据えて、半島の朝鮮出兵を決め、その翌年にそれを決行することになるのですが(文禄の役)、若い頃の怜悧な判断や才覚は、老齢となったこの頃にはすっかり影を潜めてしまっていたようでした。
 
一方、利休の方も高齢になるに従い、そのような秀吉に合わせるエネルギーが枯渇してきていて、そのためにそれまで抑えに抑えてきた秀吉への否定的感情が、つい表面化してしまったのではないでしょうか。
 
それにしましても梟首(きょうしゅ)という仕打ちに、「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉を思い起こさせもしますが、どちらにしましても、人間関係の背後には理屈では割り切れない感情という不合理なものが存在していることは事実です。
 
そこで「祝福された人間関係」の第三回目は、「人間関係における感情の制御」としました。
「制御」とは「コントロール」という意味です。「祝福された人間関係」を築くには、感情の制御、とりわけ否定的感情のコントロールが何としても重要な要素となります。
そして出来れば制御というレベルを超えて、否定的感情を肯定的感情へと昇華させることができればベストと言えると思われます。
 
 
1.否定的な感情
 
感情には二つの側面があります。一つは肯定的感情、そしてもう一つが否定的感情です。
これを簡単に言ってしまえば「好き嫌い」ということでしょう。多くの場合、好意を抱いていれば、人が持っている多少の欠点には目を瞑ることができますし、第一、気になりません。
ところがひとたび嫌になれば、言うこと為すことがいちいち、気に食わなくなってきます。つまり、否定的感情に支配されるようになります。
 
人間関係を損なう否定的な感情としては、三つが挙げられます。
一つは「敵意と憎悪」、二つ目は「羨望と嫉妬」、そして三つ目が「怒りと怨み(恨み)」です。
 
このことに関して、使徒パウロはそれらを生まれつきの人間が持つ良くない感情、あるいは性向として問題視します。
 
「肉の働きは明白である。すなわち、…敵意、争い、そねみ、怒り、…ねたみ、…および、そのたぐいである」(ガラテヤ書5章19〜21節前半 新約聖書口語訳299p)。
 
分かり易い例をあげれば、半島にある隣国との関係です。
テレビドラマの「冬のソナタ」からヨン様ブームが起こり、これを契機として韓流ブームが特に年配の婦人層に浸透していったのがおよそ十年前のことでした。
しかし、「韓流ブーム」は潮が退くように退いていき、代わって「嫌韓ムード」が各年代に広がってきました。
 
引き金になったのは前の大統領が落ち目の支持率を上げるため、紛争地である竹島(韓国名 独島)に上陸したことと言われていますが、それだけではありません。
 実はその直後、当該大統領は韓国教員大学校を訪問した際、席上、日本の天皇について言及し、「(日王が)『痛惜の念』などというよく分からない単語を持ってくるだけなら、来る必要はない。韓国に来たいのであれば、独立運動家を回って跪(ひざまず)いて謝罪すべきだ」と言ったということが日本に伝わったことが、多くの日本人の怒りを引き起こすこととなったのでした。
 
この「跪いて謝罪する」というのは、韓国において、罪人が謝罪をする際に、足を縛って跪かせ、土下座をさせる刑罰を連想させる表現です。
国民の歓心を買おうとした結果の発言かも知れませんが、非礼にも程がある大統領発言でした。
 
これがきっかけとなって、同国の日本に対する過剰なまでの敵意や反感が、実は根拠に乏しいものであること、同国が主張するいわゆる歴史的事実なるものが、同国がそうであるべきだと欲した見方にすぎないものであることを解明した雑誌や書籍が、その後本屋さんの店頭に並ぶようになりました。
 
特に、執拗に謝罪と賠償を要求されてきた、いわゆる「従軍慰安婦」問題の場合、日本の官憲や軍部による強制連行説がデマでしかなかったこと、また「慰安婦」なるものは当時、どの国にもあった合法的な戦時売春婦であったことなどが明らかとなってきたことも同国に対する反感を醸しだす契機となりました。
 
とりわけ、それまで連日のようにテレビ放映されていた韓流ドラマに描かれている同国の家庭や男性像が、実態や実像とはかけ離れた美化されたものであることが指摘されるようになったこと、また、歴史ドラマにしましても、実際の歴史であるかのように描写された壮大な物語が、史実とは全く異なった架空のものでしかないことが歴史学者によって明らかにされたことなども、嫌韓ムードに拍車をかけました。
 
さらに同国があらゆる機会に自国の領土と主張する竹島(韓国名独島)が、日本の主権回復の直前に同国により火事場泥棒的に横奪され、不法占拠された日本固有の領土であることなどの歴史的事実が、ネットを通して、それまで日本がすべて悪い悪いと信じ込まされてきた若い人々が知ったことも、同国への気持ちを冷ますきっかけとなったようです。
 
厚化粧が剥がれて素顔を見た以上、そしてかかっていた催眠が解けた以上、余程のことが無い限り、以前のような親韓ムードに戻ることはもうないでしょう。
 
同国の反日は、歴史的事実の無視、誤認を基にして立案された国家的政策により、被害者感情と加害者(と思い込んでいる)への「敵意と憎悪」によって強固なものとなっており、そこに何をしても勝てない日本という国への「羨望と嫉妬」と、根拠のない「怒りと怨み」という否定的感情が混入されて岩盤のようになっているとされます。
 
否定的感情というものを放置し、あるいは煽ってきた結果が、隣国の惨状であり、こじれてしまった日韓関係です。
そして、これを個人的レベルにおいて、「以て他山の石とする」ことが、今の私たちが学ぶ教訓です。たとい仮に、正当性が有ったとしても、否定的感情というものを放置していれば、ついには彼の国のようになってしまいかねないからです。
 
 
2.否定的な感情の制御
 
では、放置すれば硬化しあるいは増殖をしてしまう否定的感情は、どのように取り扱うべきでしょうか。
同国の場合、まず、事実はどうなのかという歴史的真実というものを知ることから始めることが第一歩となります。
 
そしてこの原則は人と人との関係にも適用できます。現在のどうしようもない否定的感情は、ひょっとすると誤解に基ずくものではないか、一方的な思い込み、一面的な見方によるものではないか、という自己吟味です。
 
吟味をした上で、否定的感情の原因が確かに相手方にあるとなった場合はどうするか、ですが、その場合、否定的感情に流されるのではなく、これを制御するという段階に至ることが必要です。
 
「制御する」と申しましたが、聖書で唯一、これが使われている箇所があります。ヤコブの手紙です。
 
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる」(ヤコブの手紙3章2、3節 362p)。
 
 ここで「制御する」(2節)と訳された原語の動詞は「カリナゴーゲオー」ですが、これは「手綱、くつわ」と「導く」という言葉の合成語で、意味は「手綱をとって導く」「轡(くつわ)をつける」です。
 ヤコブの手紙では言葉が問題となっていますが、否定的感情が言葉となった時、それは人の心を傷つけ、ダメージを与える悪口となります。
 
ところで、悪口が最も発達しているのが大陸の大国と、半島の隣国だそうです。金文学と金明学という兄弟が二〇〇四年に共著で出版した「韓国民に告ぐ」という本があります。
 
著者は中国で生まれた朝鮮族三世であって、中国の大学を出てから日本で研究生活を送り、祖父母の故郷である母国・韓国とを何度も行き来して、この三つの国の文化を客観的に眺め渡すという条件下で研究活動、著作活動を続けている研究者ですが、これによりますと、韓国人がすぐ口にするのが「シッパル(くそったれ)」という悪口であって、韓国は世界一の「悪口大国」なのだそうです。
 
中国とともに、世界的に悪口がとりわけ発達したのが韓国である。逆に日本はあまり他人を悪く言わないから悪口のボキャブラリーは極めて貧弱である。
わたしがこのように率直に言うと「このシッパル!」と韓国人に悪態をつかれるかもしれないが、韓国が日本よりも発達しているところがあるとすれば、まさしくそれは悪口だけだ(金文学 金明学著「韓国民に告ぐ 日本在住の韓国系中国人が痛哭の祖国批判」181p 祥伝社黄金文庫平成14年)。
 
 言葉というものは感情の発露ですから、言葉の制御とは感情の制御に他なりません。
つまり、感情とりわけ、相手を傷つけ、結果としてブーメランのように自分に返ってくる否定的感情を制御することが、成熟した人間が第一になすべきこととなります。
 
感情は言葉に出さなくても態度や表情に出る場合があります。千利休が秀吉に面と向かって言い逆らうとも思えませんから、抑え切れぬ否定的感情が態度や表情に出たのでしょうか。
自らの地位の安定を第一とする独裁者は、家臣の反応に敏感です。完璧に利休が演じてきた従順な態度に、ついに破れが生じたのかも知れません。
 
ところで明らかに相手方に問題が有るとする場合、紛争を解決するには問題点を指摘して反省を求め、行動や言動を変えてもらうことがベストです。
 
しかし、一向に変わらないという場合、二つの対応が考えられます。一つは適当な距離を置く、という対応です。
 
そしてもう一つが自分の感情、とりわけ怒りや憤りという、それは誰がみても確かで正当な感情を制御、コントロールして、理性的に対応するという道です。
 
具体的には、怒りの対象が近い関係にある場合、たとえば家族のような場合、これが家族ではなく、他人だったらどうするか、と考えることです。
先週もお話ししました、妻と共に参加していた勉強会で心に残っている教訓があります。
家族には他人行儀に」というものでした。
 
講師が言いました、
 
家族だと思うと照れや気恥かしさから、あるいは甘えから、すべき挨拶をしないことがある。
しかし、他人ならばお礼にせよ、謝罪にせよ、きちっと挨拶をする。
また、家族だと思うから遠慮なくすぐに怒りを言葉にしてぶつけてしまう。
しかし、それが他人ならばどうだろうか。怒りをぐっと堪えて、たとい問題を指摘するにしても、頭ごなしに怒鳴るのではなく、諄々と説くであろう。
だから「家族には他人行儀に」、それが円満な家族関係を構築する秘訣である。
 
確かに「親しき仲にも礼儀あり」です。聴きながら「成る程」と感心した記憶があります。
 
 では赤の他人に対して抱く否定的感情は、どのように制御すればよいのかということですが、制御の前の段階で、自らの感情を抑制するということが始まりです。
 
それが自分を変えるということであって、その場合の自分を変えるとは、自分の度量、キャパシティーを広げるということです。
その上で理性と言葉とを使って相手の問題点を指摘し、変化を求めます。それを訓戒と言います。
 
「そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、…」(コロサイ人への手紙3章16節 317p)。
 
 「教え」(16節)るということは、相手が持っていない知識を与えることです。それに対して「訓戒」(同)とは、相手の間違いを指摘した上で、矯正へと導くことを言います。
 
ただ、プライドや面子で、自らの非を認めない人、民族、国家の場合、成功するとは限らないのがこの方法です。そういう意味では相手を選ぶという要素も必要であって、時には自身の中に湧き上がる否定的感情というものを制御するということ、つまり、自らの度量を大きくすることに努めることが求められます。
 
 
3.否定的な感情から肯定的な感情へ
 
 最終的には否定的な感情を単に制御するというのではなく、それを肯定的な感情へと変える、という対応ができればベストです。
 
本日のメインテキストです。
 
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ人への手紙3章15節 316p)。
 
 ここで言う「あなたがたの心」(15節)の「心」の原語は「カルディア」で、元々は心臓のことでした。
古代ギリシャ人は心臓に心があると思っていたようです。そしてこの「心」とは感情のことを意味します。更にここで使われている原語は複数形ですので、様々の感情という意味になります。
 
その一つ一つの感情に「キリストの平和」(同)を「支配」(同)させなさいと書簡の著者は言います。
 「キリストの平和」の「平和」とは平安という意味です。
 
地上にいた時のキリストは勿論、人間ですから理不尽な事態や現象を見れば動揺もし、感情が波立ち騒ぐという時もあったでしょう。
 
しかし、海の上は嵐によって波立っていたとしても、海の深い底は穏やかであるように、イエスの心の深い所は「平和」が「支配」しておりました。
なぜならば、全能の父なる神が自身と共にいて、万事を益としてくださるという確信を、イエスが持っていたからでした。
 
 そして、誰でもキリストを主と仰ぎ、心の中に迎え入れれば、「キリストの平和」が私たちの波立つ心を支配して、否定的感情を肯定的感情に変えてくれるのです。
 
 十五節について英国の聖書学者バークレーは興味深い解説をしています。
 
(書簡の著者の)パウロの言っていることを文字通りにとれば、「神の平和をあなたがたの審判者としなさい」ということである。
パウロが用いている動詞は、運動用語からきている。
競技中、何か問題が紛糾した場合、それに決定を下す審判員にあてて使われることばである。
もし、イエス・キリストの平和が心の中で審判員となるならば、わたしたちの感情が対立したり、同時に二つの指示を受けたとき、…キリストの決定がわたしたちを愛の道に立ち続けるようにして下さる…」(ウィリアム・バークレー著 鳥羽徳子訳「ピリピ・コロサイ・テサロニケ」230p ヨルダン社)。
 
 バークレーによれば「パウロが用いている動詞」つまり「支配する」(15節)という動詞は「運動用語からきている」のだそうです。
 今、中国において、日本、韓国、北朝鮮、中国の四カ国により、東アジア選手権というサッカーの国際試合が行われています。
確かにサッカーの試合を観ていますと、審判には当該の試合を「支配する」権限が与えられていることがわかります。
 
ということは、「わたしたちの感情が対立したり、同時に二つの指示を受けたとき」には、「イエス・キリストの平和が心の中で審判員となる」ことによって、「キリストの決定がわたしたちを愛の道に立ち続けるようにして下さる」、つまり、否定的感情に代えて肯定的感情が心を支配するように変えてくださることを期待してもよい、という訳です。
 
否定的感情という暴れ馬に轡をはめ、あるいは手綱を操ることによって、自在に自らを「制御する」ことができれば、多くの問題は解決するかも知れません。
 
しかし願わしいのは感情の抑制あるいは制御を超えて、否定的感情を肯定的感情に代えてもらうことです。
「キリストの平和があなたがたの心(感情)を支配するようにしなさい」(15節)というコロサイ人への手紙の勧めは、否定的感情がついには肯定的感情に変えられるという希望を私たちに抱かせます。
 


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