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投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-10-04 16:34:42 (1146 ヒット)
2015年礼拝説教

15年10月4日 第五回日曜特別礼拝説教

祝福された人間関係 その五

人間関係を結ぶ、愛という名の帯
 
コロサイ人への手紙3章14節(新約口語訳317p)
 
《今週の説教アウトライン》
 
1.不変の愛は、信頼し合う者を更に一層強固に繋ぐ帯である
2.無償の愛は、寄る辺無き者の盾として命へと繋ぐ帯である
3.無私の愛は、仇敵をも包み込む力として救いへと繋ぐ帯である
 
 
はじめに
 
先週の日曜日の夜のことでした。
夕食を終え、もうひと仕事をするため教会に戻ろうとして家を出て、何気なく夜空を見上げますと、東の空の雲間から眩いばかりの月が見えます。
そのあまりの美しさに家に戻って妻を呼び出し、家の前でしばらく月を観賞するひとときを持ちましました。
 
うっかりしていましたが、先週の日曜日の九月二十七日は十五夜で、まさに中秋の名月というものを心ゆくまで堪能することができたというわけです。
 
ご存じのように十五夜とは旧暦の八月十五日前後に見られる満月のことで、中秋の名月というのは、八月が旧暦の秋である七月、八月、九月の中、つまり中秋の八月に見ることができる名月という意味です。因みに竹取物語のかぐや姫が見て泣いた月も十五夜の月でした。
 
月と言ったら誰もが思い出すのが古今集の、在原業平(ありわらのなりひら)の甥とされる大江千里(おおえのちさと)の歌でしょう。
 
月みれば ちぢにものこそ かなしけれ
我が身一つの 秋にはあらねど
 
 「かなしけれ」が「悲しい」のか、「愛(かな)しい」のかが不明ですが、それが「悲しけれ」だとすれば、夜空の月に象徴される秋は、誰もが一種の物悲しさ、淋しさ、寂寥感といったものを感じさせる季節ともいえます。
 
人が悲しさや寂しさを感じる時とは第一に、愛する者のとの死別ですが、それに次いでのものが、身近な人間関係にきしみや溝を感じたりした時でしょうか。
喜びをもたらすのも人間関係なら、痛みや侘しさを感じさせるのも人間関係だからです。
 
そこで今月の「祝福された人間関係」では、「人間関係を紡(つぐ)む、愛という名の帯」というタイトルのもと、聖書に登場する三つの人間関係を題材にして、「愛という名の帯」の力について考えたいと思います。
 
 
1.不変の愛は、信頼し合う者を更に一層強固に繋ぐ帯である
 
信頼関係は既に十分に出来ている、という関係もあります。それが続けばそれに越したことはありません。
しかし、人の心は変わり易く移ろい易いものです。今が信頼し合っているからといって、それが変わらないという保証はありません。
置かれている環境が変わったり、状況が変化することによって、その影響を受けて心変わりをするというケースもあります。
悲しいことですが、それが脆く儚い人間というものが持つ宿命なのかも知れません。
 
しかし、聖書の中には、環境の激変、利害の渦を越えて、純粋な友情を最後まで貫き通したという麗しい関係があります。
それが、統一イスラエル初代の王ダビデと、統一前のイスラエルの王サウルの息子ヨナタンの関係でした。
 
ダビデが子供の頃、イスラエルに王政が布かれました。紀元前十一世紀の半ば頃のことです。
パレスチナの地中海沿岸に勢力を広げていたペリシテ人との戦いにイスラエルが勝つには、部族を統合した組織的な対応が無ければならず、そのためには王政を布く必要であると考えられたからでした。
 
最初の王に任職されたのが背丈の高い美丈夫のサウルでした。
 
「サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた」(サムエル記上13章1節 旧約聖書口語訳398p)。
 
「二年イスラエルを治めた」(1節)とありますが、「二年」は統治期間としては余りにも短か過ぎますので、学者は「二十年」が写本の段階で「二年」となってしまったのだろうと推測します。
 
ダビデですが、ダビデの父親の名はエッサイで、ダビデは八人兄弟の末っ子でした。イスラエルとペリシテとの戦いは常に熾烈を極めるものでしたが、ある時父は、ダビデに対し、ペリシテとの戦いに参戦している三人の兄たちのところへ弁当を届けに行くよう命じました。
 
弁当を持ったダビデが戦場に行きますと、ペリシテの巨人、ゴリアテが、イスラエルに対し一対一の勝負を求めて出てきておりました。
しかし、イスラエルの陣営から誰ひとり名乗り出る者はありません。巨人を恐れていたからでした。そしてこの巨人に、羊飼いの武器である石投げをもって立ち向かったのが少年ダビデで、彼は見事、ゴリアテを打倒するという勲功を上げます。ラグビーのワールドカップで日本が南アメリカに勝った以上の大番狂わせが起こったのでした。
 
イスラエルの危機を救ったダビデをサウル王が謁見するのですが、その様子を垣間見たのが王の息子のヨナタンでした。
ヨナタンはダビデに魅かれ、以後、二人は熱い友情を持ち続けるに至ります。
 
「ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結び付き、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した」(サムエル記上18章1節)。
 
 これがダビデとヨナタンとの運命的な出会いでした。その後、ダビデはサウルの親衛隊長に抜擢され、輝かしい武勲を立てるようになり、国民的人気を博するようになります。
しかし、ダビデの高い人気に不安を感じたのが王のサウルでした。ダビデによる王位簒奪を恐れたサウルは、やがてダビデの抹殺を謀るようになります。
しかしヨナタンのダビデへの気持ちは揺るぎません。彼は疑心暗鬼に陥った父親を諫めると共に、ダビデを父の手から救うべく、陰に陽に支援の手を差し伸べ続けます。
 
考えるまでもなく、ヨナタンは正当な王位継承者ですから、ダビデはライバルということにる筈です。しかし、ヨナタンは神が自分ではなくダビデを選んでいることを知っており、神の選びが実現することを心から願っていたのでした。
ですから、競争相手の事前の抹殺の必要を説く父サウルに対し、猛然と抗議をします。
 
「エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。…彼は必ず死ななければならい。ヨナタンは父サウルに言った、『どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか』」(20章31、32節)。
 
やがてヨナタンとサウルはペリシテとの熾烈な戦いの末に、戦場において命を落としてしまいます(31章1〜6節)。
このサウルとヨナタンの訃報を聞いたダビデが、哀悼の気持ちを示すために詠んだ歌が、「弓の歌」として知られる歌です。
 
「ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼した。
『イスラエルよ、あなたの栄光は、あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちはついに倒れた。
…わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためにわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しいものであった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。
ああ、勇士は倒れた。戦いの器はうせた』」(サムエル記下1章17、19、26、27節)。
 
ダビデはヨナタンが彼に注ぎ続けた愛について、それは「女の愛にもまさっていた」(26節)と歌いましたが、ヨナタンのダビデへの友情はあくまでも細やかであって、ただ尽くすだけの一途の愛であり、たとい状況や環境が変化したとしても変わることのない愛、不変の愛であったという意味でしょう。
 
ダビデはその後、ヨナタンへの友情の証、ヨナタンの温情への感謝のしるしとして、ヨナタンの遺児の面倒を生涯にわたって見続けるのですが、この二人が強固に結ばれ続けたのは、二人の間に神がおられたからでした。
 
サウルの手を逃れてダビデが身を隠す際に、ヨナタンが送った祝福の言葉です。
 
「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫との間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」(サムエル記上20章42節 415p)。
 
神をその間に入れた関係は、信頼し合っているという今の状態を、更に密なるものへと変えてくれることになります。その実例がヨナタンとダビデの関係でした。

 

2.無償の愛は、寄る辺なき者の盾として命へと繋ぐ帯である
 
世の中には、義理も義務もないという関係にも関わらず、見捨てるわけにはいかない、という愚直とも思える気持ちから、関わりを続けるという愛があります。
これを無償の愛というのですが、その愛を体現した人物がナザレの大工のヨセフでした。
 
ヨセフが婚約者のマリヤの妊娠という事実を知った時、彼はマリヤを訴えることもできました。しかし彼はマリヤの将来を考えて、穏便なかたちでの解決を模索しました。
 
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重(みおも)になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した」(マタイによる福音書1章18、19節)。
 
「婚約」(18節)でありながら「夫ヨセフ」(19節)、「離縁」(同)とあるのが不思議かも知れませんが、当時のユダヤの結婚は、三段階の順序を経るのが通例でした。
第一は親同士が決める許嫁(いいなずけ)です。これは当事者が年頃になった時に解消することもできました。
第二の段階は法的な意味での夫婦になるということです。しかし、この段階では同居には至らず、約一年後に同居をするという習慣がありました。
 
つまりマリヤはこの第二の段階において妊娠をしたわけです。
身に覚えのないヨセフは煩悶しつつ、マリヤのため、事を密かに収めようと思慮しますが、夜の夢の中に御使いが現われて、「離縁をするのではなく、マリヤを妻として迎えるように」という啓示をもたらします。「胎児は不義の子などではなく、神の聖霊によるものであって、生まれ出る子は世を救うメシヤ・キリストなのだ」と(1章20〜22節)。
 
眠りから覚めたヨセフは納得をし、決然としてマリヤを妻に迎えます。
 
「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使いが命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた」(1章24節)。
 
 ヨセフの印象は一見、草食系男子のようです。しかしこの時ヨセフは、この先に待つ、自らが浴びる嘲笑、陰口を覚悟しつつ、誤解に基ずく世間からの非難、悪罵、中傷から母と子を守る防波堤となるべく、選択をし、行動をしたのでした。
 
このヨセフについての、かつて山口百恵と三浦友和の結婚式を司式した飯清牧師(故人)の論評は的を射ているだけでなく、実に感動的です。
 
神はその独り子を世に遣わすにあたって、母となるべき女性を選ぶよりも、いわば養父として保護者の役目を果たす男性を探すことのほうに、はるかに骨を折られたのではないかと思うのです。
もしこのヨセフのような思慮深い協力者が与えられなかったら、マリヤはとうてい「救い主の母」という大任に耐えられなかったのではないでしょうか(飯清著「飼葉おけと十字架 アドベントとレントのための小説教集」58p 日本基督教団出版局)。
 
 著者はこの小説教のタイトルを「信仰の勇者ヨセフ」としていますが、まさにヨセフは「信仰の勇者」であり、「愛の勇者」でもありました。もしも私がタイトルをつけるとするならば「男の中の男ヨセフ」とするところです。
 
彼は世間的には寄る辺の無い者となるであろう母子に対し、これ以後、見返りを求めない無償の愛を注ぎ、その盾、防壁、保護者として世間の非難、攻撃から守り続け、それによって私たち人類を神の命へと繋ぐ役割を果たしたのでした。
 
 
3.無私の愛は、仇敵をも包み込む力として救いへと繋ぐ帯である
 
 愛は仇敵同士とも言える間を繋ぐ帯ともなります。
使徒パウロのヘブル語名は、ヨナタンの父親と同じですが、西暦三十年代の後半、回心前の若き律法学者のサウルは、原始キリスト教会に対する迫害と弾圧の中心人物として知られておりました。
 
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、迫害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書(てんしょ)を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった」(使徒行伝9章1、2節)。
 
 ところが目的地のローマ帝国の属州シリヤ州の「ダマスコ(ダマスカス)」郊外において、この「サウロ」に強烈な光が天から照射します。光を浴びて地に倒れた彼に対し、呼びかける声が天から聞こえました。
それは何と、「サウロ」が異端者として指弾してきた死んだ筈のナザレのイエスの声でした。
 
「彼は地に倒れたがその時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」(9章4節)。
 
 天からの声は、動顛をし、しかも光のために視力を失ってしまった彼に対し、「町に入るように」と命じます。
 
「彼は地に倒れたが、その時『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。そこで彼は『主よ、あなたは、どなたかですか』と尋ねた。すると答えがあった、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう』」(9章5、6節)。
 
一方、ダマスコ在住の弟子であるアナニヤは、サウロの許を訪れて祈るようにという啓示を、祈りの最中、幻として受けます。
 
「さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現われて、『アナニヤよ』とお呼びになった。彼は『主よ、わたしでございます』と答えた。
そこで主は言われた、『立って、真すぐという名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである』」(9章10〜12節)。
 
主ご自身の言葉とはいえ、アナニヤには信じ難い指示でした。当然です。サウロはキリストの教会にとっては厄災をもたらす、将に親の仇のような人物なのですから。
しかし、主は重ねて言われます、「私は彼を異邦人に福音を伝える器として選んだのだ」と(15、16節)。
 
 これを聞いたアナニヤはサウロの許に行こうと心を決めます。傍にいた教会の仲間たちは止めたかも知れません。
でもアナニヤは立ち上がり、仇ともいうべきサウロを尋ねて、彼に手を按(お)き、心を込めて祈ったのでした。
 
「そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現われた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです』」(9章17節)。
 
 この結果、パウロの身に劇的な変化か起こります。鱗のようなものがサウロの目から落ちて、彼の視力は元に戻り、「イエスこそ主キリストである」との信仰を告白してバプテスマを受け、こうして後の使徒パウロが誕生することとなるのです(9章18、19節)。
 
 この時、教会側にとっては報復をする絶好の機会でもありました。視力を失っているサウロには、抵抗するすべもありません。
 しかし、アナニヤは報復をするどころか、手を按いて祈ってくれたのでした。
 
とりわけサウロの心を揺り動かしたものは、アナニヤの口から発せられた「兄弟サウロよ(サウール アデルフェー)」(17節)という呼びかけではなかったかと思うです。
憎んでも余りある筈の仇敵です。にも関わらず、そのサウロに対してアナニヤは、「アデルフェー(兄弟)」と呼びかけてくれたのでした。
イエスの言葉に次いで、律法学者サウロの心に影響をもたらしたもの、それがこのアナニヤの、サウロにとっては想像すらできない、愛に満ちた呼びかけであったのでないでしょうか。
 
コロサイ書の著者がパウロかどうなのかという議論がありますが、たとい著者がパウロでなかったとしても、そこには使徒パウロの心情と経験が豊かに反映されていると思われます。三章十四節です。
 
「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ人への手紙3章14節 317p)。
 
 「アナニヤ」という人物の名はこれ以後、聖書にも歴史にも出てきませんが、しかし、自分を捨てた彼の愛、無私ともいうべき愛こそが、あたかも獲物を追いかける猟師のように、キリスト者を求めて「脅迫、殺害の息をはずま」(9章1節)せていたサウロの心を溶かしたのでしょう。こうして教会の迫害者であったサウロのために、愛は彼と教会とをつなぐ帯となって用いられたのでした。
 
愛こそが、「すべてを完全に結び帯で」(14節)す。そしてこの愛の本源、はイエス・キリストです。月は夜、太陽の光を反射して輝きます。私もあなたも、神の御子キリストの不変の愛、無償の愛、無私の愛で愛されて、愛する者へと変えられるのです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-09-27 16:50:39 (1393 ヒット)
2015年礼拝説教

 

2015年9月27日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話 
 
隠されていた宝、高価な真珠の譬え―天国という宝の価値を見抜く鑑定眼を持つ
 
マタイによる福音書13章44〜46、51、52節(新約聖書口語訳21p)
 
 
《今週の説教アウトライン》 
 
1.「天国」を何にもまさる「宝」と見抜く鑑定眼を持つ
2.「天国という宝」のためには何でもするという価値観を持つ
3.「天国という宝」についての情報を伝達する使命感を持つ
 
 
はじめに
 
「宝」と聞いたらまず思い出すのが、万葉集にある山上憶良(やまのうえのおくら)の歌、「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子に及(し)かめやも」でしょう。
 
「希少価値の高い銀や金、高価な宝石と雖も、わが子という宝物に比べれば遥かに及ばない」という意味で、子供という存在への親の熱い想いを歌ったものです。
 
子供とりわけ、幼気(いたいけ)ない幼児が大人の心を揺さぶるのは、子供というものが大人から見て、等しく宝そのものであるからです。
 
戦乱において犠牲となるのはいつも弱い立場の女性であり、子供です。
ヨーロッパを目指すシリヤなどからの大量の難民の流入を制限していたヨーロッパ各国の雰囲気がガラっと変わったのは、トルコの海岸に漂着した幼児の写真が世界に配信されたことがきっかけでした。
 
クルド人のシリヤ難民である両親は二人の幼児と共にギリシャを目指しましたが、大波によってボートは転覆し、父親だけが助けられたそうです。
 
海岸にうつ伏せになって打ち上げられていた赤いシャツを着た三歳の子供の写真は、それまで難民の受け入れを渋っていた西欧諸国の人々の気持ちを変え、その後急速に積極的な対応が検討されるようになりました
 
難民問題の犠牲となるのが、子供という掛け替えのない宝であることに気付いたからです。
 
但し、業者に多額の仲介料を支払ってでも、難民として国外に脱出できる人々はまだ恵まれている方であって、貧しいがために国を出るに出られず、戦乱のさ中、難民キャンプにとどまらざるを得ない、圧倒的多数の国内難民がいることに、世界は目を向けるべきでしょう。
 
ところで、聖書において子供、とりわけ我が子にも匹敵する宝、人生の行程において是が非でも手に入れるべき垂涎の宝として強調されているものが「天国」です。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の第三回目の説教は、「畑に隠されていた宝、高価な真珠の譬え」からで、タイトルは「『天国』という宝の価値を見抜く鑑定眼を持つ」です。
 
 
1.「天国」を何にもまさる「宝」「高価な真珠」と見抜く鑑定眼を持つ
 
イエスは天国、あるいは神の国を説明にするにあたって、しばしば「譬え話」というものを用いました。
 
二年前のルカによる福音書の譬え話を取り上げた際にもご説明しましたが、譬えの英語「パラブル」の語源はギリシャ語の「パラボレー」です。
 
「パラボレー」は「横に」という意味の「パラ」と「投げる」を意味する「ボレー」の組み合わせで「横に投げる」という意味の言葉です
つまり「譬え話」という物語の「横に(パラ)」に、語り手が本当に伝えたいという真理が「投げられている(ボレー)」ということなのです。
 
「天国」は直訳すれば「神の支配」を意味しますが、具体的には神様との良い関係、親しい関係を指します。それはまさに人間が求めてやまない「宝」です。
 
イエスはこの「天国」という宝を、一つは「畑に隠されていた宝」に譬え、もう一つは宝石商人が何としても手に入れたいと願っていた「高価な真珠」に譬えました。
 
「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。…また天国は、よい真珠を捜している商人のようなものである」(マタイによる福音書13章44節前半、45節後半 新約聖書口語訳21p)。
 
 最初の譬えの「畑に隠してある宝」の場合、少々説明が必要です。
 
実はパレスチナは常に戦場になっておりました。そこで人々は戦乱を避けて他に避難をする前に、大事な宝を床下や畑などに埋めて隠しておいたりしたようです。
 
ドイツの新約学者、エレミアスの著書の引用です。
 
「隠された宝」―イエスは、銀貨や宝石のはいった土器を考えておられるのだろう。パレスチナが二大河の国〔チグリス、ユーフラテスの河河、メソポタミアを指す〕とエジプトの中間に位置したため、数百年にわたってその国土に吹き荒れた数多くの戦争は、繰り返し、恐ろしい危険に直面して貴重品を土に埋めさせるように強いたのである(ヨアヒム・エレミアス著「イエスの譬え」217p 新教出版社 現代神学双書41)。
 
 ある時、畑に埋められていた「宝」(44節)が発見されました。長い年月が経過したからか、あるいは宝を埋めた本人が物故したかして、宝が畑に隠されたという事実は人々の記憶からも、そして記録からも失われてしまったのか、「宝」は土中に埋められたままでした。
 
そしてある時、真面目に仕事をしていた男が、地中に埋められていた「宝」を発見したのでした。
彼は畑の所有者ではなく、畑を耕作するために雇われていた労働者でした。
 
「宝」を発見した彼はどうしたかと言いますと、すぐに帰宅して、持ち物全部を売り払って資金をつくり、所有者から畑を購入したのでした。
 
「人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」(13章44節後半)。
 
 「それを見つけると」(44節)所有者に知らせないで、「隠しておき」(同)、畑の購入資金を工面して「その畑を買う」(同)という行為は、某国ならばともかく、日本人の倫理からしますと、「ちょっとどうかなあ」とも思いますが、今から二千年も前の中東の話であって、それ自体としは、当時では誰もがしている合法的な行為であったようです。
 
 現代でも、たとえば食料品を満載したトラックが横転したりすれば、それっとばかりにバケツやざるを手にした住民が群がり集まって、道路に散乱している品物をあっと言う間に拾い上げて自分の家に持ち帰ってしまうという国がありますが、もしもこれがその国であるならば、見つけた宝を密かに自宅に持ち帰り、何事もなかったかのように仕事を続けるかも知れませんが。 
 
 二つ目の譬えも似た譬えです。
真珠商人がおりました。彼は良質の真珠を求めて世界を巡り、ある所で希少価値の高い、一個の真珠を見つけたのです。
 
そしてそれを見つけるな否や、迷うことなく自分が所有していた多くの真珠や宝石類を処分して購入資金をつくり、発見した一個の真珠を入手したというのです。
 
「高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(13章45節)。
 
 この二つの譬えの違いは、前者が宝を偶々発見し、後者は明確なイメージを持って捜し続けたというところにあります。
 
 ある人は日々の営みの中で、「天国」という宝に偶然出会います
私の兄の場合、高校三年生の時、ひょんなことから偶々帰り路が一緒になったクラスの友人に案内された教会主催の天幕集会に、夏休みでもあったということで何気なく行ったことから信仰を持ち、「天国」という宝を発見するに至ったわけです。
 
 その兄から勧められて、「では話のタネに一度だけ」という軽い気持ちで教会に行ったのが私でした。
 
一方、ある人は真珠商人のように、求めて求めて、尋ねて尋ねての求道、精進の暁に、ついに探し求めていた真理に出会い、「天国」という「高価な真珠一個」を手に入れます。
 
 しかし、両者に共通している事柄があります。それが人を幸せにする「宝」であること、「高価な真珠」であることを見抜く、鑑定眼、鑑識眼というものを持っていたことでした。
 
教会にはこれまでに沢山の人が来ましたが、教会に残る人というのは、聖書の中にこそ真に値打ちのある「宝」が有ることを見抜く目、見極める眼力というものを持っていた人たちでした。
 
この見極めるための視力を持っていなかった者は、肉眼に見える物に目を向けたために躓いたりもしましたし、中には、一度は「天国」という「宝」を受け入れても、いつしか他の物に目移りしたりして、折角苦労して手に入れた価高き「宝」や「真珠」を、捨て去ってしまうという人もいます。残念なことですが
 
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」(7章6節)。
 
 見えるものにしか目を向けない人が多い中で、唯一の神が実在していることを信じ、イエス・キリストこそが唯一の救世主であることを素直に受け入れ、神との不断の交わりを楽しむ中で、永遠の生命の希望に生きる者は幸いです。
 
そしてそれが可能であるのは、確かな眼力、鑑識眼というものを駆使したからでした。
 
 
2.「天国」という「宝」を手に入れる為には何でもするという価値観を持つ
 
「宝」を偶然に発見し、あるいは「価高き真珠」を計画的に捜し求めた末での出会いであったとしても、この二つの譬えに共通するものは優れた鑑識眼の他にもう一つ、神との密なる交わりという「天国」を手に入れるためであるならば、自らが既に持っているものを投げ出してもよい、犠牲にしても構わないという考えを持っていたことにあります。
 
 両者がそれぞれ、「宝」(44節)あるいは「高価な真珠一個」(46節)を購入するための資金とするために「持ち物を売りはら」(同)ったのは、それだけの代償を支払ってでも手に入れる十分な価値があると思ったからでした。
 
 人は時には、何かを得るために今持っているものを放棄することを迫られる場合があります。
 
しかし、その価値を知っていれば犠牲を払ったなどと思うどころか、「喜びのあまり」(44節)に行動するのです。
 
 長い間、「律法による自分の義」を追い求めてきたパウロが、「キリストを信じる信仰による義」を知った時、そしてその義をもたらすために神の御子が十字架にかかってくれたことを知った時、彼の中に一大方向転換が起こったということを告白しています。
 
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
わたしはさらに進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基ずく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ人への手紙3章7〜9節 311p)。
 
 「宝」あるいは「高価な真珠一個」にもまさる「天国」を手に入れるためには失うということ、持っているものを手放すことを恐れてはならないと、イエスは言います。
 
「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイによる福音書16章26節 26p)。
 
 すでに信仰に入れられている者は、自らの手中にある「宝」「真珠」をどうか、決して手放さないように努めてください。
 
実はこの「宝」「真珠」に喩えられる「天国」という、生ける真の神との良い関係は、神からの無償の賜物です。
 
 日々の暮らしの中で、この「天国」の喜び、力を味わい続けたいと思います。
 
 ここからは、今朝、お配りした説教要旨にはないものです。
 
 この聖書箇所を読みますと、私がまだ若かった頃に聴いた、ある牧師さんの説教を思い出します。
 
 その方によれば、畑の宝の方は「天国は〜宝のようなものである」とあるけれど、真珠の方は、「天国は〜商人のようなものである」とあることから、天国が良い真珠を捜している商人として譬えられている。
 
そして、天国が捜している良い真珠とは、実は私たちのことであって、弱く情けない者であっても、神さまから見れば「高価な一個の真珠」なのだ。
そしてキリストは神の子という立場も栄光も全部捨てて、私たちを贖ってくださったのだ、という説教でした。
 
聴いた時には成るほど、と感動したという記憶があります。ただ、残念なことに、解釈学的にこの箇所からそのように解釈を導き出すことには無理があります。
 
この箇所の強調点は、人にとって天国はあくまでも高価な一個の真珠であって、いかなるものを犠牲にしてでも手に入れる価値のあるものである、ということです。それがイエスの意図でした。
 
解釈を離れて、私たちが神の目に高価であるということを伝えようとするならば、新改訳のイザヤ書43章4節、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という聖句を引用するのが適当かと思います。
 
この牧師先生は10年くらい前に病を得て天に召されましたが、素朴で純粋な人柄を思い出しますと、今でも懐かしさがこみあげてきます。
 
「天国」という、畑に埋まっている「宝」、捜し求めてきた価高き一個の真珠としての価値を見出す者は幸いです。
 
なお、イザや書43章4節の「私の目には、あなたは高価で尊い」という個所につきましては近いうちに単独の説教として取り上げたいと思っております。

 
3.「天国」という「宝」についての情報を伝達する使命感を持つ
 
 そこで最後に、「一家の主人の譬え」から、譬えの意味を理解した者の務めについて学びましょう。
 
「『あなたがたは、これらのことが皆わかったか』。彼らは『わかりました』と答えた。
そこで、イエスは彼らに言われた、『それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである』」(13章51、52節)。
 
 ここでイエスは、「譬え」を理解した者を「天国のことを学んだ学者」(52節)に譬えました。キリスト信徒とは「天国のことを学んだ学者」、「天国」についての知識と体験を持つ専門家なのです。
 
 「天国のことを学んだ学者」(52節)はこの日本では少数者ですが、だからこそ貴重な存在と言えます。
 この「学者」には務めがあります。「学者」は持っている知識を独占するのではなく、分け与えるという務めです。
 
 
 それは「新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人」(同)にも譬えられます。
 「倉」(同)が何を意味するのかという聖書解釈学上の議論はさて置き、私たちは誰もが、神の恵みに関する知識を持っております
要は、「惜しむことなく、それを必要とする人々に分けることができるのだ」というのがこの譬えの趣旨です。
 
説教はしなくてもよい、「伝道」などと大袈裟に考えなくてもよい、ただ、「天国」という「宝」あるいは「真珠」についての喜ばしい情報を内に仕舞ったままにするのではなく、機会があれば伝えたい、という使命感を持っていることが大切です。
 
私たちひとりひとりは「天国のことを学んだ学者」(52節)であり、人々が必要としている良きもの、つまり福音というものを神の「倉から取り出す一家の主人のようなもの」(同)なのだということを、この譬えから学べることを感謝したいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-09-20 16:37:01 (915 ヒット)
2015年礼拝説教

2015年9月20日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話
 
 
多額の負債を免除されながら、僅かな負債を赦そうとしなかった僕の譬え―赦されてこそあるという認識が、人を赦すことの出発点
 
マタイによる福音書18章21〜35節(新約聖書口語訳28p)

 

《今週の説教アウトライン》
 
1.仲間から受けた罪は幾度まで赦さねばならないかというと、七たびどころか七たびを七十倍するまで―主イエスの態度を想う
2.仲間の僅かな負債を赦せないのは、多くの負債が免除されたという認識がないから―問題はダブル・スタンダード
3.多くの負債が赦されているという認識が無いのは、罪意識が薄い上に自己愛が肥大しているから―赦され赦す喜びへ

 

はじめに
 
昨9月19日土曜日の未明、参議院本会議において、集団的自衛権の行使を限定的に可能とする「安全保障関連法案」の採決が行われ、賛成多数で可決、成立しました。賛成148票、反対90票でした。
 
水曜礼拝が終わった16日の夜、法案審議の大詰めである参議院の特別委員会の審議を、ネットの中継で見ておりました。
 
画面では理事会が行われている理事会室の前の廊下が、ピンクの鉢巻きを頭に締めた野党の女性議員たちで埋まっていて、そのために委員長は理事会室を出るに出られないという状況にあることが映し出されておりました。
 
結局、翌日の17日(木)に延期された委員会(参院平和安全法制特別委員会)において、それだけを見たら強行と言えなくもない採決が委員長によって行われ、法案は与党などの賛成多数で可決されました。
 
首相も出席しているところから、最終の質疑が行われると思い込んでいた野党の隙を衝いての採決だったのでしょう。
野党側は唖然呆然、怒り狂って与党側を詰(なじ)っておりましたが、後の祭りでした。
 
興味深かったのは野党側の態度でした。
前夜、自分たちの仲間が理事室前にピケを張って、委員長を10メートル先の委員会室に入らせようとしなかった行動に関しては、それはまるで無かったかのような態度で、ひたすら与党の信義違反、採決の無効を主張してやまないところなど、人間観察という視点からとても興味深い、閉会直前の国会の模様でした。
 
その後、深夜(18日未明)に行われた防衛大臣の問責決議案審議(否決)、18日午前の参議院議長の不信任決議案(否決)、同日深夜、つまり昨19日の未明に行われた参院本会議における法案採決の様子などは、NHKの中継をリアルタイムで視聴しました。
 
法案の内容や可決の是非についてはまた後日に触れることとして、とにかく面白かったのは、特別委員会で法案を可決されてしまい、ただただ悲憤慷慨して口汚く与党側を罵る野党の議員たちの言動、態度でした。
 
彼らは不意打ちを食らわした与党側の非を咎めるだけで、そこに追い込んだ原因が自分たちの行動にもあったということには、全く思い至っていないようでした。
 
つまり、法案の内容はともかくとして、特別委員会における最終質疑の機会を与党側(の委員長)が割愛するに至ったのは、自分たちの側にも問題があったという認識は、いささかも持っていないようだったのです。
 
自分が被害を受けたと思った時、実は自分も以前、同じようなことをしてはいなかったかと、自らを省みるのが健全なあり方です。
 
しかし、主イエスの譬え話の中に出てくる人物は、二重の尺度、ダブル・スタンダードでそれを使い分けて、少しも恥じるところがありません。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の二回目は十八章から、「多額の負債を赦されながら、仲間の僅かな負債を赦そうとしなかった僕」についてです。

 

1.仲間から受けた罪は幾たび赦さねばならないかというと、七たびどころか七たびの七十倍するまで―イエスの態度を想う
 
西暦三十年の春、ガリラヤにいたイエスは、弟子たちを連れてユダヤのエルサレムを目指しました。エルサレムでは三大祭りの一つである過越しの祭が行われることになっていたからです。
 
そのユダヤに向かう直前、ペテロがイエスのもとに来て、「もしも仲間が自分に対して罪を犯した場合、いくたびゆるしたならばいいのでしょうか。私たちはシナゴグ(会堂)においてラビからは『三度』と教えられました。しかしそれは一般の教えです。私たち、主イエスに付く者としては、三度の二倍にさらに一を加えた七たびでよろしいでしょうか」と質問をしたのでした。
 
「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』」(マタイによる福音書18章21節 新約聖書口語訳29p)。
 
 ペテロはイエスから、「その通りだ、それでよい」と言われることを期待したかも知れません。しかしイエスの答えは、「七たびなどではなく、七たびを七十倍するまで、ゆるしてあげなさい」という意外なものでした。
 
「イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」(18章22節)。
 
 「七たびを七十倍するまで」(22節)とは「相手が非を認めて心から謝ってきた場合には、咎めることなく、無限に赦してあげなさい」という意味でしょう。
 
日本のことわざに、「仏の顔も三度」というものがあります。
これは「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹立つ」の略で、「慈悲深い仏さまは、人が失礼なことをしたとして、二度まではゆるしてくれる、しかし三度目には怒り出す」という意味です。
つまり、ゆるされるのは二度まで、それが「仏の顔も三度」の意味です。
 
そう考えますと、「七たび」どころか「七たびの七十倍」(同)など、凡庸な私たちには到底不可能な教えです。
ではなぜ、そんな不可能ともいえる答えを、イエスはペテロにしたのでしょうか。
 
 考えられるのは、それは人間には不可能なことではあるけれど、ただ一人、人間として「七たびを七十倍するまで」人の罪を赦し抜いた人間が存在するということを、ここで暗示したのかも知れません。勿論、それはイエス自身のことです。
 
今は何かと言うと「ハラスメント(虐待)」ですが、総督ピラトによる十字架刑の宣告後に、イエスが受けた屈辱的な悪罵、残虐な擲(ちょうちゃく)などのハラスメントは、想像を絶するものがありました(27章27〜44節)。
 でもイエスはそういう加害者たちを呪うどころか、赦しの心で受けとめで、神に執り成し続けられたのでした。
 
ペテロが書いたとされる書簡です。
 
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙2章22節 368p)。
 
それはまた、弟子たちへ模範を示すためでもあったと著者は言います。
 
「あなたがたも、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足(みあし)の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(2章21節)
 
被害を受けたと思った時、とても赦すことができない、いったい、幾たび赦さねばならないのだろうかと思ったとき、赦しというものを「七たびを七十倍するまでにし」(22節)た唯一の人、主イエス・キリストを思うように。それがこの譬えの第一の教えです。

 

2.仲間の僅かな負債を赦せないのは、多くの負債が免除されたという認識がないから―問題はダブル・スタンダード
 
そしてイエスによる譬え話が始まります。「冷酷な僕の譬え」すなわち「王様の家来で、自分は多額の負債を王様に免除してもらいながら、仲間の僅かな負債を赦さず、獄屋にまで入れたという、血も涙もないような冷酷な人間」の話です。
 
「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた」(18章24節)。
 
 「一万タラント」(24節)がどれほどのものかということですが、先週の「ぶどう園の労働者の譬え」で見ましたように、当時の日雇い労働者の一日の賃金が「一デナリ」でし
 
一方「一タラント」は六千デナリにあたりました。その「一タラント」が「一万タラント」ですから、「一デナリ」がたとえば現在の貨幣価値で五千円だとしますと三千億円になります。
 
 寝屋川市の平成二十七年度の「一般会計」、国民健康保険、介護保険などの「特別会計」そして、水道や下水道などの「公営企業会計」を合わせた予算総額が一五五一億円ですから、この「僕」の三千億円という負債額はその倍額です。途方もない額です。
 
 この事態を受けて「主人」である「王」(24節)は「僕」に対して、自身を妻子、家屋敷を売って返済するように迫りました。
 
「しかし、返せなかったので、主人はその人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた」(18章25節)。
 
パニックに陥った「僕」は、「必ずお返ししますからしばらくお待ちを」と必死に懇願します。
 
「そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』」(18章26節)。
 
 「全部お返しいたしますから」(26節)という言葉が、返済の目途も立たないその場しのぎでしかないことは、本人自身が一番よくわかっていることでした。
ところが何と、「僕の主人は」しもべの巨額な負債全額を帳消しにするという寛大な扱いをしてくれたのでした。
 
「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった」(18章27節)。
 
 免除の理由はただ一つ、主人が彼を「あわれに思っ」(27節)たからでした。
 ところが譬え話は続きます。この直後、しもべは彼に金を借りている「仲間」に出会います。
 
その負債の額は「百デナリ」、現在の貨幣価値に換算しますと五十万円程です。この「仲間」は借金をすぐには返済することができず、僕は少しの猶予を嘆願されます。
 
「そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ(18章29節)。
 
でも、僕は容赦をしませんでした。すぐさまその「仲間」(29節)を警察に突き出してしまったのでした。
 
「しかし、承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた」(18章30節)。
 
 これを伝え聞いたのが、僕の莫大な負債を免除してやったあの「主人」でした。事の経緯(いきさつ)を聞いて「主人」は怒り心頭に発し、この冷酷な「僕」を召喚して難詰をし、さらに叱責をした上で投獄してしまいます。
 
「そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債全部をゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏(ごくり)に引きわたした」(18章33、34節)。
 
この「僕」はなぜ、懇願してやまない仲間を寛大に扱うことができなかったのでしょうか。それは認知能力が欠如していたからでした。
 
認知能力の欠如と言いいますと思い浮かんでくるのが「認知症」です。たしかに、老齢に伴なう認知症には、直近に経験した事柄が記憶に残っていないという症状が見られます。しかしそれは倫理観の欠如などではなく、記憶を掌る脳の機能に問題が生じるからに過ぎません。
 
しかしこの「僕」の認知能力は、自分が貸した僅かな金に関しては、驚くほど鮮明です。にも関わらず、自分が莫大な借財をあわれみによって帳消しにされたという出来事の方は、身勝手なことにきれいさっぱりと、その脳裏から消えてしまっているのです。 
つまり、彼の認知能力は頭脳の問題にあるのではなく、心のあり方にあることがわかります。
 
彼の心の記憶媒体には、あわれみによって多額の負債を免除してもらったという出来事が記憶されていませんでした。彼には、自分が経験した有り難い出来事が、何の教訓にもなっていなかったのです。
 
なぜこういうことが起こるのかと言いますと、自分と人とを量るスケール、物差しが別だからです。つまり、自分には寛容で、人には厳しい物差しを、無意識のうちに使い分けているからです。
これを世間では二重基準、二重尺度、ダブルスタンダードといいます。
 
「僕」は、自分が莫大な負債を免除してもらったという認識が、しかもそれが「主人」の底知れぬ憐れみによってなされたという自覚がありません。その結果、「自分は自分、人は人」という身勝手ともいえる論理の行使になってしまうのです。
 
目を翻して近隣を見れば、おのれの所業は棚に上げておいて、というよりも見ない振りをして、たとえば、ベトナム戦争時に、自国の軍隊が行った民間人に対する卑劣、無残な残虐行為を、あたかも無かったかのようにして歴史から抹消し、ひたすら、日本の悪事とやらを論(あげつら)う国があります。
 
赦されて今があるという自己認識が無いことは、傍(はた)から見れば滑稽であるだけでなく、それこそが悲劇であり喜劇でもあることに気がつかねねばなりません。問題はダブル・スタンダードの行使にあるといえます。

 

3.多くの負債が赦されたという認識が無いのは、罪意識が薄い上に自己愛が肥大しているから―赦し赦される喜びへ
 
この「僕」に、自分が主人から莫大な負債を免除してもらったという自覚、認識がないのは、そして仲間の僅かな負債を糾弾するのは、罪意識という基本的な意識がないからです。
 
なぜ罪意識が薄いのかといいますと、肥大化した自己愛で自らを愛しているからです。
つまり、「主人が自分をあわれんでくれたのは、自分が特別な存在であるからだ」というわけです。
 
実は罪意識の欠如と、肥大化した自己愛を特徴とする国が、まさにお隣りの国なのですが、最近、興味深い書籍を北水兄から譲られました。
 
お隣りの国から日本に帰化した呉 善花(オ ソンファ)拓殖大学国際学部教授がこの八月に発刊した著作、「槿恵(パク クネ)の真実です。
 
呉(オ)教授はお隣の国の人々がキリスト教に惹かれる理由について、自らを神の民のユダヤ人、神の子のイエスとを重ね合わせることにある、とします
 
神の民ユダヤ人、神の子イエスがそうだったように、我々はどんな罪もない善なる民族なのに、私はどんな罪もない正しい人間なのに、なぜ迫害されなくてはならないのか―。
そのように思いを向けるところに、韓国人の多くがキリスト教に惹かれていく大きな理由があります(呉 善花著「朴クネの真実 哀しき反日プリンセス」240p 文春新書)。
 
 「我々はどんな罪もない善なる民族」「私はどんな罪もない正しい人間」という自己理解には、神への多額の負債を、神の大いなる憐れみよって赦された、という認識がまったく見当たりません。
 
 被害者意識は旺盛であっても、加害者意識は皆無です。それは人に対してだけでなく、神に対してでも、です。つまり、罪の意識が無いのです。
 
 著者が、同国の国民意識に罪意識が希薄である原因としてあげているのが、同国特有の「恨の文化」ですが、その根源を説明するものが米国の精神医学者ロロ・メイによる分析です。
 
「しかし韓国には、(子どもたちだけでなく)多く大人たちの間にも『私たちはどんな罪もないのに、なぜこれほど酷い目に遭わなくてはならないのか』と『恨(はん)』を凝り固め、『恨』をバネに生きることをよしとする『恨の文化』があるわけです。いったいなぜなのでしょうか。
私は、アメリカの精神医学者ロロ・メイがいう『疑似イノセンス』という心性が、この疑問に明快な答えを与えてくれていると思います。イノセンス(innocence)とは『無罪・無実・無害の・悪意のない、純粋・無邪気』などを意味する言葉です。
…疑似イノセンスは、いいかえれば、『自分を無罪とする責任回避』で、自分だけは清く正しいという幻想の中に身を置こうとします(前掲書242、3p)。
 
「自分は罪深い人間だ、些細な被害もゆるすことのできない哀れな者だ」という自己意識が原罪意識の一つの表れなのですが、恨みの気持ちや被害者感情ばかりが先立つということは、原罪意識が希薄であることの証拠となるようです。
 
 「自分を無罪とする」心性からは原罪意識は生じません。そして原罪がわからなければ、罪のゆるしをもたらす十字架の意味もわかりませんし、十字架がわからなければ、いくらキリストに向かって「主よ、主よ」と呼びかけたとしても、それはキリスト教とは言えないということになります。 
 
 自分たちは特別な民であるのだから、ゆるされて当然だと思っていれば、「ゆるされた」という認識もなければ、感謝の言葉も生まれてきません。
そしてその根本原因は過度の自己愛にあります。
 
自己愛しかも肥大化した自己愛こそ、原罪の一つの側面です。原罪意識はなくても、過度の自己愛が見られるということこそ、原罪に汚染されていることのしるしのようです。
 
 この譬えの締め括りを読みましょう。
 
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(18章35節)。
 
 しかし、この厳しくもまた恐ろしげな結語でビビる必要はありません。
この譬えが弟子たちに語られたのは、「人をゆるさなければ、神にゆるされることはない、だからがんばって人の罪をゆるしなさい」という倫理、道徳を教えるためではありませんでした。
 
そうではなく、自らを義として、つまり自らを罪なき者として特別視することにより、多くの罪が赦されていることを自覚しないまま、他者の些細な罪を赦そうとしない者を、神もまた同じように扱うであろうと警告をする一方、自分は「心から兄弟をゆるさない」(35節)あるいは赦せない心の狭い人間だ、罪深い者なのだ、という自己理解を持って、そんな私の払い切れない負債(これを原罪といいます)を、キリストが十字架によって帳消しにしてくれたのだ、という恵みの事実を知ること、更には、厖大な負債を赦されて今があることを自覚した者は、無理をしなくてもよい、他者から受けた被害を赦せるようになる、あるいは忘れることができるようになるのだということを教えることが、この譬え話が語られた本当の目的であったと思われます。
 
この譬えの本質を深い意味で味わい理解し、主イエスの心に沿って信徒たちに勧め続けたのがパウロでした。
 
「もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ人への手紙3章13節 317p)。
 
 キリスト教会にとっては、残忍な迫害者として怨嗟の的であり、恐怖の対象でしかなかった律法学者サウロは、シリヤ・ダマスカスの郊外における復活のキリストとの出会いを通して、神に対する自らの厖大な負債が赦されていたことを知り、人を責める者から赦す者へと変えられていたからでした。
 
 赦されて今があるという認識こそが、人を赦す幸いへの出発点であるということを、この「冷酷な僕の譬え」が教えてくれています。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-09-13 16:35:26 (917 ヒット)
2015年礼拝説教

 2015年9月13日 日曜礼拝説教


 マタイによる福音書の譬え話

ぶどう園に遅れて雇われた労働者の譬え―イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
 

マタイによる福音書20章1〜15節(新約聖書口語訳31p)

 
《今週の説教アウトライン》
 
1.イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
2.イエス・キリストの神は、約束を誠実に守る神さまである
3.イエス・キリストの神は、今も変わらず人手を求める神さまである
 
 
はじめに
 
先週の半ば、ハラハラドキドキしながら、日本列島を真っ二つに横断する気配の台風十七号の行方を注視しておりました。
 
何しろ、三年前の夏、凄まじい集中豪雨によって教会前のバス通りが冠水し、道路に溢れた大量の水が教会に流れ込んで、一階が水浸しになるという被害が出たことから、大量の雨をもたらす雨台風には、特に神経質になっております。
 
台風の接近に伴って静岡や三重には浸水被害が出たというニュースに心を痛めつつも、大阪の方は何事もなく通過したため、それはそれでホッとしていたところ、週末になって北関東の栃木県と茨城県で、大雨による川の氾濫で、田畑や住宅街に大量の水が流れ込み、大変な被害がもたらされました。
 
この水害のために家々や住宅の屋根、電柱にとり残された被災者を自衛隊などのヘリコプターが救出する様をリアルタイムで伝えるテレビ画面に、目が釘付けになりました。
 
願わくは、大きなダメージを受けた被災者の方々の上に、神の励ましと支援が、具体的には国や県からの適切な支援があるようにと祈るものです。
 
酷暑の夏が過ぎていきます。この夏も一昨年、昨年に続いて詩篇をご一緒に読みましたが、今年の秋の九月、十月は、イエスが弟子や群衆に語られた譬え話を、マタイによる福音書から取り上げたいと思います。
 
ところで国会は政府提出の「安全保障関連法案」の審議が大詰めを迎えていて、法案の成立は今週末には実現する見込みですが、先週、九月の十一日、その国会(第189回通常国会)において、「改正労働者派遣法」という法案が可決されました(施行は今月の30日)。
 
これは正式には「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護に関する法律案の一部を改正する法律」という名称のものだそうですが、推進する側と反対する側の言い分が真っ向からぶつかっていて、内容を読んでもこれが良い改正なのか、それとも悪い改正なのかがよくわかりません。
 
と言いますのも、雇用する側が賛成する案は大概、雇用する側に有利、雇用される側が不利、ということが多く、雇用される側に有利なものは、雇用する側のデメリットが大きいというわけで、両者が満足するということはなかなか無いからです。
 
この法律の是非はともかくとして、雇用は働く者とその家族の暮らしに直結します。そのため、雇用という問題は国家の政策としては最重要課題の一つであって、イエス時代のユダヤ社会にももちろんそれはいえました。
 
有名なのが「葡萄園の労働者の譬え」、もう少し正確に言えば「葡萄園に遅れて雇用された労働者」の譬えです。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の第一回目は、「イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまであった」です。

 
1.イエス・キリストの神は、並はずれて親切な神さまである
 
神学生であった一年目の夏は北海道に派遣され、二年目は九州でしたが、三年目の夏は残留と言いまして、東京の寮に残りました。そこで時間のゆとりもありましたので、バイトをすることにしました。手っ取り早いのはいわゆる日雇いです。
 
夏の日の朝早く、横浜の桜木町のガード下に行きました。待っていますと手配師が来て、「お前とお前とお前とお前」と適当に指名をしますので、指名されたら迎えの車に乗って現場に連れていかれて作業をするわけです。
 
 記憶に残っているのは砂糖工場で、長靴を履いて砂糖の山に登り、スコップで砂糖を掬うという作業でした
 
 ペプシコーラの工場でも働きました。コーラの瓶が入った箱をベルトコンベアに載せたり降ろしたりしたような記憶があります。この工場にはコーラの自動販売機のようなものがあって、レバーを引くだけで瓶が出てきますので、工場で働いている者はいつでも自由にコーラを飲むことができました。もちろん、無料です。
 
 一日働いて、日当は確か、千円くらいだったでしょうか。並んで現金の入った封筒を係りの者から受け取りました。何しろ、半世紀近い昔のことです。
 
 イエスはしばしば、弟子や群衆に対し、神の国について教えるにあたり、譬え話というものを用いましたが、イエスが特に用いたものが「葡萄園」の譬えでした
 
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に出かけていくようなものである」(マタイによる福音書20章1節 新約聖書口語訳31p)。
 
イエスの時代、つまり西暦三十年頃のユダヤの主要な産業の一つが、葡萄の生産、具体的には葡萄を原料とするワインの製造でした。
葡萄の収穫は人海戦術で、大量の人手を動員して短期間で行いました。
 
時期は雨季の直前です。雨が降れば葡萄の品質は落ちてしまいますから、時間が勝負となりますし、短期間で多くの収穫を得るためには、仕事の出来そうな良質の労働者を雇うことが鍵となります
 
賃金は一日、「一デナリ」でした。
 
「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った」(20章2節)。
 
「デナリ」は当時、ユダヤを属州として支配していたローマ帝国の通貨単位です。「一日」は夜明けから日没までです。ですから冬は十一時間くらいですが、夏は十三時間、十四時間にもなりました。
 
猫の手も借りたいようなこの時期、夜明けと共に募集した人員だけではどうしても、人手が足りないということがわかりました。何しろ、雨季は目前で、時間との勝負です。
 
そこでぶどう園の「主人」(1節)は「九時」と「十二時」そして「三時」にも出かけて行って、仕事にあぶれている人々を雇い入れました。
 
「それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃金を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと、三時ごろとに出て行って、同じようにした」(20章3〜5節)。
 
雇用条件としては「一デナリ」(1節)の支払いではなく、「相当な賃金を払うから」(4節)ということでした。誰もが異議を申し立てることもなく、主人が出した条件を受け入れてぶどう園に向かいました
 
そしてぶどう園の主人が市場に、夕方の五時に行ってみると、まだそこに立っている者たちがいましたので、主人は彼らを雇うことにしました。
 
「五時ごろにまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたもぶどう園に行きなさい』」(20章6、7節)。
 
その際、賃金の話しはありません。「相当な賃金を払う」(4節)という話もありません。雇い主にお任せです。
 そして日が暮れました。作業は終了です。日当が支払われます。
 主人は管理人に言いました、「最後に来た者たちから順に払ってやりなさい」と。
 
「そこで夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃金を払ってやりなさい』」(20章8節)。
 
まず、五時に雇われた者たちが恐る恐るやって来て、「管理人に」手を差し出しました。そしてその掌には何と「一デナリ」銀貨が置かれたのでした。
 
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった」(20章8、9節)。
 
 彼らは喜ぶよりも先に、驚き惑ったことと思います。彼らの実働時間は正規の時間の十二分の一の、たったの一時間にしか過ぎませんでした。ですから、まさか一日分をもらえるとは想像もしていなかったことでしょう。
 
 ではなぜ、実働時間が十分の一にも満たない者たちに、「ぶどう園の主人」は一日分に相当する労働賃金を支払ったのでしょうか。
 
それは主人が、彼ら日雇い労働者の暮らしというものを心配したからでした。「一デナリ」は一つの家族が一日を暮らしていくための最低の金額でした。
 
彼ら日雇い労働者たちは、家族の必要を満たす「一デナリ」の収入を期待して家を出て、朝早くから寄せ場に集まった筈です。労働意欲はありました。しかし、仕事にあぶれてしまいました。家を守る妻、空腹をかかえている子供たちの顔が浮かんでいたかも知れません。
 
でも、「一デナリ」を持って帰らなければ家族は飢えてしまいます。そういう彼らの切羽詰った状況を理解し憐れんで、主人は彼らにも「一デナリ」を支払ってやったのです。
 
 この主人は、イエス・キリストの神を、恵の神を示すものです。恵み(カリス)とは「受ける資格のない者に与えられる特別な賜物(カリスマ)を意味します。
 
遅れて雇われた人々は、無くてならぬ「一デナリ」を、働きに対する報酬としてではなく、恩恵として与えられたのでした。
 
この並はずれて親切な「ぶどう園の主人」(8節)のようなお方こそ、キリストの父なる神、そして今は私たち一人一人の父なる神なのです。

 
2.イエス・キリストの神は、約束を誠実に守る神さまである
 
この扱いを見た「最初の人々」は期待します。一時間しか働かなかった者たちに対してさえ、かくも気前よく支払ったのだ、ならばこの炎天下、朝早くから汗水流して働いた我々には、ボーナスがはずむことだろうと
しかし、彼らに支払われたのは「一デナリ」だけでした。
 
「ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるであろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった」(20章10節)。
 
 当てが外れた彼らは激怒し、不満を一斉に口にします。「公正ではない、不公平だ、不正もいいところだ」と。
 
「もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しかはたらかなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』」(20章11節)。
 
 これに対して主人は不平分子の代表に向かって平然と答えます、「私はあなた方に対して不正をしてはいない、契約通りにしただけだ」と。
 
「そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたのではないか。自分の賃金をもらって行きなさい』」(20章13、14節前半)。
 
 確かに主人の言う通りです(2節)。主人は彼らに対し、約束を履行しています。
 最初の約束通りに「一デナリ」を支払っているのです。
 
ここにキリストの神が如何なるお方であるかというメッセージがあります。
神は約束を守られる神さまなのです。最初の者たちは勝手な期待をし、妄想を膨らませ、その期待が裏切られたと言って不平を言っているだけです。
神は約束を誠実に守られるお方です。
 
 ところで、聖書解釈の原則は「読み込むな、読み取れ」であって、聖書記者の、福音書の場合は登場人物の意図を読み取ることにあります。
とりわけ譬え話の解釈の場合は、枝葉のことは置いておいて、話し手が言いたい中心だけを掴み取ることが重要です。
 
英国の新約聖書学者、A.M.ハンターはその著書において、古代教父のオリゲネスによる寓喩的解釈を紹介しております。
 
つまり、朝の六時に雇われた者とは世界創造からノアの時代までのことであり、最後に雇われた者とはキリストの時代までを表している、デナリは救いを意味する、というわけです。
 
彼(オリゲネス)は上述の最初のもの(ぶどう園の労働者たち)をこう説明する。労働者の最初の組は世界創造からノアまでの時代を、第二の組はノアからアブラハムまでの時代を、第三の組はアブラハムからモーセまでの時代を、第四の組はモーセからヨシュアまでの時代を、第五の組はキリストに至るまでの時代を表している。主人は神であり、一方、デナリは救いを表している(A.M.ハンター著 高柳伊三郎 川島貞雄共訳「イエスの譬え・その解釈」34p)。
 
 
ハンターによれば、オリゲネスより少し前に活動したエイレナイオスが、「働き人たちへの最初の呼びかけは、創造された世界の端緒を示し、第二の呼びかけは古い契約を象徴する。第三の呼びかけはキリストの伝道を意味する。わたしたちが今生きている長い時間は第四の呼びかけで、最後の呼びかけは終末時を象徴する」と説いたそうです(前掲書32p)。
 
一方、世代論的ともいえる解釈もあります。バークレーの註解書で紹介されている見方です。
 
神の国に早く入る人もおくれて入る人もいる。成功しやすい青年期、分別さかりの壮年期、また、日かげの傾く老年期に入る者も、みな等しく神の前に尊い(ウィリアム・バークレー著 松村あき子訳「マタイ福音書 下」246p ヨルダン社)。
 
古代教父の寓喩的解釈は論外としても、バークレーの世代的解釈は魅力的ではありますが、聖書解釈の原則からはやはり、無理があるようです。
 
しかし、この「ぶどう園に雇われた労働者たち」の譬えを語られたイエスの意図を推察しますと、早朝の六時に「一日一デナリの約束」(2節)で雇われた者たちが、律法を遵守すれば神によって義とされ、永遠の生命を得ることができるとした契約を信奉するユダヤ人を指していたということは、間違いのないことでしょう。
 
実際、律法を守り切れば永遠の生命を受けるということは、論理的には可能です。でも、律法を守るということは単に律法の字面を守ることなどではなく、律法の精神を守ることを意味しました。
 
そして律法の精神とは、力を尽くして神を愛することであり、隣人をおのれのようにとことん愛し抜くということでした。
 
「そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した。『先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか』。イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん、大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」(22章35〜40節)。
 
そして、イエス以外、律法の精神を完璧に実行し抜いた者はおりませんでした。他のことごとくが失格をしてしまったのです。そしてあのパウロですら、失格者でした。
 
つまり、この譬えが語る真理の一つは、誰であっても神との契約を完璧に守り抜くならば、その働きに対しては恩恵としてではなく、働きの実としての報酬を受けることできる、というものだったのです。
 
そしてこの約束は今日でも有効です。ただイエス以外、ただのひとりもこの約束をクリアした者はいなかったのです。
 
 これとは対照的に、最後に雇われた者たちのように、自分は救われるに価しないと考えた者たちは、その働きによってではなく、神の憐れみによって救いを得たのでした。それが私たちです。
 
 どちらにしましても、キリストの神は、弱い者に対しては並はずれた親切を示す一方、自己の義に関して自信のある者に対しては、とことん契約を守る神さまです。
神は「不正」(13節)とは無縁なお方なのです。

 

3.イエス・キリストの神は、今も変わらず人手を求める神さまである
 
この譬えから教えられるもう一つの真理は、キリストの神はご自分の事業を遂行するにあたって、人の手を必要としているお方であるということです。
そして、それは昔も今も変わることはありません。
 
確かに神は働きの無い者に対しても、憐れみを施す恵みに満ちたお方です。
しかし、神に擬せられる葡萄園の経営者は慈善事業としてではなく、あくまでも人手が必要であったからこそ、労働力としての彼らを雇ったのです。
 
主人が「九時ごろ」(3節)「十二時ごろと三時ごろ」(5節)そして「五時ごろ」(6節)に「市場」(3節)に出かけて行ったのはあくまでもぶどうの収穫作業に必要な人手を確保するためでした。
それくらい、ぶどう園の収穫量は厖大で、しかも緊急性があったのです。
 
ところで「天国」(1節)とは「天の支配」という意味です。「神の国」も「神の支配」という意味で、「御国(みくに)」も同じ意味です。
イエス・キリストの到来以来、神なき人間世界には、天の支配、神の支配が始まりました。
 
そして人が神の支配に入ることを聖書は「収穫」と呼んでいます。福音という御言葉の種まき、そして種まきに続く「収穫」は始まっているのですが、何しろ人手が足りないのです。
神は昔だけでなく二十一世紀の今も、そして日本という特別な地においても、人手を求めておられます。
 
「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てているのをごらんんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、『収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』」(9章36〜38節 14p)。
 
 これはイエスの活動の初期に、「弟子たちに」(37節)対して語られた言葉です。
 
全人類を対象とする神の救済計画としての「収穫」(同)に比べると「収穫」のための「働き人」(38節)は圧倒的に少ない、だから今、「働き人」が必要である、あなたがたは自ら「働き人」として神の国の働きに従事しつつ、さらに多くの「働き人」が輩出するよう、「収穫の主」(38節)である神に祈りなさい、また祈ると共に、「働き人」の育成にも努めなさい、という意味です。
 
  「イエスは主なり」と告白している者は、まことに恐れ多いことですが、その告白の瞬間から神の「働き人」として選ばれ召されているのです。
 
ですから、少しでも多くの日本人が主イエスの恵みと神の愛を知って、今も人手を必要とする神の求めに応じる人材となることができるよう、私たちもまた、微力を尽くして証しと信仰に励みたいと思います。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2015-09-06 16:23:25 (1245 ヒット)
2015年礼拝説教

 

15年9月6日 第四回日曜特別礼拝説教

祝福された人間関係 その四
 
人間関係を良くするポジティブ・シンキング

 

テサロニケ人への第一の手紙5章16〜18節(新約323p)

 

《今週の説教アウトライン》

1.ポジティブ・シンキングが、人間関係を良いものに変える

2.ポジティブ・シンキングは、高い信頼感から生じ易い

3.高い信頼感は、神への畏敬の感情を基盤にして育成される


 

はじめに 

 今日は九月の六日ですが、今から二十六年前の平成元年九月五日の午前十一時十七分、ひとりの少年が静かに息を引き取り、イエス・キリストの御許に召されていきました。北水秀春兄弟、恵子姉妹の長男の崇(たかし)さんです。中学二年生でした。病気は脳腫瘍でした。

彼は自らの病いを受け入れ、苦しい中でも自分の事よりも人のことを気にかける少年であったそうです。病院に見舞いに来てくれているお母さんには、家にいる二人の妹たちのために、早く家に帰るようにと促すのが常であったそうです。
 
 抗がん剤の副作用で頭髪が抜け落ちた際にも、その状態で堂々と通学をしたそうです。天に召される三日前にはベッドの上で、両手を高く上げて、何かを見ているようなしぐさを繰り返していたそうです。
殉教直前のステパノのように、神の御座から立ち上がるイエス・キリストを見ていたのかも知れません。
 
不平を言うこともなく、愚痴をこぼすこともなく、身に発した病いを受け入れ、すべてを神に任せて短い十四年間という人生を、神と共に駆け抜けた少年がいたことは、本当に奇跡としか言いようがありません。
 
北水崇さんについて書かれたトラクト「崇君の勝利」(新座純福音教会発行)を最近、お父さんから贈呈され、一読して感動を新たに致しました。
 
この北水崇さんという少年の思考というものを一口で表すとするならば、それは素朴な信仰によって醸成された「ポジティブ・シンキング」つまり、肯定的な思考ということではないかと思います。
 
そこで九月の「祝福された人間関係」の四回目は、「人間関係を良くするポジティブ・シンキング」です。
 
 
1.ポジティブ・シンキングが、人間関係を良いものへと変える
 
 最近、アニメの「アルプスの少女ハイジ」の場面が使われているCMを目にするようになりました。あの名作がこんな使われ方をして、とも思いますが。
 
「アルプスの少女ハイジ」というこのアニメは約三十年ほど前、フジテレビ系列で「世界名作劇場」の一つとして放映されていたものですが、その懐かしいアニメの場面を見るたびに、その二年ほど後に一年にわたって放映された「愛少女ポリアンナ物語」というアニメがしきりに思い出されます。
 
このアニメの原作の「少女パレアナ」(作者はエレナ・ポーター)は日本では、「赤毛のアン」の翻訳で有名な村岡花子の訳で、一九五九年に出版されていますが(「少女パレアネ」(偕成社))、その二十七年後の一九八六年に放映されたアニメ「ポリアンナ物語」を家族みんなで、毎回感動しながら見ていたという記憶がよみがえってきます。
 
物語は一九二〇年のアメリカ西部で、主人公のポリアンナ(Pollyanna)は四歳の時に母親を亡くし、牧師であった父親と暮らすのですが、この父親が娘に教えたのが、「人の悪口を言わないで、人の良い所を探すように」ということでした。
 
これは「よかったさがし」(原文では「the Glad Game」岡村花子の訳では「よろこびのあそび」、童話作家の立花えりかのダイジェスト版、「女の子の心をはぐくむ名作」では「喜びのゲーム」)と名づけられ、以後、ポリアンナの人生を貫く教えとなります。
 
牧師のお父さんはポリアンナに教えます、「聖書には八百もの『喜び』や『楽しみ』という言葉がある、それは神様が、私たちみんなが喜ぶことを望んでいるからだ、だから毎日の出来ごとの中から喜びを探すように、どんな事にも『よかった』と思えることがある筈だから」と。
 
ある時、父親は教会の本部にポリアンナが欲しがっていた人形を依頼するのですが、届いたのは子供用の松葉づえでした。ポリアンナは当然がっかりしますが、お父さんは彼女に、「松葉づえがなくても歩ける子供でよかった、と思えばよい。ね、こうやってどんなことからでも、よろこびを探すゲーム(the Glad Game)をしようじゃないか」とさとします。
 
やがて病弱の父親は亡くなり、その遺言でポリアンナは米国東部(バーモント州のベルディングスヴィル)に住む、亡き母の妹、パレーの家に引き取られることになります。
 
ところがこの叔母はポリアンナの父親をよく思ってはおりませんでした。なぜならば家を継ぐ筈であった姉がこの牧師と一緒になるために、家も財産も何もかも捨てて出ていってしまい、そのため、妹である叔母が心ならずも家を継ぐことになったからです。 
 
おまけに彼女は、将来を約束していた男性と些細なことから言い合いをしたのがもとで婚約を解消したという過去があり、広大な屋敷に使用人たちと静かに暮らしておりました。
 
そういうことから、ポリアンナを喜んで迎えたわけではありませんでした。しかし、厳しい取り扱いもなんのその、ポリアンナは「よかったさがし(喜びのゲーム)」という、父親から教えてもらった方法を用いて対応します。
 
この、人を、そして次々と起こる事態や現象を否定的にではなく肯定的に捉えるというポリアンナの「ポジティブ・シンキング」は、心を閉ざしていた叔母だけでなく、孤独で偏屈な生き方しかできなかった町の金持ちの性格や生き方をも大きく変えていくことになっていきます。
 
人生、とても喜べないような事態に直面することがあります。到底、赦すことのできないような扱いを人から受ける場合があります。出来れば接触したくないと思えるような苦手な人、癖のある人に関わらざるを得ないという立場に立つこともあります。
 
そんな困難と見える状況を打開するもの、人間関係を良好なものに変える力を持つもの、それが積極的、肯定的な思考、ポジティブ・シンキングです。
 
少し前、テレビドラマの影響で「倍返し」という言葉が流行りました。確かに悪口には悪口、悪意には悪意で返したくなるのが人間です。
しかし、使徒パウロは悪には悪で返すのではなく、むしろ、善で返しなさい、と勧めました。
 
「だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章15節 新約聖書口語訳333p)。
 
 大切なのは「いつも善を追い求めなさい」(15節)という勧めの後に続く勧めです。
 
「いつも喜んでいなさい」(5章16節)。
 
 パウロこそ、「よかった探し(「the Glad Game」「喜びの遊び」「喜びのゲーム)」の推奨者、実践者でした。
 
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ人への手紙4章4節 312p)。
 
実はこのポリアンナの物語から、現実逃避としての楽天主義のマイナス面を指摘する「ポリアンナ症候群」という用語も生まれてきはしました。
 
しかし、「よかった探し」というポジティブ・シンキングはお気楽な能天気状態を推奨するものではなく、現実の厳しさ、人の弱さ、醜さを正確に認識しつつ、思考の持ち方によってマイナス面にプラスの側面を見出そうとするものなのです。
 
 世界名作劇場の「アルプスの少女ハイジ」も幼かった子供と共に茶の間で楽しみましたが、その二年後に一年続けて放映された「ポリアンナ物語」から受けた衝撃は、当時はほんとうに絶大でした。
 しかし時間の経過と共にいつしか、それは忘却の彼方に置かれてしまっておりました。
 
改めて、人生の晩年を迎えている今、ポリアンナという少女が実践した「よかった探し(the Glad Game)」というゲームを、日常の中で楽しみたいという願いが私自身のうちに生まれてきています。
 
物事をついつい否定的に見てしまうという癖がついているかも知れません。しかし、その癖をよい癖、「ポジティブ・シンキング」という癖に、思考に変えればよいのです。
 
人間関係をより良くするもの、それがポジティブ・シンキングです。
 
 
2.ポジティブ・シンキングは、高い信頼感から生じ易い
 
目の前に起こってくる物事や事態、あるいは人との関係を肯定的に受け止めるポジティブ・シンキングは、「信頼」という環境で育てられます。
 
とりわけ人間関係におけるポジティブ・シンキングの実践には、相互信頼という要素が関係します。
 
ポジティブ・シンキングの反対はネガティブ・シンキング、つまり否定的思考ですが、思考がネガティブになりがちなのは、信頼を裏切られたという経験の記憶が不信感となって、心の底に澱(おり)のように沈んでいることがあるからです。
 
以前、中谷巌という経済学者が書いた「資本主義はなぜ自壊したのか」という本を先輩牧師が、「これはいい本だ、読む価値がある」と推薦して、送ってきてくれました。
 
著者はこの中で、「隙あらば相手を騙してもかまわない、あるいは、油断していると他人から利用されてしまうと考えるような『不信』が蔓延している社会では経済発展はむずかしい」というバンフィールドという経済学者の説を紹介しつつ、この説を世界中の国々に当て嵌めて研究した政治学者のフランシス・フクヤマの説明をまとめて紹介します。
 
なぜ、経済発展と信頼が関係してくるのかについて、フクヤマは次のように説明している。
 
すなわち、他人同士の信頼関係が成り立ちにく低信頼社会においては、事業を行う場合に重要な仕事を部外者に任せることができないので、血縁者を優先的に採用せざるをえす、縁故主義が主流となる。 
なぜならば「身内」の人間であれば、そうそう血族を裏切って儲けを持ち逃げしたり、あるいは賄賂を受け取るなどの利己的な行動に出たりはしないだろうと考えるからである(中谷巌著「資本主義はなぜ自壊したのか」309p 集英社文庫)。
 
個人的にはこのフクヤマという人物は余り好きではないのですが、それはともかく、その見方は妥当であると思います。
 
 九月三日、中国政府主催による「抗日戦勝七十年記念軍事パレード」が天安門広場で行われましたが、壇上に立つ中国、ロシア、韓国の首脳の顔を眺めながら、それら三か国のいずれもが、血縁と縁故、賄賂と汚職で名高い「低信頼国」であることに興味を持ちました。
 
たとえば韓国という国は桁外れの訴訟社会であって、この国の裁判事例の場合、偽証事案は日本の約400倍、誣告(ぶこく 虚偽告訴のこと)事案は500倍になるそうです。人口比を考慮しますと、考えられないような統計になります。
血縁関係にない者に対する不信感の表れでしょう。
 
最近、毎週土曜日の午前中にテレビ朝日で放映されている「正義のミカタ」という番組を視聴しています。韓国、中国、ロシア、ギリシャ、中東などの時事問題に関する解説を、その道の専門家が分かり易くしてくれます。
 
先月の番組(8月1日)のロシアについての解説はほんとうに驚きでした。担当は筑波大学教授の中村逸郎というロシア問題の専門家の、ロシアの警察官に関する話しでした。

 ロシアでは今年、内務省の役人(つまり警察官)が11万人解雇されたとのことですが、それが国民には極めて好評だったそうです。

なぜかと言いますと、彼らの賄賂や不正行為によって市民が多大の迷惑を被っていたから、ということでした。
 
この教授が紹介した四年ほど前の統計では、モスクワ市民のうち、「警察官に好意を抱いている人」が36%、「不信感を持っている人」が42%、「警察官は自分を犯罪から守ってくれる」が33%、「守ってくれない」が56%だったとか。
 
別の調査では「警察官に恐怖を感じる」が61%、「犯罪者よりも怖い」が51%なのだそうです。
 
そして番組ではこの中村教授自身の体験が紹介されていました。
 
半年前、この教授がモスクワのクレムリン宮殿にほど近い、地下道を歩いていた時のこと、前を行く二人連れの警察官の一人が財布を落とした、そこで落ちた財布を拾ってやったところ、彼は「ありがとう」と喜んだが、連れの警察官が「おれも財布を落とした、お前、隠しているだろう」「とんでもない」「なら、警察署で話を聞く」というわけで警察に連行され、「ポケットのものを出せ」と言われた。
 
そこで六千円ほどが入っている財布をポケットから出すと、警察官は「これは俺の財布だ」と言ってそれを取り上げ、後ろを向いて中を覗き、ロシア語で「これっぽっちかよ」と呟いた。そして、それを回りの警察官たちがニヤニヤしながら見ていた、という話です。
 
自動車で停止線をちょっとオーバーしただけで警察官がとんできて、「交通違反だ」と言って罰金と称するものを払わせられるのが通常のことなのだそうです。
 
日本でも神奈川県警と大阪府警の評判は確かに良くありませんが、ロシアとでは流石にレベルが違います。
なお、この番組の動画はyou tubeで視聴することができます。
 
そして中国ですが、この国は天津の爆発事件を見るまでもなく、例を上げれば枚挙にいとまがありません。
 
前掲書(資本主義はなぜ自壊したのか)によれば、「日本はドイツやアメリカと並ぶ『高信頼国』であり、中国やフランス、イタリア南部などは『低信頼国』である」(309p)とのことです。

 イタリア南部はともかく、フランスが「低信頼国」であるとは驚きですが、それだけのデータがあるのでしょう。フランスを旅行する場合は御用心ください。

 「低信頼国」ではどうしても、「人を見たら泥棒と思え」という格言のように、人間というものを否定的に見ざるを得なくなり、結果として否定的な思考(ネガティブ・シンキング)が発達してしまうのですが、幸いなことに日本のような「高信頼国」では、「よかった探し」の基本となるポジティブ・シンキングの醸成は比較的容易であるということを、改めて神さまとご先祖とに感謝したいと思います。
 
そして、信頼感の醸成に欠かすことができないのが、感謝の心です。感謝する気持ちがなければ、他者を信頼するという信頼感も生まれず、そうなりますと、仮に「よかった探し」をしたとしても、それは世渡りの単なるテクニックに堕してしまいかねません。
 
そう考えますと、「よかった探し(the Glad Game)」のベースになるものは感謝の心であるともいえます。
神への感謝、周囲への感謝という感謝の心こそが、ポジティブ・シンキングの結果としての「良かった探し」の原点です。
 
パウロの言葉を読みましょう。
 
「すべての事について、感謝しなさい」(5章18節)。
 
 北水崇さんも、そしてポリアンナも、「すべての事について感謝し」(18節)ていたからこそ、ポジティブ・シンキングという「よかった探し(the Glad Game)」ができたのでしょう。
 
 
3.高い信頼感は、神への畏敬の感情を基盤にして育される
 
 感謝の心を原点として醸成される高い信頼感は、実は、生ける神への畏(おそ)れの心、つまり畏敬の感情を根本の基盤として、人の中に育成されます。
 
 日本人の場合、唯一の神という神概念こそありませんが、神が創造した宇宙、天体、自然の中に神の創造のわざを見出し、それらに対する畏敬の念を持っています。
 
残念なのは、そこから造り主の存在に至らず、神が創造したものを礼拝や祈祷の対象としてしまったことでした。
 
 韓国の保守的なキリスト教会などからは、「偶像礼拝の国」などと蔑視される日本が、プロテスタントの国である米国やドイツと同様に「高信頼国」とされているのは、日本の伝統宗教の教え、さらには武士道に代表されるような日本独自の倫理意識が、プロテスタントの宗教観、倫理観と相似しているからであろうと思われます。

 私たちの切なる願いは、日本人ひとりひとりが、今は伝統的宗教を保持したままでよいから、具体的に言えば仏壇を大事にしたままでよいから、正月には神社に初詣をしてもよいから、とにかく、「天地の造り主」であり、何でもできる「全能の父」なる唯一の「神」に向かって、祈る、祈願することから始めてもらうことなのです。
 

幸い、日本人は祈りますし、拝みます。偉大なもの、畏敬すべきものに対して敬意を示します。そういう点ではカトリック教会の祈祷文は参考になります。
 
私どもの教会でも初めての方々も読むだけで、それで天にいます神への祈りとなる「朝の祈り」「夕べの祈り」を準備しようかと思います。
 
パウロは勧めます、絶えず祈れ、と。
 
「絶えず祈りなさい」(5章17節)。
 
 「祈」(17節)るという行為は、礼拝の対象者である神との会話です。それは教会では勿論のこと、家の中の居間でも台所でも寝室でも、神に向かって語りかけることを意味します。
 
 「ポリアンナ物語」では、ポリアンナが学校帰りに自動車事故に遭い、下半身が麻痺して一生、歩けないという体になってしまうのですが、叔母と気まずい仲にあるため、出入りを禁止されていた医師から、この医師の友人がポリアンナと同じ症状の患者の手術に成功したという話が伝わり、ポリアンナはボストンで手術を受けることになります。
 
そして手術室の前では、ポリアンナとの出会いによってすっかり変わった叔母が懸命に神に祈り、一方、町の人々が心を合わせて祈った祈りが神に届き、手術は成功し、ポリアンナは再び、自分の足で歩けるようになります。ボストンのサナトリウムに入院して十カ月目のことでした。
 
あたしは歩けるようになりました。今日は寝台から窓までしっかり歩きました。六歩です。歩けるということは、なんてうれしいことでしょう。…なにもかもうれしくてたまりません。
 
ちょっとのあいだ、足をなくしたこともうれしいのです。足がなくなってみなければ、― 歩ける足がですよ ― 足がどんなにありがたいことかということはわかりませんもの。明日は八歩歩きます(村岡花子訳「パレアナの青春」10p 角川文庫)。
 
これは百年近く前の、まだ素朴なキリスト教信仰が残っていた米国の、神を信じるということ、神に祈るということが普通であった時代の物語ですが、十一歳の(アニメでは九歳)少女が父親から教えられるままに実行した「喜びのゲーム(the Glad Game)」というポジティブ・シンキングが、人の心を、そして生き方を変えていく内容は、とても示唆に富むものでした。
 
そこでもう一度、テサロニケ人への手紙を声を合わせてご一緒にお読みしたいと思います。
 
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(5章16〜18節)。
 
 ポリアンナによる「よかった探し(the Glad Game)」というポジティブ・シンキングの実践は、殺伐な現代社会を生きる私たちに対して、「キリスト・イエスにあって、神が…求めておられること」(18節)なのかも知れません。


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