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投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-06-03 11:42:04 (1270 ヒット)
2012年礼拝説教

 2012年6月3日  日曜特別礼拝(第一回)

「天地を創造したという神は実在するのか」     

      創世記1章1節(旧約聖書口語訳1p) 
 
はじめに
 
  日本の諺には「困った時の神頼み」とか、「触らぬ神に祟りなし」など、神がいる、あるいはいるかも知れないという思いを前提としたものが多くあります。
 
これだけ科学が発達し、知識が広がっても、人は依然として人間を超えた存在に対して畏敬の念を持ち、期待もし、時には我と我が身の責任を棚にあげておいて、「神も仏もあるものか」と我が身の不幸を超越的な存在に転嫁しようとしたりもしますが、神は果たして存在するのでしょうか。
もしも神が存在をしていないとするならば、神と言う概念はどこから生まれてきたのでしょうか。また、神が存在するとするならば、その神はどのような神なのでしょうか。
 
 今月から十一月まで、毎月、第一日曜日の礼拝においては、人間の根源的な問題でもある「神と人間、その関係と正しい在り方」について考えることにより、一度しかない人生をよりよい人生にしたいと願っております。
 
 そこで第一回目の本日は「天地を創造したという神は果たして実在するのか」という題で、神の存在についてご一緒に考えていきたいと思います。 

 聖書は神の存在を肯定します。

旧約聖書は文学類型では古典の範疇に入るものであり、文献という点では古代ヘブル民族及びその子孫であるユダヤ民族が生み出した宗教文献です。
そしてその宗教文献でもある旧約聖書のトップに位置している文書が創世記であって、その創世記の冒頭には、「神というものは存在をしていなければならない」ということ、その「神は万物の創造者でなければならない」こと、更にその「神は第一原因でなければならない」ということが書かれているのです。
 
1.神というものは存在をしていなければならない

 実は人間が置かれている現実は、論理的にも実際的にも、神というものが存在しているということを前提として成り立っています。つまり、神というものは存在をしていなければならない、存在していなければ説明がつかない、それが人種や民族を超えた私たち人類の現実なのです。

  第一に、人間という生き物にはあまねく、宗教心というものが備わっております。この宗教心は文明と隔絶したようないわゆる未開の地に住んでいるどんな部族にもあることがわかっていますし、一方、自然科学の先端を行く研究者ほど、偉大な存在への畏敬の思いを持っていると言われます。

宗教心が宗教というものを生み出したのではなく、神が存在するからこそ、人間の中に神を崇める宗教心が存在するのです。

 もちろん、神と言っても千差万別、種々雑多ですが、神を大雑把に仕分けすると、神の存在を肯定する「有神論」と、神の存在を否定する「無神論」に分けられます。

また「有神論」にもユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような「一神教」と、インドなどに見られる、神を複数とする「多神教」があります。
 
日本古来の宗教は、大きく分類すれば多神教ですが、厳密には「汎神論(はんしんろん)」と言いまして、世の中のあらゆるものに神の霊あるいは神性が宿っているという考えも基づく宗教です。
この汎神論が自然への畏敬という日本文化を生み出すと同時に、生けるものはすべて死んだあとにまたこの世の何かに生まれてくるという「輪廻転生(りんねてんしょう)」と結びついて、死者への畏敬、他者や生き物への慈しみという態度や考えを醸成してきました。
 
宗教学者によれば、「かみ」は太陽を意味する「(かがや)く日」が「かび」となり、それが「かみ」となった、また死んで「現世(うつしよ)」から「幽世(かくりよ)」に移った死者を指す「隠(かく)れ身」が縮まって「かみ」となったと言います。
日本宗教の特徴である自然崇拝、特に太陽崇拝、そして死者崇拝、先祖崇拝はこれによって説明がつくかも知れません。
 
これに対して「一神教」は、神の独自性、超越性を強調すると共に、神と自然とを峻別します。
神についての聖書の言及を見てみましょう。
 
「はじめに神は天と地とを創造された」(旧約聖書口語訳創世記1章1節 1p)。

 この部分はヘブル語原典では、「はじめに」「造られた」「神は」「天と」「地を」の順で書かれていますが、問題は「神」です。

通常、神を表すヘブル語は「エル」なのですが、ここでは複数形の「エローヒム」が使われています。ということはついつい「神々」と訳してしまいそうですが、聖書は、神は唯一の存在であるとします。
 
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」(申命記6章4節 254p)。

 ここで複数形が使われていることについて、昔は、そこに三位一体の主張が隠れている証拠だとする説もありましたが、それは読み込みすぎで、今は「畏敬複数」と言いまして、偉大な存在への尊崇念を示すための古代における修辞学的表現であることがわかってきています。

 昔の私は、神はいると思えばいるし、いないと思う者にはいない、神はいて欲しいと願う者が考え出した想像の産物に過ぎないと思い込んでいましたが、長く生きれば生きる程、神は実際的にも、論理的も実在しており、実在していなければならないと思うようになっています。つまり、神が実在していないとこの世の中、辻褄が合わないのです。

2.その神は万物の創造者でなければならない

 では、実在している神は、どのような神でなければならないかと言いますと、その神は万物を無から創造した神でなければなりません。

「つくる」と言いましても、既にあるものを加工することと、無から何かを造り出すこととは全く違った事柄です。
英語では前者には「メイク」を、後者には「クリエイト」という用語を当てます。
時々、クリエイターという肩書で呼ばれる人がいますが、確かにその作品が独創的ではあったとしても既にあるものを加工していということでは、「クリエイト」とは言えません。

 真のクリエイター、つまり、無い所から有るものを生じさせたものこそ、神なのです。

「はじめに神は、天と地とを創造された」(創世記1章1節)。
 
 ここで使用されている「創造した」という動詞の「バーラー」こそ、真の意味での無からの創造を指す「クリエイト」です。

 では神は何を創造したかと言いますと、「天と地」です。つまり、現代の知識で言えば、「天」とは太陽系を含めた広大な宇宙であり、「地」とはまさに人間をはじめとする生物が住んでいるこの地球を指します。

 天文学者は宇宙の誕生は百三十七億年前であるとし、太陽系の誕生は四十六億年前であるとします。

太陽系について高校で習う地学では、「四十六億年前にガスと塵が集まった分子の雲が重力で収縮し、その雲が回転による遠心力で平たい円盤状になり、その中心に原始の太陽が生まれた。やがて太陽のまわりの雲は、その中の塵の層からいくつもの小さな惑星となり、そしてこれらの惑星が衝突と合体をくり返しながら原始の惑星となって、さらにこれらの原始の惑星が巨大な衝突を経て現在の水星や金星、地球、火星、木星、土星などの惑星になっていった」と説明します。
 

 地球はそのような惑星の中の一つですが、なぜ地球だけが大気や水などの、生き物が住むに相応しい環境を整えた惑星となったのでしょうか。神を認めない者はそれを偶然の結果だと言いますが、もう一つ、はじめに偉大な構想力を有する設計者がいて、その設計者が宇宙の仕組みを発案し、材料を揃えて施工をし、その結果、現在の太陽系が生まれ、地球という稀有の惑星が生じたとする考えることも可能です。

 宇宙の仕組みが分かって来るに従い、先入観を捨てて全体をそして細部を見れば、思慮深く計画的に天と地とを創造した神がいるということの方が、勝手に出来たと考えるよりもはるかに自然であり、かつ合理的であることがわかってきます。

そして神がいるのであるならば、その神は万物を創造した神でなければならないことになるのです。
 
3.その神は、絶対的第一原因でなければならない 
 
 そしてもう一つ、実在するという神はどのような神でなければならないのかと言いますと、神は「絶対的第一原因」でなければなりません。 つまり言葉を替えると、神は万象の第一原因でなければならない、ということです。
この世の事象にはすべて原因があって、その原因をどこまでも遡っていくと、ついにはこれ以上遡ることができないという根本原因に行き着くのですが、その根本原因こそが第一原因であり、第一原因こそが神なのです。
言葉を替えれば、はじめのはじめということです。そして聖書の神は目に見えるもの、見えないものの第一原因です。
もう一度、創世記を読みましょう。神はあらゆる事象に先だって「はじめに」動いたのです。

「はじめに神は、天と地とを創造された」(創世記1章1節)。

 
この第一原因という概念を追求、解明したのがギリシャのアリストテレスという哲学者でした。
ギリシャは今でこそ、EUのお荷物になっていますが、先祖には聡明な人が沢山排出されていました。
ただあまりにも聡明であったため、神についての証明作業で古代のギリシャは、とんでもないところに行ってしまったのでした
 
 ギリシャ人は考えました。神は第一原因でなければならない、と。そこまでは古代ヘブル人と一緒です。しかし、頭のよかったギリシャ人は考えました、
「第一原因は他を動かすことはあったとしても、自らは不動であって、他の何物からも動かされない、たとえ、自分が創造したものが苦悩の淵に沈んだとしても心を動かされることはない、もしも同情して心を動かしたとするならば、他からの影響を受けたことになり、それでは第一原因とはいえなくなる」と。
そこでギリシャ人は神の本性から情緒や感性を取ってしまったのです。
 
この結果、ギリシャの神は万物を創造したあと、万物に関わることをやめて世界の動きからリタイアした神とされました。ですからギリシャの神は人が祈っても聞きませんし、叫んでも耳を傾けようとはしません。自分が造った被造物に対して一切の関心を持たない、というのがギリシャの神のイメージです。
 
 しかし、聖書の神は万物の創造者であるだけでなく、万物の根源であり、第一の原因です。
聖書の神がギリシャの神さまと全く違うのは、聖書の神さまの方は心、感情というものを持っていることです。聖書の神は感情が豊かで、自分が創造した万物に今も非常な関心を持っている神なのです。
そして神は語りかけます。苦悩の時にははばかることなく、いつでも、どこからでも神なる私を呼べ。そうすれば私はあなたに向かって助けの手を伸べる、と。

「悩みの日に我を呼べ、われを呼べ、われ、汝(なんじ)を助けん、しかして汝、われを崇むべし」(詩篇50篇15節 文語訳)。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-06-01 11:54:42 (1011 ヒット)

 人は天地を創造した神により、
地の塵(ちり)を素材として造られた

 
  「二位じゃダメなんですか」という仕分けの女王さまの発言で一躍注目されたのが、日本製スーパーコンピューター「京(けい)」でした。その後、演算速度で世界ランキング一位となった「京」は、いよいよ今年の六月末に完成し、九月末から本格運用が予定されているとのことです。
演算速度で「京」は、今年の秋に完成予定の米国IBM社製「セコイア」に抜かれて二位となりますが、「京」の驚異的な演算速度には、新薬の開発、防災対策などをはじめとする各種の分野において、著しい成果をあげることが期待されています。
 
特に医療の分野では心臓病の研究、治療に役立てるために、コンピューター内に人の心臓と全く同じ形と機能を持つ心臓の映像を造り上げるまでになりました。開発者はこれをもって「心臓を再現した」と言いました。確かに驚くべき技術ですが、「再現」を正確に表現すれば本物の「模倣(コピー)」ということであって、それも画像としてです。
そしてコピーが精巧であればあるほど、本物(オリジナル)と、そして本物を最初に造ったものの凄さに驚嘆させられることになります。
 
そして、精巧な人体を持つ人間を最初に造ったのは誰かと言いますと、聖書はそれを創造者である神、と言っています。

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(旧約聖書口語訳 創世記2章7節)。

 聖書の記述は少々神話的のように思えますが、複雑かつ精密な人間という生き物が、偶然に地球上に生まれたとするよりも、知的かつ能力的にすぐれたある種の知的存在者が構想をし、設計をして造り上げたと考える方が妥当で合理的といえます。そして聖書はその存在を「神」と呼んでいるのです。
 
 わたくしどもの教会では毎週日曜日に、聖書の講話を中心とした日曜礼拝を行っておりますが、今年は六月から十一月までの毎月第一日曜日を、はじめての方をお招きして、特別礼拝を行うことにいたしました。
 そして二回目の七月は、一日です。閉塞感の漂う昨今ですが、日曜日の爽やかな朝、街角の小さな教会で聖書の講話ゴスペルで、より元気になっていただけたらと願っております。
 
 ぜひ、ご来会ください。お越しを心より歓迎致します。
 
クリックで拡大します。⇒

 


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-05-20 14:57:30 (1468 ヒット)
2012年礼拝説教

 2012年5月20日  日曜礼拝説教

「救い主は、礼拝と社会そして人の心の刷新を求めている」

 マルコによる福音書11章15〜18節(新約聖書口語71p)

 
はじめに
 
昔も今も野心家によって利用されがちなのが「ポピュリズム」と呼ばれる現象です。
この用語の語源はラテン語の「ポプルス(民衆)」で、日本語では「大衆政治」「衆愚政治」とも訳さます。
最近では二〇〇五年の「郵政改革」選挙、二〇〇九年の「政権交代」選挙がまさにポピュリズム選挙であって、近々では昨年の「大阪市長」選挙がその例であるとされています。
 
この現象の特徴は対決すべき敵というものが明示されるところにあって、郵政選挙の場合、民営化に反対する者は守旧派と呼ばれましたし、三年前の政権交代選挙では政権与党が攻撃の対象とされて、その結果、有為の人材が大量に落選してしまったと評されています。
 
そして大阪のケースでは、民間に比べ、楽をして高給を食(は)んでいるとされる公務員と労働組合とが標的となりました。
確かに労組によるあからさまな政治介入、政治活動は問題でしたし、学校教師と雖も公務員である以上、教育委員会の出した業務命令には従う義務があります。また、児童福祉施設の市の職員が入れ墨を見せて児童を脅すなどということは論外です。
 
大阪の場合、一般大衆受けするような事柄を殊更に問題にして市役所改革を進めようとする手法には疑問を感じる、という声も起こっていますし、入れ墨問題の場合、個人的嗜好の事柄を普遍的価値観にすり変えているのではないかという批判もあります。
しかし、ニュースで伝えられる出来ごと以上に注視すべきことは何かというと、個別の事案の背後にある思惑であるという見方もあります。それはこの運動体が「維新」を名乗っているところにあるから、というわけです。
 
そもそも維新とは中国の古典の、孔子が編纂したとされる「詩経(しきょう)」の中の、「周雖旧邦 其名維新(周は旧邦なりと雖も、其の命これ新たなり)」が典拠で、維新は革命を意味する用語です。
 
「明治維新」の場合、幕藩体制から尊王体制への移行という出来事は、確かに維新という名称に相応しいものであったかも知れません。
明治維新によっていいことも沢山ありましたし、幕藩体制がそのまま続いていたならば、日本は欧米列強の植民地にされていた危険性もありました。
 
しかし、見方によっては明治維新とは下からの下剋上という権力奪取の運動であったとも言えます。それは維新の功績者が例外なく貴族(華族)になって、その後の日本の支配者階級を形成したことでも明らかです。
 
大阪の場合も、権力奪取のための大衆迎合的ポピュリズムなのか、それとも市民のための本当の維新活動なのかということを、私たちは冷静に見極めていく必要があるようです。
 
ところでエルサレム入城後のイエスの行動と説教の方向性は、まさに維新を主導するものであったと言えます。
しかしイエスの目指した維新は権力の奪取ではなく、神礼拝の維新であり、人と人との関係である社会の維新であり、さらには人の心の維新であったのです。
 
そのイエスの維新の意図が端的に現われた事件が、いわゆる「宮清め」の出来事でした。
 
今週は激しく語り、行動するイエスから、イエスが求めてやまなかった事柄に思いを向けて、いまも聞こえるその声に私たちの心の耳を傾けたいと思います。
 
 
1.      礼拝の刷新を求める救い主―神を神として崇めよ
 
 エルサレム入城の翌日、イエスは神殿に入りましたが、そこでイエスが見たものは本来の神礼拝が醸し出すはずの静謐(せいひつ)さとは無縁の喧騒でした。
 
当時のエルサレム神殿は南北が約五百メートル、東西が約三百メートル、南の方がやや狭い長方形の敷地で、その中央に、神殿の本体がありました。
  
神殿本体は四重の庭で囲まれておりました。神殿のすぐ内側は祭司だけしか入れない「祭司の庭」で、その外側に「男子の庭」があり、さらのその外側が「婦人の庭」、そしてさらにその外側の広大な広がりが「異邦人の庭」で、そこでイエスが見たものは、神聖な礼拝の場所とは到底思えないような、商売人の呼び声と金銭のやりとりが喧(かまびす)しい、まるで市場のような状況だったのです。
 
 この状態に憤ったイエスは、思いもかけない行動に出ました。なんと神殿の「庭で売り買いをしていた人々」つまり、「両替人の台」をひっくり返し、参拝者が供え物とする「はとを売る者の腰掛け」も蹴り飛ばし、神殿の庭を近道として通りぬける人々の通行をストップさせるという実力行使に出たのでした。
 
「それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入(い)り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった」(マルコによる福音書11章15、16節 新約聖書口語訳71p)。
 
  この出来事は「宮清め」として知られていますが、柔和なイエスがなぜこのような乱暴とも言える行為を行ったのかといいますと、聖なる神を礼拝し、感謝の祈りをささげるべき場所である神殿、つまり「祈りの家」が商売人たちにより、あたかも「強盗の巣」に変わってしまっていたように見えたからでした。
 
「そして、彼らに教えて言われた、『わたしの家は祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」(11章17節)。
 
  当時、ユダヤ人はだれでも十八歳からは毎年、神殿税という税金を納めなければならず、その税額は当時の労働者の日当の二日分程度でしたが、それは神殿のシケルという特別の貨幣で納めることになっていました。
そのため神殿には参詣人の手持ちのローマ貨幣やギリシャ貨幣をシケルに両替する両替人が出張っていたのです。問題は手数料です。両替には五割の手数料が必要とされていたとのことです。
 
ひどいのは犠牲として捧げられる「鳩」の場合でした。規定では鳩は傷のないものでなければなりませんが、検査官が何やかやと難癖をつけて外から持ち込まれたものを不合格にするものですから、参拝者は結局、鳩を神殿の庭で業者から購入することになり、しかも市価の十倍から十五倍という法外な価格で買うしかなかったそうです。
 
 そして神殿における利権を一手に握って莫大な利益を上げていたのが祭司長アンナスと婿のカヤパの一族だったのです。
まさに「祈りの家」は神殿の特定の管理者たちによって「強盗の巣」となっていたのでした。
 
イエスの振る舞いは礼拝の刷新による正しい礼拝の回復を目的としたものでした。神が神として崇められる、それが「祈りの家」における正しい礼拝の姿でした。
「祈りの家」での礼拝は教会における日曜礼拝のことだけではありません。私たちの家庭、そして職場、さらには、教室もまた神を呼び求める「祈りの家」でもあるのです。
 
今もイエスは、それらの「祈りの家」における個々の礼拝の、一層の刷新を求めておられます。
 
 
2.社会の刷新を求める救い主―人を人として尊べ
 
 さらにイエスはこの「宮清め」を通して、社会の仕組み、流行りの用語を使えば絆の結び方、とりわけ強者が弱者を食い物にするという在り方を一新するように求めていたのだとも考えられます。
祭司長一派とその関連企業、下請け業者にとって神殿における礼拝者たちは、彼らに利益をもたらす手段にしか過ぎませんでした。
 
巡礼の中には何年も倹約して貯金をし、苦労しながら長期休暇をとって遠い都へと上って来た人も大勢いたと思われます。
神は彼らの素朴な真情を喜ばれましたが、祭司長一族にとっては彼らの事情などは斟酌の外にありました。
 
鳩は高価な牛や羊を奉献することのできない低所得者がその代りに捧げることのできる唯一の犠牲でしたが、それすら市価の十数倍の値段で買うしかなかったのです。
多数の礼拝者が一部の特権階級の搾取の対象となっている現状に、イエスの怒りは爆発しました。イエスの憤りは人を人と思わず、己の利得の対象としか見ない者たちに向けられたのでした。
 
そしてこの結果、既存の莫大な利権の喪失を恐れる支配者層は、彼らの利権を守るためにイエスの抹殺計画を具体化するに至ります。
 
「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教えに感動していたので、イエスを恐れていたからである」(11章18節)。
 
神殿の状況に怒り心頭に発したイエスでしたが、その四日後、自身の体を丸ごと十字架につけて私たちの罪の償いのために犠牲となってくださいました。
それは、私たちひとりひとりの人生がイエスにとって自分を犠牲にする程の価値あるものと考えておられたからでした。まことに有り難いことです。
 
残念なことに現代日本、社会の仕組みというものをおのれの利害のために利用する人が増えてきているようです。
高収入を得ているお笑い芸人の母親が生活保護を受給しているという問題が浮上してきました。生活保護制度は身内からも経済的支援が受けられない者に適用される最後の救済手段であって、事情がある場合にこの制度を受けることは国民の権利ですが、このお笑い芸人は後輩の芸人たちに向かって、「ただでもらえるものはもらっておけばいい」と言い放ったとのことです。
日本社会も真面目な人が馬鹿を見る社会になってきたようです。
 
しかし、社会は人が人を搾取したり、利用したりする仕組みではなく、相互に扶助する仕組みとして成り立っているものです。まず自助があり、ついで共助、そして最後の手段が公助です。
人が人としての誇りを保ち、人が人として尊ばれるような社会となるよう、人と人との関係の刷新を、今も、イエスは求めておられると思います。
 
 
3.人の心の刷新を求める救い主―自らの心を広げよ
 
  さらにもう一つ、イエスが求めた刷新は人の心の刷新、とりわけ狭量な心の刷新でした。
 
 
商売の場所となったところは神殿の敷地の中の一番外側の「異邦人の庭」と呼ばれるところでしたが、その内側の「婦人の庭」との境には低い塀があり、そこには「異邦人が入ったら死罪」と書かれた札がかかっていたと言われています。
この札が「隔ての中垣」といわれるものでした(エペソ人への手紙2章14節)。
 
 イスラエル民族ではない異邦人で、ユダヤ教に改宗した者や唯一の神への信仰を告白した者は特別にこの異邦人の庭にまで入ることは許されていました。
しかしその異邦人礼拝者の唯一の礼拝の場所は商売人たちによって占拠され、礼拝どころではなかったのです。でも、一般のユダヤ人たちにとって異邦人などは眼中になかったようでした。それは彼らの心が自民族のことでいっぱいだったからでした。
 
大多数のユダヤ人にとってそうなのですから、況してや利権を一手に握っていた祭司長一族にとっては、それはなおさらのことであって、そのこともまた、イエスの怒りに火をつけることとなったのでした。イエスにとって神殿は、外国人をも対象とした、まさに「すべての」人のための礼拝の場所、祈りの家であるべきだったからです。
 
「そして、彼らに教えて言われた、『わたしの家は、すべての国民の祈りの家ととなえられるべきである』と書いてあるではないか」(10章17節前半)。
 
 それはイエスだけの理解ではありません。ユダヤ人が神と崇める聖書の神の御心でもありました。
 
「わが契約を堅く守る異邦人は―わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈りの家のうちで楽しませる、彼らの燔祭(はんさい)と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈りの家ととなえられるからである」(イザヤ書56章6節後半、7節 旧約聖書口語訳1025p)
 
 神の救いはユダヤ人だけのものではなく、世界万民を対象にしたものであることは、数百年も前の預言者イザヤによる預言でも告げられていたことでした。
 
 そしてその神の豊かな救いはイエスにおいて具体的に現われたのでした。
 
「すべての人を救う神の恵みが現われた」(テトスへの手紙2章11節 新約聖書口語訳330p)。
 
 宗教と宗教、民族と民族の衝突、文化と文化、価値観と価値観の摩擦が顕在化している時代ですが、イエスの願いは人の心が刷新されて、狭い料簡、狭隘な心が拡げられることにあります。
人がそれぞれの出自の違いを超えて、主イエスの心を我が心とすることができますようにと祈りたいと思います。
維新とはイエスの心が人の心の中においても実現されるべきものだからです。


投稿者 : famillia 投稿日時: 2012-05-13 16:28:14 (1313 ヒット)
2012年礼拝説教

2012年5月13日  日曜(母の日)礼拝説教

「救い主は、神の期待に応えることを最優先した」 

       マルコによる福音書11章1〜11節(新約聖書口語訳70p) 
 
 
はじめに
 
 英国のマスコミを代表するBBC放送が日本の読売新聞社などと、二十二カ国で共同実施した世論調査が、先週発表されました。
 
調査は世界の主要な国である十六カ国とEU(欧州連合)についての評価を聞いたもので、それによりますと「世界に良い影響を与えた」国の第一位は日本の58%で、次いでドイツ56%、カナダ53%、英国51%の順ということでした。
因みに「世界に悪い影響を与えた」国の一位はイランで、二位以下はパキスタン、北朝鮮、イスラエル、ロシア、そして韓国の順でした。
 
 昨年は原発事故があり、しかも事故に対する政府の対応の目も覆わんばかりの不手際が世界に喧伝されたにも関わらずの高い評価結果には、驚きを禁じ得ません。日本人は世界では確かに、日本人自身が考える以上に高く評価されているようです。
 
大正十年から六年間、駐日フランス大使を務めたポール・クローデルは日本の敗戦が濃厚となった昭和十八年、パリで開かれたある夜会において、
 
私がどうしても滅びて欲しくない一つの民族があります。それは日本人です。彼らは貧しい、しかし高貴です
 
と語ったと伝えられています。
 
しかし残念ながら近年、日本人は劣化しつつあるようです。今年、横浜ベイスターズがディーエヌエイとか言う交流サイト会社に買われてしまいましたが、この球団が横浜球場に観客を呼び寄せようとしてか、ゴールデンウイーク期間中の五試合を対象に、もしも観客が満足をしなかったという試合については、代金の返還要求に応じるという企画を打ち出したところ、連敗が続いていた同球団は奮起したのか、五試合で三勝一敗一引き分けという好成績。
 
ところが何とチケット購入者二五〇人のうちの八割もが返金を求めてきたというのです。「貧しい、しかし高貴」の筈の日本人はどこに行ってしまったのかと、クローデルが生きていたら幻滅するのではないかと思いました。
 
しかしそうは言いつつ、一方では、東京都が打ち出した尖閣諸島三島の購入計画には二週間で五億円の寄付金が全国から寄せられているそうですから、まだまだ日本人も捨てたものではないのかも知れません。
 
日本という国が、国際社会に良い影響を与える国として映っていることがこのたびのBBC調査で確認されましたが、「影響」には良い影響と悪い影響があります。
そして人類に比類のない良い影響を与えてきたのが救い主キリストです。
 
本日は五月の第二日曜日、母の日ですが、この母の日に、母親あるいは母なるものから受けてきた情愛と助けに感謝しつつ、マルコの福音書から、母親の愛にもまさる無償の愛を私たちのために貫いたイエスの高貴な行動とその影響に思いを向けたいと思います。
 
 
1.幸いなのは神の期待に応える生涯を生きること
 
 人がついつい負けてしまう誘惑の中に、周囲の期待に応えたい、人を失望させたくないというものがあります。
しかし、人からの期待と神の期待とが一致しない場合、あるいは両者が反する場合、人を失望させることがあったとしても敢然として神の期待に応える道を選び取ったお方がイエスでした。
 
イエスは誘惑に負けて人の期待に応じるよりも、多くの人を幸せにすることを目的として、神の期待に応える方を選び続けた人だったのです。
 
西暦(キリスト紀元)三十年四月二日の日曜日、イエスはろばの子に乗ってエルサレムの町に入城致しました。
当時の都市は町を外敵から防御するために堅牢な塀で囲まれておりました。エルサレムには八つの門があったそうで、おそらくはイエスは東側の門から入城したのだと考えられます。
 
「そこで弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いて来て、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた」(マルコによる福音書11章7、8節 新約聖書口語訳70p)。
 
 イエスがろばに乗ってエルサレムに入城したのは、メシヤはろばの子に乗って神の民のところにくるというゼカリヤ書の預言を意識したからであると思われます。
 
「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって、勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」(ゼカリヤ書9章9節 旧約聖書口語訳1317p)。
 
 その週はエルサレム神殿において、イスラエル民族がエジプトでの奴隷状態から救われた歴史を思い起こすための過越(すぎこし)の祭りが開催される予定でした。
その祭りに出席するためにパレスチナ内外から集まってきた何千という巡礼たちと一般民衆は、自分たちが着ていた大事な「上着」や「葉のついた枝」つまり棕櫚(しゅろ)の枝をろばの通る道に敷いて、歓呼の声をあげてイエスを迎えたのでした。
 
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた。『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高きところに、ホサナ』。こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた」(10章9〜11節前半)。
 
 イエスに対する民衆の期待は、イエスが征服者となって憎きローマ帝国の頸木(くびき)からイスラエルを解放すると共に、エルサレムを中心としたユダヤ人国家を建設することでした。そしてそれが一般民衆の描くメシヤ像であり、イエスへの期待であったのです。
 
しかし、幾日もしないうちに、一向に決起しないイエスに期待を裏切られたと感じた民衆は、その五日後の四月七日の金曜日、ユダヤ当局に扇動されて、「イエスを十字架に付けよ」と叫ぶに至ります。
 
「しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を扇動した。そこでピラトはまた彼らに言った、それではおまえたちがユダヤ人と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか』。彼らは、また叫んだ、『十字架につけよ』」(15章11〜13節)。
 
 もしもイエスが大衆の支持率を気にする政治家であったならば、もう少しうまく立ちまわったことと思います。でもイエスの関心は父なる神の期待に応えることにありました。
それは人間の幸福が地上の一時的な福祉にではなく、罪を取り除くことによって得られる神との和解、平和の実現にあり、そしてそれに伴う永遠の生命の付与にあることをイエスは知っていたからでした。
 
いっとき、人を失望させることがあったとしても、根源的な問題を解決するために、イエスは民衆の現世的期待に背を向けて、生ける神の期待に応えるべく、十字架への道を真一文字に進み行かれたのでした。
 
 
2.幸いなのは自らの期待を吟味する人生を送ること
 
 イエスのエルサレム入城を大歓迎した一般民衆の間違いは、彼らが自分たちの期待を勝手に聖書に折り込んだことにありました。
ろばの子に乗るイエスに向かってホサナを叫ぶ民衆の叫び(11章9、10節)は旧約聖書の「詩篇」に基づいています。
 
「主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。主のみ名によってはいる者はさいわいです。われらは主の家からあなたをたたえます」(詩篇118篇25、26節 旧約聖書口語訳853p)。
 
 「主の御名によってきたる者」(9節)とは神から遣わされる救世主キリストを指しますが、問題はその中身の理解でした。
彼らは自分たちの民族に都合のよい解釈を聖書に施して、彼らの要求を叶えてくれるキリストをイメージしていたのです。
 
また彼らは「ホサナ」を連呼しました(9、10節)。しかし「ホサナ」の本来の意味は「我らを救い給え」でしたが(詩篇118篇25節前半)、その神の「救い」というものを彼らユダヤ人は政治的、軍事的救い、地上的繁栄というように、自分たちに都合よく理解していたのでした。
 
たとえば献金についてですが、最近、「献金は神への感謝を表すことであるが、もう一つの意味は収穫を期待して種を蒔くことである」と強調している勧めを聞き、少々情けない気持ちになりました。
 
確かにパウロはコリントの教会への献金のアピールで、「豊かにまく者は豊かに刈り取る」(第二の手紙9章6節)と書いてはいますが、それは献金全般について書いているのではなく、貧窮しているエルサレム教会の今を救援することが、後にあなたがた異邦人教会の苦難に際しての援助となって返ってくるということを言ったにすぎません。
 
しかもそれは貧しいエルサレム教会への義援金を、「満ちあふれる喜び」をバネにして「極度の貧しさにもかかわらず、惜しみなく施す富」として自主的に捧げた「マケドニヤの諸教会」(コリント人への第二の手紙8章1、2節)には決して言う必要のないアピールであって、関心が常に自らに集中し、紛争に明け暮れていたコリントの教会だからこそ言わざるを得なかった勧めだったのです。
 
いうなれば「情けは人のためならず、廻(めぐ)り廻りて我が身に返る」、「豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(9章6節)のだから義援金をよろしく、という、パウロとしてはあまり使いたくない窮余の一策的なアピールであったのです。
因みに、「マケドニヤ(州)」と「コリント」があった「アカヤ州」はそれぞれ現在のギリシャの北部と南部に位置していました。
 
昔、超教派の集会で司会者が、「神様はあなたがスプーンで献金すればスコップで返してくださいます、もしスコップで献げればバケツで返してくださいます」というアピールをしていましたが、とんでもない勧めでした。
 
今日は母の日ですが、母親への贈り物をする際に、「母親にいま贈り物をしておけば遺産の分配が有利になる」という動機で贈り物をする人がいるでしょうか。
親への贈り物は卑しい動機からではなく、ただただ愛情をもって育ててくれ、老いた今も成人となった自分を常に案じてくれている親への感謝の気持ち、それだけで用意するものです。
 
献金も同様に感謝のみを動機とすべきであって、見返りを求めてするような種まきを動機とした献金は投資ではあっても、神が喜んで受けてくれるものではありません。
 
献金や供え物は断じて繁栄の手段ではない筈ですが、残念ながらイエス時代のユダヤ教には信仰を繁栄の手段とする「繁栄の神学」があったようです。
このような繁栄を期待する神学が、彼らの現世的期待を裏切ったイエスへの失望となったため、「ホサナ」という叫びが「十字架につけよ」に代ったのでした。
 
もうひとつ、聖書についてですが、聖書を神の言葉、神の約束と信じるだけでは不十分です。聖書の言葉の意味の、正確な理解が必要です。
 
ある人は帰宅して、妻に言いました。
「職場でいいことを聞いた。半身浴(はんしんよく)が体にいいそうだ。今から風呂に入る」
夫が上がってきたので妻が聞きました。
「どうだった?」
「いやあ、半身浴はしんどいなあ」
「なんで?」
「だってな、まず右半身を湯につけて、それから左半身だろ。窮屈でしんどい」 
 この人は「半身」の意味を誤解していたというわけです。
 
聖書を神からの言葉と信じるだけでは不十分です。聖書の意味の正確な理解が必要です。でも一度思い込んでしまうとなかなか修正がきかないものです。
 
 
ある教育評論家がテレビで学校の教師を擁護して、「ほとんどの先生たちは身を『こな』にしてがんばっているのよ」と言っていました。
身を「粉にして」は「コナにして」ではなく「コにして」と読むのですが、一度「コナ」と読むと思い込んでしまいますと、指摘をされない限り、修正できないようです。しかも、この先生は評論家になる前は国語の教師であったとか。
 
幸いなのは、自らの神への期待を吟味して、正しい信仰理解に生きることです。
 
 
3.幸いなのは神の期待に備える日常を積み重ねること
 
 イエスが乗ったろばは、この日のためにイエスが村人に頼んで用意をしてもらっていたものと思われます。
 
「さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、『むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。もし、だれかがあなたがたに、なぜそんなことをするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい』」(11章1〜3節)。
 
 弟子たちが村に行ったところ、イエスの言った通りのことが起こりました。福音書のどこにも持ち主の名前は出てきません。しかし持ち主はまさにこの日のため、イエスの「お入り用」に備えてろばを飼育していたのでした。
 
 幸いなのは神の期待に備える日常を積み重ねることです。将来の夢を明確に懐いて勉学に励む学生や生徒は幸いですが、いま、将来が漠然としているとしても嘆くことはありません。ただ、どのような将来であるにせよ、現在は基盤を築く備えの時期であることを覚えて、勉学に励めばよいのです。
 
「いざ鎌倉」と言う時になって、武器も鎧もない人は惨めです。この「いざ鎌倉」という言葉は、謡曲の「鉢の木」が出典です。
 
時代は鎌倉時代、佐野、現在の群馬県高崎に住む佐野源左衛門常世(つねよ)という貧しい武士の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を求めてきます。
最初、あまりにも貧しいのでもてなすことができないと断るのですが、あまりの大雪に、僧を泊めることになりました。
 
常世はなけなしの粟を炊いて旅の僧に供し、燃やす薪がないからといって家宝のように大事にしていた梅、松、桜の鉢植えの木を切って囲炉裏にくべて焚き、精一杯のもてなしをしつつ、僧に向かって、
「今は事情があって落ちぶれてはいるが、一旦緩急あれば、つまり『いざ鎌倉』というときはいち早く鎌倉に駆けつけ、命がけで戦う所存である」
と語ります。
 
春になり、御家人たちに鎌倉から招集があり、常世もやせ馬にまたがり、みすぼらしい身なりながら武具に身を固め、武器を携えて鎌倉に駆けつけますが、出迎えた者はあの旅の僧、実は、前の執権の北条時頼であったことを知ります。
 
 
時頼は常世に礼を言い、その言葉には偽りがなかったことを称賛し、恩賞として失った領地を安堵すると共に、梅、松、桜の名がついた荘を賜った、という物語です。なお、この時頼の息子が二度にわたって元の襲来を退けた北条時宗です。
 
もちろん、この話は実話ではありませんが、精一杯のもてなしをするということと、いざという時のために備えをしておくことの教訓として、日本人に愛されてきた話しです。
 
かつて今太閤と謳われた有名政治家の口癖は、「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人」でしたが、そうは言いつつ「駕籠に乗る人」は最後の最後まで自分でしたし、その直弟子は今、乗った駕籠から決して降りようとはせずに、世間を騒がせています。
 
 しかしイエスは身を低くして駕籠を降りるのみならず、駕籠を担ぐ人、草鞋を作る名もなき人々のために、この世の栄えを捨て、尊い命を投げ出してくださったのです。
 
人生のある局面で、もしも「主がお入り用なのです」という声がかかった時は、逡巡することなく喜んで、手もとの「ろばの子」を主に供するものでありたいと思うのです。


投稿者 : admin_miyakojima 投稿日時: 2012-04-29 18:02:27 (1649 ヒット)
2012年礼拝説教

 2012年4月29日  日曜礼拝説教

「卑しい上昇志向ではなく 聖なる向上心によって」

マルコによる福音書10章35〜45節(新約聖書口語訳69p) 
 
 
はじめに
 
 「〜もどき」と言います。「もどき」は「擬(もど)く」から来た言葉で、見た目はよく似ているけれど、本質は全く違うもの、つまり「似て非なるもの」を表します。食べ物のガンモドキなどは味がガン、つまり鳥の雁(かり)に似ていることからつけられたものだそうです。
この世の中には「擬き」が氾濫していますので、わたしたちはそれが本物なのか、それとも擬きなのかを自分自身で見極めていかなければなりません。そしてその中でもしっかりと見極めていかなければならないものの一つが、「卑しい上昇志向」と「聖なる向上心」です。この二つはどちらも上を目指すという点では共通していますが、その本質は天と地ほどに違います。
 
 今週は弟子たちに対するイエスの教えから、卑しい上昇志向を排して、聖なる向上心を持って生きることの大切さについて教えられたいと思います。
 
 
1.生まれながらの人が持つ野心―その根は卑しい上昇志向
 
 十字架の死に向かって決意も新たにエルサレムを目指すイエスのもとに、ヤコブとヨハネの兄弟がやってきて、これから願うわたしたちの願い事はなんでも叶えてください、という願い出を致しました。
 
「さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとにきて言った、『先生、わたしたちがお頼みすることは、なんでもかなえてくださるようにお願いします』」(マルコによる福音書10章35節 新約聖書口語訳69p)。
 
 何とも厚かましく図々しい物言いです。しかも願いの内容を聞けば、その図々しさにますます呆れ果ててしまいます。
 
「イエスは彼らに『何をしてほしいと、願うのか』と言われた。すると彼らは言った、『栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください』」(10章36、37節)。
 
 この時点では、弟子たちはほかのユダヤ人と同じように、神が遣わす救い主であるメシヤ・キリストは政治的、軍事的な王さまであって、その強大な力をもって世界帝国のローマを駆逐し、エルサレムを首都として全世界を支配する、ユダヤ人による強大な神聖国家を建てるのだと思い込んでおり、そして自分たちの先生こそ、そのメシヤであって、その先生が王様になったなら自分も大臣になれると期待をし、その欲望は更に膨らんで大臣になるのであれば普通の大臣ではなく、大臣の中でも一番偉い大臣になりたいという野心を燃やすようになっていたのがヤコブとヨハネの兄弟で、今の内にイエスから口約束だけでも、つまり「内定」を貰っておこうとして、そこでイエスのもとに願い出た、というわけです。
 
彼らは強烈な願いを持っておりました。でもその願いはこの世で偉くなりたいという間違った上昇志向に基づくものであったのでした。
 実はこのような願望は二人だけのものではなく、他の弟子たちに共通した野心であったようです。
 それは長期の旅行を終えてカペナウムに帰ってきた弟子たちの話題に示されていました。人は関心を持っていることを話題にするものです。彼らの話題は弟子たちの中で誰が一番偉いか、つまり誰がトップに選抜されるのだろうかというものでした。
 
「彼らは黙っていた。それは途中で、だれが一番偉いかと、互いに論じ合っていたからである」(9章34節)。 
 
 この時もイエスは弟子たちにその志向の愚かさ、卑しさを説かれるのですが、それは彼らの心根には届いていなかったようなのです。それが、二人の抜け駆けの行動を知った他の弟子たちの反応に表われています。彼らは二人に憤りました。
 
「十人の者はこれを聞いてヤコブとヨハネとのことで憤慨し出した」(10章41節)。
 
 他の弟子たちが二人に憤ったのは二人の行動の動機について憂えたからではなく、二人が隠れてイエスと秘密交渉をしようとしたからでした。そういう意味では他の十人も似たようなものであったのです。
 アダムを先祖とする、生まれながらの人は、その願いの動機が神の気持ちの実現にあるというよりも、また他者の幸せにあるというよりも、自分の欲望の実現を第一に目指すというところにあります。
 
 弟子たちのこのような願い、間違った志を見抜いたイエスはこのあと、ヤコブとヨハネだけでなく弟子たち全員を御許に呼び寄せ、彼らが一様に持っている上昇志向を、世俗的な卑しいものとして否定されます。
 
「そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない』」(10章42、43節前半)。 
 
どんなに熱心であったとしても、その動機が卑しい場合、たといいっときは野心を実現させることができたとしても、そこには神の祝福はないのです。
 
 
2.生まれ変わった人が持つビジョン―その根は聖なる向上心
 
イエスは続けてイエスの弟子のあるべき姿、人というものの進むべき道について、諄々と説かれます。それは人の上に立ちたいと願う上昇志向とは正反対の、人に仕える僕(しもべ)として生きよ、というものでした。
 
「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕(しもべ)とならねばならない』」(10章43節後半、44節)。
 
 「偉くなりたい」「かしらになりたい」という上昇志向は、生まれながらの人間が持つ欲望ですが、イエスに出会ってほんとうに生まれ変わると、その人は社会的地位の上昇や肩書の有無ではなく、この身が神と人の役に立つ者でありたいという願いを持って生きることを望むようになる、そしてその究極の姿が人に「仕える」「僕」のかたちであると、イエスは説かれたのでした。
 
 ただし、「偉くなりたいと思う者は」や「かしらになりたいと思う者は」というイエスの言葉を表面的に捉えて、上に昇るためには取りあえず、「仕える人」「僕」の位置に甘んじよう、そうすればいつの日にかトップに立つ機会が来るのだ、と言うように理解してはなりません。イエスの言葉をそのように誤解して読む人が多いのですが、イエスが言いたかったことは、「偉くなりたい」「かしらになりたい」という野心そのものがイエスの弟子には相応しくないという意味なのです。
 
そしてこの時点ではただ、ユダヤ教的なメシヤ観、現世利益的な価値観の中にどっぷりと浸かっていた弟子たちでしたが、その後、聖霊の取り扱いを受けて変わっていくこととなります。
 
 今日、説教後に歌う聖歌五二十一番の「キリストには替えられません」は、七十年以上にわたって多くのキリスト者に愛唱されてきた聖歌です。残念なことに作詞者のレア・ミラーという女性についてはほとんどわかっていませんが、この聖歌を作曲したジョージ・ビヴァリー・シェーは、ビリー・グラハムの伝道に帯同して、世界各地でその働きに協力した福音歌手として有名で、いつでしたか、日本に来た時には既に高齢でしたが、その美しいバリトンの声を直接に聞いて、感動をした記憶があります。
 
ビヴァリー・シェーは牧師の子としてカナダに生まれ、二十歳の学生であったある日曜日、たまたま母親がどこからか筆写してきた「キリストには替えられません」という詩に感動してこれに曲を付け、その歌詞を実践する音楽伝道者になる決心をし、その日曜日の朝、父親が牧会していた教会の礼拝で独唱をしたそうです。
 
大学卒業後、その声と歌唱力を買われて米国四大放送網の一つであるCBS放送の合唱団の一員への招きを受けた時には、高い名声と高額の報酬が期待できる世俗の音楽活動に入るか、それとも教会の音楽活動にとどまるかを迷った末に、以前自身が作曲した「キリストには替えられません」の歌詞の通りの道を進む決意をし、以後、百三歳になった今日に至るまで、現役のゴスペル・シンガーとして神と教会に仕えています。

 ビヴァリー・シェーの歌声はyou tubeで、George  Beverly  Sheaで検索すれば今でも聞くことができます。

世俗的な功名心、上昇志向も確かに人を積極的で活動的な人生へと向かわせます。しかし、主イエスが私たちに期待する人生は、聖なる向上心を人生の根に持つことなのです。
 
 
3.神を愛する人が持つ究極の目標―その実はキリストのかたち
 
 上昇志向という間違った根っこからは、いっときは目に見えるかたちでの繁栄を手に入れることは出来るかも知れませんが、神の祝福を生み出すことはできません。
しかし、生まれ変わって神を愛するものとされた人の中に生み出された正しい向上心という根っこからは、いつの日にか、豊かな実が熟(な)るのです。
その実とはキリストのかたち、すなわち、キリストの御姿(みすがた)に似たものとなるというものです。それこそが神を愛する人が持つ究極の目標です。

「わたしたちはみな、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント人への第二の手紙3章18節 281p)。 

キリストのかたち、キリストの御姿とはどんなものかと言いますと、それが「仕える」姿でした。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(10章45節)。

 神の独り子でもあるイエスこそ、天上天下のあらゆるものに先だって「仕えられる」べきお方でした。しかしイエスは「仕えられるためではなく」人々に「仕えるため」にこの世に生まれ、しかも神に逆らっている「多くの人のあがないとして」その尊い「自分のいのちを与え」てくださったのでした。
 
 歴史上、この世界で最も低いところ、それは十字架の上でした。最も高いところで崇められるべきお方が、低い所に降りてきて人のかたちをとり、罪人となり、囚人となって、その尊い命を投げ出して下さったのでした。
 
「国民の生活が第一」と言いながら政治資金規正法に抵触した疑いで訴追された政治家に、裁判所が無罪の判決を下しましたが、識者の中には、判決の内容は有罪そのものであり、ただ、「疑わしきは罰せず」という法理論によって無罪とされただけであって、無実ではないという声もあります。
しかしイエスは弱い立場の秘書を犠牲にして罰を免れようとする政治家などとは違って、自身は一点の曇りもない人生を生きつつ、赤の他人である「多くの人のあがないとして」つまり身代わりとなって、刑死して下さったのでした。
 
 ビヴァリー・シェーは世俗の栄光を背にして「僕」の道を選びましたが、昨年、グラミー賞を主宰するザ・レコーディング・アカデミーはグラミー賞の一環として一〇二歳になったビヴァリー・シェーに対し、「生涯功績賞」という賞を授けました。
 それは生涯をキリストの僕として生きたビヴァリー・シェーへの父なる神と御子なるキリストからのささやかな褒賞であったのかも知れません。
 
 私たちもまた、間違った上昇志向を排して、聖なる向上心を動機とする僕としての日々を、御言葉に立ち、聖霊に導かれて歩む者でありたいと心から思うのです。


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