2012年12月23日クリスマスファミリー礼拝説教「『神われらと共にいます』と信じ告白できる理由(わけ)」マルコによる福音書15章23〜32節

投稿日時 2012-12-23 16:12:46 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

12年12月23日 クリスマスファミリー礼拝説教

「『神われらと共にいます』と信じ告白できる理由(わけ)

マルコによる福音書15章23〜32節(新約聖書口語訳79p)

  
はじめに
 
 十二月の十六日、総選挙が終わりました。マスコミの予測通り、数においては野党の圧勝という結果になりましたが、野党が大勝したというよりも、実情は政権与党が大敗をした、と言う方が当たっているかも知れません。
 
 三年三カ月前に、新聞、テレビ等のマスコミによる露骨な支援を受けて、三百を超える議席を得た党が、今回はその二割の六十にも届かないという惨状を呈した選挙となりましたが、その原因は一口に言えば、信頼を失ったからということに尽きるかと思います。
 
つまり、もともと政権を担うだけの見識も能力も、そして経験もなかった人々が、ただ「政権交代」という掛け声だけで集まった烏合の衆であって、幹部が失政を重ねているうちに、「利、我にあらず」と見た人々から次々と離れていって、残った人々が城を枕に討ち死をした、という構図かも知れません。
そしてそのような集団を、マスコミの口車に乗って支持した有権者にも責任の一端はあることを認めないわけにはいきません。つまり、「信じた私がバカだった」のです。
 
しかし、大勝した党も獲得した議席の数ほどには信じられているわけではないようです。一票でも多ければ総取りになるという現行の選挙制度が多数を得させたに過ぎない、それが比例における得票が僅かの二十七パーセントであったという数字に表れているという分析もあります。
 
しかも、選挙公約に掲げた「竹島の日」の政府主催による式典の実施は、その三日後の二月二十五日に隣国の大統領就任式があるからという理由でどうも先延ばしをするようですし、明言していた靖国神社の参拝も言葉を濁していることから、支持者からは「信じたのに」という失望の声があがっています。
 
マヤ暦の、今年の十二月二十一日に世界の終末が来る、というデマを信じた人々は、流石に日本にはほとんどいませんでしたが、世界には結構いたみたいだったようです。それこそが信じられません。
多分そのうち、「あれは計算ミスであって、実は…」という説が出てくるに違いありませんが。
 
信じるということは美しいことですが、信じるに価するものをこそ、信じることが必要です。
 
十二月二十五日はイエス・キリストの生誕を祝うクリスマスです。世界の宗教人口統計によりますと、イスラム教が全体の二十パーセントで、キリスト教は三十三パーセントだそうです。
つまり、世界人口を七十億人としますと、二十三億人の人々がキリストの生誕を記念するクリスマスを祝うことになるのですが、二十三億人もの人々がなぜイエス・キリストを崇拝するのかと言いますと、それはイエス・キリストが信頼できる存在、信じるに値する存在であるからなのです。
 
そこで今年のクリスマスファミリー礼拝では、キリスト教徒はなぜイエス・キリストを信じることができるのか、いったい、キリストの何を見て信じるのかという、信じることの根源的な理由を三つ、あげてみることにしたいと思います。
 
 
1.信じることができるのは、イエスが十字架から降りなかったから
 
 イエスは自分が架かることになる十字架を背負って、具体的には十字架の横棒を担いで刑場に向かいました。縦棒の方は刑場に用意されていました。刑場で十字架が組み合わされて、そこに死刑囚が固定されたのでした。
死刑場はエルサレムの中心から一キロ半ほどの小高い丘の、「ゴルゴタ」と呼ばれる場所にありました。
 
「そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った」(マルコによる福音書15章22節 新約聖書口語訳79p)。
 
 「ゴルゴタ」はヘブル語でして、その意味は頭蓋骨、髑髏(どくろ)、英語では「スカル」です。マルコによる福音書では「されこうべ」となっています。ちなみにこれはラテン語聖書では「カルバリア」と訳されました。「カルバリー」という英語はこれから来ています。ですから、「カルバリー教会」とか「カルバリーチャペル」というと、語感からちょっとお洒落な感じがしますが、それは「されこうべ教会」、「髑髏(どくろ)チャペル」という意味になるのです。
 
 イエスが十字架につけられたのはユダヤ暦のニサンの月、つまり正月の十四日の金曜日で、太陽暦では紀元三十年四月七日の午前九時ごろのことでした。
 
「イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった」(15章25節)。
 
 場所や時間が明記されているということは、イエスの十字架の物語が後代の作り話などではなく、はっきりとした歴史的事実であったことを示しています。
 
 そのゴルゴタで見物人は磔になったイエスに侮辱の言葉を投げつけ、十字架から降りて来い、と罵りました。
 
「そこを通りかかった者たちは、頭をふりながら、イエスをののしって言った、『ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。十字架からおりてきて自分を救え』」(15章29節)。
 
また、罪のないイエスをユダヤ法廷において強引に有罪に持ち込み、ローマの法廷では総督ピラトを脅迫して十字架刑の判決に追い込んだユダヤ宗教界のリーダー、祭司長カヤパも他の議員たちと共に、目的を遂げた勢いで意気揚々と、十字架につけられたイエスを嘲弄したのでした。
 
「祭司長たちも同じように、律法学者と一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『…イスラエルの王キリスト、今十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう』(15章31、32節)。
 
 祭司長をはじめとする人々がイエスに対し、異口同音に嘲ったことは、「お前はイスラエルの王、神から送られたメシヤ・キリストの筈ではなかったのか、そのメシヤが十字架に架けられっ放しであるのはどうしたことか、本物のキリストであるならば、そんな無様な姿を晒し続けるわけがない、お前は偽物だ、偽物のメシヤだ、もしも本物のメシヤであるというのなら、今すぐにでも十字架から降りて来い、もしも十字架から降りて来ることができるならば、我々はお前が本物のメシヤ・キリストであると信じようではないか」というものだったのです。
 
「いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」(22節)、こういう考えは、イエスの敵対者や祭司長だけでなく、多くの人が持つ考えです。しかしそのような考えは救い主であるキリストの役割や使命に関する基本的な誤解と無知から生まれたものでした。
 
 逆に考えればわかるのですが、私たちは思うのです。「イエスが十字架から降りたら信じよう」ではなく、「イエスが十字架から降りなかったから信じることができる」のです。
 
 イエスが十字架にかかったのは、そして最後の最後まで十字架に止まり続けてくれたのは、私たち人類の、神に対する不従順の罪を身代わりになって引っ被るためでした。もしも十字架から降りてしまったならば(イエスには十字架から降りる力があり、何よりも十字架にかかる理由もなかったのですが)、私たち人類は聖なる神の前に、罪びとのままで過ごすしかなかったのです。
 
 私たちを愛し、ありのままの私たちを愛して、その愛のゆえに十字架にとどまり続けてくれたからこそ、私たちはイエスを我が主として信じ、我が神として崇めることができるのです。つまり、イエスは十字架から降りなかった、だからイエスを信じることができるのです。
 
 
2.信じることができるのは、イエスが自分を救おうとはしなかったから
 
 十字架に架けられたイエスを私たちが信じることのできる第二の理由は、イエスが自分を救おうとしなかったこと、つまり助かろうとしなかったからです。
人々はイエスに向かって罵りましたが、その一つが、「お前は他人を救いながら、自分自身を救うことができていないではないか」という非難でした。
 
「そこを通りかかった者たちは、…イエスをののしって言った、『…十字架から降りてきて自分を救え』。…祭司長たちも同じように…言った。『他人を救ったが、自分自身を救うことができない』」(29〜31節)。
 
 どんなに罵られバカにされようとも、イエスが自分を救おうとしなかったのはなぜか、それは私たちを永遠の刑罰から救うためであったのです。
神が存在することを知りながら、神が存在しないかのように生きる者、神の戒めがどのようなものであるかということを知っていながら自分の欲望を優先させて一生を過ごす者に待つ最終的な報いが、永遠の滅びであるということは、聖書が教えるところです。
だからこそ、憐れみに富む神の御子は、そのような不信者に代わって罪の結果である刑罰をその身に引き受けるため、十字架にかかってくれたのです。
 
 イエスは自分自身を救おうと思えば救うことができました。人の目には見えませんが、もしもイエスからの合図があればイエスを十字架の苦しみから救い出そうとする天使の軍勢が、このとき、ゴルゴタの丘に結集しており、しかもイエスの十字架を取り囲んでいたのです。
 
でも、最後の最後まで、自分を救出せよ、との合図がイエスから送られることはなかったのでした。
 
 イエスが人類を救う目的完遂のために、自分自身を救おうとしなかった、だから私たちはイエスを救い主として信じ、仰ぐことができるのです。
 
 
3.信じることができるのは、イエスが麻酔を使おうとしなかったから
  
 そしてもう一つ、私たちがイエスを信じることができるわけは、十字架に架けられる前に提供された、没薬を混ぜた葡萄酒をイエスが飲もうとはしなかったからです。
 
「そしてイエスに、没薬(もつやく)をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった。それから、イエスを十字架につけた」(15章23、24節前半)。
 
 
 「没薬をまぜたぶどう酒」(23節)は、いつの頃からか、エルサレムの上流階級の婦人たちが行うようになった死刑囚のためのボランティア活動で、「没薬」には一種の麻酔効果があり、これによって十字架の苦痛を麻痺させると共に、ぶどう酒の酔いが迫りくる死の恐怖を多少なりとも軽減させるという効果があるとされたものでした。
 
 ですから十字架に架けられる死刑囚はまず例外なくこの麻酔入りのぶどう酒を、それこそがぶ飲みするのが常でしたが、イエスのみ、この麻酔入りのぶどう酒を飲もうとしなかったのです。
 
 イエスはなぜ、このぶどう酒を飲もうとしなかったのか、それは、イエスが意識の醒めた状態で死の恐怖というものを人類に代わって経験しようとしたからであり、十字架の恐るべき苦痛を私たちに代わって全身で受けようとしたからだったのです。
 
 私たちがイエスを主として信じ受け入れることができるのは、本来、私たち人類がそれぞれの罪のために経験し、嘗める筈の恐怖と苦痛をイエスが代わりに受けてくれたという事実があるからなのです。それが、私たちがイエスを主と信じる三つ目の理由です。
 
 イエスは中途半端な状態で人の身代わりになったのではないのです。その身代わりはまさに徹底的な身代わりでした。
 
 イエスは最後まで十字架から降りようとはしなかった、また自分を救おうとはしなかった、そして醒めた意識で苦痛を耐えた、だからこそ私たちはイエスを信じるのです。それが私たちの信仰告白の揺るぎない根拠です。
 
そしてその十字架のイエスの姿にこそ、「神我らと共にいます」という、神の溢れるばかりの慈しみを私たちは見るのです。神の御子の誕生と十字架の苦しみは分かちがたく結びついています。





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