2010年12月24日クリスマスイブ礼拝説教「クリスマスは天からの有難い『ギフト』」ヨハネによる福音書3章16節

投稿日時 2012-12-19 16:29:33 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

二年前の2010年のクリスマスイブにおけるイブ礼拝説教を掲載しました。教会では今年も24日のクリスマスイブにはイブ礼拝をいたします。よろしければぜひ、お出かけください。

201012月24日 クリスマス・イブ礼拝説教

「クリスマスは天からの有難いギフト」 

ヨハネによる福音書3章16節(新約聖書口語訳139p)

 
はじめに
 
 日本語の「贈り物」を表わす英語には二つあるようです。一つはプレゼント、そしてもう一つはギフトです。プレゼントとギフトはどう違うのでしょうか。
 
違いは関係や立場によるようです。どちらかというと親しい者同士で贈るものがプレゼントで、目上の者から目下の者に贈る物がギフトのようです。
そうすると、お世話になった人に対して年末などに贈る物をギフトというのは、ちょっと使い方が違うのかも知れません。なぜならば、プレゼントは贈り物ですが、ギフトは賜物という意味だからです。
 
プレゼントとギフトのもう一つの違いは、プレゼントが贈り物をされるだけの理由がもらう側にあるのに対し、ギフトつまり賜物は、もらう側にそれをもらう理由がまったくないのにも関わらず、ただただ贈る側の一方的な愛情や善意によって贈られる物を意味するからです。
そしてクリスマスから始まったキリストに関する一連の出来ごとが、天からの有難い「ギフト」だったのです。
 
 
1.天からのギフト それは天の神がその独り子を賜ったという事実に見ることができる
 
 子供にとってクリスマスと言いますと、サンタクロース、そしてサンタが持ってきてくれるクリスマスプレゼントです。
クリスマスプレゼントは12月24日の夜、煙突からサンタクロースが入ってきて、子供たちの枕元に置いておいてくれる、という構図です。
 
サンタクロースのモデルは三世紀、現在のトルコにいたニコライという名のキリスト教の主教であったとされています。
大金持ちだったニコライはクリスマスの夜、沢山の贈り物を病人や貧民に届けたという故事が発達してセント・ニコライ、サンタクロースとなったようです。
ニコライが届けたものそれは、プレゼントというよりもギフト、賜物でした。
 
 ニコライにそうさせたものは何かと言いますと、クリスマスこそが、自分に対する、そして人類に対する天の神さまからのギフトであったという理解があったからです。
では、天の神は何をギフトとしたのかと言いますと、その独り子なる神でした。西暦一世紀の終わりに書かれたヨハネによる福音書によりますと、神はその独り子を賜物、ギフトとして私たちに賜ったということなのです。
 
 「神はその独り子を賜(たまわ)った」(ヨハネによる福音書3章16節 新約聖書口語訳139p)。
 
 クリスマスは伝説や神話などではなく、事実です。想像力の豊かな作家が書いたフィクションではなく、歴史的な事実として伝えられてきたノンフィクションなのです。
イエス・キリストは実在しましたし、その母親とされるマリヤも、そして子供を身籠った婚約者を妻として受け入れ、養父として幼子を養い育てたヨセフという人物も実在しておりました。
 
 私たちは今晩、クリスマスに始まるイエス・キリストの人生が丸ごと、天の神からの自分への賜物であるということを、先ず最初に確認をしたいと思います。 
 
 
 2.人類を滅びから救うためという理由から、天の神はその独り子を「ギフト」とされた
 
では、何のために天の神は大事な独り子を賜物として与えたのか、それは神を見失って彷徨っている人類を滅びの中から永遠の命へと救いあげるためだったのです。
 
 「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節後半)。 
 
 
 今年、戦場カメラマンという人が人気者になりましたが、「戦場から女優へ」という本を上梓したサヘル・ローズという25歳になるイラン人の女優が最近評判のようです。今週、新聞のインタヴュー記事でその生い立ちを知り、本当に感動いたしました。
 
彼女は4歳の時、1989年のイラン・イラク戦争の際の空爆によって両親と10人の兄弟を失い、彼女一人が瓦礫の下から奇跡的に救出されたそうなのです。
 
その瓦礫の下から出ている小さな腕を見つけてくれたのがボランティアで救助に加わっていた20歳のフローラという女子学生でした。
 
病院で治療を受けた後、孤児院に入れられたサヘルを訪問してくるフローラにサヘルが、「お母さんになって」と頼んだそうです。
一ヶ月後、フローラは「本当に私の子供になりたいの? 私でいいの」と聞いてくれてフローラの養子になりました。しかし家柄の良いフローラの実家は怒ってフローラを勘当します。そこでフローラは婚約者がいた日本にサヘルと共に来ることになりました。
 
ところが問題が起きました。フローラと婚約者とはサヘルのことで不和となり、母子でアパートを出て、ホームレスになり、雨が降ると公衆便所で雨宿りをするような生活が始まりました。
 
小学校でサヘルはひどいいじめにも遭ったといいます。「自分は給食があるけれど、養母は食べるものがなにもない」という極貧の中で高校に行き、大学に進み、専門学校で演技の勉強をして 今、タレント、女優として活躍するようになったサヘルの夢は、アカデミー賞を受賞して、オスカー像を母親に捧げること、それが自分にできる恩返しなのだとのことです。
 
 驚くのはこの20歳の女子学生にしか過ぎなかったフローラという女性の行動です。幼い子供を救いたいというその一心で、自分の大事な人生を一人の女の子に捧げ、家を、そして祖国を後にして、言葉も通じない、習慣も違う異国の地で、本来、縁もなければゆかりもない、育てる義務など何一つないような子供を育て上げたのでした。
 
 フローラという養母はペルシャ絨毯を織る技術を持っていたため、それで何とか家計を維持したようですが、日本における生活の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったようです。
 サヘルにとって、養母のフローラはまさに天からの賜物であったのでしょう。
 
 
 天の神さまの場合は、その独り子を、私たちを滅びから救いあげるために天から賜物として遣わしてくださったのでした。
今晩の話しのタイトルは「クリスマスは天からの有難いギフト」としましたが、神の御子が誕生したクリスマスだけがギフトなのではありません。神の御子の生涯が、そしてその生涯の終りまでもが特別な賜物なのです。
 
 神の御子のイエスの母マリヤは、ヨセフとは法的には夫婦でしたが同居する前に妊娠しました。聖書によれば天使のお告げで、聖霊によってのものだとされていますが、周囲は誰も信じようとはしなかったでしょう。
 マリヤは世間的には姦通をして妊娠したと見做され、イエスもまた、姦通の結果生まれた不義の子と見られ、差別されながら生育したのです。
 
しかし、イエスは苛めにあっても苛め返さず、罵しられても罵り返すことをせず、寛容と忍耐の日々を生きたのでした。それは罪深い人類の身代わりとなる資格を得るためでした。
 
まさに青年聖歌103番で歌われているように、「イェスの嘗めた人生 人が思う以上の貧と汗と涙の続きで」(2節)あり、そしてその生涯の終りが十字架の死でしたが、その死こそまさに、人類の身代わりの死であったのです。
 
こうして天の神は、イエス・キリストを自分のために死んでくださった救い主であると「信じる者」(16節)が「ひとりも滅びないで、永遠の命を得る」(同)ことができるようにしてくださったのでした。
 「この気高い救い主が 今も生きて我らを救うのです(青年聖歌103番折り返し)。
  
 
3.天の神が独り子を賜った動機、それは滅び行く人類への真実の愛にあった
 
 世の中はすべて利害勘定、得失計算で動いていると思う者には、サヘルという孤児を引き取った女子学生のフローラの行動は何ともバカげた行為としか思えないと思います。
彼女は一カ月、悩みに悩んだ末に、未婚の身でありながら、天涯孤独のこの孤児の母親になる決断をしたのでした。その動機はただ一つ、この子を見捨てるわけにはいかないという「愛」であったと思います。
 
そして天の神が最愛の独り子を賜った動機、そして神からの賜物として、苦労するために世に下って来て、善を行っては憎まれて、ついに無実の罪で処刑されたイエス・キリストの行動もまた、滅び行く人類への「真実の愛」にありました。
 
 「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」(3章16節前半)。
 
 神は「この世を愛して下さった」(16節)。「この世」(同)とは神なき世界に住み、神を無視して勝手に生きている人類全体を意味します
忠告しても助言しても、忠告を無視して自分勝手なことをしている家族がいたら、ついには勝手にしろ、と言って見放すのが普通です。ましてや家族でもなんでもない、赤の他人ならなおさらです。
 
人類は確かに神によって創造されました。しかし、繰り返し、繰り返し、神との約束を反故にし、神を裏切り、神に迷惑をかけ続けてきました。ですから神にはもう、人類を救わなければならない義理もなければ義務もありません。 
しかし神は放っておくことができなかったのです。神の耳には神に背きつつも、「私たちを救ってください」という人類の叫びが聞こえていたのでした。
 
 昔、私を導いてくれた牧師が、ヨハネによる福音書三章十六節の「この世」というところに、自分の名前を当てはめて読むことを教えてくれました。
「神はそのひとり子を賜った程に、○○○○を愛して下さった」のです。
 
 クリスマスは神のギフトというイエス・キリストの存在を通して、自分が愛されていることを知る機会です。深い闇の中にあって失望し、生きる力を失っている者もわたしたちの国には大勢いると思われます。
 
しかし、この自分一人を滅びから救うために、かつて神が人となり、差別され、労苦し、囚人となり、死刑囚となってくれたという事実があったこと、そしてその事実の背後には、なぜかはわからないけれど自分への絶大なる愛があったことを、一人でも多くの人に知ってもらいたい、それは天の神の願いです。
 
 サヘルが中学時代に苛めにあって死のうと思った時、死ぬことを思いとどまったわけは、自分のために苦労してボロボロになった養母の指を見た時であった、ボロボロの指を見て、私はこの人に何の恩返しもしていないと思い、その時に目標が見つかったと言っていました。
サヘルの夢はアカデミー賞の他にもう一つ、孤児のための孤児院をつくることだとのことです。
 
 クリスマスは、無償の愛で私たちを愛し、独り子という賜物をギフトとして下さった神への恩返しのため、自分には何ができるかを考える機会でもあります。
 
この夜、クリスマスの祝福がこの国の、神を知らない多くの方々に豊かにあるようにと祈りましょう。
神は日本人を救うためにも、その独り子を賜ったのです。 





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