2012年10月14日日曜礼拝「真実の愛は目先の損得に囚われない」マルコによる福音書14章3〜9節

投稿日時 2012-10-14 16:04:31 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年10月14日  日曜礼拝説教

「真実の愛は、目先の損得に囚(とら)われない」     マルコによる福音書14章3〜9節(新約聖書口語訳75p)

   
はじめに
 
 ノーベル賞の季節を迎え、その初日の先週、十月八日の月曜日の午後、生理学・医学賞を山中伸弥京都大学教授が受賞したというニュースをマスコミが速報で伝えました。日本列島は歓喜に沸きましたが、興味深かったのは半島の反応でした。
 
半島はこの事実をその日のマスコミは一切触れず、翌日の報道では、朝鮮日報が「日本人、2年ぶり19人目のノーベル賞 また日本、また京大… 山中伸弥教授にノーベル生理学・医学賞 英ガードン教授と共同受賞」と題して受賞の事実そのものを報道すると共に、記事においては受賞の理由であるiPS細胞の研究がいかに画期的なものであり、また人類への貢献が大であるかということを正確に述べているのですが、一方、中央日報の方は「ノーベル医学生理学賞に山中教授とガードン博士…韓日の格差広がる」をタイトルとした上で、記事の中ではその業績を分かり易く解説しつつ、最後の締め括りでは、「山中教授のノーベル賞受賞で日本と韓国のノーベル賞受賞成績は1対19に広がることとなった」と、両国を「成績」という言葉で比較して嘆いておりました。
 
 その後の半島のネットには「韓国は(PSYの江南スタイルの)ビルボードチャートで(熱狂し)、日本はノーベル賞で歓喜…。なんだか悲しい」など、彼我の差を嘆く声や、日本に較べ、韓国はなぜノーベル賞と縁がないのかという声が充満したようです。
 
記事の中の「1対19」は平和賞や文学賞を入れた場合であって、しかも唯一の賞である二千年の平和賞は南北首脳会談の実現を評価されての受賞でしたが、その後、大手企業グループから北朝鮮に対して五億ドルもの不法送金が行われていたことが明らかになり、首脳会談はその見返りではなかったのか、との見方から、「金で買ったノーベル賞」とも評されてしまいました。
 
もともと、選考基準が曖昧な平和賞や文学賞などを除いた自然科学部門でいえば「成績」は0対16ということになるのですが、半島でなぜ自然科学部門での受賞者が皆無であるかという理由は、その国民性にあると考えられています。
 
 一つは、燃えやすく冷めやすいという民族的性格です。一つの課題に長く取り組むことが苦手であるため、長期の地道な苦労を必要とする基礎科学への取り組みが苦手のようなのです。
 
二つ目が、派手で目立つことを好み、賞を栄誉と考える性向から、世間から注目されることの少ない基礎分野が敬遠されがちとなる、というわけです。
 
そして三つ目が、目先の実利に関心を持つという国民性のため、直近の実利が期待される応用科学分野ばかりが注目されて、すぐの実利が計算できない基礎科学分野には優秀な人材が集まらないという傾向がある、つまり、その動機に問題があると言うのです。
 
韓国社会のノーベル賞(これをノーベル症と揶揄する者もいますが)騒ぎの本質的問題点は、受賞することが国家あるいは個人の名誉や富の獲得という目的に収斂されていること、つまり受賞自体が目的化されていて、ノーベル賞の本来の趣旨である人類への貢献という視点がすっぽりと抜けているという本末転倒状態になっていることにあって、実はそれこそが「0対16」の最大の理由であるとされているようです。
 
そのことは山中教授の発言を聞くとよくわかります。
山中教授は記者会見において、iSP細胞の研究の目的はただ一つ、それは「現代の医学、医療では治すことのできない患者を治す」ということであって、「今はまだ誰ひとり、患者さんを治していない、だから一日も早く実用化に取り組みたい」という最初の動機を明確にしているのです。
 
それを陳腐な表現を使えば患者への愛ということでしょう。
そこには己の名誉も利益もなく、ただただ難病で苦しんでいる人への純粋で真実な愛情が動機となって日夜研究に打ち込む研究者の姿が見え、私たちはそこに本来の日本人はこうだったという、原日本人を見る思いがして胸が熱くなるのです。
 
しかもこの栄誉についても山中教授は受賞の当日の記者会見で、「私は無名の研究者に過ぎなかった。日本という国に支えていただいて、日の丸のご支援がなければ、この素晴らしい受賞はなかったと心の底から思った。まさに日本という国が受賞した賞だと感じている」と述べ、さらに同時受賞のジョン・ガードン博士については、「ガードン博士の研究があって、私の研究があった」と謙虚に語り、ガードン博士の方もまた、「山中さんのおかげで私の(埋もれていた)研究への関心も高まった」と述べて、ひたすら山中教授の功績を称えていました。
そこには欲得も功名争いのかけらもなく、ただただ清々しい気分が漂っていました。
 
今週の日曜礼拝では「真実の愛は、目先の損得に囚(とら)われない」というタイトルで、目先の利害を度外視して、イエスへの真実の愛、純粋な愛を行為で示したひとりの女性に焦点をあてることによって、たましいの養いとしたいと思います。
 
 
1.真実の愛は判断を間違えない
 
 紀元三十年の四月二日の日曜日にエルサレムに入城したイエスは、昼は主に神殿を拠点として教えることに精力を注ぎ、夜はエルサレム近くのベタニヤ村で弟子たちと共に宿泊をしておりました。
そこは「重い皮膚病の人シモンの家」でしたが、その家で一つの事件が起きました。イエスとその一行がこれから食事をしようとした時のことです。ひとりの若い女性がイエスに近寄ってきて、イエスの頭に香油を注ぎかけたのです。しかも、香油の入っている小さな壺を砕いて、中の香油全部を注いだのでした。
 
「イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(マルコによる福音書14章3節 新約聖書口語訳75p)。
 
 「ナルドの香油」(3節)とはヒマラヤ原産の植物であるナルドから抽出された香油で、希少なものであることから非常に高価であったようです。
 この行為に対して、その食卓にいた人々、おそらくは村の有力者たち、またイエスの弟子たちの何人かが、「何という無駄なことをするのか、香油を注ぐのであれば数滴で十分ではないか」「高価な香油全部を注ぐくらいならば、これを三百デナリ以上で売って、その金を貧しい人々に施した方が賢明ではなかったのか」と、賢(さか)しら顔で女性を非難し、厳しい言葉で彼女の行為を咎めたのでした。
 
「すると、ある人々が憤って互いに言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに』。そして女をきびしくとがめた」(14章4、5節)
 
 「デナリ」(5節)はローマ帝国の正規の貨幣の単位で、一デナリは当時の男性労働者が日の出から日没まで働いて得る一日分の労賃にあたるものでしたから、「三百デナリ」(同)は年収分相当という多額の金額です。
 しかしこれらの非難に対してイエスが即座に反応しました。イエスは男性たちとは反対にこの女性の行為を肯定するだけでなく、行為自体に豊かな意味づけをして、彼女を全面的に弁護したのでした。
 
「するとイエスは言われた、『するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである』」(14章6〜8節)。
 
 イエスは彼女の行為を「よい事」(6節)と肯定的に評価し、しかもそれは「わたしに」「してくれた」「よい事」であると、イエスのための行為であると言い切ったのでした。
「よい事」の「よい」はただよいというだけでなく、美しく、魅力的な良いという意味です。それは何よりもイエスにとって麗しく、そして嬉しい行為であったのでした。
 
確かに貧しい者への施しも尊い行為です。しかしこの女性はこの時、イエスに対して自分が持っているものを差し上げたかったのです。愛が人の中で活動する時、愛はその時々で何が先か、真っ先に何をしたらよいかを的確に判断させます。
 
しかもイエスは、香油を注いだ女性自身、考えてもいなかった意味をその行為の中に含ませたのでした。それは彼女の行為を、彼女がイエスの「葬りの用意をしてくれた」(8節)と解釈したことでした。
 
この女性が香油をイエスの頭に注ぎかけた際、香油の全部を残さずにイエスのために使うつもりであったからと思われるのですが、彼女はこの時「ナルドの香油が入れてある石膏のつぼを…こわし」(3節)ておりました。
実はユダヤの葬儀では、遺体を洗浄してから体全体に香油を塗るのが習慣だったのですが、その際に、香油が入っていた壺はその場で割られて、破片は墓の中に遺体と共に残されたのだそうです。
 
そして誰も、弟子達ですら信じていなかったのですが、実際にこの二日の後、イエスは自身が予告していたようにユダヤとローマ両方の法によって罪人とされて処刑され、墓に葬られることになるのです。
実にこの女性は、高価な香油をイエスに注ぎかけることにより、知らずしてイエスのために「よい事」すなわち「葬りの用意を」(8節)したと受けとめられたのでした。
 
愛が満ちる時、しかも純粋で真実の愛が満ちる時、その愛がその時々で、相手のために、自分は今、何をしたらいいのか、何を先にすべきかを考えさせ、適切かつ的確な判断へと導くのです。
 
 
2.真実の愛は善行を躊躇わない
 
愛は、純粋な愛は人をして的確な判断へと導くと共に、その判断を行動に移すことにおいて、ためらうということを致しません。
真実の愛は、良しと判断したことを行動に移すということにおいて、躊躇わせることをさせないのです。
 
この女性は香油をイエスの頭に注ぎかけるという行為に、恐れを感じていたかも知れません。実際、この後、彼女は冷ややかな非難の声を浴びせかけられることになります。この女性がだれであるかということについて、マルコは口を噤んでおりますので、それがだれであるかは不明です。
 
当時の習慣では、裕福な家の場合、招いた客をもてなす食事は中庭で行われ、そこにゲスト教師の講話を聴くべく、近所の人たちが訪れるということはよくあったことでした。そして、もしもこの機会を逃すならば、イエスに対し、気持ちを示す機会は二度と来なくなる、今しかない、彼女の直感が彼女にそう告げたのでしょう。
 
彼女は決断をし、香油が入っている壺を抱えて自分の部屋を出て、シモンの家に行き、その家の中庭で開かれている宴にイエスの姿を認めて近寄り、勇気を奮って、香油の入っている小さな壺を砕き、そしてありったけの香油をイエスの頭に注ぎかけたのです。
 
真実の愛、純粋な愛は、良いと思うこと、感じたことを後回しにはしないのです。それがイエスの好評価につながります。
 
「この女はできる限りのことをしたのだ」(14章8節前半)。
 
この箇所を読むと、滋賀県にある重度心身障害者施設、止揚学園の創立者である福井達雨園長の著書にあったエピソードを思い出します。
 
ある時、福井園長が高熱を出した、その時、ひとりの園児が自分のおやつを園長先生に食べてもらうと言ってきかない。職員は園児に向かって、園長先生の分は園で用意をしている、だから自分のおやつは自分で食べるようにと説得をした、しかし園児は一向に聞こうとせず、ついに根負けした職員が福井園長のところに行って経緯を話し、園長から自分のおやつは自分で食べるようにと説得して欲しいと頼んだところ、福井園長はこの職員を一喝したというのです。
 
福井園長曰く、「そのおやつは我々にとってはどうということのないものかも知れない、しかし(重度の心身障害を持っている)その子にとって、そのおやつは宝なのだ、それを私に食べてもらおうとするのは、大事な、大事な宝を私に贈ろうとしていることなのだ。それが分からないのか」と。
園児は今、高熱を出して苦しんでいるであろう愛する園長に、自分の大事な宝にも匹敵するおやつを食べてもらうのは今しかないと思ったのでしょう。明日ではだめ、今でなければならない、そこでその子は躊躇わずに、そして何度説得されても強情と思われても、初志を貫徹しようとしたというわけでした。
 
純粋な愛は良いと判断したことを行動に移すことを躊躇わせないのです。
たとえば、日曜礼拝を長く休んでいて、今度は行こうかな、次は行けるかもしれない、と思った時、躊躇ってはなりません。それが明らかに良いことであると判断したことを行動に移すことを、決して躊躇ってはならないのです。
 
 
3.真実の愛は損得を計算しない
 
 愛の特質、それは判断と行動にあたっては、相手、対象のことのみを考えて、自分自身の損得計算をしないというところにあります。
対象の幸せが自分の幸せであり、相手の喜びが自分の喜びとなる、それが愛です。
 
愛は自分の持っているもの、自分のしたことが相手の足りないものを埋め、必要を満たすことに言い表せない幸せを感じるものなのです。
 ユダヤでは、「ナルドの香油」(3節)は未婚の女性にとって、結婚のための支度金のようなものであったそうです。彼女たちが婚礼の日に備えて、少しずつ少しずつ小さな壺に溜めて増やすもの、それがナルドの香油でした。その香油のすべてを彼女は惜しげもなくイエスに注ぎかけたのでした。
 
 ユダヤ社会では、埃だらけの道路を歩いてきた客の頭に、家の主人が数滴の香油を垂らすという習慣がありました。しかし、壺の香油全部はやり過ぎだという主張にも一理はあるかも知れません。
 
 損得を計算する世界では答えが損と出てくることがあります。でも、そのような利害得失を超える世界もあるのです。真実の愛は目先の損得計算を超えます。 
そして損得計算を超えて、愛に基づいて行動した人がイエスその人であったのです。利害計算で行くならば、神が人となり、しかも罪びとの汚名を着せられて、文字通り罪びとである人間たちの身代わりとなって刑死するなどという選択は、常軌を逸したものとなります。
しかし真実の愛は合理性という計算を超えて行動に移されました。それが神の御子のイエスの、人としての存在でした。
 
 利害得失で物事を判断する人にはイエスの行為もまた「むだ」(4節)にしか見えない筈です。そしてイエスの行為が「むだ」に見える人には福音は理解できません。
 
 先週、都島教会の片平 勝先生のおかげで、東日本大震災の二週間後に書いた、地震と津波に関する考察「3・11東日本巨大地震について」を教会のホームページに載せることができ、そこで改めて一年半前に書いたものを読み直してみたのですが、隣国の著名な牧師さんが地震直後に語ったという、「日本を国家的次元で支援すべきだと思う。日本を助けてよい関係を結んでおけば、日本は独島(註 竹島のこと)を自分の領土と言わないだろう」という発言を読んで、善意の発露であるべき支援という行為にも計算が働くその心根が変わらない限り、そして無償の愛という概念が育たない限り、この国の人が自然科学分野、とりわけ生理学・医学賞の対象分野ににおけるノーベル賞を受賞するのはずっと先の事になるだろうという思いを、(余計な事かも知れませんが)改めて持ちました。頭脳自体は優秀な国であるだけに、何とも残念なことです。
 
 すべてが、こうすればこう返ってくるという利害得失計算の上に成り立っている社会では、この女性の行為は理解不能でしょう。そして、私たちが捧げる礼拝や奉仕、あるいは捧げものは、真実の愛を知らない者にとっても「むだ」(4節)な振る舞いにしか見えないと思います。
しかし、イエスはそれらをご自分への「よい事」(6節)として受けいれてくださいます。なぜならばイエスこそ、壮大な「むだ」(4節)な犠牲を私たちへの愛のゆえに払ってくださったお方だからです。
 
 損得計算、打算を超えた世界を持つ者は幸いです。そして、打算を超えた行為こそが真に価値あるものとして人の心を揺り動かし、長く記憶に残るのです。
 
「よく聞きなさい。全世界のどこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」(14章9節)。
 
とりわけ、山中教授のこのたびの受賞が日本人の心を打つのは、ノーベル賞という世界に冠たる名誉を受けたからだけではなく、その打算を超えた心情と純粋な動機とが、戦後の日本人が忘れていたものを記憶の底から呼び起こしてくれるからなのです。
 
そしてそれこそが二千年前、わたしたち罪びとのためにイエスが完全な形で見せてくれたものだったのです。





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