2012年10月7日日曜特別礼拝「人は神により、地球の管理者として立てられた」創世記1章28〜30節

投稿日時 2012-10-07 16:51:04 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

2012年10月7日  十月日曜特別礼拝説教(第五回)

「人は神により、地球の管理者として立てられた」     創世記1章28〜30節(旧約聖書口語訳2p)

  
はじめに
 
 今からちょうど二十年前の一九九二年六月に、ブラジルの首都リオ・デ・ジャネイロにおいて、国連の主催による「環境と開発に関する国際連合会議」という少々長ったらしい名称の国際会議が、世界一七二カ国の代表、延べ四万人を超える参加者を集めて開催されました。
 
このリオでの会議は一般的には「地球環境サミット」あるいは単に「地球サミット」と呼ばれ、「持続可能な発展」をキーワードとした「リオ宣言」「アジェンダ21」「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」などの宣言や条約が会議で調印されたそうなのですが、この会議を一躍有名にしたのが、十二歳になる日系カナダ人少女、セヴァン・スズキによる「あなたが世界を変える日」というスピーチでした。
 
彼女はこのスピーチにおいて満場の大人たちに向かい、「未来に生きる子供たちのため」「世界中の飢えに苦しむ子供たちのため」「行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのため」に、「どうやって直すのかわからないもの(である、今現に破壊されつつある地球環境)を、(これ以上)毀し続けるのはやめてください」と訴え、さらに「もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えば、この地球は(今よりもっと)すばらしい星になるでしょう」という提言をしたのです。
 
もちろん、彼女の後半の提言の方は非現実的な理想論として笑い飛ばすことも可能ですが、地球環境が現在、人類の活動によって修復し難い程に壊れつつあるということ、もしも修復することが出来ないのであるならばこれ以上の破壊を止めてほしい、そして知恵を結集して環境保全のために有効な手段を模索してもらいたいという彼女のスピーチは参加者に大きなインパクトを与え、その後の世界の地球環境問題への取り組みに一定の影響をもたらすこととなりました。
 
まさに恐るべき十二歳でした。セヴァン・スズキは現在三十二歳となり、二児の母親として子育てをしつつ、今も地球環境保持の環境問題活動家として、国際的に活動しているようです。
 
さて、私たちの教会では今年も六月からの毎月第一日曜日には、「神と人間」をテーマにして、創造者である神は実在するのか、人間はどこから来たのか、人間は何であるのかなど、人であるならば一度は考えねばならない根源的な問題について考える機会を持っていますが、今月は「人間と自然」を中心として、人が住んでいる地球あるいは地球環境、自然環境と人との関係について教えられたいと思います。
 
 
1.「自然」は自然に出来たのではない
 
 私たちは「自然はいいなあ」など、「自然」という言葉をそれこそ自然に使います。では「自然」とは何なのでしょうか。
 
識者によりますと、日本語の「自然」とは黒船が来て開国を迫られた後に、英語の「ネイチャー(nature)」の訳語として出来た言葉だそうです。その「ネイチャー」が、人手が加えられた人工物に対する反対の概念を意味することから、「自然」もまた、人手が加えられていないあるがままのもの、すなわち、山や海、川、大地など、そしてそれらに棲んでいる各種の生物を指すと定義することができるでしょう。
 
 しかし、「自然」は決して自然に出来たものではありません。
私たちの多くは人手によって建てられた家屋、建物に住んでいます。もしもそれを、「いや、私の住んでいるこの二階建ての家は、実は勝手に、自然に出来たのだ」と言ったとしたら、病院で診察を受けるように勧められる筈です。ところが多くの人は地球という、生命の生存にとって絶好の地球環境が偶然に出来たのだと考え、人間を含めた地球生命もまた偶然の産物だというのです。
 
「自然」は人手が加えられていないからこそ「自然」なのですが、決して勝手に、そして無計画に現在のかたちになったのではありません。
家屋一つにしても最初に設計者が構想を練って図面を引き、その図面に基づいて工務店が建築に当たるのです。そのように、この地球は自然に出来たものではなく、設計者、そして建築に携わる者がいて、その結果、現在のかたちになったのです。そしてその設計者、建築士を聖書は創造主なる神と呼んでいます。
 
「はじめに神は天と地とを創造された」(創世記1章1節 旧約聖書口語訳1p)。
 
 「天」(1節)すなわち、宇宙が創造されたのは一三七億年前のことです。そしてそののち、「光」が造られました。
 
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」(1章3節)。
 
 ある人は、太陽系の始まりは五十億年前である、太陽がないのになぜ「光」があるのか、と言います。しかし、宇宙物理学は観察という科学的根拠に基づいて主張します。光は一三七億年前の大爆発、ビッグバンから程なくして生じたであろうと。
 
その証拠が今年の六月、国立天文台のチームがハワイに置かれているすばる望遠鏡を使って見つけた地球から百二十九億光年かなたにある銀河です。このチームが発見した銀河は宇宙の誕生から八億年しか経っていないことになります。つまり、少なくとも「天」すなわち宇宙の誕生から八億年後に「光」が生まれて、宇宙は夜明けを迎えていたことになります。
 
またこの夏には、京都大学などの国際チームが百二十四億光年かなたの銀河「サブミリ銀河」を発見しました。宇宙誕生から十四億年後、太陽の誕生から実に七十四億年も前のことです。
 
 そして「地」(1節)すなわち、私たちが住んでいる地球が誕生したのが四十六億年前のことでした。その地球の海にバクテリアのような生命が生まれたのが三十八億年前のことだそうです。以後、地球は長い時の経過と共に海にも陸にも生命が満ち溢れるようになっていきます。
 
「神はまた言われた、『地は青草と、種を持つ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ。そのようになった』」(1章11節)。
 
「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天の大空を飛べ』」(1章20節)。
 
「神はまた言われた、地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ。そのようになった」(1章24節)。
 
 創世記の記述は二千数百年も前の古代人が書いたものですから、いかにも神話、伝説的用語と言い回しで書かれています。科学的知識もありませんから、植物の創造のあとに太陽と月が創造されたような記述も見られます。しかしそれらは彼らの感覚が受け止めたものであって、重要なことは、海と大地に生息している命、すなわち「自然」は勝手に出来たものではなく、神によって創造されたのであるということを言っているのです。
 
  それは、創世記と同時代にまとめられたとされるギリシャ神話と比べると、その違いがよくわかります。
 ギリシャ神話では、大地(ガイア)は混沌(カオス)から誕生し、そのガイアが眠っている間に生まれたのは天空(ウラノス)です。このウラノスが自分の母ガイアと交わって生み出したのが山々や木々、鳥や獣で、そしてウラノスが降らせた雨によって湖や海ができたということになっています。まさに「神話」です。
 
 しかし、創世記の記述表現は確かに神話的ですが、しかし神話ではなく、事実を叙述したものなのです。植物、水中生物、陸上動物、哺乳類、人類という生命の発生の創造順序の記述は、現代の地球生物学が証明するところです。
 
 「自然」は自然に、勝手にできたのではありません。創造者である神の意志と働きによって、気が遠くなるような時間をかけて、現在の姿へと造られてきたのでした。 
 
もちろん、そこには当然、神の創造の一環として、いわゆる進化という要素が組み込まれていることは事実です。しかし、進化という要素も含めて、「自然」を創造したのは造物主である唯一の神です。広大な宇宙において稀有の存在である地球、そして地球環境は神の手による創造の産物です。
 
相対性理論で有名な物理学者、アルベルト・アインシュタインの直筆の手紙が、インターネットオークションにかけられることになったそうです。四年前のロンドンでのオークションでは三二〇〇万円で落札された手紙は、今度は開始価格が二億三千五百万円だそうですが、そこには「私にとって神という単語は、人間の弱さの表現と産物以外の何物でもない。聖書は尊敬すべきコレクションだが、やはり原始的な伝説にすぎない」と記されているとのことです。前半の考えは十五歳までの私が持っていたものと一緒です。
 
しかし、神は実在するのです。その証拠が宇宙であり、地球環境なのです。
外国、特に中国から来日した観光客が驚くのは日本という国の都市の清潔さや秩序正しさです。特に駅のホームで電車を待つ間の、整然と並ぶ行列には目を見張るそうです。
しかし初めからそうではありませんでした。一九六四年、東京でオリンピックが開催されるのを機に、外国からのお客さんにみっともないところを見せないようにということから、東京の駅のホームでは順番を守るという運動が進められたのです。それまでは電車が着くやいなや、だれもがみな我れがちに入り口に殺到したものでした。
 
面白いのは大阪でした。一九七〇年、大阪で万国博覧会が開催された際に、東京オリンピックを機に東京のマナーが向上したように、大阪でも乗降のマナーを、という呼びかけがあったのですが、体面を気にする東京人に較べて、人目を気にしない大阪人には乗降マナーは定着しませんでした。しかし衣食足りて礼節を知る、と言いますが、いつしか大阪のどの駅でも順番というマナーは定着するようになりました。
 
自然界の整然たる秩序は、創造者の性格が反映されたものなのです。
 
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの世につたえ、この夜は知識をかの夜につげる」(詩篇19篇1、2節 旧約762p)。
 
 
2.人類は「自然」の所有者ではなく、管理人である
 
 では、神によって造られた「自然」の中で、人間はどのような位置におり、いかなる立場を占めているのでしょうか。確かに神による創造の冠として造られたのが人類でした。そういう意味では、神によって造られたものの中で、人類は特別な地位を占めてはいます。
 
第一に人間のみ、神のイメージを反映する「神のかたち」に創造されました。
 
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(1章27節)。
 
 「神のかたち」とは、実体論的に言えば創造者である神の内面に似たものという意味であり、関係論的に言えばその神の呼び掛けに応答することができ、かつ神に向かって呼びかけることができる機能を意味します。つまり、人は他の被造物とは全く違った存在であって、まさに特別な存在なのです。
 
 最近、テレビで人気のチンパンジーが演技中に舞台で、女性のアシスタントを襲うという事件を起こしました。オスのチンパンジーは習性として自分の強さを誇示するために、自分より弱いと思われる者に力を振うそうで、そういう意味では母親にだけ暴力をふるう内弁慶の少年や、外では意気地がなくて家に帰っては妻を殴るDV夫などはチンパンジーと五十歩百歩ということになります。
 
 しかし本来人類は、他の類人猿とも違った特別な存在なのです。しかし、その違いが人間を高慢にし、その結果、人類はあたかも「自然」界の支配者、所有者であるかのように振る舞うようになりました。その揚げ句が、自然破壊、環境汚染となって人の生活を脅かすようになりました。
 
その点で、世界でもっとも自然環境を大事にしている民族のひとつが日本人でしょう。日本の宗教の特徴は汎神論(はんしんろん)と言いまして、万物は汎(あまね)く神であるという宗教観にあります。
人間を含めた「自然」には神あるいは神の霊が宿っているというその考えが、自然を大切にするという生き方を日本人の中に育むこととなったようです。
 
 これに対し、神を創造者、自然を被造物とするユダヤ・キリスト教的価値観を基本とした欧米諸国は、いつの間にか自然の上にあたかも支配者のように君臨するようになり、その結果が自然破壊、環境汚染となって、その自然から復讐されることとなったのです。
人間は「自然」の支配者ではなく、あくまでも神から管理を委ねられた管理人であったのです。
 
「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう』」(1章28、29節)。
 
 ここには確かに「地を従わせよ」(28節)とあります。また、「すべての生き物とを治めよ」(28節)とあり、「すべての草と、…すべての木とを…与える」(29節)とあります。
しかし、それは所有物としてではなく、管理の対象として委ねるという意味だったのです。「自然」の所有者は依然として神であり、支配者もまた神です。「自然」を創造した神は人間を「自然」の管理人として立てたのであって、「自然」の所有権を譲ったのではありません。
 
「地と、それに満ちるもの、世界と、その中に住む者とは主のもである」(詩篇24篇1節 旧約766p)。
 
そしていち早く、そのことに気付いたのが、「自然」との共存を文化、伝統としてきた日本の農夫、職人、そして技術者、研究者でした。
先月の特別礼拝で、妻を批判されて涙を流し、その結果、大統領候補から脱落したエドムント・マスキーの話をしましたが、この人が提案したことからマスキー法と称された自動車の排気ガス規制法は、七十年代半ばまでに一酸化炭素や窒素酸化物の排出量をそれまでの十分の一以下にするという厳しいものでした。
 
しかし、そのだれもが不可能と思っていた厳しい基準を何と七十二年には日本のホンダが、そして七十三年にはマツダがクリアしたのです。日本の自動車メーカーの技術力の凄さに、世界が驚嘆したものでした。でもマスキー法はその後、廃案となってしまいました。アメリカの自動車会社を中心とした反発が巻き起こったからです。そしてマスキー法の基準をクリアした自動車が米国を走るようになったのは一九九五年を過ぎてからだったのです。
 
 ある意味では、非キリスト教国である日本、そして日本人こそ、人間が「自然」の支配者ではなくて管理人であるという聖書の位置づけに対して、最も忠実な民族なのかも知れません。
 
 
3.人類に必要なことは真の所有者と会う備えをすることである
 
 先祖伝来の文化的、宗教的遺伝子によるのかどうかは定かではありませんが、現在、環境汚染に最もルーズな国が中国で、最も厳しい国が日本です。
 
 先日、日本海側の地域の放射性物質の値が、福島のそれと同程度であるという調査結果が発表されましたが、その原因として考えられているのが中国から飛来してくる黄砂です。
 
体制は社会主義、経済は資本主義の中国は、環境保全には極めて無関心です。そしてそのような国と隣り合わせになっている我が国は、領土、領海への侵略という脅威で悩まされるだけでなく、海から流れてくる汚染水、空から吹き込んでくる汚染物質によって深刻な環境汚染被害、健康被害を受けています。
 
 ネットで流れているジョークを持ち出すまでもなく、豊かな四季に恵まれている日本ですが、本来の中国もまた、豊かな四季、麗しい山河、緑の自然に恵まれた国土を誇りとしていたのです。私たちが漢文の授業で教えられた中国がまさに「自然」に恵まれた風土でしたし、私も以前、中国古代の偉人、英雄を取り上げた宮城谷昌光の歴史小説を、心躍らせながら読んだものでしたが、小説の舞台となった時代は、秦の始皇帝が中国を統一した紀元前三世紀末までのものであって、以後、中国は国土も人心も荒れ放題となり、今日の自然破壊、環境汚染の進む異形(いぎょう)の国となってしまいました。
 
戦後、中国には無神論の共産主義国家が生まれ、社会主義の計画経済でゆき詰まった揚げ句、日本から受けた莫大なODA三兆六千億円が資源開発、道路、鉄道、空港などのインフラ整備に使われてきましたが、今に至るも自然環境の保全には全く無関心です。
共産主義と唯物史観とは表裏一体です。そして唯物史観とは物がすべてという価値観なのです。人の事などかまっちゃおれない、というわけです。
 
 無神論の教育と受けている中国の若者の中に、信仰心が生まれるようにと祈る毎日です。もちろん、有神論の国でも自国中心主義であることには変わりはありません。しかし、ガリレオ・ガリレイが「神を恐れない教育は、知恵のある悪魔をつくる」と言ったそうですが、神を恐れることがなければ、自己の利益を優先する生き方になるのは必然です。まさに「知恵のある悪魔」がつくられているのです。
 
 石平(せき・へい)という名の中国から帰化した大学教師がいます。この人が先日、テレビ番組に出演して紹介していたエピソードは笑うに笑えないものでした。
「所用でパリに行ったところ、地下鉄で、フランス語に混じって、日本語のアナウンスが聞こえてきた、それは、日本人乗客に『地下鉄での盗難にご注意ください』という放送であった、そしてパリのホテルの部屋には、『備え付けの備品を持ち帰らないでください』と、中国語で書いてあった」というのです。これは、元は中国人で、そして今は日本人となった人の体験談です。
 
尖閣問題から、中国からの観光客が激減し、そのため、中国人で賑わっていた観光地や店が閑古鳥状態となっているというニュースが流れていますが、傍若無人に振る舞う中国からの観光客のために、以前から他国の客や日本人客が寄り付かなくなっていたところに中国からのキャンセルが追い打ちをかけた、それが実情なのだそうです。
 
 日本人は人間本来の「自然」の管理人という位置をさらにキープすると共に、「自然」の真の所有者である創造者なる神と出会うことが求められています。
 「自然」は神ではありません。ですから礼拝の対象ではありません。「自然」は管理の対象であり、保護の対象です。しかしまた、「自然」なくして人の生存は不可能であることを「自然」は人類に教えてくれているのです。
しかも「自然」は人に神の存在を教えます。そういう意味において、「自然」はわたしたちに神と人間の関係、人間と自然の位置を教える教師でもあるのです。
 
現代、思い上がっている人類、とりわけ、キリスト教国は、「自然」の支配者の地位を真の所有者である神に返上しなければなりません。
紀元前八世紀、イスラエルにアモスという預言者が現われました。当時のイスラエルは軍事、外交の面での勢いもあり、経済的には繁栄の絶頂期にありましたが、その陰では不正義が横行し、社会的格差が広がっておりました。そんなイスラエルに向かって預言者アモスは、「神に会う備えをせよ」という警告を発したのでした。
 
「イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4章12節後半 旧約聖書口語訳1271p)。
 
 神の存在を認めるだけでは足りません。心の膝を屈めて神に拝謁(はいえつ)をすることが大事です。
 
 そして隣国です。ヨーロッパ諸国はそれでも、神の存在を認めてはいます。しかし、生まれた時から神の存在を否定する教育を受け、物質的豊かさこそが幸福であるとする唯物論思想に染まった隣国の若者たちもまた、創造者である神に会う備えが必要なのです。
神に会う若者が彼の地に増えて、人が「自然」の所有者ではなく管理人であることを悟るとき、汚染された環境、破壊された自然の将来的回復にも希望を見出すことができると思います。
そのために、隣国に宣教の自由、信仰の自由が回復するよう祈る者は、神の祝福を受けることでしょう。





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