2012年7月1日 日曜特別礼拝(第二回) 「人は神により、地の塵から生きた者へと創造された」創世記2章7節

投稿日時 2012-07-01 16:09:28 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

 2012年7月1日  日曜特別礼拝(第二回)

「人は神により、地の塵から
 生きた者へと創造された」  

  創世記2章7節(旧約聖書 口語訳2p) 

 

はじめに
 
 十六兆八千億円、これは三年前の「政権交代選挙」で現政権が、無駄を省けばこれだけ出てくる、これを年金や子供手当て、高速道路の無料化や農家への戸別補償などにあてるとマニフェスト(政権公約)で約束した金額でした。
そして華々しく行われたものが事業仕分けで、その仕分けで有名になった言葉が文部科学省の事業であるスーパー・コンピュータの予算仕分けにおける「二位じゃだめなんですか」発言でした。
 
結局、十六兆八千億の埋蔵金は当てが外れて夢物語に終わりましたが、現政権はマニフェスト違反も何のその、有権者に対して約束もしなかった消費税の増税に向かってわき目も振らずまっしぐらです。
 
 ところで仕分け担当者の無知によって、一時は大幅減額が危惧された日本製スーパー・コンピュータ「京(けい)」の開発予算でしたが、スパコンの重要性を指摘する声が各界からあがったため、開発計画は危機を乗り越えて継続をし、半年に一回発表される演算速度の世界ランキングでは昨年ついに二期続けて一位となり(もっともこの秋に完成が見込まれるIBM製の米国スパコン「セコイア」に一位を明け渡すことになりましたが)、この九月末から本格供用されるとのことです。
  
「京(けい)」が一秒間で行う計算は「一京(一兆の一万倍)回」を超えるもので、これは世界人口の七十億人の人が十七日間、不眠不休で計算する量に匹敵するとのことだそうであって、たとえば新しい抗がん剤の開発にしても、それまで三年かかっていた計算が「京」ではたったの一日で可能になるのだそうです。
 
そこで改めて驚くのは、この驚異的な性能を持ったスパコンを製作したのが人間であるということです。スパコンは人間の頭脳から生み出されました。 
つくられたものの性能が優秀であればあるほど、それをつくったものの能力が称賛されることになります。いま世界は「京」への賛辞を惜しみませんが、ということは、スパコンをつくった人や組織など、つくったものこそ称賛されるべきです。
 
そして聖書は、人は天地を創造した神によって、地の塵を素材として生きたものへと創造されたのだと言っています。驚異的な知性と能力を持つ人というものを創造したもの、つまり神こそ、称賛されるべきお方ということになるのです。
 
そこで七月のこの特別礼拝では、人は創造者である神によって、地の塵を素材として創造され、さらにいのちの息を神から吹き込まれて生きたものとなったということ、そしてこの地球は創造者である神の手と配慮とによって、人の住まいとして特別に創造されたのであるということを確認したいと思います。
 
 
1.地球は創造者である神により、人の住まいとして特別に創造された
  
 まず初めに、私たちが何気なく当たり前のように生活をしている地球というものについて考えてみたいと思います。
 
地学の専門家によりますと、宇宙の起源は今から百三十七億年前だそうで、私たちが住んでいる地球の太陽系は銀河系の端っこにあって、その銀河系宇宙には太陽のように自分で光っている恒星が二千億個もあり、それぞれに惑星があるとすると、気が遠くなるような数の惑星が存在することになります。
 
また惑星には金星や地球のように主に岩石などからできている地球型惑星と、木星や土星のようにガスでできている木星型惑星があり、特に地球型惑星には生命の存在の可能性があるのでは、ということなのですが、結論から言います。無数にあると思われる地球型惑星の中で、地球以外の惑星には生命は存在しない、と断言することができると思います。
 
なぜかと言いますと、調べれば調べる程、地球そのものがきわめて精密な構想と計算によって、まさに特別誂えの星として存在していることがわかるからです。
 
地球の特徴は三つあります。一つは水、二つ目は大気、そして三つ目はオゾン層や磁場の存在です。
 
地球のように豊かな水に恵まれた天体は他にはありません。なぜ地球にだけ満々たる水が有るのかと言いますと、地球と太陽との距離がきわめて適切であるために、地球の水は蒸発を免れているからです。また地球の重力も、水が宇宙に拡散することを防いでいるからです
 
大気もそうです。太古の地球も金星同様、大気は二酸化炭素でしかありませんでした。しかし長い時間をかけて主にシアノバクテリアと呼ばれる藍藻(らんそう)などの、海の中の生物が光合成を繰り返すことによって多量の酸素を生み出し、そのおかげで肺呼吸が可能な人類が生存できるようになったのです。
 
また適度な二酸化炭素や水蒸気、そして太陽から注がれる赤外線などが温室効果となっているので、地表の温度は適度の温かさに保たれているのです。
もしも大気がなく温室効果が働かなければ地球の温度はマイナス十八度まで下がるとのことです。
因みに大気のほとんどが二酸化炭素の金星は、表面温度が五百度にもなるため、生命の存在は考えられません。
 
太陽は確かに地球に恩恵ももたらします。しかし、巨大な核融合炉でもある太陽から吹き出す太陽風は、陽子や電子などの有害な粒子を地球表面に注ぎます。でも、この有害な粒子は北極と南極の磁場がバリアとなっているので、地表に届くことなく、またオゾン層が有害な電磁波である紫外線を成層圏で食い止めてくれているので、人をはじめとする地球の生き物の生命は、安全に保たれているのです。
 
聖書は言います、この地球は知力に優れた人格的存在である神が、その全知全能を傾けて、人の住まいとして創造したのだ、と。つまり神は気の遠くなるような時間をかけて、地球環境というものを、人が生存し、暮らすことができるようにと整備し、そして条件が整った段階で、人を全被造物の最後に登場させたのだと。
 
ある資産家が、息子家族に家を建ててやろうとするとします。彼は家を建てる土地を定め、設計事務所に家の設計を注文し、工務店を選んで建築に当たらせます。家が完成したからと言ってすぐに入居できるわけではありません。電気、ガス、水道、電話などのライフラインが整い、生活を快適にするための家具を設置し、電化製品を入れ、台所用品をそろえて、生活が十分にできるようになってから息子家族を呼んで新しい家に入居させます。
 
実は、神はこのように地球という惑星を人間の住まいとして創造し、かつ整備をした上で、すべての状況が整った段階で、最後の最後に人を創造してくださったのでした。
 
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である」(創世記1章31節 旧約聖書口語訳2p)。
 
 地球という惑星は人間のために、そして人間の住まいとして創造者である神によって造られたのであるということは、以上の事柄を虚心坦懐に考えれば誰もが納得することが出来る筈なのです。
 
                
2.人は創造者である神により、地の塵(ちり)を素材として創造された
  
 地球という住まいが完成したところで、人類の登場です。
創世記の二章は、世界創造の最後の最後に創造された人間を中心に記述がなされています。神は最初の人間を地の塵を素材として造りました。
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」(2章7節)。
 
 神は「土のちり」から「人を造り」ました。ヘブライ語では土は「アーダーマー」です。アーダーマーを素材として造られたので、そのため最初の人間は「アーダーム(アダム)」と呼ばれることになりました。
 
 人が「土のちり」を材料として造られたということは、何を意味するのでしょうか。以前、ある著名な女性牧師さんの説教をテープで聞いていたところ、人はごみから造られたと言っていたので仰天しました。
「土のちり」は決してゴミなどではありません。この「土」はほかのところでは「しっくい」と訳されています。要するに粘土です。陶器の材料の粘土です。粘土は粘土のままでは大した値打ちはありませんが、陶器師が厳選した粘土が練られて、そして形作られて価値あるものとなるのです。それはテレビ番組、「開運!なんでも鑑定団」の中嶋誠之助さんの解説でお馴染みです。
 
 人が土くれを材料として造られたということは、人が神を抜きにしては儚(はかな)く、そして限界を持つ存在であるということ、決して人は神ではないということを教えるためであって、だからこそ、人は誰であっても神を無視して高ぶった生き方をしてはならず、却って造り主を崇めてへりくだって生きる必要があることを示すものなのです。
 
「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ」(詩篇103篇14〜18節 旧約聖書口。語訳838p)
 
 ある意味で、人は弱く、儚く、そして脆い存在として造られたものであることを自覚することから、意義深い人生を送ることが可能となるのです。
 
もちろん、それだからと言って必要以上に自己卑下をすることはありません。土のちりを素材として造られたとはいえ、人は極めて精巧に造られているのです。
スパコンの「京(けい)」は確かに優れモノです。心臓病治療のために実際の人の心臓と同じものを、「京」の中に再現をしたことを、テレビの特集の中で技術者が説明をしていました。大したものです。これによって心臓病の治療は画期的な進歩を遂げることになるようです。
しかし心臓の再現はあくまでもコンピュータの中の画像での再現であって、実際の心臓ではありません。
 
平均すると八〇年間も一度も停止することなく動き続けている私たちの心臓は神の創造のわざなのです。そういう意味でわたしたち人間ひとりひとりは、神の作品であり、傑作でもあるのです。
 
 
3.地の塵で造られた人は、神の息を吹き込まれて生きたものとなった  
 
 しかし同時に、人は他の生き物とはその在り方を根本から異(こと)にしている存在です。実は他の生き物も、土で造られたと創世記の二章は述べています。
 
「そして主なる神は野のすべての獣と、空の鳥とを土で造り、…」(2章19節)。
 
 聖書の記者がここで強調したかったことは、人は他の生き物と決定的に違う、それは人だけに神が「命の息」を吹き込まれたということであったと思われます。もう一度、最初に読んだ箇所を読みましょう。
 
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2章7節)。        
 
 土の塵で造られたときに、人も獣も鳥も生きて動くものとなったのです。そこは共通しています。しかし違いは人だけが更に命の息を吹きいれられて「生きた者となった」(7節)ことでした。
ということは、人は他の生き物とは違って、特別な存在であることを意味します。人間だけが神の永遠の命とエネルギーとを分けてもらって、神のパートナーとされ、神を礼拝、讃美する特別なものとして造られたのでした。
 
 人は存在しているだけで特別な存在なのです。
三年ほど前、和歌山県太地町のイルカ漁を隠し撮りした「ザ・コーヴ(入り江)」というひどい映画がなぜかアカデミー賞のドキュメント部門で受賞をしたということがありましたが、同映画の監督が日本のテレビ局の質問に対して、「イルカは(牛や豚とは違い)高い知能を持っている生き物(だからイルカ漁は問題)なんだ」と答えていました。しかし、この理解こそ、問題であるといえます。
 
イルカや鯨は豚や牛と違い、人間に似て高い知能を持っているから殺したり食べたりしてはならない、ということは、知能が低いものは価値がない、ということになるのです。
イルカ漁に反対する人たちは太地町のイルカ漁をナチスのアウシュビッツの虐殺に喩えますが、イルカや鯨は知能が高いから殺してはならないという見解の方こそ、ナチスの考えなのです。
まさにナチスこそそのような理解のもとに、優生学的に劣性としたユダヤ人をこの世から抹消し、優秀であると考えたアーリア民族を残そうとした、それがヒトラーの行為の背後にある論理だったのです。
 
知能の高い、低いで価値の有無を判定するならば、生まれつき知能に障害のある人の、人間としての尊厳はどうなるのか、長い間、家族のため、世の中のために身を粉(こ)にして懸命に働いてきて、老いて認知症になり、記憶、判断という知能の機能に障害が出てきたため、老後を介護によって生きざるを得ないお年寄りは生きる価値がないというのでしょうか。
 
「ザ・コーヴ」の監督の考え方こそが問題なのであって、同じ理解に立って反捕鯨、反イルカ漁に精力を注ぐ欧米各国の運動家や運動体にこそ、創世記を正しく読んでもらいたいと思うのです。
 
人は神の息である「命の息」を吹きいれられて「生きた者」となりました。しかし、造り主を忘れてしまえば、人は「命の息」を失って、その結果、「生きた者」から「死んだも同然の者」に堕ちてしまい、動物どころか動物以下の生き方さえするようにもなりかねません。
 
人はみな、地の塵を素材として造られながらも、同時に、神の「息を吹き入れられ」て「生きた者となった」、だからこそ、そこにいるだけで尊い存在なのです。
地の塵を素材として造られたものではある、しかし同時に、自らが「神の息を吹き入れられ」た尊い存在でもあるという自覚をもって、おのが造り主を仰ぎ見る者は幸いです。





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