2012年6月17日 日曜礼拝説教「知恵と勇気で真実と向き合う」マルコによる福音書11章27〜33節

投稿日時 2012-06-17 11:48:55 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

 2012年6月17日  日曜礼拝説教

「知恵と勇気で真実と向き合う」     

マルコによる福音書11章27〜33節(新約聖書口語訳71p)
 
 
はじめに

 第二次世界大戦末期に、アドルフ・ヒトラーの遺言によってナチス・ドイツの首相に任命されたヨーゼフ・ゲッべルズが言ったとされている有名な言葉が、「嘘も百回言えば真実になる」というものでした。

先日、衆院の決算行政監視委員会に参考人として招致された東京都知事が、都が尖閣諸島を購入する理由として、「自分たちの家に強盗が『入るぞ』と宣言しているのに戸締りもしない国がどこにあるのか」と、発言したことが報道されていました。
 
尖閣諸島の領有を主張している中国と台湾は、一九六〇年代末に国連が尖閣沖に資源が埋蔵していることを発表してからあわてて領有を主張したことからもわかりますように、領有権を主張しつつも自国の主張が真実ではないことを内心では知っていると思われます。
 
今年八十九歳になる李登輝(りとうき)元台湾総統が今月はじめに台湾の大学で行った講演会後、「尖閣は中国領だ」と主張した中国人留学生に対し、「尖閣は日本領である」と明言した上で、「(日清戦争後)清朝が台湾を日本へ割譲する際、釣魚台(魚釣島)は台湾に属していなかった」という歴史的真実を明確に述べたとのことです。
 
また「歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土」であって、「韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないままに行われている不法占拠」(外務省ホームページ)である島根県竹島の場合は、戦後の混乱期(1952年)に李承晩(りしょうばん)韓国大統領(当時)が「海洋主権宣言」なるものを一方的に発して、国際法に違背するいわゆる李承晩ラインを海図の上に勝手に引き、そのラインの中に竹島を取り込んで、以後不当支配が続けられているのですが、そのこと自体、歴史の真実に背く行為なのです。
 
そして「嘘も百回言えば真実になる」のとおり、幼い時から国中あげてかの島は「我が領土」と繰り返し教え込まれれば、嘘もついには真実に思えてきてしまうことになります。
  
ところでゲッべルスが言ったのは「大きな嘘でも繰り返し言えば、人は最後にはあなたの嘘を信じるようになる」というものだったようですが、韓国が国際司法裁判所への提訴を拒否するのは、実は竹島が過去に韓国の領土であったという事実は一度もなく、まともな証拠もないという歴史の真実が明らかになるのを恐れているからかも知れません。
 
韓国という国は中国と違い、日本と価値観を同じくする民主主義体制の国(の筈)であって、安全保障の点からも日本にとっては大事な同盟国です。韓国という国と国民とが、知恵と勇気をもって真実と向き合う国になるよう、心から願うものです。
 
今週の礼拝では、真実と向き合う勇気に欠けていたサンヒドリン(ユダヤ最高法院)と、真実と向き合う知恵と勇気に溢れていたイエスとの対比を通して、真実に向き合うことの大切さを学びたいと思います。
 
 
1.真実と向き合っている者には、神からの知恵が必要に応じて与えられる

 マルコの福音書の十一章から最終章である十六章には、イエスの生涯の最後の八日間が記録されています。

 日曜日に子ろばに乗ってエルサレムに入城したイエスは、月曜日に宮清めをし、翌日の火曜日には神殿の中で弟子たちや参拝人たちに神の言葉を教えていました。

「彼らはまたエルサレムにきた。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがみもとにきて言った、『何の権威によってこれらのことをするのですか。だれがそうする権威を授けたのですか』」(マルコによる福音書11章27、28節 新約聖書口語訳71p)。
 
  「宮」つまりエルサレム神殿の境内の一番外側は異邦人の庭と呼ばれていましたが、その東側と南側には回廊といって、ものすごく立派なアーケードがあったそうです。
バークレーの註解書によりますと東側の回廊はソロモンの回廊、そして南側のそれは王の回廊と呼ばれていたとのことです。
 
古代の教師たちは歩きながら弟子たちに講義をしていたとのことですが、そのアーケードでのイエスの講話の最中に、「祭司長、律法学者、長老たち」つまりユダヤの最高法院(サンヒドリン、その意味は議会)、日本で言えば国会と最高裁判所を一つにしたような役所の代表がやってきて、イエスを尋問したのでした。

 聴取の内容はイエスが前日にした宮清めの一件に関して、でした。その件は彼らから見れば宮清めどころか宮荒らしそのものであったからでした。

彼らはイエスの行為の裏付けとなる法的根拠について質問をしました。それは如何なる権威に基づくのか、誰が指示あるいは許可をしたのかという問いで、そこには巧妙なトラップ、つまり罠が仕掛けられていました。

イエスの答えが、もしも「天あるいは神から」というのであれば、神の名を冒瀆したという瀆神(とくしん)罪でイエスを逮捕することができますし、反対に「神からではない」というのであれば、イエスをメシヤ(キリスト)と期待している民衆はイエスに失望する、そうなればイエスの支持率は急落することとなる、というわけです。

どっちに転んでもイエスを陥れることができる、彼らはこの作戦を立案した自分たちの知恵に酔いながら、イエスの答えを待ったのでした。

 しかしイエスの知恵は彼らの巧妙な知恵を上回っておりました。彼らに対してイエスは、ヘロデ王によって斬殺されたバプテスマのヨハネが生前に行っていた悔い改めのバプテスマの由来について、逆質問をしたのです。

「そこで、イエスは彼らに言われた、『一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、わたしがこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい』」(11章29、30節)。
 
 これにはサンヒドリンから送られてきた代表団も虚を突かれたようです。彼らはイエスを板挟み状態に追い込んだつもりでしたが、反対に板挟み状態に陥ったのは自分たちであることに気付いたのでした。
 
「すると、彼らは互いに論じて言った、『もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし人からだと言えば…』。彼らは群衆を恐れていた。人々は皆、ヨハネを預言者だとほんとうに思っていたからである」(11章31、32節)。
 
 しかもヨハネは生前、間接的ですが、イエスが来るべきメシヤであることを宣言していたのですから(1章7、8節)、ヨハネの天的権威を認めることは必然的にイエスをメシヤとして認めることにもなりかねません。 

 こうしてイエスの知恵はサンヒドリン側の悪知恵を木端微塵に粉砕したのでした。

真実に向き合おうとしない者の知恵は、それがどんなに賢いもののように見えても限界があり、かえって自分の首を絞めるようなことになります。
反対にイエスのように、真実に対して常に真剣に向き合っている者には、神はそのときそのときに必要な知恵を与えてくださるのです。
そしてそれは信仰の世界はもとより、仕事の関係においても人間関係においても同様です。
 
 
2.真実と向き合うために必要な勇気は、神を恐れる信仰から生まれる

でも、真実と向き合うためには勇気も必要です。人は弱いので頭ではわかっていても臆する気持ちに負けてしまうことがあります。

真実と向き合う勇気、それは正しい動機から生まれます。そして正しい動機は常に神を恐れるという信仰的態度から育てられていくのです。

 サンヒドリン側が何としてもイエスを抹殺しようとした動機には、パリサイ派のように狭量ではあるけれど、とにかく異端を排除したいというまじめな宗教的情熱もあったと思われますが、更に大きな理由はイエスの存在が彼らの持っていた利権を危うくするという不安と敵意にあったと考えられます。

それこそがユダヤ教上層部のイエス排除の動因でした。彼らからは神を恐れる畏敬の念は消失してしまっていたようです。
もしも彼らが神を恐れるものであったならば、イエスの逆質問によって板挟みになったとき、自らの過ちを認めた筈でした。
しかし彼らはわかっていながら、「わかりません」と答えて、その場を逃れようとしたのでした。
 
「それで彼らは、『わたしたちにはわかりません』と答えた」(11章33節前半)。
 
 イエスは正反対です。イエスの言動の背後にある動機、それは何とかして人を救いたいという神の気持ちを実現すること、そして失われていく人々を神のもとに導き返したいという強い思いでした。それこそが信仰の本質である神への畏敬という感情です。 

 サンヒドリンの議員の一人であったアリマタヤのヨセフはイエスの死後、ピラトからイエスの遺体を引き取り、自らのために用意した墓をイエスに提供するという行動に出ました。

「アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引き取り方を願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった」(15章43節)。
 
それはヨセフが人よりも神を恐れる人であったからでした。
李登輝元総統は台湾の大学での講演で、「尖閣諸島は日本の領土である」と言い切りましたが、台湾も中国同様、一九七〇年代の初めに尖閣の領有権を主張して今日に至っているのです。
 
ですから、元台湾総統が国の主張と真反対のことを発言するということは国家への裏切りととられる危険性があります。台湾における立場も悪くなるかも知れません。しかし、李登輝元総統は、真実は真実と考え、尖閣は日本の領土であると自らの信ずるところを率直に語ったのです。
 
これと真反対の人が大手商社出身の駐中国大使です。彼は英国の新聞のフィナンシャル・タイムズから、東京都の尖閣諸島の購入計画について意見を求められた際、「(購入計画が)実行された場合、日中関係に深刻な危機をもたらす」と述べたということが、先々週明らかになりました。
 
この大使の発言に対して外務大臣が、「(大使の発言は)政府の立場とは異なる」として注意をしたところ、大使は「迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪をしたとのことでした。
 
大使が自分の信じるところを述べたのであるならば、謝罪などせず、潔く辞表を書けばよいのであって、へなへなと謝るならば、初めからおべっかを使うような発言をしなければよかったのです。
 
李登輝元総統こそ、真実に勇気をもって向き合っている人と言えます。李登輝元総統は日本で教育を受け、日本人としての誇りを持って兵役の義務も果たした人でした。
戦後、台湾に戻って、一時はマルクス主義の影響も受けたようですが、その後、教会に通うようになり、信仰を告白して洗礼を受けました。三十八歳の時とされています。
彼の言動の背後には生ける神への恐れがあると思われます。

 真実と向き合うために必要な勇気は、神への畏敬の念から生じます。

 
3.真実と向き合っている者は、危機にも余裕をもって対応す
  ることができる

この個所は情景が目に浮かぶようです。困り果てて脂汗を流しながら「わたしたちにはわかりません」と白を切るサンヒドリンの代表者たちに対してイエスは、それならば、私も答えない、と応じます。

「するとイエスは言われた、『わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい』」(11章33節後半)。
 
 ここにはイエスのゆとりが感じられます。サンヒドリン側の作戦を見抜いて難無くピンチを脱したイエスは、ゆとりをもって彼らの攻撃を撃退しました。

 私たちもまた、日々の暮らしの中でストレスとプレッシャーに負けそうになる上、しばしば想定外のピンチに陥ることがあります。しかし、常に真実と向き合おうと努めている者には、ありがたいことに、神はゆとりを与えてくださいます。

「あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました」(詩篇4篇1節b 旧約聖書口語訳751p)。
 
 「くつろがせてくださいました」を新改訳は「ゆとりを与えてくださいました」と訳し、欄外の注釈でこの「ゆとり」を「真実な生き方に伴う平安」と説明しています。

 この世にあって真実を追い求め、真実に向き合おうとする者に対して神は目をとめてくださり、たとい敵対的な攻撃にさらされることがあったとしても、心にゆとりを与え、ピンチに遭ってもくつろがせてくださるお方なのです。

 「言うは易(やす)く行うのが難(かた)い」のが、真実に向き合うという生き方ですが、弱い私たちの前を愚直に歩まれた主イエスの背を見つめながら、日々、前に進んでいきたいと思います。






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