2012年6月10日 日曜礼拝説教「信仰の祈りは山をも動かす」マルコによる福音書11章12〜14、19〜25節

投稿日時 2012-06-10 11:46:39 | カテゴリ: 2012年礼拝説教

 2012年6月10日  日曜礼拝説教

「信仰の祈りは山をも動かす」

 マルコによる福音書11章12〜14、19〜25節(新約聖書口語訳70p)

 
はじめに

 「ほこ×たて」というテレビ番組があります。この番組ではしばしば、日本の中小企業の技術力や職人技の高さに驚かされます。

最近の組み合わせで最も面白かったのは、この四月に放映された、「絶対に穴のあかない金属」と「どんな金属にも穴をあけることのできるドリル」との対決で、結果は、あと数ミリでドリルが金属を貫通するという直前でドリルが完全摩耗してしまったため、超硬合金の勝利となりました。
この対戦は、昨年秋の、金属が割れて引き分けとなった対決の決着戦であったのですが、勝者である金属加工会社の日本タングステン(福岡市)という会社に就職志望学生が押し寄せて、競争率が二十七倍にもなったのはこの番組の影響とされています。
 
この番組は製造業業界も注視をしていて、負けた側が更なる研究開発に打ち込んで捲土重来を期すという効果も生まれていますが、時には実に下らない対決も取り上げたりもします。
先日は超能力者を自称するユリ・ゲラーを登場させてスプーン曲げに挑戦させたりもしましたが(もちろん、スプーンにはまったく変化はありませんでした)、最近の番組でバカバカしかった対決は、晴れ男・晴れ女と雨男・雨女の対決で、結果は曇りで引き分け。
 
しかし、天候は自然の現象であって、人間の念力などが及ぶところではなく、晴れさせた、雨を降らせたなどという現象は当人の思い込み以外のなにものでなく、あまりにもくだらなかったので、即座に録画を消去してしまったのですが、私たちは健全な信仰と根拠のない思い込みとを混同してはなりません。
 
今週はマルコの福音書から、思い込みではない健全な信仰による祈りが、山のような困難を打開するということを教えられたいと思います。
 
 
1.信仰の祈りは、ついには山をも動かす結果を生み出す

 宮清めの出来ごと(マルコによる福音書11章15〜18節 5月27日礼拝説教)の前後には、イエスがいちじくの木を呪ったという記事があります。

イエスがエルサレムに入城した翌日ですから月曜日です。神殿に行く前にイエスが空腹を覚えたので、道端に生えているいちじくの木に実がないかと近寄ったがあいにく、木には実がなかったのですが、それは当り前で、実がなる時期ではなかったからです。
しかしイエスはそこで木に向かって、今後、お前は実をならすことはない、と宣言したというのです。
 
「そこで、イエスはその木にむかって、『今から後いつまでも、お前の実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた」(マルコによる福音書11章14節 新約聖書口語訳70p)。 

 そして宮清めの翌日の火曜日の朝、そのいちじくの木が枯れているのをペテロが発見します。

「朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た」(11章20節)。

 いちじくが実をつけるのは夏ですから、常識的には四月上旬の春に実がないのは当たり前です。

「いちじくの木ではなかったからである」(11章13節後半)。 

 春というこの時期に実を求める方がおかしい上、実がないからと言って木を呪うのも何とも理不尽な話だと思いますが、学者はこれをヘブルの伝統である、行為によるたとえであって、人生において機会と能力を与えられながら実を結ばないものの末路というものを教えたのだとします。しかしそれはどうもこじつけとしか思えません。結論から言いますと、よくわからないのがこの出来ごとの意味です。

ただイエスはこの出来事から弟子たちに対して、言葉の力、特に信仰の祈りの力というものを教えようとします。それは信仰の祈りは山をも動かす、というものでした。
 
「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」(11章23節)。
 

 つまり、いちじくの木に起こった現象は、「言ったことは必ず成ると信じるなら、そのとおりに成る」という教えのイエス自身による実物レッスンであったのでしょう。

 もちろん、山に向かって海に移れと言ったからと言って、即座に山が動くわけではなく、これこそ、物の譬えです。つまり、まるで山が聳(そび)え立っているように思える障害が目の前にあったとしても、諦めることなく「神を信じ」(23節)て祈りの中で問題に取り組むならば、いつかは必ず障害を打破することができる、ということを、イエスは身をもって教えようとされたのでした。

 健全な信仰は「濡れ手で粟のぼろ儲け」や「一攫千金(いっかくせんきん)」という考えの対極にあると言えます。狭い関門を潜(くぐ)ろうと思えば、それなりの努力が必要です。

「紀憂(きゆう)」や「朝三暮四(ちょうさんぼし)」などの言葉があることで有名な中国の紀元前の文書「列子(れっし)」には「愚公 山を移す」という説話があります。
 
昔、中国黄河下流の岸に二つの高山があり、その麓に北山(ほくざん)の愚公という九十歳近くになる老人が住んでいた。
この山があるため、遠回りをしなければならず、そこで彼は一家総出で山を崩して海に捨てるという作業に取りかかった。
それを知叟(ちそう)という目端(めはし)の利く友人が笑って止めたところ、愚公は自分のあとは子が継ぎ、孫が継ぐ、心配はいらないと答えた。それを山の神が聞いていて、天帝に伝えたところ、天帝が愚公の志に感心して山をよそに移してやった。
 
もっともこの説話は大東亜戦争の末期に毛沢東が演説に引用して、二つの山を日本軍と国民党政権に、そして愚公を共産党に喩えたということから、少々、その価値を減じてしまいましたが、それはそれとしてこの説話はイエスの教えに通ずるものであると言えます。
 
中国が領有権を主張している台湾島は、日清戦争のあとに下関条約によって正式に日本に割譲されたものですが、当時台湾は文明から隔絶された化外(けがい)の地、病気だらけの瘴癘(しょうれい)の島と呼ばれておりました。
 
その台湾で上下水道を敷いたのが日本政府から派遣されたバルトンと言う英国人とその弟子の浜野弥四郎でした。バルトンは夭折しましたが、その志を継いだ浜野弥四郎の働きにより、二十年かけて一九一九年に、ついに水道が完成したのです。そしてこれによって台湾の衛生環境は劇的に改善されたそうです。
 
その上下水道が完成した一九一九年に、八田與一(はったよいち)という人によって台湾に巨大ダム工事が始まりました。完成は十一年後の一九三〇年で、それが烏三頭(うさんとう)ダムです。ダムが完成した結果、不毛の大地が収穫豊かな豊穣の地に生まれ変わりました。そして住民は悲惨な洪水からも救われたのでした。
 
八田與一は東京大学で廣井勇(いさみ)という人に師事致しました。廣井勇は札幌農学校で、内村鑑三や新渡戸稲造と共に三羽烏と言われたクリスチャンでした。そして廣井の薫陶を受けた八田にはキリスト教の影響が有った筈と言われています。
 
台湾が日本大好きなのはこのような、山をも動かした日本人の台湾への貢献があったからであると考えられています。
 
全能の「神を信じ」る信仰の祈りは、時期は別としても、ついには山をも動かすという結果を生み出すに至るということを信じて、私たちもまた、倦まず弛まず、祈りを積み重ねていきたいと思います。
大きな事業の場合も、とっかかりとなるアイデアなどは不断の祈りの中で示されることが多いのです。
 
 
2.山をも動かす信仰の祈りは、神の誠実への信頼で成り立つ

イエスはその際に「心に疑わないで信じる」(23節)ことが大事だと教えましたが、それは人というものが、果たしてこの祈りは神に届いているのだろうか、神は聞いてくれているのだろうかと疑ってしまう性癖があることを知っていたからでした。

ですからイエスは続けて、何であっても祈ったことはすでに叶えられていると信ぜよ、と励ましたのでした。
 
「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(11章24節)。
 
  この箇所の教えのキーワードは、「そうすれば、そのとおりになるであろう」(24節)という言葉です。それは前のポイントでも「信じるなら、そのとおりになるであろう」(23節)と強調されているとおりです。
信じたとおりの結果を得たければ、「すでにかなえられたと信じ」ることが大切であるとイエスは言いました。
 
もちろん、祈りの内容が自己中心的なものであったり、疚しい動機から生まれたものであるならば論外ですが、困っている人のために捧げる執り成しの祈りであったり、明らかにそれが神の御心に合致していると思われる祈りであっても、信仰の弱い私たちはついつい、この祈りは神に聞かれるのだろうかと疑ってしまうことがあるのですが、それは神の能力や性質に対する疑いがあるからかも知れません。
 

 実は人間というものは自分を基準にして人や世間を判断するという性質があるようです。

つまり、常日頃、嘘をつかない、約束は守るということを心がけている人は、自分もそうだから人もきっとそうだろうと思って人の言葉を信じますが、反対にいい加減な人は自分がいい加減だから人もそうに違いないと、自分を尺度にして人を判断する傾向があるそうです。
ということは、この傾向を神に対して適用すると、約束を誠実に守るという習慣のある人は、自分でさえも約束を守るのだから、況(ま)してや神はと、神の誠実さに全幅の信頼を置くことができるようになると言えます。
 

 山をも動かす信仰の祈りは、神の誠実への信頼で成り立っていると言うことができます。ですから祈ったあとは神の善と誠実さを信頼して、感謝の祈りを捧げればよい、ということになるのです。

 
3.山をも動かす信仰の祈りは、神との和解が基本となる

   最後に、イエスは山をも動かす信仰の祈りの基本は、神との和解の関係と、その持続にあることを教えられました。

人は多くの罪や過ちを神にゆるしてもらっている、だから、自分に対してなされた人の過ちをもゆるしてやるように。そうすれば天の父もあなたのあやまちを改めてゆるしてくださるであろう、と。
 
「また立って祈るとき、だれかに対して何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう」(11章25節)。
 
 三十年ほど前、日本でもベストセラーにもなった「『縮み』志向の日本人」を書いた李御寧(イー・オリョン)韓国初代文化部長官が五年程前に洗礼を受けたことが話題となりましたが、この人が書いた「恨(はん)の文化論 韓国人の底にあるもの」という本も同時に読んで、恨みという感情が歴史的に韓国人の心の底にあるという分析に、民間人を狙った理不尽な空襲で焼け出されても、非人道的兵器の極みである原爆を二つも落とされても、それでもその米国を恨もうとはしない日本人とは大きな違いがあると感じたことを思い起こします。

 祈りが聞かれるためには信仰が必要です。しかし、信仰の祈りを妨げるものがあります。それは人の心の奥底に潜む咎めの意識です。イエスが、祈りの際に、自分の中の恨みの感情に気付いたならば、恨んでいる人をゆるすようにと言ったのは、過剰な被害者意識を持っていて、いつまでも謝罪と賠償を要求する傾向にある人や民族は別として、まじめで罪責感の強い人ほど、人を赦すことができないという自分に気付いて咎めの意識を持ち、その咎め意識がまた神への罪責感となって、神への祈りを妨げることになることをイエスは案じたからでした。

人は贖罪(しょくざい)の教理を信じたからといって、神の心と一つになるわけではありません。人の心が神と一つになるためには、咎め意識のもとである、人に対する恨みの感情を克服しなければならないとイエスは教えるのです。
 
どうしたらよいのでしょうか。
まず第一に、自分が多くの罪を神によってゆるしてもらっていることを思い出すことです。 
第二には、多くの人の寛容の富みによって今までゆるされてきたことを自覚すること、 
そして第三は人をゆるせない自分自身をありのまま、神の前に持ち行くことです。そこにこそ、神からの赦しが注がれ、その結果、日々に神との和解が成り立つのです。 
神との親密な関係、和解の日々こそ、信仰の祈りを成り立たせる基本的要件であることを、イエスはここで教えているのだと思われます。

 イエスの教えに基づいて、私たちもまた、山をも動かすような信仰の祈りを日々に捧げさせていただきたいと思います。






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