2016年6月5日 第一回日曜特別礼拝 人生の四季をこころ豊かに生きる その1 青春の日々にこそ、自らの創造者を心に留めよ 伝道の書12章1、2、13、14節

投稿日時 2016-06-05 16:02:28 | カテゴリ: 2016年礼拝説教

16年6月5日 第一回日曜特別礼拝説教

 

人生の四季をこころ豊かに生きる その1
 
青春の日々にこそ、自らの創造主に心を留めよ
 
伝道の書12章1、2、13、14節(旧約聖書口語訳932p)
 
 
はじめに
 
最近でこそ気温の高い夏と、寒さの厳しい冬が長くなって、その分、春と秋とが短くなったような感じがしますが、日本はもともと季節的には、春夏秋冬という四季の特徴がはっきりとした風土の国でした。
 
季といえば人の長い一生も四季で表すことができます。 
私たちの教会では随分前から、初夏の六月から秋本番の十一月にかけて、それぞれの月の第一日曜日の礼拝を初心者を対象とした礼拝として守ってきましたが、本年は「人生の四季をこころ豊かに生きる」という全体タイトルを掲げて開催することになりました。
 
そこで本日の第一回目は「青春の日々にこそ、自らの創造主に心を留めよ」です。
 
 
1.四季折々の人生
 
今でこそ国際法を無視して南シナ海の岩礁や暗礁を勝手に埋め立て、人工島を造成して軍事拠点化を進めるなど、周辺国に脅威を与えている無法国家となってしまいましたが、それでも古代の思想や文学における業績に関しましては、私たちは多大な恩恵を得ているのがかつてお隣りに栄えた古代の支那でした。
 
この支那ではかつて、人の一生つまりライフサイクルを春夏秋冬で表すと共に、それを色を使った四季として表現する、何とも粋な文化表現を発達させておりました。
それが、青春(せいしゅん)、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)です。
 
古代に比べて寿命が飛躍的に伸びている現代の日本でいうならば、青春は十代の後半から三十代前半、朱夏は三十台後半から五十代前半、白秋は五十代後半から七十代前半、そして玄冬が七十代後半から、ということになるのではないでしょうか。
 
近年の我が国の特徴として挙げられるのが、年齢による仕分けが無くなりつつある、という傾向です。
たとえば一度試してみたいと思いつつ、なかなかその機会がないのが「青春18きっぷ」の利用です。
 
これはその名称が示すようにもともとはJRの前身の国鉄において、お金はないが時間はたっぷりある学生などの帰省や旅行用として始まったようなのですが、今は時間にゆとりのある高齢者がグループ旅行に利用するなどして人気なのだそうです。
 
四季というものを人のライフサイクルとして捉えるとき、何は扨措いても、人生の四季としての人の一生とは何なのかという根源的な問題を考えることが、日常生活を送る上で極めて重要なことです。
 
人の一生とは何か、ということについては古今東西、多くの知者、学者そして識者がその意味を問い、また解説してきましたが、紀元前六世紀にバビロン捕囚という国家的、民族的挫折を経験したユダヤ人の場合、中には懐疑的な人生観を持つ者もありました。その典型的な見方が詩篇にあります。
 
「われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、わららの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年にすぐません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」(詩篇90篇9、10節)。
 
一見、虚無的とも見える告白のようですが、やはり信仰者の告白です。肯定的な祈りで締め括られます。
 
「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(90篇12節)。
 
 「飛び去る」(10節)日数(ひかず)をただ歎くのではなく、「おのが日を数える」(12節)すなわち、人の一生とは何なのかを考えるという探究心、求道の心を与えてくださいと詩人は祈ります。
 
 実は私たちが教会に出席する意味、聖書に尋ねる意味はここにあるといえます。
 ある人は今、まさに輝くような青春の真っただ中にあり、またある人は充実した朱夏を、そしてある人は円熟した白秋の時期を生き、そしてある人は悟りの玄冬を過ごしているかも知れません。
 
 でも大切なことはいずれの季節であっても、創造主である唯一の神を意識して暮らすことです。
 そしてできることであるならばそれは、早ければ早い程よいのです。
 
 そこで、青春という掛け替えのない日々について聖書はどう言っているかを見てみましょう。

 

2.青春という掛け替えの無い日々
 
聖書は確かに神の言葉です。しかし、聖書は「神はこのように言われる」という上からの言葉と、「神よ、どうしてですか」という下からの問い掛けの言葉から成っております
そしてバビロン捕囚後に発達したのが下からの問い掛けとしての信仰運動であって、その結集が「知恵文学」と呼ばれるものでした。代表的な文献がヨブ記であり、そして伝道の書です。
 
伝道の書は新改訳では「伝道者の書」、新共同訳では「コヘレトの言葉」となっておりますが、「コヘレト(コヘーレス)」とは「会衆の指導者、会衆の中にあって語るもの」(旧約略解)だそうです。
 
そこで今回は伝道の書の十二章を取り上げることにします。
 
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ」(伝道の書12章1、2節 932p)。
 
 この箇所は新改訳では口語訳と同じ「あなたの若い日に」と訳しましたが、新共同訳は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレトの言葉12章1節前半)と訳すことによって、その後に続く老いの描写を通して、その違いを際立たせます。
 
 つまり、「青春の日々」という季節を無駄に、無為に消費するのではなく、それを掛け替えのない時代、青春という季節として大切に受け止め、意義深く生きよ、と勧めるのです。
 
少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず」と言ったのが十三世紀の中国宋代の儒学者、朱子だと伝えられていますが、これは至言であるといえます。
 
まことに人間の性(さが)なのですが、人には、いま持っているもの、置かれている境遇が実は掛け替えのないものであることに気付きにくいという傾向があります。
そしてそれは何らかのことがきっかけで手許から失って、そしてそうなった時点ではじめて気がつくという場合があるのです。
 
若いということは一つの特権です。しかしそれは他のものでは代替できないもの、掛け替えのないものであることに気付くことが「知恵の心を得」(詩篇90篇12節)ることだったのです。
 
 
3.青春の日々にこそ、自らの創造主を想う
 
 だからこそ、伝道者は勧告します、「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」(1節前半 文語訳)と。
 
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに」(コヘレトの言葉12章1節)。
 
 年齢の比較的若い時に、すなわち「青春」(1節)という季節の「日々に」(同)ある者の義務は自らの「創造主に心を留め」(同)ことなのだと、古代のユダヤ人知者は断言しました。
 
 たとえば、親にとっても子供にとっても、初等教育を受けるということは義務です。それは人が人らしく生きるための力を身につけるために欠かすことのできない要件だからです。学齢期になった子供を小学校に行かせようとしない親の所には、地域の教育委員会から勧告が来ます。
 なぜならば子供を就学させることは親の義務だからです。
 
 それと同じように、「青春の日々にこそ」(1節)自らの「創造主に心を留め」(同)こともまた、神に造られた青少年に等しく課せられた義務なのです。
 それは人が幸福に生きるための必要要件であり絶対要件だからです。ですから伝道者は言い切ります、それは人間であるものの本分である、と。。
 
「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を畏れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(12章13節)。
 
 新共同訳はここを「これこそ、人間のすべて」と訳しました。ということは「自らの『創造主に心を留め』ない者は人間じゃあない」と言おうとしたのかも知れません。
 
 これをどう解釈するかは個々の自由ですが、願わくはひとりでも多くの日本人の青少年が、その「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(1節)という古代の知者の勧めの真意を理解することができるようにと、心から念じるものです。





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