2015年1月3日 2016年(平成28年)新年礼拝・第一回日曜礼拝説教 信仰が無くては、神に喜ばれることはできない ヘブル人への手紙11章6節

投稿日時 2016-01-03 16:10:14 | カテゴリ: 2016年礼拝説教

16年1月3日 二〇一六年新年礼拝・第一回日曜礼拝説教

信仰が無くては、神に喜ばれることは出来ない
 
ヘブル人への手紙11章6節(新約聖書口語訳354p)
 
 
はじめに
 
明けましておめでとうございます。新しい年を迎えました。今年もよろしくお願い致します。
 
今日は一月三日、本年最初の日曜日です。私どもの教会では毎年、一月一日に新年礼拝を行っておりますが、三が日に日曜日が入る年は、その日曜日の礼拝で新年礼拝を兼ねることにしております。そういうわけで本年は一月三日の今日、新年礼拝と第一回日曜礼拝を兼ねた礼拝を捧げる次第です。
 
さて、「BELIEVE(ビリーブ)」という歌があります。「たとえば君が傷ついて、挫けそうになった時は、必ず僕が側にいて、支えてあげるよ、その肩を」という歌詞で始まる歌です。お聞きになったことがあるかと思いますし、小学校や中学校で歌ったことがあるという方もおられることでしょう。
これは、NHKの「生きもの地球紀行」という番組のエンディングテーマ曲だそうで、若い人や子供たちには馴染みの曲のようです。
 
この曲の「僕」がどこの誰なのかはわかりませんが、「傷ついて、挫けそうになった時は、必ず」「側にいて、支えてあげる」と言ってくれる、そんなアンパンマンのような「僕」が存在していたら、どんなに心強いことでしょうか。問題はそんな「僕」がいるかどうか、また、仮にいるとしてもどうやって見つけることができるか、です。
 
この楽曲が杉本竜一という人によって作られたのが今から二十年前の一九九六年だそうですが、その丁度十年後の二〇〇六年に、絢香(あやか)という才能豊かなシンガーソングライターが「I believe」という作品でデヴューし、「この胸の中に隠れてる不安の渦、目の前にある自分の進むべき道はどれか、人に流された日々、そんな自分に『さよなら』」 I believ myself 信じることで全てが始まる気がするの」と歌いました。大変、心を打つ歌ではあります。
 
ただ、この人の歌い方が私には少々、くどいように感じます。個人的にはもう少し淡々と歌ってもらえないものかと思ったりもしますが、まあ、それはそれとして、この歌の中で彼女が何を、あるいは誰を信じるかと言いますと、「myself」つまり自分自身なのです。
自分自身を「信じることで全てが始まる気がする」のだそうです。
 
確かに自分を信頼できないという事態は、「胸の中」に「不安の渦」が「隠れてる」状態であり、だからこそ「人に流されてた日々」という日常であったのかも知れません。
 
でも「そんな自分に『さよなら』」と言って訣別することと、「そんな自分」を「信じること」との間にはギャップがあり過ぎるように思えます。
どうやって「I believe myself」という境地に、急に飛躍することができるのでしょうか。
 
ところで、「信じる」という行為を突き詰めれば、「信仰」に至ります。問題は信じるに値いするような信仰が存在するのか、存在するとするならば、それはどのような信仰で、どこで見出すことができるのか、という点です。
 
そこで新年年頭の礼拝では信じるということ、信仰という事がらについて、ご一緒に考えたいと思います。
 
 
1.神の喜びそれは、人が真の神への信仰を生きること
 
感情を表現する言葉に「喜怒哀楽」というものがあります。「怒」と「哀」の感情がとりわけ激しいお隣りさんがいたりしますと、何かにつけて言いがかりをつけられたりするものですから、隣人としてはどうにもこうにも苦労というものが絶えませんが、それが納得のできる感情の表現であるならば、自らの生き方を糺すきっかけにもなりますので、有り難い存在ともなります。
 
神さまにも色々ありまして、古代のギリシャ人は、神さまという存在から、感情という要素を抜き取ってしまいました。
しかし、キリストの神さまは情感豊かなお方であって、とりわけ、喜びの感情というものを豊かに持った神さまです。
 
そのキリストの神がお喜びになることそれが、人が信仰に恵まれていること、そして真の神への健やかな信仰を持ってこの世を生きることなのです。
ヘブル人への手紙の一節をお読みします。
 
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル人への手紙11章6節前半 新約聖書口語訳354p)。
 
 世の中には宗教や神信心、信仰というものを頭から否定する人がいます。そういう生き方をする人を「無神論者」と言います。
 
 無神論者にも二種類のタイプがあるそうです。一つは単純な無神論者で、「井の中の蛙(かわず)、大海(たいかい)を知らず」と言いますように、世間知らずの無知からこれといった正しい根拠も無く一方的に、神の存在を否定している人たちです。
 
 もう一つはちょっと厄介な、あるいは少々質の悪い無神論者であって、自身でも承知しているのですが、自分自身が最高の存在でありたいために、人間を超越した神がこの世に確かに存在していることを、敢えて否定し無視をするという人々です。いわゆる積極的無神論者です。 こういう人にはかつては熱心な一神教の信者であった人が多いそうです。
 
 ついでに言いますと、「不可知論者」という人もいます。神がいるのかいないのかは断定できない、つまり「不可知(知ることが出来ない)」だというわけです。
 でも、神をとことん探求した末に不可知論者になった良心的な人はごく僅かで、多くの場合は、神の存在に関して結論を出す作業は面倒くさいし、出さないでおく方が楽だからというので不可知論者を自称しますので、大きく分ければこの手のタイプは積極的無神論者の枠に入れても差し支えないでしょう。
 
 では、何であっても拝んでいればよいのか、お参りしていればよいのか、と言いますと、そうではありません。
 もちろん、信仰を否定して驕り高ぶる人生を生きるよりも、何らかの信仰を持って、謙って生きることの方が遥かに上等ですが、ヘブルへの手紙が、「信仰がなくては」(6節)という時の「信仰」は、真の神を信じる「信仰」つまり、真正の「信仰」を意味します。例えば自然崇拝です。
 
 太陽の恵みに感謝することは人として大切なことです。しかし、太陽自体を拝むのではなく、太陽を創造してくれた創造者なる神を拝むことこそ、正しい礼拝、真正な信仰なのです。
 
 今年も元日の夜明け、日本の各地で多くの純朴な日本人が、東の方角から昇る太陽に向かって祈りと礼拝(らいはい)を捧げたことと思いますが、太陽ではなく、生ける者を慈しんで恵みの太陽を備えてくれた、キリストの父なる神を創造主として仰ぐ日本人が起こされるようにと、今年も心から祈りたいと思います。
 神の喜びは、神を知らなかった人が真の神を知って真の信仰を生きることにあるからです。
 
 
2.神が喜ぶ信仰それは、神の存在を身近に感じること
 
では、神が喜ぶ信仰の中身とは何かと言いますと、力と憐れみに満ちた真の神が存在するということと、その神は神を崇める者を見捨てることなく、常に顧みてくれているという認識を持つことであると、ヘブル書の著者は言います。
 
「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(11章6節後半)。
 
 まず、「神に来る者は、神のいますこと…を信じるはず」(6節)という記述についてです。
 この「神のいますこと」(同)とは、神の存在、神の実在という宗教的、神学的、哲学的概念を超えて、自らにとり、自らが信じ仰ぐ神をこの世において個人的に持っている、という意味です。
 
 「神のいますこと」を個人的に信じていれば、事あるごとに神に呼ばわり、神の助けを仰ぐということが日常の習慣となるからです。
 たとえば、「そう言えば家(うち)には、同居している親がいたんだったなあ、そうだ、そうだ、思い出したよ」などと思う息子や娘がいたらおかしいように、恩義のある神が常に自分の身近にいてくれている、という認識と感覚を持っていることが、「神のいますこと…を信じる」(同)人生の基本、根本です。
 
 
3.神が喜ぶ信仰それは、神の良き性格を体験すること
 
 そしてそのような正しい神認識、神信仰があれば、次には日常の生活を送る中で、神が「ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる」(6節)ことになるのです。 
 
 ところで、「ヘブル人への手紙」はどのような人に宛てて書かれたのかと言いますと、書名にありますように「ヘブル人」に書かれたものでした。
 この場合の「ヘブル人」とは民族的な意味でのアブラハムの子孫であるイスラエル民族を指し、宗教的に言えばかつてユダヤ教徒であった者たちを意味します。
 
 つまり、ヘブル書は十字架にかけられたイエスこそが聖書に約束されたメシヤ・キリストであるという信仰のもとに、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人を対象にして書かれた文書なのです。
 
 福音宣教の結果、また地道な聖書の解き明しを聞いた結果、地中海世界では多くのユダヤ教徒が背教者と罵られながら、キリストの教会へと加わってきました。
 
 しかし、一世紀の末になって、彼らに動揺が広がりました。一向にキリストは再臨しない、と。そこで彼らの信仰を鼓舞するために書かれたのがヘブル人への手紙でした。
 
「また、約束して下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行に励むように互いに努め、ある人たちがしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(10章23〜25節)。
 
 「集会をやめることをしないで互いに励まし」(25節)とは、集会欠席への戒めではなく、「集会」すなわち、イエスをキリストと告白するキリスト教会からの脱退を意味します。
 つまりキリストの「集会をやめる」ということは、出て来たユダヤ教会への復帰を意味したものでした。
 
 だから著者は言うのです、「わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け」(23節)よう、なぜならば、「約束して下さったのは忠実なかた」(23節)なのだから、と。
 
 ここに出て来る「忠実」と訳された原語は「真実」とも訳せる言葉で、「信仰」とも関連します。神は、あるいはキリストは「真実」そのものの性格の持ち主であって、約束を必ず履行されるお方である、という意味です。
 
 つまり、神が喜ぶ信仰とは、真実な「神がいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じる」(6節)ことなのだと言い切ることによって、著者は動揺する信者さんたちを励ましたのでした。   
 
 
 
 
 つらい試練が続く時、確かに信仰が動揺することもあります。祈れなくなることもあります。当然です。昔の人たちもそうでした。
 だからこそ、ユダヤ教出身のユダヤ人信者に宛ててこの手紙が書かれたのでした。
 
 私たちもまた、二〇一六年、平成二十八年の年頭にあたり、改めて「神に喜ばれる」「信仰」(6節)を持たせて下さいと、切に祈って一年の歩みを始めたいと思います。
 では、皆さまの上に、神の祝福が豊かにありますよう、主イエスの御名によってお祈り致します。





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