2015年1月1日(木) 2015年(平成27年)新年礼拝説教「主を待ち望む者が、新たなる力を得る」イザヤ書40章30、31節

投稿日時 2015-01-01 16:48:21 | カテゴリ: 2015年礼拝説教

15年(平成27年)1月1日(木)新年礼拝説教 

「主を待ち望む者が新たなる力を得る」
 
イザヤ書40章28〜31節(旧約聖書口語訳998p)
 
 
はじめに
 
 西洋人が最も力を入れる行事はクリスマスですが、日本人の場合は何といっても正月でしょう。
 
ですからゴミの収集も当地の場合はこの年末も、二十八日の日曜日には可燃ゴミが、そして木曜日収集の廃プラ・ペットボトル等は二十九日の月曜日に収集されるなど、すべてが新年への備えとなっています。
 
それは正月の三が日を休業するからでもありますが、やはり、ゴミは新年には持ち越さず、旧年に出たゴミは旧年の内に片付けて、すっきりとして新しい年を迎えたいという、新年への特別なこだわりが日本人にあるからだろうと思います。
 
二〇一四年というそれなりに忘れ難い年が終わり、新しい年が明けました。
私たちはともすれば地を這うような日々を送りがちですが、この新しい年こそは上からの新たなる力を得て、天高く、とまでは行かないまでも、飛躍という経験を味わう年でありたいと思うのです。
 
そこで、この年の新年礼拝の説教題を「主を待ち望む者こそが新たなる力を得る」とした次第です。
 
 
1.   疲労と倦怠という現実的危機
 
紀元前六世紀、数十年にわたって継続してきたバビロン捕囚が終わりを迎えるという解放の預言が語られました。
 
その記録がイザヤ書四〇章からの預言です。これは通常、第二イザヤとして知られています。
 
「あなたがたの神は言われる、『慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終わり、そのとがはゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた』。」(イザヤ書40章1、2節 旧約聖書口語訳996p)。
 
 慰めの預言は続き、捕囚の民が置かれている現実が指摘されます。それは疲労と倦怠という状況でした。
 
「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」(40章30節)。
 
 「年若い者」(30節)とは通常、疲れを知らぬ年代です。
また「壮年の者」(同)と訳された言葉は、原義は「選ばれし者」を意味し(浅野順一「旧約聖書略解イザヤ書」697p 日本基督教団出版局)、また「精鋭兵などに用いられ、意気壮(さか)んなる若人を指す」のだそうです(左近 淑「混沌への光」157p ヨルダン社)。
 
 更に、「弱り、かつ疲れ」(同)は「倦む」「たゆむ」であり(左近)、「疲れ果てて倒れる」(同)は「原語では『よろめき、よろめく』老衰せる者のおぼつかなき歩みをいう」(浅野)という意味とのことです。
まさに倦怠と疲労です。
 
「年若い者」「壮年の者」がそうであるのならば、況してや高齢者、病弱な者、そして社会的弱者は如何ばかりかと思われます。
 
翻って二十一世紀の日本、二年前、アクセル全開、薔薇色で始まったアベノミクスでしたが、昨年四月の消費税が思わぬブレーキとなって推進力は弱まり、そこに予想以上の国際経済の悪化や円安などの進行もあり、恩恵は底辺までにはなかなか降りて来ないというのが現実です。
 
そういう意味において二〇一五年という年は政権にとって正念場の年ですが、庶民にとっても先行きが見えにくいという点から、今年は特に重要な年でもあります。
 
 左傾化したメディアはイデオロギーの違いから、ひたすら、政権批判を繰り広げていますが、私たちは政治を担う者たちのため、神に対して、神の助けを祈らなければなりません。
祈ることをせずに批判だけをする者には、神は厳しい目を向ける筈です。
 
信仰者にとっても信仰における倦怠と疲労感は、信仰の停滞を招くだけでなく、信仰生活の空洞化を生じさせ、生ける神との関係に隙間風を吹かせかねないという危険があります。
 
では、倦怠と疲労という現実的危機を克服するにはどうしたらよいのでしょうか。
 
 
2.   新たなる力に溢れて明日へと向かう
 
 神はまず、(第二)イザヤに対し、民に向かって「新たなる力を得」ることの必要性を語らせます。
 
「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」(40章31節前半)。
 
 倦怠感と疲労感から解放されて、希望を抱いて明日に向かうためには、この「新たなる力を得」(31節)ることが何としても重要です。
 
この「新たなる力を得」ることについて浅野は、「『新たなる力を得る』とは力を新たにする、力を交換するという意味であって、人の力の代わり神の力が交換されることをいう。人間の無力は神の力に代えられ、弱さと疲れはいやされ強くされる」と解説します(前掲書)。
 
「力を交換する」とは、使用期限の来たバッテリーを新しいバッテリーに交換するという意味でしょう。
 
バッテリーというと思い出すのが、十数年前の深夜、守口市内を走行中にバッテリーが上がってしまい、パトカーに充電してもらったというめったにない経験です。
 
その後、市内東側の三井が丘団地が建つ丘の頂上でエンストを起こしてしまい、前にも後ろにも進めず、後ろから来た京阪バスなどには対向車線を通行してもらうなどの迷惑をかけ、緊急で呼んだJAFに充電をしてもらい、何とか辿りついたオートバックスでよれよれのバッテリーを新品に交換したことを思い出します。
 
「人の力の代わりに神の力が交換されること」とはどういうことでしょうか。
 
西暦一世紀、そのことを経験した人たちがいます。イエス昇天後、地上に残された弟子たちの集団、いうなれば初代の教会でした。
彼らに遺言ともいうべき主の言葉が与えられました。
 
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1章8節 新約聖書口語訳180p)。
 
 そして、「五旬節」、つまり「ペンテコステの日」に、エルサレム神殿東側にあるソロモンの回廊で祈っていた弟子たちに聖霊が下ったのでした(使徒行伝2章)。
 
彼らは力に満ちて、まるで人が変わったようになりました。あの、人の顔を恐れて主を否定したシモン・ペテロが、そしてイエス逮捕の際、イエスを見捨てて逃げ去ったあの弟子たちが、「新たなる力を得」(イザヤ40:31)たのでした。
 
古いバッテリーが新しい神のバッテリーに交換されたのでした。これは現代を生きる私たちにも必要かつ可能な経験なのです。
 
 
3.   主なる神を待ち望むことによって
 
では、この「新なる力」はどのようにして得ることができるのか、ということですが、弟子たちの真似をすればよいのです。
 
弟子たちがしたこと、それは日常の務めを果たしつつ、信じる者たちが共に集まっては、ひたすら、主の約束の成就を祈り続けたということでした。
 
「彼らはみな婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(1章14節)。
 
 弟子たちがしたことは神を「待ち望む」ということでした。それは神がイザヤを通して語られたことでもありました。
 
私たちもまた毎週の日曜礼拝において充電され、またこの経験を「朝ごとに新しく」(哀歌3章23節)したいと思います。
 
イザヤ書に戻りたいと思います。
 
「しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる」(40章31節前半)。
 
 「主を待ち望む者」(31節)こそが「新たなる力を得」(同)るのです。
 
 この「待ち望む」について左近は、「『待ち望む』というヒブル語は〈つな、巻きつく〉という語源に由来する。神を待ち望むということのもつ〈不屈さ〉と内的緊張をよく示している」と解説しています(前掲書)。
 
 私たちも神に、そして内にいます聖霊なる神に、そして神の不変の約束に綱のように巻き付いて、「新たなる力を得」(同)続けていきたいと思います。
神こそが力の根源なのですから。
 
そして力の象徴ともいうべき鳥が例に上がります。「わし」(31節)です。
 
疲労困憊していた者が「新しい力を得」(同)て、「わしのように翼をはって」(同)天空高く「のぼることができる」(同)というのです。
 
まさに、虫のように地を這いつくばって生きるしかないと思っていた者を鼓舞する言葉です。
それは「主を待ち望む者」(同)に等しく与えられている約束です。倦怠と疲労とはさようなら、です。
 
「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(40章31節後半)。
 
 もちろん、これは比喩的表現であって、信仰の歩みを意味するものです。
 
しかし、この年、勇気を与えられて鷲のように天翔(あまかけ)る者でありたいと心から思います。
上からの神の力を求めて、変わることのない「主を待ち望」(31節)んで、共に祈りを捧げましょう。





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