2013年12月15日待降節第三主日礼拝説教「希望の物語その3 ナザレのおとめマリヤの場合『お言葉通りこの身に成りますように』―マリヤの応答」ルカによる福音書1章25〜45節

投稿日時 2013-12-15 16:46:12 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

13年12月8日 待降節第二主日礼拝説教

「希望の物語 その3 ナザレのおとめマリヤの場合『お言葉通りこの身に成りますように』ーマリヤの  
 応答」
  
ルカによる福音書1章25〜45節(新約聖書口語訳83p)
 
 
はじめに
 
適菜 収(てきな おさむ)という少壮の哲学者の発言が最近、注目を集めています。
 
この人はニーチェの研究者として有名なのだそうですが、結構、毒舌の人のようで、最近では週刊誌の「今週のバカ」という連載コラムで、お隣りの国の大統領を「隣近所の悪口を言いふらす『おばさん外交』をしている」と書いてそのお隣りから反論が出たりするなど、物議を醸す言論活動を行っているようです。
 
この哲学者が昨日の朝刊に寄稿したコラムの趣旨に、その通りと肯かされました。彼は「本はたくさん読むな」という新渡戸稲造の言葉をあげて、多読の弊害を説き、その新渡戸が「古典を一つだけ熟読することを薦めている」としています。
 
古典と言えば聖書こそ、古典の中の古典です。特にルカによる福音書の生誕物語は、これまでにも何度も繰り返し読んできましたが、この待降節ではこの生誕の物語をとりわけ「希望の物語」として改めて受け止めることにより、物語自身が語りかける真理をしっかりと読み解いて、それぞれの信仰の糧、人生の羅針盤としたいと願っております。
 
先週と先々週、二週間かけて祭司ザカリヤとその妻のエリサベツの物語を読んできましたが、今週はいよいよ使徒信条に、「主はおとめマリヤより生まれ」とある、マリヤについての物語です。
きょう、私たちはこのマリヤの物語を希望の物語として聞き、二千年の時を超えて、ご一緒に紀元前六年のガリラヤはナザレの、おとめマリヤを訪ねたいと思います。
 
 
1.幸いなのは神の御言葉を聞いて、自らを恵まれた者として受け止める者
 
若者だけでなく、年配者までも使う言葉が「メッチャ」です。これは例えば「メッチャうまい」などのように、うまさの度合いを示す副詞として使うようですが、もともとは「滅茶苦茶」から来ているようです。
 
「無茶苦茶」とも言いますが、「滅茶苦茶」とは筋道が通らないことや、度が過ぎるような場合に使います。これを気取って言えば理不尽ということになるでしょうか。
ところで短期的に見ますと、神様が人間になさることが「メッチャ」おかしく見える場合があります。
そしてその「被害者」ともいえるひとりがナザレのマリヤでした。マリヤが受けた扱いは現代ならば人権侵害で訴えることができるようなことでした。
それは、ある日突然、神の御使いを自称する者がマリヤに現われて、「マリヤよ、おめでとう」と言ったという出来事から始まりました。
 
「六か月目に、御使いガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤと言った。御使いがマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』」(ルカによる福音書1章26〜28節 新約聖書口語訳83p)
 
 因みに「六か月目に」(26節)とあるのは祭司ザカリヤの妻エリサベツが受胎して「六か月目」ということです(24節)。
 
マリヤは戸惑います。当然のことです。
 
「この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつは何の事であろうかと、思いめぐらしていた」(1章29節)。
 
「おめでとう」(28節)と言われても何が何やらわからないマリヤに向かい、御使いガブリエルは続いて、あなたは妊娠して男の子を産むが、その子は神が送った救い主メシヤである、というメッセージを語ります。
 
否も応もありません。マリヤの都合を聞く訳でもなく、承認を得ようとするわけでもありません。しかもマリヤにはすでにヨセフという法的な夫がいたのでした。
 
「すると御使いが言った、『恐れるな、マリヤよ。あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう』」(1章30節)。
 
 皆さまがもしもマリヤであったならば、どのような反応をするでしょうか。困惑、驚愕、茫然自失、冷笑、憤怒などなど。しかしマリヤは戸惑いつつも御使いに対し、素朴ともいえる基本的な質問をいたします。
 
「そこでマリヤは御使いに言った、『どうして、そんなことが有り得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』」(1章34節)。
 
 マリヤの問いは祭司のザカリヤが発した疑問、「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と似ているようですが、実は違ったものなのでした。
 
ザカリヤの質問の根底には、「そんな事」(18節)は極めて困難なことではないかという、言うなれば不信ともいうべき思いが表れていましたが、マリヤの問いは、同居の夫のいない状態で、どうして子供が生まれるのだろうかという、筋道についての素朴な疑問であったと思われます。
 
この時のマリヤは何歳であったのかと言うことは興味のあることですが、ルカはその記録を残しておりません。しかし、当時のユダヤ社会では、一般的には男性は二十歳前後、女性は十六歳前後で結婚していたそうですから、この時のマリヤは恐らくは十六歳ということになるかと思います。
 
実はマリヤにはこの時、法的な夫はおりました。しかし、ユダヤの習慣では夫婦が同居するのは法的に夫婦になってから一年後のことです。ですから著者のルカはマリヤを「ヨセフという人のいいなづけ」(27節)と説明し、マリヤも「わたしにはまだ(同居の)夫がありませんのに」(34節)と、疑問の理由を述べたのでした。
 
この出来事を通して私たちが驚くのは、御使いの告知に対し、マリヤが抗議をするわけでもなく、拒否するわけでもなく、神の選びを神の恵みとして受け入れたことでした。
 
考えて見れば、人はみなそれぞれ異なった人生を歩み、あるいは自由を満喫しているようにも見えますが、自分で選択をし、決定ができることは限られているといえます。
たとえば、人は両親を選ぶことができません。ということは、自らの人種、民族、そして出生地を選ぶことができないことを意味します。
先月の三日、皇居で文化勲章の親授式が行われました。式の後、受章者の一人、俳優の高倉健が、「日本人に生まれて本当に良かったと、今日思いました」としみじみと語っておりましたが、それは日本人の多くの実感であると思います。
 
先週、テレビが南米のアルゼンチン北部の町でスーパーが略奪に遭っている光景を映し出しておりました。成人の男たちだけでなく、女性や子供も一斉に店から商品を抱えて走り去っていきます。どうも警察官が賃上げを要求してストライキを打ったため、治安悪化を招いたということのようでしたが…。
 
人はまた、性を選ぶことができません。勿論、例外的に性同一性障害という障害を持って生まれて来る人もおります。しかし通常、人は男性または女性として生まれてくるのですが、それを我が身に対する神の選びとして受け入れるかどうかを決めることは、人にはできます。そして私たちはあまり意識をしないまま、自らの現状を天来の定めとして受容しているのです。
 
しかしマリヤの場合、その選びは極めて特殊なものでした。けれどもマリヤは、救い主、メシヤの母に選ばれたことを神の恵みとして受け入れたのでした。
 
マリヤが御使いガブリエルから「恵まれた女よ」(28節)と呼ばれ、「おめでとう(同)」と祝福されたのは、彼女が救い主メシヤ・キリストの母という立場に召されたからだけでなく、彼女が神の選びというものを意志的、主体的に受け入れることができる人であったからだったのでしょう。
 
マリヤは御使いから「おめでとう」(28節)と言われていますが、日本語訳で「おめでとう」訳された言葉はギリシャ語で「カイレ」と言います。この言葉はゴルゴタの刑場においてローマの兵士がイエスに対して侮蔑の意味で使った言葉であって、口語訳 では「ばんざい」と訳されていました(マルコによる福音書15章18節)。
「カイレ」を祝福の意味で使うか皮肉や侮蔑の意味で使うかは、使う者それぞれにかかっていますし、聞く者にかかっているとも言えます。
 
マリヤの場合、素直な気持ちでこれを「おめでとう」(28節)という祝いの言葉として受け止め、これを神の恵みの選びとして捉え、そして自らを「恵まれた女」(同)として受け入れたのでした。
 
このギリシャ語「カレイ」すなわち「おめでとう」をラテン語訳は「アヴェ」と訳しました。ですから「おめでとう、マリヤよ」すなわち「アヴェ・マリヤ」なのです。これを文語訳は「めでたし」と訳しました。
 
私共もまた、神の言葉、そして自らの境遇や情況の中に神の選びを見出し、これを恵みとして受け入れるならば、現代社会において、そして家や教会において「アヴェ・○○」と呼ばれるでしょう。
神は今日もマリヤの姿勢を受け継ぐ者を探しておられ、見出すや「おめでとう、神に選ばれた者よ」と御使いを通して語りかけてくださるのです。
 
 
2.幸いなのは神の御言葉を受けて、神の御旨、我が身に成れかしと祈れる者
 
マリヤの「そんな事が」(34節)という素朴ともいえる問いに対し、ガブリエルは丁寧に答えます。それは神の霊である聖霊のお働きによるのである、と。
 
「御使いが答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』」(1章35節)。
 
 これは救世主の誕生が通常のかたち、すなわち男女の結合によらない、神の特別な働きによる超自然的な受胎として起こされたのだという意味です。それが「聖霊があなたに臨み」(35節)という説明です。
 
 尤も以前、著名なカリスマ伝道者が書いた著書の中に、「ということは、イエスの父は聖霊であるということになる」と書かれていた箇所を読んで、びっくり仰天した記憶があります。
 この本は米国では出版されなくなりましたが、日本では今でも販売されているようです。この本の記述には首をひねるような個所が他にもあり、神学的素養がないと、とんでもないことになるという例証かも知れません。
 
生命を男女の結びつきによって生み出すというかたちに定めたのは創造者なる神です。その神が救い主の誕生にあたって、人間の原罪の影響から免れたこどもを生み出すために、例外的にとられた方法がおとめマリヤによる受胎だったのです。
ですからガブリエルは、不妊で高齢という、祭司ザカリヤの妻のエリサベツの奇跡的な妊娠の例をあげてマリヤの理解を助けようとします。
 
「あなたの親族エリサベツも老年ながら、子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています」(1章36節)。
 
 それだけではありません。ガブリエルは神の全能性という属性にマリヤの思いを向けさせることによって彼女に答えます。
 
「神には、なんでもできないことはありません」(1章37節)。
 
 日本が誇るスーパーコンピュータ「京(けい)」が、世界中のスーパーコンピュータが性能を競い合う米国の国際会議で、総合的な性能を評価する「HPCチャレンジ賞クラス1」の四部門のうち、三部門で一位に選ばれたという報道が先月、ありました(スポーツ報知 11月22日)。
 
このスパコン「京」が目指しているものはコンピュータ内に人体を丸ごと再現することによって、病気の進行を予測し、医療支援を行うことなのだそうです。
スパコンは人間の頭脳から生み出されましたが、そのような頭脳を持つ人間を創造したのが創造主なる神です。
 
その創造主であり、全能である神によってあなたは救い主の母になるのだという丁寧な説明を受けたとき、ナザレの少女マリヤはただただ、「神の御旨がこの身に成りますように」とだけ答えたのでした。
 
「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように』」(1章38節前半)。
 
 神の選びを恵みとして受け入れることができる者が、神の持つ全能という属性への知識が与えられれば、あとは身を委ねて、この取るに足りない我が身にあなたの御旨が成りますようにとの応答へと導かれます。
 
 「はしため」(38節)とは奴隷、しもべという意味です。基本的人権という点からは、人は自由な存在です。しかしその自由という権利を神のために、また人類の福祉、幸せのために捧げる人は幸いです。
 
これを十六世紀のドイツの宗教改革者ルターはその著書の中で、キリストに属する者には自由人という立場としもべという二重の立場があることを強調しました。
 
キリスト者は、あらゆるものの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。
キリスト者は、あらゆるものの、最も義務を負うている者であって、すべてのものに隷属している。
これらの記述は互いに矛盾しているように思われるけれども、それが一致して見いだされる場合には、すぐれて私の目的にかなうものである。これら両命題とも、第一コリント九章[十九節]に、「わたしは、自由であるが、自ら進んですべての人の奴隷になった」と言い、ローマ十三章[八節]で、「互いに愛し合うことの外は、何びとにも借りがあってはならない」と語っているパウロ自身のものである(マルティン・ルター著 山内 宣訳「キリスト者の自由(ラテン語版)」352p ルター著作集第一集 聖文社)。
 
 この著作は一五二〇年に「善きわざについて」「キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト者貴族に与える書」と共に宗教改革三大文書として知られていますが、自由であるが、自ら進んでしもべとなったキリスト者の生きたモデルの一人、それがナザレの少女マリヤだったのです。
 
 マリヤはこの時、自分が失うことになるかも知れない大事なものを瞬時に思い浮かべたことでしょう。それはヨセフと共に築く家庭に代表される平穏な日々という幸せであったことでしょう。
マリヤはまた、自分が受けるであろう苦痛や恥辱も想像したに違いありません。それは世間からの心ない蔭口や指弾によってもたらされる苦悩でした。
 
しかしそれらの一切合財を神に委ねてこの十代の少女マリヤは応答したのでした。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(38節)。
 
 このマリヤの決断がなければ人類はどうなったことか。神による人類救済のプロジェクトは頓挫し、あるいは困難を極めたかも知れません。私たちは自らの救いがマリヤに負うているものであることを強く認識しなければならないと思います。
 
勿論、マリヤは礼拝の対象でもなければ祈りの相手でもありません。マリヤを拝むべきではありません。しかし、マリヤを信仰の模範として尊び、満腔の感謝を表わすことは大切なことであると思います。
私たちはマリヤのように、神の御旨が「この身に成りますように」と祈って立ち上がった信仰の勇者たちの存在と働きから実に多くの恵みを受けているのです。
 
 主イエスは弟子たちに対し、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)と言われ、また「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」(マタイによる福音書10章18節)と勧めました。マリヤに倣い、マリヤの後をマリヤのように歩む者は幸いです。
 
 
3.幸いなのは、自らに語られた神の言葉は必ず実現すると信じ切れる者
 
 ナザレの一少女マリヤが誰よりも幸いであったのは、彼女が第一に「自らを恵まれた者として受けとめることができたから」であり、第二に「神の御旨が我が身になるようにと応答することができたから」ですが、もう一つは、彼女が誰よりも幸いであったのは、「神が語られたお言葉は必ず実現すると信じ切れたから」でもありました。
 
 御使いからの受胎告知のあと、マリヤはユダの山里に住むザカリヤとエリサベツの家に向かいます。エリサベツはマリヤの「親族」(36節)であったようです。ということは、マリヤはレビ族の出なのかも知れません。
 
マリヤを迎えたエリサベツの歓喜に満ちた言葉を読みましょう。
 
「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内で躍った。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、『…主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう』」(1章41、44、45節)。
 
 エリサベツの言葉のように、幸いなのは主なる神が語った言葉は必ず実現すると信じた人です。ヨハネをみごもっていたエリサベツもまた、その幸いな人のひとりでした。
マリヤが幸いな人と呼ばれるのは、彼女が救い主の生母となったからだけではありません。マリヤが幸いな人と呼ばれるのは、彼女が神の言葉を聞いてそれを何よりも重要なもの、掛け替えのないもの、そして「主がお語りになったことが必ず成就すると信じた女」(45節)であったからでした。
 
だからこそ、イエスに向かって群衆の中から放たれた、「あなたのような人を生み育てた母親は何て幸せな人であることか」という羨望の声に対してその考えを訂正すると共に、幸いなのは血縁という繋がりではなく、信仰によって神と繋がっている者たちであると、イエスは教えたのでした。
 
「しかしイエスは言われた、『いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言葉を聞いてそれを守る人たちである』」(11章27節。
 
 次週二十二日のクリスマス礼拝、そして二十四日のイブ礼拝を前にして、この説教を聞き、あるいは読む方々の上に、神の祝福が豊かにとどまりますように。





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