2013年4月28日日曜礼拝説教「信仰の祖アブラハムと妻サラは、迷いの道から信仰の正道(まさみち)へと立ち戻った」

投稿日時 2013-04-28 16:08:32 | カテゴリ: 2013年礼拝説教

20134月28日 日曜礼拝説教 

「信仰の祖アブラハムと妻サラは、迷いの道から信仰の正道(まさみち)へと立ち戻った」 
 
創世記16章1〜16節(旧約聖書口語訳16p)
 
 
はじめに
 
 今日、四月二十八日は日本国が敗戦による七年間の占領を経て、主権を回復することのできた記念の日です。そして政府が政府主催による式典、「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を実施すると発表したのが三月の十二日でした。
式典開催の趣旨は、官房長官によりますと、
 
この式典は、平和条約の発効による我が国の完全な主権回復、及び国際社会復帰六十年の節目を記念し、我が国による国際社会の平和と繁栄への責任ある貢献の意義を確認するとともに、これまでの経験と教訓をいかし、我が国の未来を切り拓いていく決意を確固としたものとするため、挙行するものであります。
 
とのことです。
 
 日本はポツダム宣言を受け入れて降伏文書に署名をし、以後七年に渡って連合国の、実際的には米国の占領下に置かれてきましたが、米国サンフランシスコにおいて一九五一年(昭和二十六年)九月八日、戦勝国である連合国諸国との間で締結された平和条約、正式には「日本国との平和条約」、一般的には「サンフランシスコ平和条約」あるいは「サンフランシスコ講和条約」と呼ばれる条約によって戦争状態が終結したことにより、条約が発効した一九五二年(昭和二十七年)四月二十八日に、占領状態から解放されて主権を回復することができたのでした。
 
 先の戦争(大東亜戦争)に関しては、東京裁判が言うように侵略戦争であったのか、はたまたその東京裁判の主宰者でもあったダグラス・マッカーサーが日本占領末期に、時の大統領によって連合国総司令官を解任され、その直後に召喚された米国上院の軍事・外交委員会で証言したように、日本の安全保障上の戦争、つまり自衛のための戦争であったのか、評価が分かれるところです。
 
しかし、この主権回復を一つのきっかけとして、戦後の日本が迷いの道から「国際社会の平和と繁栄への責任ある貢献」を果たす国家として再出発したことは歴史の事実です。
 
 明治維新以後の日本国は、私見によれば、三つの判断ミスを犯すことによって迷い道へと迷い込んでしまったのではないかと思います。
その一つは日本が欧米列強につられて中国大陸に進出をしたことであり、もう一つは半島を併合したこと、そして三つ目は第二次世界大戦への参戦の口実を捜していた米国の企みにまんまと乗って、真珠湾を攻撃してしまったことです。特に三つ目は、隠忍自重して、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、米国との戦争を思い止まるべきでした。
 
 中国いわゆる支那とは、関わるべきではありませんでしたし、半島の場合、帝政露西亜の南下を阻止する目的ではあっても、併合以外の方法を日本としては模索すべきでした。そういう意味では半島の併合反対論者であった伊藤博文が、安重根というテロリストによって暗殺されてしまったことは、日本にとって大きな痛手でした。
 
 慶応義塾大学の創立者、というよりも、一万円札の肖像で有名な福沢諭吉が書いたとされる「脱亜論」は、まさに先見の明がある論文であったと評されています。
 この文章は明治十八年(一八八五年)の三月十六日に、福沢諭吉が創刊した「時事新報」という新聞の社説として発表されました。
 
 その論旨を掻い摘んで言いますと、社説は
 
現在の支那朝鮮は日本にとって何のプラスにもならないばかりか、三国が隣り合っているがために欧米人から見れば、日本が他の二国と同じように見られる危険性がある。例えれば、一つの村の村人全員が愚かで無法で残忍であって、そこにたまたま一人だけまともな村人がいたとしても、村の外から見ればその違いはわからないだろう。我が国としてはこの二国が文明や国際常識を身につけることを期待すべきではない、
 
と言って最後に、
 
「悪友を親しむ者は共に悪友に免(まぬ)かる可(べ)からず。我は心に於(おい)て亜細亜(あじあ)東方の悪友を謝絶するものなり」、つまり、悪友と仲良くしているとその仲間だと思われてしまう。私は、気持ちにおいてはこの東アジアの二国とは絶交するものである、
 
 
と結ばれています。
 
 実際、平和条約の交渉過程では韓国が戦勝国の仲間入りを希望して、署名国に名を連ねることを執拗に求めたのですが、ダレス米国務長官補が、「韓国は日本と戦争状態になったことはない」との理由でこれを拒絶したという経緯があり、この戦勝国という立場を得られなかったことがトラウマとなって、以後、何かにつけて日本に勝つことをもって国家的目標とするようになったと言われています。
 東アジアの現状を鑑みるとき、福沢諭吉が説いたという『脱亜論」はまさに卓見であったと言わざるを得ません。
 
 そういうわけで、平和条約が発効された六十一年前の四月二十八日は、日本という国が迷い道から正道(まさみち)へと立ち戻った日でもあると言えるでしょう。 
 
 なお、沖縄の復帰が遅れたのは痛恨の極みですが、だからと言ってこの日を「屈辱の日」として式典反対を唱えるのはどうでしょうか。
平和条約においては、沖縄などの南西諸島や小笠原諸島などが米国の信託統治とされましたが、それでも米国領土とはされずに、日本の潜在主権が認められたことは幸運なことであったという見方もあります。
事実、条約の発効によって日本の主権が回復されたからこそ、二十年後の沖縄施政権返還があったともいえるからです。しかも、沖縄が信託統治されたままの状態の時に式典を挙行したのであるならばともかく、復帰後四十年も経ているのですから、式典開催は遅きに失したといえなくもありません。
 
 さて、アブラハムですが、創世記を見れば、信仰の祖アブラハム、そして信仰の祖の妻としてアブラハムと行動を共にしてきたサラの歩みにも、良かれと思って下した判断ミスによって、迷いの道へと迷い込んでしまうということが起こりました。
 
 そこで今週は彼らがどのようにして迷いの道から正道へと立ち戻ることができたのか、という話しです。
 
 
1.信仰の祖アブラハムと妻のサラは、浅慮によって迷いの道へと迷い込んだ
 
 私たちが敬してやまないアブラハムとサラもまた、判断に迷って、迷いの道へ迷い込む、ということがありました。
エジプトでの挫折はアブラハムにとっては暗き谷間を辿るような経験であり、一方、少数の手勢を率いての甥ロトの救出劇は、誰もが驚嘆する英雄的快挙でした。
 
それら、色々なことに遭遇し経験をしたアブラハムとその妻サラでしたが、その間にも時間は容赦なく経過して、神の言葉に従って故郷を出てから丸十年、いつの間にかアブラハムは八十五歳、サラは七十五歳になっていました。
子孫を与えるという神の約束はどうなったのかと言いますと、約束から十年しても、サラには依然として子が生まれる兆候はありませんでした。
 
「アブラムの妻サライは子を産まなかった」(創世記16章1節 旧約聖書口語訳16p)。
 
 現代でこそ、子を産まないことも、そして結婚をしないということも一つの選択肢として社会的に認証されていますが、古代において、しかもアブラハムの妻という立場においては、子を持つことが至上命題であり、大きなプレッシャーであった筈です。
 
オランダからの招待を受けて、明日、オランダに向かうことになった皇太子妃が、ネットや週刊誌等で叩かれています。しかし、適応障害という心の病に罹ったのも、跡継ぎの男子を産むことが皇太子妃の使命とされている状況が原因ではないかと推測されています。
 
サラにもプレッシャーはありました。養子による跡継ぎという方法が神の計画にない上(15章4節)、不妊の体質に加えて(11章30節)、年齢という壁を前にしていたサラは、別の方法で子供を得ようと考えたのでした。
その方法とはサラに仕えていた女奴隷を代理母とすることによって子を得るというものでした。
それは妻たるサラにとってはつらい選択でしたが、それが跡継ぎを得る唯一の方法であると彼女自身、思い込んだのでした。
 
「彼女にひとりのつかえめがあった。エジプトの女でハガルといった。サライはアブラムに言った、『主はわたしに子をお授けになりません。どうぞ、わたしのつかえめの所におはいりください。彼女によってわたしは子をもつことになるでしょう』」(15章1節後半、2節前半)。
 
そして間もなく、「つかえめ」のハガルはアブラハムによってみごもりました。生まれればその子は女主人のものとなります。この方法は、当時広く中近東世界で行われていた風習でした。
 
サラは自分の状態と夫のアブラハムの年齢とを考えて、これが最善の方法であると思ったのでしょう。
 
フェミニストの女性が聞いたら、それこそ柳眉を逆立てて憤るような言葉があります。「女、賢(さか)しうして牛売り損な(の)う」という慣用句です。
 
出典は定かではありませんが、牛の売買交渉をしている亭主の手助けをしようとして女房が買い手に対し、「これはとてもいい牛ですよ」と言った、そこで買い主がその牛を徹底的に調べたところ、足に傷が見つかり、その結果、亭主はその牛を予定の半値で売る羽目になった、ということから生まれたそうで、一般的には「女の浅知恵」を指すものとして使われています。
 
サラはアブラハムの夢を実現するため、何としても子を生みたかったのです。そのために自分の気持ちを押し殺して、このアイデアを生みだしたのだと思います。
 
自分を殺す、という自己犠牲や献身性は女性の一つの特性であり、大きな魅力です。そしてこの場合、サラの女性性が神のわざを待つよりも人間的知恵によって行動する選択を導き出してしまったと思われます。
頭が良くてまじめな人ほどサラのように先走って、人間的な知恵で行動し、その結果、神の定めた信仰の道から迷い道に踏み込んでしまう場合があるようです。
 
そして信仰の祖アブラハムもまた、サラに引っ張られるようにして迷い道に踏み込んでしまったのでした。
アブラハムはサラの提案に対して、神に期待しようと彼女を諭すべきでしたが、彼はサラの計画に乗ってしまいます。
 
「アブラムはサラの言葉を聞き入れた。…彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ」(16章2節後半、4節前半)。
 
しかし、神の計画はあくまでアブラハムとサラとの間に生まれた子供が跡継ぎとなる、ということでした。そしてハガルが出産をしたさらに十三年後、神はアブラハムに向かって、「サラは男の子を生む」と告げたのでした。
 
「神はまた言われた、『いや、あなたの妻サラはあなたに男の子を産むでしょう。名をイサクと名づけなさい。わたしは彼と契約を立てて、後の子孫のために永遠の契約としよう』」(16章19節)。
 
 先走って神の前を往くのではなく、神の後ろに下がって神のわざを待つ、それが正しい道なのでした。
 
 
2.サラの女奴隷ハガルは、愚かさのゆえに迷い込んだその道で神の使いに出会った
 
 思いがけず、妊娠した女奴隷ハガルもまた、この時、道を迷いました。ひょっとすると族長の跡継ぎの母親として、女主人であるサラを押しのける立場に着くことができるかも知れないという考えが、ハガルの中に湧いてきたのでしょう。
彼女は愚かにも自分の立場を弁えず、サラに対して優越意識を持つようになり、いつしか女主人を軽んずるような態度を取るようになります。
 
「彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった」(16章4節)。
 
 妊娠したハガルが何かにつけて主人である自分、アブラハムの正妻で有る自分を軽んじるようになったことで、サラの怒りが爆発します。そしてハガルが高慢になったのはアブラハムのせいでもあるとしてサラは夫を責め立てます。
 
「そこでサライはアブラムに言った、『わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分がはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように』」(16章5節)。
 
 ハガルが高慢になったことがなぜアブラハムの「責任」となるのか、サラの論理が今一つ理解しかねますが、これに対してアブラハムは積極的な介入を避けて、すべてをサラに丸投げします。
 
「アブラムはサライに言った、『あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい』」(15章6節前半)。
 
それがアブラハムの知恵なのか、それとも女の揉め事に対して手を出しかねているのかが不明ですが、事なかれ主義の老いた男の姿があるようにも見えます。
 
 夫から一任を得たサラは、ハガルに人間としての道筋を教えて、躾をしようとします。しかし、それはハガルにとっては女主人による陰湿な虐待、今でいえばパワー・ハラスメントにしか思えません。耐えきれない、と思った彼女は天幕を逃げ出します。
 
「そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた」(16章6節後半)。
 
 恐らくハガルは生まれ故郷のエジプトを目指したのでしょう。当該箇所には捜索隊が出た、という記述がありません。また仮に出たとしても、広大な荒れ野では捜しようが有りませんから、このままであればハガルは砂漠の砂に埋もれてしまうか、狼の餌食になってしまうかも知れません。
 
しかし、神は見ておられました。エジプト国境に近いシュルの道にある泉のほとりで、大きなお腹をかかえて途方にくれているハガルに、主の使いが声をかけてくれたのです。
 
「主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、そして言った、『サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか。またどこへ行くのですか』」(16章7、8節前半)。
 
 こうなったのは偏にハガルが驕り高ぶったからでした。自業自得であり、自ら蒔いた種を刈り取っているわけです。
しかし、自分で転んで失敗したハガルを、神はそれでも憐れんで傍らに近づいてきてくださいます。
 
 天の使いはハガルに、高慢を悔い改めて女主人のもとに帰り、謙遜になって主人に仕えなさいと諭した上で、失意のどん底にある彼女に向かい、希望の約束を与えます。
それは、あなたは男の産む、その名をイシマエルとせよ、あなたの子はアブラハムの跡継ぎにはなれないが、しかし、たくましく生きていく、というものでした(16章9〜12節)。
 
 自分の愚かさのゆえにトラブルを起こし、道に迷い、道に行き暮れる者をも神は憐れんでくださいます。
神も仏もあるものかと嘆き呟く人がいますが、仏は知らず、神はおられて人の呻きを聴き、その悩みをご覧になっておられるのです。
 
先週に続いて、神がイザヤを通して捕囚の民に語られたを言葉を聞きましょう。
 
「ヤコブよ、何ゆえあなたは『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか。あなたは知らなかったか。あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」(イザヤ書40章27〜29節 998p)。
 
 神はわたしを見捨てたのではないか、わたしの祈りは神には届いていないのではないかと嘆く人がいるならば、今日、この言葉を神からの語りかけとして聞きましょう。
 
 天の使いの言葉に感動したハガルは、自分に語られた主の名を呼んで、あなたは「エル・ロイ」です、と告白をして、女主人サラの元へと戻って行きます。
 
「そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った。彼女が『ここでも、わたしを見ておられるかたのうしろを拝めたのか』と言ったことによる」(16章13節)。
 
 「エル・ロイ」とは「わたしを見ておられる神」という意味です。
 女奴隷ハガルは、おのれの愚かさゆえに迷い込んだ迷い道において、神の使いに出会ったのです。
神は今も、一見、神の使いには見えないかたちで、迷いの道に行き暮れている者を助け導いてくださっているのです。
 
 
3.信仰の祖アブララハムと妻のサラは、神の助けによって迷い道から正道(まさみち)へと立ち戻った
 
 アブラハムとサラとは、天幕に戻ってきたハガルを受け入れます。そして月が満ちて、ハガルは神の使いが言ったように男の子を産み、産まれた子供はイシマエルと名づけられました。
 
「ハガルは男の子を産んだ。アブラムはハガルが産んだ子の名をイシマエルと名づけた」(16章15節)。
 
 「イシマエル」とは「主が聞かれた」という意味だそうですが、これは泉のほとりでハガルに向かって主の使いが、生まれ出る子に名づけるようにと言った名前でした。
 
「主の使いはまた彼女に言った、あなたはみごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです」(16章11節)。
 
 ということは、ハガルが泉のほとりで体験したことすべてをアブラハムに語ったこと、そしてアブラハムが、神が、迷いの道に彷徨う者をゆるし、憐れみ、その呻き、叫びを聴いてくださるお方であることを再確認したことを意味しました。
 
そういう意味においては、ハガルが産んだ子に、神が命じたようにイシマエルと名づけたということは、それはアブラハムの神に対する信仰の告白であり、更には彼が妻サラと共に悔い改めて、信仰の迷い道から抜け出たことの証し、信仰の正道(まさみち)に立ち戻ったことの証しでもあったのでした。
 
この時、アブラハムは八十六歳、サラは七十六歳という高齢となっていましたが、二人はもう一度心を新たにして神の言葉に縋り、一歩ずつ、信仰の高嶺を目指し登り始めたのでした。
 
「ハガルがイシマエルをアブラムに産んだ時、アブラムは八十六歳であった」(16章16節)。
 
 ハガルが彼に産んだ子を「イシマエル」と呼ぶたびに、そして見るたびに、神は聞いてくださっているという信仰を新たにされて、アブラハムとサラとは信仰の正道を、希望を持って進むこととなります。
 
ハガルを受け入れるにあたって、特にサラには葛藤があった筈です。しかし、それもこれも神に委ねてサラもまた夫と共に、信仰の正道(まさみち)を進み始めたのでした。
 
ゴールはまだ先です。行く先に何があるかは見えません。しかし、先走って神の前を行くのではなく、神の後ろを行く者へと二人は変わっていったのでした。





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