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2013年6月2日 日曜特別礼拝のご案内「キリストは一点の染みもない人生を生きた唯一の人であった」

 キリストは一点の染みもない人生を生きた唯一の人であった

 刑法上の犯罪を犯したという人は、そうはいないと思います。しかし、毎日のように車を運転しながら、交通違反で一度も警察の厄介になったことがない、という人は少ないのではないでしょうか。
 かく言う私の場合、以前、守口から寝屋川に帰る途中の深夜、うっかり赤信号の交差点に進入してしまい、反則切符を切られたことがあります。
 パトカーの後部座席に座ったのは初めての経験でしたが、手続きを済ませ、自分の車に戻って発進、という段階でエンジンがかかりません。動転していたのか、点灯したままだったので、バッテリーが上がってしまっていたのです。
なかなか発進しないため、不審に思った警察官が様子を見に来てくれて、パトカーからバッテリーケーブルを繋いで充電してくれました。親切な警察官でした。つまり、この時の私は二重の意味で警察のお世話になったわけです。
 地獄で死者の生前の罪を裁くのが閻魔(えんま)様ですが、ある時、地獄で「嘘つき大会」が開かれました。亡者が次々と閻魔様の前で嘘をつくのですが、閻魔様を満足させるような嘘ではありませんでした。そして最後の出場者となり、その出場者が口を開いて言ったことは、「すみません、わたしには出場資格はありません。なぜなら、私は今まで一度も嘘をついたことがないからです」
 これを聞いた閻魔様は腹を抱えて笑い、そして言いました、「優勝はこの男だ、わしはこれまでに、これ程の嘘つきは見た事がない」
 長い人生、どんな人でも叩けば多少の埃は出てくるものです。しかし、いくら叩いても少しの埃も出ない人、一点の染みもない人生を生きた人がひとりいたのです。それが人としてのイエス・キリストでした。
 イエス・キリストはユダヤの法廷、ローマの法廷で有罪を宣告されましたが、宣告をしたユダヤの大祭司やローマの総督は、イエスの人生には一点の染みもないことがわかっていたのでした。
 ある人が言いました、「もしも目で人を殺すことができるならば、街路は死人で満ちるであろう」 目は心の奥の感情と繋がっています。ですから、心の中で「あんな奴、いなければいいのに」と思って人を見たならば、そのとき、目で殺したことになるわけです。そのような見方をすれば、罪のない人など、どこにもいません。
 しかし、イエス・キリストだけ違いました。イエスにとってはどのような人も常に慈しみの対象、救いの対象であったのです。
 「一点の染みもない人生を生きた」キリストを教会でぜひ知ってください。
 日曜特別礼拝にぜひ、おでかけください。ご来会を歓迎いたします。