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2013年5月12日日曜礼拝説教「アブラハムの妻サラは、苦い笑いを喜びの笑いへと変えられた」(創世記18章1~15節、21章1~7節)

20135月12 日曜礼拝説教・母の日 

「アブラハムの妻サラは、苦い笑いを喜びの笑いへと変えられた」 
 
  創世記18章1~15節、21章1~7節(旧約聖書口語訳19p)
 
 
はじめに
 
この二月、隣国に女性大統領が誕生しました。慶賀すべきことです。しかし、就任以来の言動、特に「歴史を直視せよ」などといった日本を意識した発言や、米国議会における演説などを聞いたりしていますと、もっと肩の力を抜いて、自然体でいってはどうかと、人ごとながらアドバイスをしたくなります。
 
ひょっとすると、男社会の国の初めての女性大統領として、嘗められてはいけない、バカにされてはならないという意識が過剰になっているからなのでしょうか。確かに女性は女性というだけで、言葉に表わすことのできない苦労をするようですから。
 
「母の日」の今日は、信仰の祖アブラハムの妻サラに対する主なる神の気遣いと取り扱いを通して、恵み深い神を崇めたいと思います。
 
 
1.アブラハムの妻サラもまた、神の言葉を心中で笑いそして呟いた 
 
 アブラハムをはじめとする彼の一族男子全員が、アブラハムの主導によって信仰告白としての割礼を受けてからそれほど時が経っていないある日、アブラハムの天幕を三人の旅人が訪れてきました。それは太陽が中天にある昼の暑いころでした。
 
「主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現われた。それは昼の暑いころであった。彼は天幕の入り口にすわっていたが、目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた」(創世記18章1、2節前半 旧約聖書口語訳19p)。
 
 この「三人の人」(2節前半)は神からの使いと思われます。アブラハムは彼ら旅人を天幕の中に招き入れ、当時の、そして近東地域のしきたりに従って彼らを丁重にもてなします(18章2節後半~8節)。
 
 食事の後、彼らはアブラハムの妻サラの所在を問うたのち、翌年の春にサラが男児を産むという予告をします。
 
「彼らはアブラハムに言った、『あなたの妻サラはどこにおられますか』。彼は言った、『天幕の中です』。そのひとりが言った、『来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう』」(18章9、10節前半)。
 
 これを聞いたアブラハムは、神の約束が実現する時がついにきたのかと、感無量であったのではないかと思われます。
彼はこの少し前、妻サラに男の子が生まれる、という神の有り難い言葉を聞いたそのときは、神の告知を俄かには信じることができずに、かたちは恭しいままでこれを笑い、「そんなバカなことがあるものか」と心の中で不信の言葉を呟いた人でした。
 
「アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか』」(17章17節)。
 
 このアブラハムの笑いについては、「神の痛みの神学」で有名な、日本を代表する組織神学者であり説教家でもある北森嘉蔵元東京神学大学教授(故人)がその説教集において、「およそ人間がもらした笑いで、このときのアブラハムの笑いほどすごいものはないであろう」と指摘しています。
少し長いのですがその部分を引用したいと思います。
 
そのとき、アブラハムは神の前で、顔を伏せて笑ったのである。いったい、人間が相手の言うことを「笑う」と言うことほど、不信の態度はないであろう。まだ相手の言うことを怒ったり、拒否したりする態度のほうが、望みがある。
 
笑うということは、もっとも深い不信の態度である。今の場合、相手は神である。アブラハムは神の言葉を笑ったのである。
 
これは、神の約束に対する深い絶望である。およそ人間がもらした笑いで、このときのアブラハムの笑いほどものすごいものはないであろう。
 
怒りよりも悲しみよりも、もっとすごいものが、この笑いである。
北森嘉蔵著「聖書百話 68 アブラハムの笑い」154、6p 筑摩書房
 
 しかし、アブラハムは、一度は神の言葉を一笑に付しもしましたが、神が「いや、確かにサラは男の産む」と重ねて言って立ち去ったそのあと、神の言葉を深く噛みしめ思い巡らし、自らの不信仰を神の前に悔い改め、神の言葉をそのまま受けいれる決心をします。
そしてその決心と信仰告白のしるしが自らをはじめとする一族の割礼となったのでした。
 
「アブラハムは神が自分に言われたように、この日その子イシマエルと、すべて家に生まれた者およびすべて銀で買い取った者、すなわち、すべての男子を連れてきて、前の皮に割礼をほどこした」(17章23節)。
 
 しかし、サラの場合、自らが産む立場の女性であって、妊娠の機能が既に停止していることを十分に認識をしているわけですから、アブラハムに比べ、より懐疑的となるのは予想されることであったかも知れません。
 
旅人の言葉を少し離れた所で聞いていたサラは、アブラハムに告げられた男児誕生の告知を心の中で笑い、高齢となっている自分たちに子供が出来るわけがないと、その言葉を打ち消したのでした。
 
「サラはうしろの方の天幕の入り口で聞いていた。さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った、『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』」(18章10節後半~12節)。
 
 
 この時、サラにも常識というものが作動したのでした。説教集において北森牧師はアブラハムの行為を分析して、「アブラハムの笑いは、現実のきびしさを前にして、アブラハムの理性と常識とが生じさせたもの」であって、「このときのアブラハムは、『信仰の父』どころか、むしろ『理性と常識との父…不信仰の父』として、わたしたちの前に現われ」ている、としています(155p)。
 
そしてその伝で言えば、神のお告げを笑ったサラもまたこの場合、「理性と常識の母」であり「不信仰の母」でもあったわけです。
 
 
 信仰の祖アブラハムも、そしてその妻も決して特別な存在なのではなく、私たちと同じ人間だったのでした。そういう意味では彼らの生涯は普通の人、ただの人が神のお計らいとお取り扱いによって、少しずつ変えられていったという意味で、信仰の父であり、信仰の母であったのでした。
 
ですから、誰ひとり、自分の信仰の弱さを嘆く必要はないのです。
 
 
2.アブラハムの妻サラは後に、その苦い笑いを喜びの笑いへと変えられた
 
 物語はこれで終わりではありませんでした。旅人を通して主なる神はアブラハムに向かって、サラが心の中で笑ったことを指摘すると共に、重ねて、「来年の春、サラには男の子が生まれている、なぜならば、神には不可能というものがないからだ」と断言します。
 
「主はアブラハムに言われた、『なぜ』サラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生まれているでしょう」(18章13、14節)
 
 神の言葉を心の中で笑い飛ばしたサラのことで、神はサラの夫のアブラハムに向かって諄々と語ります、「主にとって不可能なことがありましょうか」(14節)と。
 
 この反語は時代を超えて、神を待ち望むすべての者に向かって語りかけられています。神は自らが「全能の神」(17章1節)であって、その神にとって「不可能なこと」(18章14節)がないことを、約束の子の誕生で証明してみせることとなります。
 
 そしてこの旅人の言葉通り、高齢でしかも不妊体質であったサラがみごもり、男の子を産んだのです。しかも天幕を訪れた旅人が予告した通りの時期に、でした。
 
「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」(21章1、2節)。
 
 
 アブラハムはサラが産んだ子を「イサク」と名づけました。
 
「アブラハムは生まれた子、サラが産んだ男の子をイサクと名づけた」(21章3節)。
 
 「イサク」という名は、その誕生の一年ほど前に、アブラハムに現われた神が、名づけよと言って与えた名前でした。「イサク」には「彼は笑う」という意味があるそうです。
まさに、サラの冷笑ともいうべき神不信の笑い、苦い笑いは、腹の底から突き上げてくるような喜びの笑いへと変わったのでした。
 
サラの笑いを変えたのは誰か、それは主なる神でした。サラは、「神が私を笑わせてくれた」と告白します。
 
「そしてサラは言った、『神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう』。また言った、『サラが子に乳をのませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年をとってから、子を産んだ』」(21章6、7節)。
 
 使徒パウロは西暦五十年代半ば、マケドニアの教会に対して「いつも喜んでいなさい」と勧めました。
 
「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5章16節 新約聖書口語訳323p)。
 
 しかし、人を取り巻く現実の壁は高くそして強固であって、それだけに「いつも喜んでい」ることなどは不可能です。
私たちも目の前に立ちふさがる限界に心が支配されてしまうと笑うこともできない、もしも笑うとするならばそれこそ、「もう笑うしかない」という諦めの笑い、苦い笑いを浮かべるしかないという現実に直面する場合があります。
 
 しかし、神は神を待ち望む者一人一人に、善きことを用意してくださっている筈です。ただ、それがいつ、そしてどのような事であるかは神のみがご存知です。ですから、日々にベストを尽くしながら、神が定めた「定めの時」(18章14節)を待ちたいと思うのです。
 
 サラを「笑わせてくださった」(21章6節)アブラハムの神、サラの神は今、救い主イエス・キリストにおいて私たちの神なのですから。
 
 
3.アブラハムの妻サラは後に、神の変わらぬ愛と力の中にいたことを悟った
 
 ここで話をイサク誕生の十か月前に戻したいと思います。アブラハムのケースと違って、神の言葉を「笑った」サラに対し、神の使いは「笑った」こと自体を問題にし、しかも「笑った」ことを否定するサラに向かっては、「あなたは確かに笑った」と言って、彼女を追求しているように見えます。
 
「サラは恐れたので、これを打ち消して言った、『わたしは笑いません』。主は言われた、『いや、あなたは笑いました』」(18章15節)。
 
 読みようによっては神がサラを追い詰めているように見えます。しかし、ここに神の温情を感じ取る感性を持つ者は幸いです。
 一見したところ、いかにも神がサラの不信仰を咎めているかのように見えます。しかし、サラが、夫のアブラハムが経験してきた戦いとは違った意味において、艱難を忍び通し、苦難に耐えてきたことを、神はご存知だったのです。
 
 二十五年前、神に声をかけられたのは夫のアブラハムでした(11章1節)。二十五年間、専ら、神の言葉を聞いていたのはアブラハムでした。そして二人の歩みは多くの場合、夫唱婦随の状態でした。
唯一、サラの主導によって行われたのは自らのつかえめのハガルを通して跡継ぎを得ようとした試みでしたが、それは神の御心ではありませんでした。
サラもまたこの歳月、苦労に苦労を重ねてきていたのでした。
 
 先日、ある方からメールで、「主の祈りに『父よ』とありますが、神は男性なのでしょうか」という質問をいただきました。質問者がどのような思いで問うたのかは確かめませんでしたが、これに対して私は、次のように答えました。
 
質問をありがとうございます。
 
神を父と呼ぶことについてですが、多くの宗教が男の神様と女の神様の二対であるのに対し、聖書の神は唯一の神であって、性を超越した存在です。
 
にも関わらず、なぜ神が男性形の父として表わされているのかと言いますと、古代においては、神は何よりも、危険な状況下において、家族を外敵の攻撃から守り抜く強さを持った存在、つまり男性性の象徴としての頼り甲斐のある父親のような存在であることがイメージされていたからです。
 
これを端的に示す聖句が詩篇67篇5節の「その聖なるすまいにおられる神は、みなしごの父、やもめの保護者である」ではないかと思います。
 
 実際、聖書が神のイメージとして支配、保護、強さを強調していることは事実です。その象徴が使徒信条で告白されている「全能の父」という概念でしょう。
しかし、父なる神は同時に、すべてを丸ごと包摂し、人が人生の途上で負うた深い傷を癒す、母性を持つ神でもあるのです。
 
そしてその神の細やかで豊かな感受性は、この二十五年の間、サラが信仰の旅路で受けた痛み、苦しみ、人に言えない悶えなど、サラ特有の戦いの様を夫のアブラハムよりも深く知り、理解し、共感し続けていたのでした。
まことに、アブラハムをして祝福の基たるべく召した神は、サラをも祝福の基たるべく召し出されたお方でもあったのでした。
 
 ですから、神の指摘をあわてて打ち消したサラに対し、「いや、あなたは笑いました」(18章15節)と一見、彼女をリングコーナーに追い込んでいるように見える言葉には、実は、「サラよ、私には何も隠す必要はないのだ、私はあなたの苦しみ、悩み、葛藤を良く知っている、私が今日、この天幕を訪れたのは、あなたがこれまでに流してきた数多の涙を拭い、言葉に表わすことのできない悲しみを喜びに、積もりに積もった憂いを腹の底から突き上げてくるような笑いに変えるためであったのだ」という神の気持ちが詰まっていたのでした。
 
 今日、説教の前に宇田川姉妹が「Oh Give Thanks」というゴスペルを歌ってくれましたが、これはバビロン捕囚から解放されたユダヤ人が歌った詩篇の一節が基となった讃美だそうです。
 
「主に感謝せよ、主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」(詩篇136篇1節)。
 
 サラがこの時点で神のサラに対する細やかな心情というものを理解できたかどうかについての記述は、当該個所にはありません。
しかし、サラはその後、時間の経過と共に自らの身に起こってくる変化を感じるにつれて、この二十五年間、神の変わらぬ力と愛の中で自身が守られていたことを悟ったに違いないと思うのです。
 
 今日は説教後の讃美として、聖歌五五七番「慕い奉る主なるイェスよ」を歌う予定ですが、この讃美の歌詞は、涙の谷を通ることの多かったサラの祈り、心の呻きを表していると思います。
 
因みに、英語の原詞「Precious Lord , take my hand」には「イエス」という言葉はありません。日本語聖歌の翻訳者が「Lord(主)」を「イェス」と意訳したのでしょう。
 
サラを気遣い、サラを取り扱った主なる神は、サラが願う以前から常にサラの傍らを歩き、サラが「Take my hand(私の手を取ってください)」と祈る前からサラの手を取って導いてくれた「Lord(主)」であったのでした。
 
 なお、この讃美は凶弾に倒れたマーティン・ルーサー・キング牧師の葬儀でゴスペル歌手のマヘリヤ・ジャクソンが歌った讃美として知られていますが、個人的にはエルビス・プレスリーが歌った「Take my hand , precious Lord」がお薦めです。
  それは神を信じる信仰者であったプレスリーの生涯変わらぬ祈りであったと思います。心に沁みる歌唱です。You tubeで鑑賞なさってください。
 
 
 今日は五月の第二日曜日、「母の日」ですが、「母の日」は母親のためだけの日ではありません。神により、生まれながらにして母性を持つ、それゆえにまた楽しみも多い反面、辛酸をなめることの多い女性という存在を祝福するためにあるもの、それが「母の日」の意義であると思います。
 
「母の日」にこの説教を聞いている方々、そして文章になったものを後日読まれる方々が、サラの神によって心から「笑わせて」もらい、そして神から受けたその喜びをもって周囲と笑いを共にする、サラの子孫として立つことができますよう、神の祝福を心よりお祈り致します。