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2013年2月3日日曜礼拝「イエスのバプテスマ、すべてはそこから始まった」マルコによる福音書1章1~11節

20132月3日 日曜拝説教

「イエスのバプテスマ、すべてはそこから始まった」
 
マルコによる福音書1章~11節(新約聖書口語訳51p)
 
 
はじめに
 
 テレビの音声をラジオで聞くことが出来たアナログテレビの時代には、ニュースをラジオで聞くことが多かったのですが、アナログから地デジに切り替わってテレビをラジオで聞くことができなくなってからは、ラジオをすっかり聞かなくなっていました。
 
ところが先月末、寝る直前、何気なく携帯ラジオのスイッチを入れたところ、やっていたのは福井県の財団法人丸岡町文化振興事業団という、「日本一短い手紙」のコンテストを行っている団体の責任者という人が、アナウンサーのインタヴューに色々と答えているという番組でした。
 
 この運動、「一筆啓上賞」は二十年前から始まったそうで、きっかけは越前丸岡藩の藩主であった本多成重(なりしげ)にまつわる、あの有名な短い手紙、「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」の碑が丸岡城の中に立っていることからとのことです。
 
 もっとも、ラジオで読まれた、今回の「ありがとう」という題で大賞を受けたという五つの作品は、宮城県から応募した六十九歳の男性の「赤ちゃんへ」と題する、「仮設内に、元気な赤ちゃんの声が聞こえるようになった、皆で耳をかたむける。ありがとう」という作品以外、私には正直、「何でこれが?」と疑問に思えるようなものばかりで、選考委員は段ボールの中から適当に掴みだしたんじゃないかと思いたくなるような作品ばかりでしたが。
 
改めて興味を持ったのはこの運動のきっかけとなった、短い手紙の方でした。この手紙は、西暦一五七五年、織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼との間で行われた「長篠の合戦」の陣中から、家康の家臣であった本多作左衛門重次が妻あてに書いたものだそうです。
なお、文中の「おせん」は当時三歳になる嫡男千代のことで、その仙千代が後の丸岡藩藩主本田成重です。
 
 この短い手紙は手紙の模範のように言われていますが、合戦の陣中では長い手紙など書く余裕もなく、それでも家のこと、長男のことが案じられて書いたものだったのでしょう。このとき、重次は四六歳、当時としては老齢に差し掛かっている年齢で、おまけに厳しい合戦の最中です。
 
映画にもなった「武士の家計簿」の原作者である歴史学者の磯田道史によれば、この手紙は、もともとは「一筆啓上」ではなく「一筆申す」で(確かに妻に宛てた手紙に啓上は使わないでしょうし)、「おせん泣かすな」は「おせん痩せさすな」であったということですが、どちらにしても、跡取りでもある幼いわが子に対する父親としての切々たる情愛が、この手紙の中に溢れているように思えてなりません。
 
 ところで、先週でマルコによる福音書の連続講解説教は完結しましたが、どうしてももう一度取り上げたい箇所がありましたので、今週と次週で、再度、読むことにしたいと思います。
 
そこで今週はイエスがヨハネからバプテスマを受けた場面から、神の子イエスの私たち人類への心情と共に、その神の子のイエスに対する父なる神の心情に、理性と情の両方で近づきたいと思います。
 
 
1.天からの声、それはイエスが神の御子であることを証明する父なる神の声であった
 
 西暦二十六年あるいは二十七年、祭司ザカリヤの息子のヨハネがユダの荒野に現われて、ユダヤの民衆に悔い改めを促すと共に、悔い改めのしるしとしてのバプテスマ(洗礼)を施し始めました。このため多くのユダヤ人がヨルダン川に来て、ヨハネからバプテスマを受けました
 
「バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた」(マルコによる福音書1章4、5節 新約聖書口語訳51p)
 
 イエスもまた故郷のガリラヤから出てきて、ヨハネから洗礼をお受けになりましたが、水から上がってきた時、天から声がありました。それは、「あなたは我が愛する子であり、私はあなたを喜んでいる」という、イエス個人への言葉でした。
 
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。…すると天から声があった、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』」(1章9、11節)。
 
 これは、イエスが実は神の愛する子であるという、父なる神からの証言にほかなりません。ただし、その声を聞いた者はほかにおりませんでした。それはイエスに対する個人的な語りかけだったからです。
 
イエス自身、自分の誕生に伴う御使いガブリエルの啓示などについては、生母のマリヤからも、そして養父のヨセフからも聞いていた筈です。しかしそれらはあくまでも間接的なものでした。
 
ですから、自らが神の子であるという認識と確信は何よりも、これからメシヤ・キリストとして神からの使命を果たすに際してイエスが持つべきものでもあり、その確信のためには「あなたはわたしの愛する子」という、父なる神からのいわばお墨付きが必要であったのだと思われます。
 
 聖書の記述を項目ごとに整理して、それを体系化、組織化する学問を組織神学というのですが、その組織神学の分野では歴史上、イエス・キリストについての様々な見解が論じられてきました。そしてその中に「養子論」というものがあります。
 
「養子論」とは、イエスは人間であったが立派な人生を生きたので神の子とされた、譬えて言えば出世魚みたいに、人でありながら神の養子という身分に出世したのだというものです。
しかし、そうではありません。イエスは永遠の昔から神の御子だったのです。「人が神になった」のではなく、「神が人となった」のです。それがキリストとされたイエスでした。
 
天からの声、それはイエスがもともと神の御子であったのだという、天の神による証明にほかなりませんでした。イエスは永遠の昔から、神と同格の神の御子だったのです。
 
「イエスとは誰か」という理解に関しては、古代の教会において教会を二分する程の大きな論議になりました。
四世紀の前半、アレキサンドリア(エジプト)のアレイオス(ラテン語読みではアリウス)という司祭が、神だけが神である。だから、キリストは世界が始まる前のある時期に唯一の神によって造られた存在であって、それゆえにキリストは神に従属する劣った神であると主張しました。
 
つまり、キリストは、神は神であるけれど、永遠の昔から存在していた神ではなかった、キリストは神に似ているけれども、つまり同類ではあっても、その本質は神と同じではないのだ、というわけです。
 
そして長い論争が続いた結果、古代の教会は公会議を開催して、この論争に終止符を打ちました。そして、「主はあらゆる代(よ)のさきに御父より生まれ給うた神の独り子、光よりの光、真の神、造られずして生まれ、御父と同一本質なる御方である」(ニカイア・コンスタンチノポリス信条)ということが確認されたのでした。
 
しかし、イエスが神の御子であるということは、教会が議論して承認する以前、イエスがその活動を始めるにあたって、天からの声としてイエス自身に確認されることとなっていたのでした。
 
 
2.イエスの洗礼、それは神の御子が罪人の仲間になるための覚悟の旅立ちを意味するものであった
 
では、イエスが神の子であるならば、どうして人のように、しかも罪びとのようにバプテスマを受けなければならなかったのでしょうか。
四つの福音書はすべて、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けたと記録しています。
 
「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」(1章9節)。
 
水のバプテスマは、本来、罪の汚れをきよめる、きよめのしるしとして受けるものでした。
イエスは民族的、宗教的には、モーセ律法を遵守するユダヤ人でした。そのきよめられている筈のユダヤ人がバプテスマを受けるということは、まことに奇異なことだったのです。
 
なぜかならば、バプテスマは宗教的に汚(けが)れているとされる異邦人が、ユダヤ教への改宗に際して受ける三つの儀式の一つであって、ユダヤ人には必要のないものとされていたからでした。
 
通常、異邦人がユダヤ会堂に受け入れられるためには、契約の民のしるしである「割礼」を受けることが求められ、その上で、罪の贖(あがな)いのしるしとして動物の「犠牲」を捧げ、さらに罪を清められたしるしとして「水のバプテスマ」を受けることが必要条件でした。
 
 にも関わらず、異邦人でないだけでなく、また一般のユダヤ人とも違って、律法の面からも道徳面からも罪の全くないイエスがなぜ、自ら進んで「罪のゆるしを得させる悔い改めの(しるしである)バプテスマ」(4節)を受けることになったのでしょうか。
 
それは神の御子イエスが、私たち人間と同一化しようとした、分かり易く言えば仲間になろうとしたからだったのです。
 
一般的に、弱さを持つ私たちが受けるバプテスマ(洗礼)とは、神に背いていた者が、その罪を悔い改めて神の子という有り難い立場を与えられたこと、そしてイエス・キリストは自分の主であり、救い主であるということを、感謝をもって公に告白する儀式なのですが、イエス・キリストの場合はその逆であって、聖なる神の御子が罪深い人間の仲間になるということ、すなわち、人類と一つになった、同一化したということを公に宣言する行為だったのです。
 
そしてそれこそが罪のないイエスが、悔い改めのしるしであるバプテスマを受けたことの意味でした。
 
イエス・キリストのバプテスマは、神の御子が人となり、また罪びとの仲間となって、罪の赦しのわざを遂行するという覚悟を、公に披歴する行為でもありました。
 
尊い神の御子はこのバプテスマという儀式を通して、キリスト、救い主としての覚悟を決めて、その最終のゴールは刑死という苦難に向かって、まっしぐらに突き進むべく、ここ、ヨルダン川というバプテスマの場から旅立たれたのでした。すべてはここから始まったのです。
 
私たちが受ける洗礼は、罪びとが神の子どもとされたことを象徴する儀式ですが、イエス・キリストの洗礼は逆に、神の子が人となり、罪びとの仲間になったことを象徴する儀式でした。
まさに神の御子が私たちへの愛のゆえに人となることを決めた覚悟の旅立ち、それがイエスの受けた洗礼であったのです。
 
 
3.聖霊の降臨、それはイエスの働きが神としてではなく、人としてであることを示すものであった 
 
 イエスがバプテスマを受けた時、天からの声に先だって、もう一つの現象が起りました。
それは水から上がったイエスの上に天から聖霊が鳩のように下ってくる光景をイエス自身が見た、というものでした。
 
「そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊が鳩のように自分の上に下って来るのを、ごらんになった」(1章10節)。
 
 この聖霊の降臨という現象をもって、人間イエスに神のロゴス、つまりキリストが降臨したのだ、この時からイエスはキリストとなった、しかし、イエスが十字架に架けられた時、この神のロゴス、あるいはキリストはイエスから離れた、という説が説かれたりした時代もありました。
 確かにユダヤ人は、人は死に際して、内にある命すなわち霊が人から離れると考えました。ですから、日本語訳では「息を引き取る」と訳されたところを原語通りに訳せば「息を吐き出す」となるのです。
 
「イエスは声高く叫んで、ついに息を引き取られた(息を吐き出された)」(15章37節)。
 
 この説を唱える者は、イエスが死んだ時に、イエスの内にあったロゴス、あるいはキリストが離れたのだとするのです。
 
しかし、バプテスマの時点での聖霊の降臨は、神のロゴスあるいはキリストが人間であるイエスに宿ったということではありません。そうではなく、聖霊はイエスがメシヤとしての使命、役割を果たすために神が送った力だったのです。
 
聖霊の降臨以後、イエスは必要に応じて、超自然的な奇跡を行うことができるようになりました。病気の癒しをはじめとする種々の奇跡は、聖霊の働きの現われであって、イエス固有の神の能力の現われではありません。
知識、能力の面でイエスはしばしば現代で言えば超能力とでもいうべき、驚くような力を示しましたが、基本的にはそれらはイエスの信仰と祈りに呼応した聖霊の働きの結果でした。
 
二世紀に書かれたとされる新約外典の「トマスによるイエスの幼時物語」には、五歳のイエスが超能力を発揮して、自分が作った水たまりを壊したり、肩が触れた子供を呪い殺すという話しが出てきますが、内容のおぞましさ以前に、イエスが奇跡を行うようになったのは、バプテスマの際の聖霊降臨以後であった筈です。
イエスの奇跡的な働きは、神としてではなく、あくまでも人としてであったのでした。その有力な証拠が使徒行伝におけるペテロの証言です。
 
「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとくいやしながら巡回されました」(使徒行伝10章38節 199p)。
 
 「ナザレのイエス」という言い方は、人であるイエスは、という意味での用法です。在世中のイエスは神の身分を保ちつつも徹頭徹尾、私たちと同じ人間でありました。人であった時のイエスは能力的な限界を持っていたのです。
 
それは弱さについても言えることでした。イエスは私たち同様、人としての弱さも持っていました。それは私たち人類の代表となって罪の誘惑と戦いつつ、罪のない生涯を生き抜き、そして罪を一つも犯すことのないまま、十字架の上で私たち罪人のため、身代わりの死を遂げるためでした。それは、ヘブル人の手紙を見れば明らかです。
 
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなおかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じような試練に会われたのである。…キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞き入れられたのである」(ヘブル人への手紙4章15節、15章7節 347p)。
 
イエスは神の御子のままで、しかしあくまでも人間として死なれたのでした。そしてイエスがキリストとしての使命を果たし抜くために、鳩のようにイエスの上に下って、そして最後の最後まで共にあったのが、神から送られた聖霊だったのです。
 
 神の御子のイエスがあたかも罪人であるかのようにバプテスマを受けられたのは、罪深い人の仲間となるという覚悟の披歴でした。
そして天の神は愛する我が子に聖霊を送って、イエスをメシヤ・キリストとしてこの世の働きへと送り出されたのでした。
 
それはこの私一人を救うためでもあったのでした。こうして我らの主は覚悟を決めてバプテスマを受け、私たち罪びとたちの中へと旅立たれたのでした。すべてはそこから始まった、のです。
 
 イエスは復活して、今は主の主、王の王として、天の高みにおられます。しかし、イエスを主と告白する者にとって、イエスがいます天は遠い所ではありません。遠いどころかすぐ近くにあるのです。
 
使徒パウロはマケドニアの教会に送った励ましの手紙の中で、主はあなたがたのすぐ近くにおられる、と書きました。
 
「主は近い」(ピリピ人への手紙4章5節後半 312p)。
 
 この「主は近い」という言葉を世の終わりは近い、主の再臨は近いと読む読み方もありますが、これは新共同訳聖書の訳のように、主はいつでもあなたがたのすぐ近くにいてくださる、という意味なのです。
 
「主はすぐ近くにおられます」(同 新共同訳)。
 
 その働きを、あたかも罪びとのようにバプテスマをもって始めたイエスは、天に挙げられた今も、私たちのすぐ近くにおられます。だからこそ、イエスを信じる者は、思い煩うことの多い憂き世をも、感謝と讃美をもって渡ることができるのです。
 
「何事(なにごと)も思い煩ってはならない。ただ、事(こと)ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(同4章6、7節)。
 
 試練は続き、悪しき事態は一向に解決をみない、という現実の中にあったとしても、むしろそうであるならば余計、思い煩いを主に委ねて、「求めるところを神に申し上げる」ようにとパウロは勧めます。
なぜならば、よみがえられた主は、祈るわたしの「すぐ近くにおられ」(5節)るからです。