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2012年11月18日日曜礼拝「挫折の経験が人を本物にする―シモン・ペテロの場合」マルコによる福音書14章27~31、50~54、66~72節

2012年11月18日  日曜礼拝説教

「挫折の経験が人を本物にする―シモン・ペテロの場合
 
マルコによる福音書14章27~31、50~54,66~72節
(新約聖書口語訳77p)
 
 
はじめに
 
 女優の米倉涼子が主演する「ドクターX~外科医・大門未知子」というタイトルの、フリーランス(つまり派遣の)の女医が主人公のドラマが人気です。
 
主人公の決め台詞は「わたし、失敗しないので」で、その台詞通り、難しい外科手術を超人的スキル(技術)でことごとく成功させていくのですが、その圧倒的な自信は、海外における外科手術の豊富な経験によって培われたという設定のようです。
 
 「自信」と良く似ているものが「過信」です。一昨日の十六日金曜日、内閣総理大臣が解散権を行使したため、衆議院が解散され、十二月四日の総選挙告示、十六日の投開票に向かって選挙モード一色になりました。
 
思えば三年前の夏、「政権交代」と「マニフェスト」という言葉に幻惑されたとしか思えない有権者によって、新しい政権が誕生しましたが、三年経って実現したという公約はほんの僅かであるだけでなく、反対に、公約になかった消費税増税を推進したこともあって、政党と内閣支持率は右肩下がりとなり、ついに断末魔の解散に追い込まれてしまいました。
 
 何でこうなってしまったのかという具体的な原因はともかく、最大の原因は確かな根拠に裏付けられた本当の「自信」と、根拠のない単なる「過信」とを見分けることのできなかった有権者の眼力の無さにもある、とも言えます。
 
もちろん、騙された者よりも騙した方が悪いに決まっているのですが、騙した方もが自信満々で請け合った以上、それなりの結果を出すべきでした。
 
 日本政治の現下の惨状は三年前の二〇〇九年に、既に予見されておりました。二〇〇九年八月十六日の「健全な信仰は深い知識によって育てられる」の日曜礼拝説教要旨の「はじめに」に書いた部分を読み返してみたいと思います。
 
 
 …そこで思い出したのが「生兵法は大怪我の元」という諺でした。「生兵法」とは生噛りの武術のことです。武術を中途半端に修得した状態で他流試合をしたりしたら、大怪我をするということから、未熟な者がいい加減な知識や技術に頼って、大きな間違いを犯すことを戒めるたとえとして、この諺は使われます。
 
生兵法が問題なのは、大怪我をするのが自分だけならまだしも、多くの人を大怪我させる危険性があることです。 
 今月の末には、政権交代を賭けての総選挙が行われますが、「一度、やらせてみて、ダメだったら元に戻せばいい」という考えは、きわめて危険だと思われます。
 
 たとえば、父親の主治医は経験豊富なベテランだが、思ったように父親の病状がよくならない、だったら、一度、未経験ではあるけれど、意欲のある若い医者に手術を任せてみよう、と思うかです。命は一つしかありません。一度やらせてみて失敗したら、やり直しがきかないというものがあります。それが人の命と同じように、国家の命であって、その国の命運を左右するものが政治です。
 
 思案のしどころですが、「生兵法は大怪我の元」という諺を噛みしめて、深く、多面的に考えて投票行動を取りたいと思います。
 
 
 国難とも言える状況下、前回の失敗の反省の上に立って、三年後の今度こそは国の命運を左右する賢明な選択を、国民、有権者が取ることができるようにと、私たちは祈らなければなりません。
 
 しかし、また「失敗は成功の母」とも言います。そもそも過信とは自分を実態以上に過大評価することです。失敗の原因が「過信」を「自信」と見誤ったことにあることを知った者は、人も、そして自らをも正しく判断するようになります。
 
 今週は「過信」、すなわち自信過剰によって生み出した失敗に向き合ってその挫折を乗り越え、その上で正常な「自信」を回復することにより、イエスの信任に応えることのできた人物に焦点を当てて、挫折の経験こそが人を本物にするということを確認したいと思います。
 
そこで今週の説教題は「挫折の経験が人を本物にする―シモン・ペテロの場合」です。
 
 
1.失敗の経験によって知った弱さから出発をする時、人は本物となる
 
 「あいつは失敗をしたことによって一皮(ひとかわ)剥(む)けた」などと言う場合があります。
 過越の食事を終えてゲッセマネの園に行く途中、イエスは弟子たちに対し、彼ら弟子たちが師のイエスを裏切る、ということを予告しました。
 
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、『あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう』」(マルコによる福音書14章27節 新約聖書口語訳71p)。
 
 「つまずく」は、スキャンダルの語源にもなった言葉で、罠にかかる、道を踏み外すという意味を持ちます。つまり、弟子たちはみな、足を滑らせて師を裏切るということをイエスが予告したのですが、これに対して真っ先に反応したのがペテロでした。ペテロは言いました、「他の連中はともかく、私に限ってはそんなことはありません」と。
 
「するとペテロはイエスに言った、『たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません』」(14章29節)。
 
 しかし、イエスはより具体的な予告をします。それは、まさに今夜、あなたは一度ではなく三度、私との関係を否定する、という内容でした。
 
「イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そういうあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』」(14章30節)。
 
 「にわとりが二度鳴く」(30節)とは、ローマの番兵の交代を告げるラッパの音(ね)を指しました。その音が鶏の鳴き声に似ていることから、「にわとりが鳴く」と表現されていたのです。
 これに対してペテロは血相を変えて否定をし、「あなたと一緒に死ななければならない情況になったとしても、あなたを知らないなどとは決して言わない」と言い切ります。
 
「ペテロは力をこめて言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。みんなの者も同じようなことを言った」(14章31節)。
 
 ところが、ゲッセマネの園で祈りを終えたイエスが、裏切り者の弟子ユダに手引された神殿警備員たちによって逮捕された時、弟子たちはイエスの予告通り、イエスを見捨てて逃げ去ります。
 
「人々はイエスに手をかけてつかまえた。…弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去った」(14章46、50節)。
 
 ペテロはどうしたかと言いますと、彼もまた一度は他の弟子たちと一緒にその場を逃れたようでしたが、逮捕、連行されたイエスのことが心配で堪らず、遠くから密かについていき、イエスの裁判が行われている大祭司カヤパの官邸の中庭に入りこんで、裁判の様子を窺っておりました。
 
「それから、イエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな集まってきた。ペテロは遠くからイエスについて行って、大祭司の中庭まではいり込み、その下役どもにまじってすわり、火にあたっていた」(14章53、54節)。
 
 やがて審理が進んでいって、聖なる神を冒したという罪状によってイエスは有罪を宣告されることになりますが、その時、官邸で働いていた者がペテロを見て、「この人はいま、有罪宣告を受けたばかりのイエスの仲間だ」と言いだしたのです。
 
「ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の女中のひとりがきて、ペテロが火にあたっているのを見ると、彼を見つめて、『あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった』と言った」(14章66、67節)。
 
 あわてたペテロはそれを打ち消して場所を移動するのですが、移動した場所でも同じ指摘を受けたため、それを打ち消しているうちに、周りの者たちからもそのガリラヤ訛りを指摘され、イエスとの関係を必死になって否定してしまいます。
 
「ペテロは再びそれを打ち消した。しばらくして、そばに立っている人たちがまたペテロに言った、『確かにあなたは彼らの仲間だ。あなたもガリラヤ人だから』。しかし、彼は、『あなたがたの話しているその人のことは何も知らない』と言い張って、激しく誓いはじめた」(14章70、71節)。
 
 「激しく誓いはじめた」(71節)の「誓」うは、呪われる、という意味を持つ言葉です。つまりペテロは、自分の言葉が嘘ならば、神に呪われてもよい、という意味でこれを使用したのです。
そしてその直後、鶏の鳴き声に似たラッパの音が響き、ペテロはイエスの予告を思い出して泣き崩れます。
 
「するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出して、思いかえして泣きつづけた」(14章72節)。
 
 韓国済州島出身の呉善花(オ ヨンファ)拓殖大学教授が明治天皇の玄孫(やしゃご)として知られる竹田恒泰慶應義塾大学講師との対談の中で、韓国人の習性について「韓国人は自分の周囲で何か不幸や問題があったとき、自分ではなく、まず誰かのせいにしようというのが習性になっています」と指摘しているのですが(Voice 平成24年10月号)、ペテロが号泣したわけは、イエスを裏切るという失敗を招いたものが誰のせいでもなく、ただただおのれの愚かさ、弱さにあることを実感したからでした。
 
 それまでのペテロは自信満々の人でした。どんな場合でも真っ先に手を挙げ、口を出しました。しかし、この経験が彼を変えたのです。彼は自分の実態を知ったのでした。彼は自分が思っていたよりもずうっと弱い者であることをはっきりと思い知らされたのでした。そして彼はこの失敗、挫折の経験を通して、深みのある人へと変えられていくことになります。
 
 それを証明するものこそ、この出来事を私たちがいま現に読んでいるという事実にあります。
 ペテロの醜態は、どのように伝えられたのでしょうか。そこにいた者はペテロだけでした。ということはペテロ自身が話したのです。ペテロが口を拭っていれば、そのみっともない「事件」はなかったことにすることもできたということになります。しかし、彼は情けない自分の姿を包み隠さずに証ししたのでした。それは彼が自分自身を正しく評価したこと、自分の弱さをありのまま自覚して再出発したことを意味します。
 彼は自己「過信」から解放され、真の勇者となったのでした。
 
 
2.人が弱く脆い存在であることを承知の上で、イエスは選びを行う 
 
 イエスほど、人というものを正しく厳しくそして暖かく評価できる方はおりません。
 
 イエスはペテロがイエスのことを「わたしは知らない」(68節)と否定した時、「何と言う情けない奴だ」と思って失望したでしょうか。
いえ、イエスは失望もせず、怒りもしなかったと思われます。イエスは弟子たちがご自分を見捨てることも、ペテロがいつどこでどのようにご自分との関係を否定するかということもご存知であったのです。
イエスはペテロのほんとうの姿を承知の上で彼を弟子としたのでした。
 
 イエスはペテロの性格をよく知っておりました。ですからペテロがイエスを案じて、裁判が行われる大祭司の官邸まで来ることまでも予測をしていたのです。
ですからローマの番兵の交代を告げるラッパが時を告げる前にあなたは三度私を否む、という予告をイエスがしたのは、「私はあなたのことはよくわかっている、あなたの良い所も、そしてあなたの弱い所も。だから私の前では無理をしなくてもよいのだ」ということを伝えようとしたからではないでしょうか。
そしてそのイエスの心情、深い思いやりを悟ったこともまた、ペテロを号泣へと導いたと思われます。
 
「するとすぐ、にわとりが二度目に鳴いた。ペテロは、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた」(14章72節)。
 
 「泣きつづけた」(72節)の原語は、感情を抑えきれずに泣き叫ぶという場面で使用される言葉です。ですからリビングバイブルがこの個所を「ペテロは激しく泣きくずれました」と訳しました。ペテロはこのとき、そのままの自分を愛し、そして選んでくださったイエスの大きな心を知ったのです。
 
 そしてその時から自分は使徒だ、しかも使徒の中ではリーダーなのだ、弱みを見せたら権威がなくなる、などという頑張りから解放されて、自分の失敗も告白し、また称賛されることがあっても有頂天になることなく、淡々と使徒の務めを果たして行く人に変わっていくことになります。
 
 自分は上司だ、部下に弱みは見せられない、父親は尊敬の対象だ、だから子供に無様な姿を見せてはならない、など、確かにそれはそれで一つの美学ではあるわけですが、過剰な自信の反動は自信の喪失です。人は無駄な自意識から解放されると楽になるものです。
 
 そしてイエスというお方は、私たちが弱く脆い土の器であることを知った上で、あえて選んでくださっているのです。 
 
 
3.弱さの自覚から再出発した者には、神への恐れと人への労わりが伴う
 
 人生において挫折を経験することは、確かに痛みを伴いはしますが、挫折や失敗の経験は人を磨く上で有用な役割を担います。
 
 神学生の時に読んで共鳴した、スイスの教育学者で政治家でもあったカール・ヒルティはその著作「眠られぬ夜のために」の中で、記憶によれば、ヒルティは「これまでに激しい苦悩を味わうことなく、自我の大きな敗北を経験したことのないもの、つまり自我が打ち砕かれたという経験のない者は、物の役に立たない」「そのような(失敗の経験のない)人は高慢で鼻もちならない人間になる」とも書いていたように思います。
 
 三年前のいわゆる「政権交代」時、選ばれる側は自らを過大評価しておりました。また選ぶ側も彼らを過大評価して票を投じました。
そして三年後の今日、ひたすらの自己弁解と、それに対する失望、そして怨嗟の声。しかし、どちらもどちらであったのです。騙されたとはいえ有権者もまた、国を壊した加害者でもあったということを自覚しなければなりません。
 
 先のことはわかりません。しかし、専門家の予測によれば、次の日本国のリーダーになるのはかつて、難病と悪意に抗しきれずに政権から降りた経験を持つ野党の総裁であるとのことです。
もしそうであるならば、苦い挫折の経験と苦しい臥薪嘗胆の日々が彼を磨いて、疲弊した我が国を建て直すよきリーダーとなることを期待することができるかも知れません。
 
自分の弱さの自覚から出発した人は、人生の縦軸を構成する神あるいは天との関係においてはゆるしの神、選びの神への感謝と恐れに溢れ、一方、人生の横軸を形成する他者との関係においては、とりわけ弱さを持つ人々への労わりと気遣いを膨らませることができるようになります。
 
私たちは困難な時代を生きておりますが、ペテロを選んだあのイエスは私たちが心に信じ受け入れたイエスと同じ方です。
 
イエス自身は罪こそ犯しはしませんでしたが、私たちの弱さを思い遣ることのできない方ではありません。ですから「もうダメだ」「私は失格者だ」といって、自分に有罪の烙印を押してはなりません。
イエスは私たちを無罪とするために有罪の宣告を受けられ、私たちに新しい出発をさせるために心の扉を叩いてくださったのでした。
イエスは今も昔と同じ姿、同じ心で、いかなるときにも共にいてくださいます。
ヘブル人の手紙において、著者は読者を励まします。
 
「だから、私たちは、あわれみを受け、また恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル人への手紙4章16節 347p)。
 
 「恵みの御座」(16節)とはゆるしの座を意味します。自信過剰の「過信」から一気に「自信」の喪失状態に陥る人もいます。しかし、そのような人にも聖書は語りかけます。「はばかることなく」赦しを受けよ、と。「はばかる」とは気兼ねする、気後れして遠慮する、という意味の言葉です。
 
 そしてこの「めぐみの座」に出で行く者のうちに、かつてない程に、神への感謝と人、とりわけ弱さを持つ者への労わりが溢れてくるのです。