2012年11月4日 十一月日曜特別礼拝説教(第六回)
「人は神により、神を喜び楽しむ者として創造された」
創世記1章31節~2章4節(旧約聖書口語訳2p)
はじめに
昨年の十一月末、アメリカ航空宇宙局(NASA)が「キュリオシティ」と言う名称の火星探査機を搭載した宇宙船を打ち上げました。宇宙船は順調に飛行して火星上空に無事到達し、八月六日に、探査機を火星に着陸させることに成功しました。キュリオシティは二年かけて火星表面の土や岩石等を解析し、火星における生命体の存在を探求するとのことです。
探査機の名称「キュリオシティ」は好奇心という意味だそうですが、「キュリオシティ」の火星着陸の模様についてはNHKが先月、NHKスペシャル「火星大冒険 地球外生命を発見せよ!」という番組で特集をしておりました。ごらんになった方もおられると思います。
火星は地球型惑星に分類され、太陽系の中では太陽からの距離が地球に次いで四番目に近い惑星で、たこのような火星人の想像図でなじみ深い星です。
火星には生命が存在するのかどうかは、確かに「好奇心」をかき立てます。火星ではひょっとすると極めて原始的な微生物の存在の痕跡程度は発見されるかも知れません。しかし、火星には人類のような知的生命、高等生命は存在しません。
それは火星の大気が主に二酸化炭素から成っていて、平均気温もマイナス55度の低温という生命の存在に劣悪な環境であるからではありません。火星には生命が存在する理由も必要もないからです。
生命が存在する惑星は、この広大な宇宙の中で地球のみ、です。それは地球のみが、創造者である神によって、人類の住まいとして設計、施工された特別な惑星だからです。
地球は偶然に出来たのではありません。創造者である唯一の神の意図と構想のもとに造られたのです。何のためかと言いますと、人類が地球を住まいとして、創造者である神を喜び楽しむために、です。
本日で、六月から毎月、月の初めの日曜日に行ってきました特別礼拝の最終回となりました。そこで本日は「人は神により、神を喜び楽しむ者として創造された」というタイトルにより、「神と人間」についてのシリーズの締めくくりとしたいと思います。
1. 人は神によって、創造の冠としてこの世に送り出された
先月の特別礼拝では、人間と自然、地球環境の関係について、特に自然に対し、人間の立場は所有者ではなく管理人であるということについて学びましたが、では人間は神の創造のわざの中でどのような位置を占めているのかと言いますと、人間は神の最高傑作なのだと聖書は言います。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」(創世記1章31節 旧約聖書口語訳2p)。
「終わりよければすべてよし」と言います。創造のわざの最後に造られたものが人間であって、神は最後の作品である人間を見て、「はなはだ良かった」(31節)と言われたのでした。「はなはだ良かった」とはベリーグッドということです。
確かに、人間そのものを見たとき、「はなはだ良かった」といえるかどうかは、はなはだ疑問です。
いま、連日のようにニュースを賑わしている事件報道が、尼崎遺体遺棄事件の報道です。そのあまりの残虐さに身の毛がよだつ思いがしますが、「従軍慰安婦」問題を捏造して世界に日本の残虐さなるものを喧伝している隣国で、珍しく自己を美化せず、まともに、正直に自国の問題点を指摘、分析している報道を見つけました。
「希望不在の大韓民国」という題の朝鮮日報八月十九日の社説で、筆者の肩書きは社会政策部長です。
世界最高の自殺率、伝染病のように広がるうつ病、学級崩壊、増加する性犯罪、大統領府や国会から工事現場の寄宿舎に至るまで漫然としている腐敗や汚職…。このような現状を見て誰かが『韓国社会はアノミー(混沌状態)』に陥っている」と判断しても、『違う』と否定する根拠が見出せない。韓国社会のアノミー的症状は、手術などですぐに治療可能な急性の症状ではない。
まるで大地震の後、余震が続くかのようにこの20年の間に何度か発生した、国を揺るがす大きな衝撃が、韓国社会や家庭、個人に静かに浸透し、そうして蓄積された膿(うみ)が同時に噴き出した姿と言いえる。
文民政府(登場の)後、韓国社会が迎えたのは成熟した市民意識、責任ある自由、他人に配慮する生活ではなく、自分勝手や秩序破壊、真実を踏みにじる偽りや不法行為だった。
バスや地下鉄に70―80代の高齢者が乗ってきても若者たちは見て見ぬふりをし、その代り50-60代の人が席を立ち、譲るのが当然のように思われるような世の中になった。
隣人たちはエレベーターのなかであいさつを交わさなくても、もはや不自然に感じなくなった。真夜中や明け方にクラクションを鳴らし、他人の睡眠を妨害する。対向車に道を譲ってもらってもありがとうと笑顔を見せることもない。
子どもたちが先生を殴り、教室が修羅場となっても誰も責任をとろうとしない。教育の根幹を崩壊させる子どもたちの非倫理的な行為から、大人たちは目をそむけ、耳をふさぎ、時間が過ぎることだけを願っている。
過去に類をみない猟奇的な殺人事件の数々は、韓国社会のアノミーが威力を増大させていることを感じさせる。他人に向かう呪いや殺気が、かつて韓国社会に形成されていた線を越えている。
今、われわれは政治、経済など全ての分野で崩壊してゆく社会を立て直すリーダーも、ロールモデル(手本となる存在)も、メンター(助言者)もいない状態だ。韓国の未来が希望あるものだという強い信念を与えてくれる人物も見当たらない。そのため、さらに希望が見えなくなっている…
しばしばネットで韓国の主要新聞を覗きますが、これほどまでに正面から自国の状況、惨状を分析した評論を読んだことはありません。そしてこの社説が、その結びを「さらに希望が見えなくなっている」で終わらせているところに、希望を持てなくなった筆者が「深い淵」(詩篇130篇1節)の底に佇んでいることがわかります。
日本には、信徒が全国民の三十五パセントの割合を占めるキリスト教の影響によって、韓国は倫理性の高い国となっていると称賛する人がいますが、にも関わらず、その実態はこのように無残であるようです。
もしもこの社説の読者が、そして一般国民が、お家芸ともいうべき責任転嫁の習慣に陥らずに、記者が指摘した事実を自らの課題として正面から受け止めるならば、この「希望不在の」国にもまだ望みはあるかも知れませんが。
日本国憲法の前文に象徴されるように、日本人は性善説に立って物事を見るのに対し、中国人は韓非子(かんぴし)の思想である性悪説に立っている、という見方があります。
紀元前四世紀の法家を代表する思想家であった韓非子は、その師匠格にあたる荀子(じゅんし)の「人の性は悪なり」という考えに立って、「人はムチで脅し、アメで懐柔して操縦しないと禍を招く」と教え、「法治(ほうち)」を強調しました。
ただし、韓非子のいう「法治」とは現代の西欧的法治国家の法治ではなく、自由の対極の、賞罰による否応なしの強制を意味します。そういう意味での法治国家が大陸の現在の隣国です。
そして我が国です。虎の子の政権を延命させることを最優先事項とする政権が、「マニフェストになかった消費税法案が国会で可決されたなら、『近いうち』に国民に信を問う」と明言したにも関わらず、解散を一日延ばしに延ばし続けている、そういう節操のない国が我が国の現状です。
先行きの暗い半島の隣国にせよ、他国の領土を虎視眈々と付け狙う大国の隣国にせよ、そして優柔不断な我が国(の為政者)にせよ、「はなはだ良かった」筈の人類は、一体ぜんたい、どこに行ってしまったのでしょうか。
しかし、創造の最初に、人類は神の作品の中でも最高の傑作、比類のない特別なものとして造られたのでした。そして、現在の人類がいかに劣化してしまっているとしても、人間が神の創造の冠として造られたという事実は決して変わることはありません。
「原点を戻れ」という言い方があります。人類の原点、それは創造の昔に「はなはだ良かった」ものとして造られたという事実にあります。人は神により、最高傑作としてこの世に生み出されたのです。そしてそれは今も同様です。
人はおのおの、親を通してですが、神の作品、神の最高傑作としてこの世に送り出されてきているのです。例外はありません。
ヨブは試練の中で「わたしの生まれた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜もそのようになれ」と、自らの出生を呪いました(ヨブ記3章3節 旧約聖書口語訳699p)。
程度の差はあれ、ヨブのように自らの誕生、そしてその存在を寿(ことほ)ぐことの出来ない人はこの日本にも数多(あまた)居ることと思います。
しかし、私たち誰もが、その誕生の際には親、祖父母、親族と共に、創造者である神が「はなはだ良かった」と祝福してくれた筈なのです。人はみな、神の最高傑作としてその生を始めている、それが、人が認識すべき第一の原点です。
2. 人の歩みは、安息日に神を喜び楽しむことから始まる
創世記では天と地とは六日間で造られたことになっています。そして人類の創造は最終日の六日目です。
「夕となり、朝となった。第六日である」(1章31節後半)。
もちろん、それは時計が刻むクロノロジーという時間と同じ六日間ではありません。宇宙物理学では地球の誕生は四十六億年前です。この「第六日」というのは、神の世界創造の順序とそのわざの完了を意味する表現です。
「こうして天と地と、その万象(ばんしょう)とが完成した」(2章1節)。
しかし、それで終わりではありません。この「完成」(1節)は次の段階の始まりを意味します。
たとえば、家が出来た、家具も搬入した、電化製品も買い整えた、夫婦が入居した、それで完了、ではないのです。そこから新しい生活が始まります。
「天と地と、その万象とが完成した」(1節)とは、その後の新しい生活の始まりを意味する宣言なのです。新しく始まる生活とは、人が人生のパートナーである神を喜び楽しみ、人生を喜び楽しむ生活でした。
神はご自分が造られたものを点検して、ベリーグッドと言われ、満足し、作業を終えた七日目に「休まれた」と創世記には記されています。
「神は第七日に、その作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた」(2章2節)。
しかし、神は「休まれた」(2節)だけではありません。その七日目を特別な日として聖別したのでした。
「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終わって休まれたからである。これが天地創造の由来である」(2章3、4節前半)。
これは「天地創造の由来」(4節前半)であると共に、安息日の「由来」でもありました。
紀元前一二九〇年のエジプト脱出後に、神の恵みによってイスラエル共同体が形成されたとき、指導者モーセを通じて十の戒めが授けられましたが、その中の一つが安息日規定でした。
「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはなあない。…主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである」(出エジプト記20章8~10節前半、11節)。
この「七日目」は神にとっては作業を終えられた日ですが、六日目に創造された人間にとっては初日です。そしてここに人間の創造の目的がありました。つまり神に創造された人間が最初になすべきことは、神が休まれた七日目に神の創造のみわざを称え、創造の神を礼拝すること、そして礼拝と祈りを通して神を喜び楽しむことだったのです。
そもそも地球は、地球環境は、人類のために、そして神と人類とが親しく交わることを目的として神が用意してくれた人類の住まいであり、礼拝の場所なのです。住まいができたから、もう神様には用がない、というのであればそれは恩知らずの人非人(にんぴにん)ということになります。
神は人の下僕でも便利屋でもなく、崇められるべきお方であり、一方、神を礼拝し讃美することが神に造られた人間の本分です。そのことを強調したのが詩編の作者でした。
「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を讃美するために民は創造された』」(詩編102編19節 新共同訳)。
安息日の「第七日目」は土曜日です。しかし、西暦三二一年、ローマ皇帝コンスタンティヌスはイエス・キリストが墓から復活した日曜日を公式にローマの、つまり世界の休日に定め、以後、キリスト教会は日曜日を聖日として礼拝をするようになりました。
そして明治政府も明治九年三月、太政官布告によって土曜日の午後と日曜日を休日とする法令を発布し、これによって、日本にも西欧のキリスト教国同様、週七日制が導入されるようになったのでした。
日曜日は全人類が挙って創造の神を礼拝し、復活の御子を讃美することによって、神を喜び、神の恵みを楽しむ日なのです。それが人が顧みるべき第二の原点です。
3.人の幸いは、平日の道を造り主と共に歩むことにある
では礼拝さえしていればそれでよいのかと言いますと、そうではありません。月曜日から金曜日、あるいは土曜日までの平日もまた、大事な日です。
「六日のあいだ働いて、あなたのすべてのわざをせよ」(出エジプト記20章9節)。
人は六日の間、それぞれの仕事に精を出して働き、勤労の実を得るのですが、人は休息を必要とします。休息が平日の勤労のエネルギーとなるのです。
ですから安息日規定は単なる律法規定などではなく、ともすれば働き過ぎてしまう人間を慮(おもんばか)って神が定めてくれた「労働基準法」でもあったのでした。そしてそれはまた、家の主人や使用者だけではなく、使われる、弱い立場の者たちへの神のご配慮でもあったのです。
「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである」(20章10節)。
週に一日、たとい強制的にであったとしても、仕事を離れ、体を労わることによって、人は心身に安息を与えること、それによって明日への英気を養うことが必要です。特に日本人は勤勉です。働き過ぎてしまってその結果、過労死に至ることがあります。
安息日とは幸せな平日のため、平日の充実した勤労、勉学のために神によって設けられた恵みと祝福の日です。日曜日に神を礼拝することは人のためでもあるのです。
日曜日に仕事をしなければならない職業の人はどうなるか。そのような人は休日を聖別して神を礼拝する日とすることによって、神との交わりを平日のためのエネルギーとしたら良いのでしょう。
人の幸せは、平日の道を自分の造り主と共に歩むことだからです。
「エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神と共に歩み、男子と女子を生んだ」(創世記5章22節 6p)。
この節の「神と共に歩み」に使われている動詞は再帰動詞と言いまして、これが繰り返し、行ったり来たりするという意味の言葉だということは、ヘブライ語の授業の最初に習います。
エノクが「神と共に歩」(22節)んだということは、エノクが神がどこに行ってもその神についていく一方、神もまたエノクと常に共にいた、という意味なのです。
日曜日に神を礼拝し、神を喜んで、それで終わりなのではありません。神は平日の道も、神を信じる者に同行してくださるのです。
人の幸いとは平日の道を、それは労苦の多い困難な道であったとしても、神を仰いで神と共に歩むことでもあります。
そしてそれを認識することが、人が戻るべき第三の原点です。