2012年2月19日 日曜礼拝説教
「優先順序の『優先選択』が実を結ばせる秘訣」
コロサイ人への手紙1章10節(新約聖書口語訳314p)
はじめに
古代中国の思想家は人の一生を色で表しました。
「青春」「朱夏(しゅか)」「白秋(はくしゅう)」そして「玄冬(げんとう)」です。
人というものは、十代、二十代には未熟ながらも「青春」時代を謳歌し、三十代、
四十代の活動的な「朱夏」を経て、五十代、六十代という「白秋」の円熟期に至り、そして、七十代、八十代の「玄冬」で人生を完成させる、というわけです。
因みに「朱夏」の朱は赤色でダイナミックスさを、「玄冬」の玄は黒色のことで奥深さを表します。
しかし現実は、いくつになっても青臭く未成熟状態のままであったり、ベテランを意味する「玄」人(くろうと)の域には到底達しないままに、年を重ねて人生を終わってしまうということにもなりがちです。
できればその年齢に相応しい熟度に達しつつ、人生の春を、夏を、秋を、そして冬を楽しみたいと思いますし、とりわけ私たちはキリスト者として、神にかたどって造られた人間としても、信仰の面でも進歩、成長して、豊かな実を結ばせたいと願うものです。
そこで今週は信仰の実を結ばせるための秘訣である優先順序、つまり何を先にするかという順番について再確認することによって、青から朱、朱から白、白から玄(くろ)へと着実に成長の道を進んでいきたいと思います。
優先順序と言いましても、重要度のランクのことではありません。進歩や発達には順番がある、ということなのです。実はこの成長のための優先順序という考え方はある米国の牧師さんが考え出したものなのです。ただ、その書名も著者も思い出せず、書籍自体もどこかに行ってしまったのですが、以前読んだときに、著者が展開していた論理に納得をし、以後、その論理を援用させてもらっています。
ところで、使徒のパウロの祈りは、福音を聞いた人たちが、福音を聞いたというレベルで終わるのではなく、日々の暮らしと歩みの中で、豊かな信仰の実を結ばせることでした。
「そういうわけで、これらのことを耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたが…主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」(コロサイ人への手紙1章9、10節)。
実を結ぶために欠かせないものがその人の中での優先順位の確立です。「急がば回れ」「急いては事をし損じる」「慌てる乞食は貰いが少ない」などと言いますように、順番を軽んじると良い結果を産むことができなくなりがちだからです。
昨年三月に起きた東日本大震災によって「絆(きずな)」の大切さが再認識されていますが、絆とは結びつき、繋がりのことです。
問題は何と繋がるか、そしてどのようにして繋がるか、そしてどの順番で繋がるか、ということです。
特に繋がりの順番を間違えますと、繋がり自体が負担にさえなってきます。そこで、今週は何に繋がるか、そして何が正しい順番かについて考えたいと思います。
1.まず「キリスト」であるイエスに繋がる
実を結ぶために踏む順番の第一位は、イエス・キリストに個人的にしっかりとつながるということです。イエスはぶどうの木の譬えで、枝が木に繋がっていてこそ、実を結ぶ、と言われました。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネによる福音書15章5節前半 166p)。
特に、どうも最近スランプ気味だ、伸び悩んでいるというような感じがする場合は、自分がイエス・キリストとしっかりと繋がっているかどうかを点検するとよいと思いますし、また、最近になって信仰に導かれた方々は、何よりもイエス・キリストとの個人的な関係を大切にしてください。
第一に、人は「イエス・キリスト」を個人的に信じ受け入れることによって、神の御子である「イエス・キリスト」につながり、神の命にもつながって、神の子とされるのだということを、改めて確かめたいと思います。
「しかし、彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネによる福音書1章12節135p)。
イエスを信じた者に「与え」(12節)られた「力」(同)とは権利、資格、立場ということです。イエスを主と告白するだけで、誰でも神の子という身分、立場を与えられるのです。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」
(ヨハネの第一の手紙3章1、2節 378p)。
「イエスは主なり」と告白した者は、当然、主であるイエス・キリストに強い興味を持ち始めます。
そこで次に努めることはキリストを知る、ということです。特に福音書と使徒行伝を中心に、イエスとは誰か、イエスは何を教えられたのか、イエスは私たちのために何をされたのかを学ぶことが大切です。聖書の中心はイエス・キリストだからです。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 144p)。
「あなたがた」(39節)とはユダヤ人たち、「わたし」(同)とはイエスご自身を指します。
そしてイエス・キリストに繋がるステップの三つ目が、日々の個人礼拝の実行です。
個人礼拝とは個人的にイエス・キリストと交わることです。交わりとは会話です。
会話は語りかけと応答から成り立ちますが、聖書を順に通読し、その中から神からの語りかけを個人的に聞きとって応答の祈りを捧げます。
短い時間であってもこれを毎日行うことによって、神からの命が信じる者の中に流れ込んでくるのです。
2.そして「キリストのからだ」である教会に繋がる
「イエス・キリスト」に繋がった者は、次に「キリストのからだ」に繋がります。
「キリストのからだ」とはイエスを主と告白する者たちの集まり、つまり教会のことです。
「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(コリント人への第一の手紙12章26節 271p)。
イエスを主と告白した瞬間に、人は神の子供とされます。
しかし子供は一人では生きていけません。子供には家族が必要です。そして生まれたばかりの子供たちのために神が用意した家族が教会なのです。
「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである」(エペソ人への手紙2章19節 303p)。
キリストに繋がった者が次にすることは、一つの教会を自分の家族として選び受け入れることです。それは暫定的であっても構いません。とにかく子供には家族と親が必要だからです。
家族は通常、食事を一緒にします。家族でする食事、それが、教会が主催する公的礼拝であって、食事を楽しむように、神の子供とされた者はイエス・キリストを主とする者たちと共に公同礼拝を楽しむ者となります。教会での礼拝は通常、イエス・キリストの復活日である日曜日に行われています。
「週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時」(使徒行伝20章7節 216p)。
パウロの時代、安息日は土曜日でしたので日曜日は平日でした。そこで信者さんたちは仕事を終えた日曜日の夜、実際には土曜日の夜に集まって神を礼拝讃美し、自分がキリストのからだの肢体の一つとされていることを感謝し確認したのでした。当時は、一日は日没から日没まででしたので、土曜日の安息日は日没で終わり、その日没から日曜日に入ったわけです。
その集まりがギリシャ語でエクレシア、集会、教会と呼ばれました。つまり教会堂という建物は、教会という集会の入れ物なのです。
キリストのからだである教会には、ただ信じるだけで、そして信じた瞬間から神によって繋げられ、天にある目には見ることのできない唯一の教会のメンバーとされます。そしてこの天の教会は、地上に見えるかたちでの教会を出張所として持っているのです。
天の教会のメンバーとされた者は、時期が来たら洗礼を受けて地上の教会に繋がることができます。洗礼とはキリストへの個人的な信仰を外に向かって公にする行為です。
「そこで車をとめさせ、ピリポと宦官(かんがん)と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた(使徒行伝8章38節 195p)
洗礼を受けていなくても天国には行けますが、洗礼を受けると、次に地上にある教会に会員籍を持つ教会員となることができます。
すでに実質的には神の家族なのですが、この時から神の家族の正式なメンバーとなるのです。
3.その上で「キリストの働き」に繋がる
キリストに繋がり、キリストのからだである教会に繋がった者は、次に「キリストの働き」に繋がるという特権に与(あずか)ることができます。親のすることを見ている子供は、自然に親の手伝いをしたいと思うようになります。
「イエス・キリストの働き」には「癒し」と「宣教」そして「執り成し」という三つのものがありました。
第一に、イエスは多くのエネルギーを、重荷を負って労している者の癒しに注がれました。
「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました」(使徒行伝10章38節 199p)。
私たちは医者のように病人を治すことはできませんが、心を痛めている人、悲しんでいる人の傍らに座って、相槌を打ちながら時間を惜しまずに話を聞くことはできます。そしてそれもまた、癒しの働きの一つなのです。
キリストの主要な働きには神の言葉を説くという宣教活動がありました。
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書2章17節後半 53p)。
そして誰もがそれぞれに与えられた賜物を使って宣教に参加することができます。
三十数年前、教団が主宰した米国研修旅行に妻と共に参加しました。カナダのバンクーバーから米国の西海岸、中西部そしてフロリダ半島のいくつもの教会を三週間で廻る旅でしたが、米国西海岸の教会で見た光景が、今でも時々思い出されます。
その教会は日曜日に二回、それぞれ数千人が集まる教会でした。よく組織された教会のようでしたが、その教会には四十人ほどの婦人のグループがありました。何をするのかと言いますと、礼拝に来た人々すべてと握手をして、歓迎の気持ちを表すのです。
その教会では会員はそれぞれの賜物に応じて聖歌隊、個人伝道のグループなどに所属し、キリストと教会に仕えていましたが、彼女たちは自分たちには個人伝道の賜物も、音楽の賜物もない、けれども、笑顔と手とがある、そこで教会に来た人が一人も漏れることなく幸せな気持ちで帰ることができるようにと、握手するグループを結成したというのです。時には教会付属の広大な駐車場の端まで追いかけて行って、車に乗り込む寸前の新来会者に、「ウエルカム!」と手を伸べることもあるとのことでした。
三週間の研修旅行はすべてが初物尽くしで、さまざまの事が印象深く記憶に残っていますが、この婦人たちにはとりわけ感銘を受けたものでした。握手という奉仕もまた、宣教の働きに繋がる立派な奉仕なのです。
そしてキリストの働きのもう一つが、執り成しの祈りを神に捧げることでした。イエスの祈りは大祭司の祈りと言われます。神と人との間にあって仲介をする祈りだったからでした。
「これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、『父よ、時がきました。…わたしは彼らのためにお願いします』」(ヨハネによる福音書17章1、9節 170p)。
神の家族のため、まだ福音を聞いたことのない家族、友人、知人のため、そして自分が住んでいる町の住民のために執り成しの祈りを捧げることもまた、キリストの手伝いの一つです。
かつて一人の高齢者の方がすまなさそうに、「してもらうばかりで何も出来なくて…」と嘆いていましたので言いました、「牧師のために祈ること、教会の働きのために祈ること、教会に来ている人のために神の守りを祈ることも、立派な奉仕です。お祈りでキリストの働きを手伝ってください」と。
優先順序の順番を間違いさえしなければ、少しずつではあっても、成長して実を結ぶに至ります。
時には奉仕が重荷になることがあり、教会の人間関係に疲れてしまうという時期もあるかも知れません。そんな時、教会をやめてしまうのではなく、優先順序の二番目あるいは一番目に戻って、イエス・キリストとの個人的な繋がりを深めるように努めてみることです。
信仰の伸び悩み、スランプを感じている場合も同様です。繋がりの順序、優先順序を点検してみてはいかがでしょうか。
「三」よりも「二」、「二」よりも「一」が優先だからです。