2012年1月1日 二〇一二年新年礼拝・第一回日曜礼拝説教
「鷲のように新たになる-御礼参りの日々を」
詩篇103篇1~5節(旧約聖書口語訳838p)
はじめに
日本語が少しずつ変ってきています。可能動詞の「見られる」は「見れる」に、「食べられる」は「食べれる」になど、「ら抜き」言葉が普通になってきました。
スマップが歌う「夜空のムコウ」はいい歌だとは思いますが歌う気になれないのは、歌詞に「何かを信じて来れたかな」という「ら抜き」言葉が使われているからです。この歌は中学校の教科書に採用されているそうですが、国語の教師たちは違和感を覚えないのでしょうか。
「超何とか」という言葉もそうです。アテネ五輪で金メダルを取った北島選手が「超気持ちいい!」と答えたときには、わたしは「気持ち」が一気に退いてしまったものでした。
本来の肯定的な意味が失われて、否定的な意味になってしまったものもあります。クリスマスイブ礼拝でも触れましたが、「御礼参り」がそうです。本来は受けた恵みに対して感謝の気持ちを示すために行った参拝を意味するうるわしい言葉が、いつの間にか、逆恨みによる仕返しを指す場合に使われるようになってしまいました。
しかし、本来の意味での御礼参りこそ、神礼拝の基本であり、日々の暮らしの土台です。
そこで新年の最初の礼拝では御礼参りをする理由と、御礼参りの仕方について、詩篇百三篇の最初の部分から教えられることによって、新しい年を始めたいと思います。
1.過去から今に至るまでのすべての恵みを、心に留めよう
詩篇百三篇は、詩篇の中で最も親しまれている詩篇の一つです。特に自分自身に向かって命じる二節の後半の言葉は、人が人であることの基本的姿勢を強調しているものと言えます。
「そのすべての恵みを心にとめよ」(詩篇103篇2節後半)。
「心にとめよ」は「忘れるな」という意味です。では何を心にとめるのかと言いますと、それは神から受けた「すべての恵み」です。二節のこの「すべての恵み」は新改訳では「主の良くしてくださったこと」の「何一つ」、新共同訳では「主の御計(おんはか)らい」の「何一つ」と訳されました。
「主の良くしてくださったことは何一つ忘れるな」(新改訳)。
「主の御計らいを何一つ忘れてはならない」(新共同訳)。
時期的には、それは既に過ぎ去った過去から今に至るまでの期間に神から受けたものであって、事柄としては罪のゆるしと病の癒し、そして滅びからの救いを指します。
「主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないだし」(103篇3、4節前半)。
詩人は自分自身に向かって第二人称で、「あなた」あるいは「おまえ」と呼びかけます。わたしたちも心が萎えるとき、失望するとき、自らに向かって、「主はおまえの…」と呼びかけて、信仰を呼び覚ましたいと思います。
「こころにとめ」るべき「すべての恵み」の第一は、不義のゆるしです。「不義」(3節)は新改訳では「咎(とが)」と訳されていますが、これは頭では悪いこととわかっていながら犯してしまった罪を意味します。
わかっていながらやってしまったものですから、それは記憶の中にいつもあってズキズキと心を責めるものです。しかし、ダビデが自分の不義を告白して悔い改めた時、神はダビデの「すべての不義」を赦してくれました。
「わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義をかくさなかった。わたしは言った、『わたしのとがを主に告白しよう』と。そのときあなたはわたしの犯した罪をゆるされた」(詩篇103篇5節)。
二つ目の「恵み」は「病」のいやしです。人は生まれた瞬間から日々、病気をもたらす病原菌の攻撃に晒されている存在です。病気と無関係に生きているように見える人も、知らない部分が病魔に犯されているかも知れません。
しかし、人が肉体を持つものとして生きるようにされた全能の神は、人が病む存在でもあることを知っておられる癒しの神です。神は今も癒しのわざを、神を信じる者の身に行っていてくださるのです。
そして三つ目の「恵み」が「あなたのいのちを墓からあがないだし」(4節)たという恵みです。
口語訳の「墓」の原語は「穴」です。「墓」という穴は死者が住まいである黄泉(よみ 陰府)への入り口を意味しました。黄泉には神は不在ですから、黄泉に下るということは神との別離を意味し、それを聖書は滅びと言いました。ですから「墓(穴)からあがないだし」とは、滅びからの救い、関係論的には神との永遠の交わりを指します。
これらの三方面における恵みは、過ぎ去った過去から今に続く神の「恵み」、「神が良くしてくださったこと」(新改訳)です。そして私たちはこれらを「何一つ忘れ」ないようにしなければなりません。
2.今から将来にかけて受ける恵みを、心に堅く信じよう
神の恵みは神を待ち望む者に対しては今から将来に向かっても、豊かに注がれると詩人は確信します。
その第一の「恵み」は神の慈しみと憐れみとが、神を信じる者の頭上から離れることがない、という恵みです。
「いつくしみとあわれみとをこうむらせ」(103篇4節後半)。
「慈しみと憐れみ」は旧約聖書ではほぼワンセットで出てきます。「慈しみ」は、普通の親が我が子に対して持つ愛情にも似た情愛です。「憐れみ」はその反対語が残忍であると言えば理解の助けになるでしょう。
「こうむらせ」と訳された言葉は冠を被(かぶ)せるという言葉です。つまり、今から後、生涯にわたって神のいつくしみと憐れみは信じる者の頭上にある、という告白です。
二つ目の確信は信じる者の一生を良いもので満たす、というものです。
「あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる」(103篇5節前半)。
たとい粗末に見えるものであっても感謝して着、食し、飲み、住むならば、それは「良き物」なのです。とりわけ、食べることにおいて、神の恵みを想いたいと思います。
最近、新聞の朝刊で、投稿詩の月間賞に選ばれた「豚と私」という、四十二歳の女性が書いた詩を読みました。
私はあなたを食べる そしてあなたが食べた穀物を食べる
野山で生きたかった夢を食べる
子を取り上げられた悲しみを食べる そして私は生きている
だから私は私だけのものではない あなたの命が私の中で生きている
だから私は命尽くして生きなければならない
この詩の作者がクリスチャンなのかどうかは知りませんが、命を保つために他の命を食べている、「だから私は命尽くして生きなければならない」という決意表明には粛然とさせられました。
人は誰でも神が定めた寿命が来れば、地上の肉体を離れなければなりません。しかし、それまでの間は常に側にいて、尊い物、良い物で日々の暮らしを満たして下さるお方、それが、私たちが主と仰ぐ生ける神なのです。
もちろん、「良き物」は人によってそれぞれ異なっています。ですから他人が持っているものを羨んではなりませんし、反対に自分が持っているものを人に向かって誇ってもなりません。
ヨセフのことを思います。族長のぼんぼんで、蝶よ、花よと育てられていた十七歳の少年が強い悪意によって異国に奴隷として売られて、その上冤罪で無期の囚人にまでなるのですが、三十七歳の時になってエジプトの宰相に抜擢されて亡国の危機に対処するという実話が、創世記に記録されています。
紀元前十六世紀の出来事です。驚くのはまだ将来が見えない奴隷の時代にヨセフが自身を「幸運な者」と考えたということです。
「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプト人の家におった。その主人は主が彼と共におられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」(創世記39章2、3節 54p)。
ヨセフの物語は歴史的事実です。ですから「幸運な者」(2節)という理解はヨセフ自身によるものです。
彼は人間的には不幸の極致とでもいうべき環境、不条理を画に描いたような状況にあっても、自らを「幸運な者」として認識したのでした。それは「主が」ヨセフ「と共におられ」(2節、3節)ることを実感していたからでした。
彼は極限の不幸せの中でも「良き物」を神から受けていると思うことができたのでした。
詩人が持った三つ目の確信は、いま流行りのアンチエイジング、若返りです。
「こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる」(103篇5節後半)。
「わし」は鳥類の中では王者としての位置を占めている鳥であって、古代ではローマ皇帝の紋章となり、近代では米国の国章となっているように、衰えることのない若さと生命力を象徴している鳥です。
以前にも紹介しましたサミュエル・ウルマンは八十歳になった時、その八十歳になったことを記念して発行した「青春」というタイトルの詩において、「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」と言い切りました。
「年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る」というウルマンの信念は正鵠を射ていると思います。
老化防止のための日々の努力も必要ですが、鷲が太陽に向かって飛ぶように、私たちも義の太陽であるキリストを仰げば、内なる精神は確実に若返るのです。
3.惜しみなく恵みを注ぐ聖なる神を、全身全霊で讃美しよう
詩人が詩篇百三篇の冒頭で、自らに向かって神を讃美せよ、と呼びかけたわけは、彼の神が、信じる者の過去から今、今から未来にかけて惜しむことなく恵みを注がれる聖なる神だからでした。
「わがたましいよ、主をほめよ」(103篇1節前半、2節前半)。
「ほめよ」は「褒めよ」ではなく「誉めよ」です。褒めるのは上の者が下の者をほめることであって、下の者が上の者をほめるのが誉める、つまり称賛する、です。
ではどのように神を称賛するのかと言いますと、全身全霊で、です。
「わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ」(103篇1節)。
「わがうちなるすべて」とは、原語では内臓のすべてという意味となります。古代ヘブル人は現代心理学のように心と体とを区別していませんし、現代の脳科学のように、脳の働きを分別したりはせず、心と体の各器官とを一体と考えておりました。ですから「わがうちなるすべてのもの」(1節)とは全身全霊でという意味になります。
ではいつかと言いますと、全時間です。また、どこでかと言いますと、生活の全領域においてです。家でも、教室でも、仕事場でも、教会でも、です。つまり行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、いつでもどこででも神を崇めるのです。
そして何をかと言いますと、与えられている神の恵みすべてについてです。
「そのすべての恵みを心にとめよ」(103篇2節後半)。
「あれください」「これしてください」という、おねだりのような礼拝ではなく、讃美、感謝というお礼参りの礼拝を、日々の暮らしの中で自然に捧げる年でありたいと思います。
御礼参りの心が出来ると、私たちの日々の務めはしんどい労役ではなく、恵みの神への御礼奉公(ぼうこう)という側面を持つようになり、その結果、私たちのたましいは暦の年齢では「朱夏」「白秋」「玄冬」であったとしても、常に鷲のように若返る、「青春」の時代となるのです。
願わくは、迎えたこの新しい年、鷲のように新たにされながら、恵みの神を衷心より誉めたたえるお礼参りの日々でありますように。