2012年10月21日 日曜礼拝説教
「古い契約から新しい契約へー最後の晩餐の意味」
マルコによる福音書14章12~16節 22~26節(新約聖書口語訳75p)
はじめに
日本に住んでいる永住外国人に対して、地方参政権を付与しようとする法案が論議されていますが、結論から言いますと、これは国家の主権に関する重大問題であるだけでなく、明白な憲法違反です。
在日外国人が政治に参加したいというのであれば、所定の手続きに従って日本国の国籍を取得すればよいのであって、外国籍のままで参政権を行使しようとするのは、的外れの考えです。
日本の国籍を取得すれば地方政治だけでなく国政にも参加できますし、選挙権どころか被選挙権も持つことができますから、国会議員になってさらに総理大臣になることも可能です。
米国は国籍を持たない者の参政権は、国政はもちろん、地方レベルでも認めていませんし、外国人がたとい米国籍を取得したとしても、アメリカ合衆国で出生をしていないと、大統領になることはできません。
米国の現職大統領バラク・フセイン・オバマは、父親はアフリカ・ケニア出身の黒人、母親はカンザス州出身の白人ですが、人種や出自に関係なく、ハワイ州で出生しているために、大統領に選ばれる資格を持っているのです。
これに較べると日本は開かれているということもできます。どこで生まれていようと、どんな出自であろうと、日本国籍さえ取得していれば、総理大臣になることさえ出来るのですから。
国籍を取得する以上、ひとりの国民として、その国に対して忠誠を誓うのが最低の条件であることは言うまでもありません。ただ、日本国籍を取得する人の中には、日本政府が発行するパスポートなら、世界中どこででも信用される、だからビジネスに便利、そこで日本国籍を取ったと、テレビ番組で公言する輩がいるのは残念なことですが、一方、オリンピックに出たいばかりに選手層の薄い国の国籍を取得したお笑い芸人も出てきていますから、日本人も劣化したものです。このお笑い芸人には日本国籍に戻ろうなどとは考えずに、その国に住んで、ひとりの国民として骨を埋める覚悟で国の発展に貢献してもらいたいと思います。
ところで国籍取得を通常「帰化」と言いますが、個人的にはこの言葉は廃語にした方がよいと考えております。「帰化」という言葉は後漢書(ごかんじょ)の童恢伝(どうかいでん)に出てくる言葉だそうで、その意味は「君主の徳に感化されて服従する」とのこと。そうであれば現代の国籍変更を表現する用語としては少々そぐわない言葉だと思うからです。
ただし、キリスト教信仰においては、神の恵みを表わす言葉として「帰化」ほど最適のものもないと思われます。罪びとである私たちが神の国の国籍を与えられるという様態は、まさに君主であるキリストの徳に感じて服従をするという様を示しているからです。
二十数年前に建てた教会納骨堂の正面に刻んだ聖句が「わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ人への手紙3章20節)でした。実にいい聖句を選んだものです。私たちは納骨堂に詣でるたびにこの聖句を読んで、神の恵みに感謝し、感激を新たにします。
我が国においては外国籍の人が正当な手続きを踏んで日本国籍を取得することは、決して難しいことではありません。しかし、罪びとが神の子供とされて国籍を神の国に持つということは、天地がひっくり返っても不可能なことでした。
その到底不可能なことをイエスひとり、可能なこととしてくださったのです。
今週の日曜礼拝では、有名な最後の晩餐の場面を通して、イエスのみわざの意味を確かめることにしたいと思います。そこで今週の説教題は「古い契約から新しい契約へー最後の晩餐の意味」です。
1.過越の小羊として人類の身代わりとなったイエスに、信仰の祈りを
現代の暦では紀元三十年四月七日の金曜日、ユダヤ暦では正月の十五日、イエスは弟子たちと共にエルサレム市内において「過越の食事」をなさいました。
その情景を描いたものがあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチによる最後の晩餐の絵です。この絵はイタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィアという教会の壁に描かれているものですが、予約見学が可能だそうです。ミラノに行かれる時はぜひ見学を。
「除酵祭(じょこうさい)の第一日、すなわち過越(すぎこし)の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、『わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか』」(マルコによる福音書14章12節 新約聖書口語訳76p)。
「除酵祭」はイスラエルの暦で言いますと、正月の十四日から二十一日にかけて行われ、「過越の食事」は厳密に言えばその二日目の夜に行われました。これらの規定は出エジプト記十二章とレビ記二十三章に詳しく記されています。
「正月の十四日の夕は主の過越の祭である。またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日(なぬか)の間は種入れぬパンを食べなければならない」(レビ記23章5節 旧約聖書口語訳169p)。
「過越の食事」(12節)のメニューの一つが小羊の丸焼きでした。これは、イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトを脱出する際に、小羊を屠(ほふ)ってその血を家の柱と鴨居に塗ったことを想起させるものでした。
脱出の夜、神から送られた死の使いが、小羊の血が塗られた家の前を「過ぎ越し」て、血が塗られていないエジプト人の家に災いをもたらしたという故事に基づいて、奴隷からの解放という神の恵みを忘れないためにと定められたものです。
「過越の小羊」は「除酵祭」の第一日目に神殿で祭司によって屠られ、その夜、つまり二日目に各家庭で食されたのでした。ユダヤでは一日は日没から次の日没まででした。ですから初日の十四日は日没で終わり、新しく二日目の十五日が日没から始まるというわけです。
弟子たちはイエスの指示に従って、食事の段取りを致しました。
「弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の用意をした」(14章16節)。
聖書はイエスこそ、「過越の小羊」としてわたしたち全人類の身代わりになって屠られたお方であり、この方のお陰で、イエスを主、救い主として受けいれた者の前を、恐ろしい死の使いが過ぎ越してくれるのだと主張します。この事実を、感動をもって、生涯かけて宣べ伝え続けたのが使徒パウロでした。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ」(コリント人への第一の手紙5章7節 261p)。
誰であってもイエス・キリストを「わたしたちの過越の小羊」として個人的に信じ、心と人生に救い主として受け入れた者は、死の使いから守られるだけでなく、その国籍を天に持つ者となって永遠を生きることができるようにされているのです。
ですから、もしもまだ、イエスを主と告白していないのであれば、いま、ただちにイエスを救い主として信じ受け入れるとの信仰告白をなさってください。イエスはあなたのために過越の小羊となってくださったのですから。
もしも信じ方、受け入れ方がわからないというのであれば、教会では個人的にご指導することができます。
2.犠牲となることによって新しい契約の仲立ちとなったイエスに、信頼の祈りを
過越の食事においては、小羊のほかに数種類の食材が用意されました。それはエジプトにおける奴隷状態の苦しさを忘れないための苦いハーブ、脱出を急いだので、パン生地を膨らませる時間的余裕がなかった先祖たちに思いを馳せるための種入れぬパン、つまり酵母菌を使わずに焼いたパン、そして幾杯かの葡萄酒でしたが、重要なものの一つが葡萄酒でした。
日没になってイエスと弟子たちとは食事のために移動します。
「夕方になって、イエスは十二弟子たちと一緒にそこに行かれた」(14章17節)。
そして十五日の金曜日、「過越の食事」が始まりました。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ」(14章23節)。
この葡萄酒は、「過越の小羊」が屠られる際に流した血を象徴するものでした。イエスはその葡萄酒が入っている杯を弟子たちに回しながら、これは神から離れて彷徨っている世界人類のために私が十字架で流す血を表わしているのだと言われたのです。
「イエスはまた言われた、『これは多くの人のために流すわたしの契約の血である』」(14章24節)。
ここでイエスは「契約の血」(24節)という言葉を使いました。「契約の血」とは何のことかと言うことですが、その前に「契約」とは何なのかということを確かめておきたいと思います。
実は、神はエジプトから救出したイスラエルの民との間で、約束の地に至る途中の荒野、シナイの荒野において一つの契約を結んでおりました。
シナイの荒野で結ばれたので「シナイ契約」と呼ばれます。それは、民が神の掟、戒めをきちんと守るならば、つまり民が戒め遵守という条件を果たすならば、神も民を祝福するという内容の契約でした。出エジプト記二十四章三節から八節に詳述されています。
この契約の際に、契約のしるしとして動物の犠牲の血が流されました。それが「契約の血」です。
「そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、『わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います』。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、『見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基づいて、あなたがたと結ばれる契約の血である』」(出エジプト記24章7、8節 旧約聖書口語訳109p)。
しかし、イスラエルの民は契約の条件である掟や戒め、つまり律法を守ることが出来ませんでした。表面的には守ることは出来たとしても、その中身を守ることができなかったのです。
できなかったということは契約に違反したということになります。それが永遠の生命を受けるために何をすべきかを問うた富める青年議員の例で見ることができます(マルコによる福音10章17節 詳細は3月18日「永遠の生命に至るためのもう一つの道」)。
契約は違反によって破棄され、そして契約終了となります。違反者は契約に伴う祝福を受けることができません。そこで登場してくれたのが神から送られたイエスでした。
イエスは神との契約の条件を別のものにしてくれたのでした。それは律法を遵守する方法、つまり律法の行いによってではなく、イエスを救い主として信じ受け入れるだけという、つまり信仰という条件の契約に替えてくれたのでした。人は最初の契約では神の祝福を受けることが困難であったからです。
そしてその契約を成り立たせるためにイエスは、十字架で血を流して下さったのでした。
この、イエスが自らの血によって神との間に交わしてくれた契約が新しい契約、新契約でした。この結果、人間の行いを基とした契約は古い契約、旧契約と呼ばれることとなりました。
イエスこそ、ご自分の血によって、神と人間との間を取り持ってくださる新しい契約の仲立ち、難しい言葉を使えば仲保者なのです。契約違反者として神から見捨てられても文句の言えないイスラエルの民だけでなく、全人類のために、イエスは自ら進んで身代わりとなり、命を投げ出してくださったのでした。
自らを犠牲とすることによって新しい契約の仲立ちとなってくださった主に、心から信頼の祈りを捧げるものは幸いです。
3.新しい契約の仲立ちとなるために罪と戦い続けたイエスに、感謝の祈りを
では、なぜイエスの血が新しい契約の締結の上で有効なのでしょうか。それはイエスの生涯には一点の罪の染みもなかったからです。つまりイエスのみが、律法を守り切るという古い契約においても、神の掟、神の戒めに対して何一つ違反のない生涯を送ったのです。
私の運転免許証はゴールドです。無事故、無違反です。当たり前です。何しろ長い間、運転をしていないのですから違反のしようがありません。
毎日のように自動車を運転していて、無事故無違反のゴールド免許という人もいる筈です。しかし、交通法規を完全に守っているかとなると、速度制限、徐行、車間距離、一時停止など、故意ではないとしてもまったく違反をしていない、という人は皆無の筈です。
ましてやそれが律法の精神である神を愛すること、隣人を愛するということにおいて、その細部まで、特に精神まで完璧に守るとなると、すべての人は不合格となるでしょう。しかしイエスは違いました。イエスは律法のかたちだけでなく、その精神をも完全に守り切ったお方だったのです。
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられてもおびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙2章22、23節 新約聖書口語訳368p)。
この証言は、イエスが言葉においても律法を守り抜いていたことを証しするものです。言葉において過ちがないということは、その思考、心、感情などの内面においても過ちがなかったことの証拠です。なぜならば、人は内なる思いを言葉や表情に出さないではいられない生き物だからです。
過越の食事では、除酵、つまり酵母菌を入れずに焼いたパンを食べました。それはパンの練り粉に酵母菌を入れる時間がなかったからでしたが、後年、ユダヤでは酵母菌の発酵は腐敗と同一視されるようになりました。イエスは罪の腐敗とは無縁の生き方を貫いたお方でした。つまりイエスは二重の意味において種入れぬパンとして、人類の身代わりとなられたのです。
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『取れ、これはわたしのからだである』」(14章22節)。
イエスは新しい契約の仲立ちとなるため、その資格を得るためにも、罪と戦い続け、罪の誘惑をことごとく退けて生きていたのでした。そして清い生涯の最期を私たちのために十字架上で罪人となって遂げられたのでした。
イエスが清い生涯を送ったからこそ、その罪のないイエスが流した血は清い血として神に認められ、その結果、イエスの血は新しい「契約の血」(24節)としての効力を持つに至ったのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の壁画は世界文化遺産に登録されている見事な芸術作品です。見る者を感動させます。
しかし、最後の晩餐の画を見るとき、そこにイエスが自分のためにしてくれた救いのわざの意味を見る者こそ、幸いな人といえます。なぜならばイエスのみが私たちのため、古い契約から新しい契約への契約変更を実現してくださった救い主だからなのです。
自らの身を捨てて、新しい契約の仲立ちとなってくださったイエスを我が主キリストとして信じ、拠り頼み、そして感謝し続ける者でありたいと思います。