2012年9月30日 日曜礼拝説教
「今求められていること、それは信仰の目覚め」
マルコによる福音書13章28~37節(新約 口語訳75p)
はじめに
八月に起きた韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領の、島根県竹島への上陸、尖閣三島の国有化を受けての中国本土における官製デモ、そして暴動、略奪行為は、韓国という国家の独善性、共産中国という体制の品位のなさを露呈すると共に、かえって日本人の中に長い間眠っていた国を愛する心、国を守るという意識を呼び覚ます結果となったようです。
先週行われた野党の総裁選で、最初の段階では三番手と言われていた候補が逆転、当選したのも、日本人が日本人であることに目覚めたことが追い風となったからだという分析もあります。
愛国心は必要です。国防意識も重要です。しかし、それらの気持ちや意識が時代の単なる雰囲気の反射に過ぎないのであれば長続きはしませんし、場合によってはかえって危険な流れを生み出しかねません。
今日本国民に求められているものが何かと言いますと、それは正しい歴史認識の重要性に目覚めるということです。
歴史認識には二つの要素があります。
一つは何があったのかという事実の認定です。在りもしない架空の事態、あるいは改竄された事柄を根拠にして、被害、加害を論ずるのは空虚であるだけでなく、欺瞞でもあるからです。大事なことは、本当は何があったのか、あるいは何がなかったのかという事実の確定です。
そしてもう一つの、歴史認識に関する要素とは、事実として確定された事柄をどのように解釈するかという、歴史解釈の問題です。
先週、国連総会において、日本と中国、日本と韓国の間で激論が戦わされました。中国の外相は、尖閣諸島は「日清戦争後に日本が占拠し、これらの島々やその他の領土を割譲する不平等条約への署名を(清に)強制した」「第二次大戦後、カイロ宣言やポツダム宣言に従い、これらの島々を含む占領された領土は中国に返還された」と主張しました。
しかし、尖閣諸島は日清戦争が始まる何年も前の一八八五年以降、日本政府が現地調査を行って、この諸島が無人であること、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認した上で、一九九五年一月に閣議決定をして日本の領土に編入したものであって、日清戦争後に締結された下関条約において清から割譲された台湾島及び澎湖諸島にも、尖閣は含まれていなかったのです。
それどころか、先週末に明らかになった米国中央情報局(CIA)の報告書によりますと、CIAが、中国が文化大革命の担い手であった紅衛兵に向けて一九六六年に刊行した地図を例にあげて、「尖閣諸島は中国の国境外に位置しており、琉球列島、すなわち日本に属していることを示している」と指摘し、翌六七年に北京で刊行された一般向け地図帳でも「尖閣は琉球列島に含まれる」という表記があったことを報告しています。
さらに報告書は台湾でも「尖閣海域が中国側の境界線にあると表示する地図はなかった」としているのですが、これらの公的報告書は、中国側の主張を根底から覆す証拠ということになります。
日本人が目覚めなければならないのは、歴史的事実を基本とした歴史解釈の重要性、つまり正しい歴史認識を持つことの重要性についてです。国家というものは本能的に国益を第一に考えます。そのためには歴史的事実も平気で捏造しますし、他国の主張には歪曲、妄言と非難する性癖があるからです。
でも、「人の振り見て我が振り直せ」という故事があります。
野党の総裁選挙のあとのテレビの朝のワイドショーで、キャスターから事実を無視した発言が相次ぎました。
当選した新総裁は嘗て、厚生省指定の難病である「潰瘍性大腸炎」という病気を抱えながら総理大臣という激務をこなしつつ、ついに難病に罹患している自分がこれ以上総理大臣の地位にとどまり続けることは日本のためにならないと考えて、辞任をしたという経緯がある人です。
幸い、二年ほど前に「アサコール」という特効薬が日本で認可されたことによって、重い症状が劇的に改善されたという体験を踏まえて、総裁選挙に打って出たようですが、マスコミに登場する者として、これらの経緯を当然知っている筈の女性コメンテーターが、「お腹が痛くなっちゃって辞めちゃったということで…」と話し始め、これを受けたメインキャスターが「ちょっと子供みたいだったと思うよ」と口を挟み、それに対して女性コメンテーターが「そうなんですよ、そうなんですよ」と続けたのです。
当時の医療や薬剤ではどうにもならない難病に罹患し、止むに止まれぬ状況から決断した辞任を、子供のようにお腹が痛くなって辞めたとか、放り投げたなどという的外れの非難は、程度の低い誹謗中傷の類でしかありません。
もう一つの事例は、時間帯は一緒の別の番組での準キャスター?の発言でした。彼は五年前の総理大臣の辞任のことを、「あの人は病気で辞めたのではなくて、一年間やっていて成果が出なかったので、辞めたんですよ」と言い放ったのです。
しかし、「あの人は」「一年間やって成果が出なかった」どころか、一内閣で一つの業績を上げれば上々という日本政治史において、教育基本法の改正、防衛庁の防衛省への昇格、憲法改正手続きを進めるために必要な国民投票法を制度化するなど、五つもの重要課題を達成したと、識者は評価しているのです。
前者が難病という重大な事実を、お腹が痛いと矮小化して笑い飛ばした、卑劣なものであったのに対し、後者の例は難病による辞任という事実を故意に捻じ曲げて別の根拠のない理由にした無責任なもので、いずれも公正とは無縁のアンフェアな発言でした。
それらの発言の背後にあるものは、ターゲットに対する悪意でした。到底、中国や韓国の主張や手法を的外れと批判することは出来ません。日本人は中国人から、「品位がある」「民度が高い」と言われているのですが、改めて「人の振り見て我が振り直せ」という故事を噛みしめたいと思わせられたテレビのキャスターやコメンテーターの発言でした。
事実を基礎にした上で下す事実解釈、歴史認識の重要性に目覚めること、それが混沌を生きる日本人に求められている課題であると思います。日本人はもう一度、特定のイデオロギーに汚染されていない公正なテキストを用いて、何があり、何がなかったのかという歴史の真実を学び直す時期に来ています。
歴史認識の重要性に目覚めることはとても大切です。そして、更に重要かつ必要な目覚めがあります。それが信仰的目覚めです。
今週はマルコによる福音書十三章の最後の文脈を通して、わたしたちがイエス・キリストから何にもまさって「今、求められていること、それは「信仰の目覚め」であることを確認したいと思います。
1.信仰的に目覚めている者は、ますます目覚めて信仰を深める
イエスはユダヤ人ならば誰もがなじんでいる無花果の木の成長具合を例にあげて、弟子たちに対し、空前絶後の患難の到来を見たならば、希望の到来もまた近いことを悟るようにと言われました。
「いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、これらの事が起こるのを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(マルコによる福音書13章28、29節 新約聖書口語訳75p)。
「人の子が戸口まで近づいている」(29節)という言葉は、イエスの再来臨が近いという意味です。先週も触れましたがイエス自身、この時点ではそれがそう遠くはない時期に起こると思っていたようです。そしてその期待はパウロをはじめ、原始教会に共通したものでしたが、一世紀の終わりになり、そして二世紀の初めになってもキリストの再来臨は一向に起こりませんでした。
イエスの言葉は空手形だったのでしょうか。違います。正確な時期についてはイエス自身、父なる神以外、誰も知らないと言っています。
「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使いたちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」(13章32節)。
再臨の時期は人にはわからないのです。しかし、熱心ではあるけれど、無知な人々は聖書に勝手な解釈を施して、再臨の時期を推定してきました。その典型がカルト教会の「エホバの証人」ですが、韓国の教会も負けてはいません。
ディスペンセーション、あるいはディスペンセーショナリズムという教理がありました。これは契約の期間という意味だそうですが、この教理では人類の歴史を七つの時代に分け、六つの時代が終わり、そして七つ目の時代の初めにイエスが来臨するとし、その極端な考えは、アダムの創造は紀元前四千四年、イエスの誕生はその四千年後の紀元前四年であり、さらにその二千年後の一九九六年のクリスマスでちょうど六千年になる、だから一九九六年の終わりに再臨があると考えたのでした。
実際、一九九六年の秋も終わりのころ、日曜日に放映されていたキリスト教テレビ番組で、韓国のある著名な牧師さんが、聖地旅行に来た信者さんたちに向かって、「キリストは今年中にも来られるかもしれません」と、あたかも年内に再臨があるかのような口調で語っている説教を聞いて、大胆なことをと思ったことがあります。
結局、一九九六年が終わっても、そしてノストラダムスの預言の一九九九年が終わっても再臨はありませんでした。
体験を重視する教会はとかく神学を軽視する傾向があるのですが、神学は非常に大事なのです。
でも確かなことが一つあります。それは、イエスが明言したことは必ず実現するということです。なぜならば、イエスの言葉は不変であり、不滅だからです。
「よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(13章30、31節)。
「これらの事」(30節)はエルサレムの滅亡、そしてその前兆を意味します。ということは、「これらの事」は歴史的にはすでに「ことごとく起こ」(同)ってしまっています。となると、「人の子が雲に乗って来るのを、人々は見る」(26節)という事象が、いつ起きても不思議ではないということになります。
イエスの弟子に求められていることは、イエスがいつ帰ってきてもよいように、信仰の目を覚まして日々を生きることでした。
「気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当たり、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである」(13章33、34節)。
言葉が軽い時代です。しかし、イエスの「言葉は滅びることがない」(30節)のです。日々に主と交わり、礼拝することを継続することによって、信仰的に目覚めている者はますます目覚めて、信仰を深めることが求められているのです。
信仰の「目をさましてい」(33節)る状態を持続するために必要なことは、キリストの体なる教会に繋がっていることですが、そのために必要なことは神との個人的な交わりの継続です。
来週の特別礼拝で宇田川さんが二曲、独唱をしてくれますが、そのうちの一曲の「I Simply Come(主の前に跪いて)」のマーゴットという作者が、「この歌は主との深い交わりの中で感動を受けて、そして出来上がったものだ」と証ししているのを、ネットで読みました。
目にこそ見ることはできませんが、信じる者の側に常にいてくださる主との交わりこそ、信仰の「目をさまし」続ける秘訣です。
2.信仰の休眠状態にある者は、信仰の目を覚ますべき時である
常に変わることなく、信仰の火を灯し続けている人は幸いです。しかし、様々な理由、色々な事情で信仰が休眠状態に陥ってしまう場合もあります。
ある日ある時、天からの光を心に受けて神から愛されていることを知り、信仰に目覚めて燃えた時があった、けれども時の経過と共に信仰の火も弱くなってきて、決して信仰を否定するわけではない、信仰を捨てるわけではない、神の存在は信じている、罪が赦されるため、救われるためにはキリストの十字架の贖いが必要であることもわかっている、最初はちょっとの休みのつもりでいたけれど、いつしか足が教会から遠のいて、いつの間にか聖書を開くこともなくなり、今はすっかり神さまとはご無沙汰の状態になっている…。
実はこういう人は、我が国には、定期的に教会に通っている人々の何倍もいるのです。そしてそのような方々に向かって、イエスは、眠りから覚める時がいま来ている、と言われているのです。
「だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。あるいは急に帰ってきて、あなたがたの眠っているところを見つけるかも知れない」(13章35、36節)。
家庭の事情、仕事のこと、気持ちの変化、あるいは教会の問題など、地上にいた時ですらその豊かな感受性をもって誰よりも深く人を理解されたイエス、今は全知全能の神の地位に戻っておられる主なるイエスは、人それぞれの事情をよくよく理解した上で、以前のようにもう一度、わたしと苦楽を共にし、人生を一緒に歩もうではないかと呼びかけてくださっているのです。
幸いなのは、主が「急に帰ってきて」(36節)、「眠っているところを見つける」(37節)前に、「目をさましてい」(35節)る人です。
今現在、信仰の休暇中の方も、今の事情を抱えたまま、そのまま、その場で以前のように主を呼び求めてみてください。主はご自分の民をお忘れになることは決してないのです。
「しかし、愛する者たちよ。神は不義な方ではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない」(ヘブル人への手紙6章9、10節 348p)。
3.目覚めている者は目覚めた者と共に、同胞の目覚めを祈る
「目をさましていなさい」というイエスの呼び掛けは、弟子たちだけを対象にしたものではありません。それは生きとし生ける者すべて、人類すべてに向かって語られたお言葉です。人種、民族、宗教、文化の違いを超えて、アダムとエバの子孫であるすべての人間に向かって語られている言葉です。
「目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人に言うのである」(13章37節)。
イエスは第一に、今信仰的に目覚めている者に向かって、目覚め続けていなさい、と言われ、さらに、休眠状態にある者に対しては、眠りから覚めてはどうか、と言われました。しかし、それだけではありません。未(いま)だイエスを知らない、イエスの言葉を聞いたことのない「すべての人に」(37節)向かっても、イエスは信仰の「目をさましていなさい」と言われているのです。
わたしたちの周りには、福音を聞いたことのない人が大勢います。家に帰れば家の中に、職場に行けば職場に、そして学校に行けば教室の中に、今まで福音を聞いたことも、聖書を読んだこともなく、「人間なんて死んだら終わりだ」などという虚無的な考えを持っていて、しかし、それでも真面目に仕事に打ち込み、懸命になって日々をまじめに暮らしている人が大勢います。
イエスはなぜ、復活後、地上に止まって弟子たちと共に布教活動をしなかったのか、イエスが一度、天に戻ったのは、今は弟子ではないという人々のためにも、彼らの住まいを天に用意するためであったのでした。
確かにイエスの再来臨は遅れに遅れています。しかし、旅に出た主人が帰宅するように、主は必ずこの地上に戻ってきます。イエスの「言葉は滅びることがない」(31節)からです。
世知辛い世の中です。デフレ、円高で暮らしもままなりません。どうしても自分のことでいっぱいになりがちです。しかしもう一度、心と思いを新たにして、まだ福音を聞いたことのない家族、親族、友人、知人、地域の人々のために、そして一億三千万の同胞の信仰の目覚めのために、執りなしの祈りの手をあげる人は幸いです。