2012年9月9日 日曜礼拝説教
「予告された破滅の前兆としての災難(前編)」
マルコによる福音書13章3~8節(新約聖書口語訳74p)
はじめに
ひとたび重い病に冒されたならば、怪しげなお呪(まじな)いに頼るしかなかった遥かなる昔に比べ、現代の医薬の進歩には目を見張るものがあります。しかし、長足の進歩を遂げた医薬品と雖も、使用方法を間違えれば却って病を悪化させるだけでなく、取り扱い方によっては命取りにもなりかねません。
そのような医薬品とよく似ているものが実は聖書なのです。聖書は薬と同じように、正しく取り扱えば人を救いますが、取り扱いを誤れば却って人に害をもたらします。
十六世紀、聖書に関して二つの変化が起こりました。一つは「聖書の普及」です。十五世紀の半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが発明したという活版印刷術により、それまで一部の教会聖職者たちの独占物であったラテン語訳の聖書は、一般の言語に翻訳、印刷されて、初歩的な識字能力さえあれば、誰もが読めるようになりました。
そして二つ目の変化が「聖書解釈の自由化」です。十六世紀以前、聖書の解釈権はローマ・カトリック教会の教皇庁が独占しておりました。
しかしマルティン・ルターをはじめとするプロテスタント宗教改革者たちの改革運動により、聖書解釈の自由化ともいうべき波がヨーロッパに起こってきたのです。
ただ、「聖書解釈の自由化」という波は、ローマ教会の呪縛から信者一般を解放することになりますが、弊害もありました。それが聖書の無原則な解釈による異端思想、誤謬教理の出現でした。自由と勝手を履き違えた人々によって聖書は自由に、つまり目茶目茶に解釈されてしまうようになったのです。
今の時代、聖書を勝手に解釈して善良な人々を惑わしているグループの最たるものが「統一原理(統一協会)」であり、「エホバの証人(ものみの塔)」です。
「統一原理」の方はいっとき、霊感商法や合同結婚式などで社会的に指弾され、そして年月の経過と共にいつの間にか報じられることもなくなっていたのですが、この夏、再臨のキリストを自称する教祖が危篤、という報道が流れ、マスコミの注目を集めることとなりました。
結局、同教祖は先週、韓国ソウルで死去しましたが、再臨のキリストが現代医学の治療の甲斐もなく死んでしまったことを、この協会はどう説明するのでしょうか。
エホバの証人の方は秘密のベールに覆われた少数の指導者グループによって指導、運営されているため、その組織の実態はベールに覆われたままなのですが、彼らは聖書に勝手な解釈を施して奇妙奇天烈な教理を打ち出し、その教理が聖書と調和しなくなってしまったため、ついには独自の解釈による聖書翻訳を出版するに至りました。
時々古本屋さんの棚に「新世界訳聖書」として並んでいるものがそれです。
普通、キリスト教の教えは聖書から導き出されるものですが、このグループでは彼らの教理に合わせて聖書を都合よく翻訳するのです。
聖書は自分勝手に解釈すると取り返しのつかない混乱をもたらします。そこで神学校では「聖書解釈学」という科目によって、聖書の解釈の仕方を習います。そのクラスで最初に教えられるのが、「読み込むな、読み取れ」という大原則です。
つまり、自分の考えや思想、先入観を聖書に読み込んでしまうのではなく、著書の意図、著者が言おうとしていることを聖書からそのまま読み取ること、それが聖書解釈の原則なのです。
昨年春に生起した東日本巨大地震をめぐって、素朴ではあるけれど、しかし極めて危険な見方が二つ、キリスト教界に表面化しました。
一つは、巨大地震は不信者への天罰、神罰であるという見方で、これは主に韓国のペンテコステ教会に見受けられ、もう一つは、大地震は世の終わりの前兆であるという見方で、これはどちらかというと、欧米の保守的なクリスチャンたちの中に生まれたようでした。
そのために私は、地震発生から二週間後に、「東日本巨大地震について」という小論を書いて、この二つの見方が誤っているということを、聖書を通して教会の皆様にお知らせしました。
二年近く、マルコによる福音書に取り組んできましたが、いよいよ十三章に入りました。
実は異端や誤謬の教えは「ヨハネの黙示録」の極端かつ独断的な解釈から生まれることが多いのですが、この十三章を黙示録のミニ版を意味する「小黙示録」などと呼ぶ呼び方もあって、特に「エホバの証人」などはこのオリブ山におけるイエスの発言を誤用して、世の終わりが近い、という宣伝に利用してきたのです。
そこで今月は十三章を数回に分けて、イエスの発言の真意を読み取りたいと思います。今週は「予告された破滅の前兆としての災難」前編です。
1.偽キリストの出現という災難の予告
エルサレム神殿の壊滅的崩壊という予告をイエスから聞いた弟子たちは驚愕し、神殿の建つシオンの丘の真向かいにあるオリブ山で、それはいつ起こるのか、また起こるにあたってどのような前兆があるのかを、恐る恐るイエスに尋ねました。
「またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。『わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか』」(マルコによる福音書13章3、4節 新約聖書口語訳74p)。
不安に駆られて「どんな前兆がありますか」(4節)と尋ねる弟子たちに対し、イエスはエルサレム神殿を見つつ徐(おもむろ)に、六つの災難をその「前兆」として挙げました。
イエスが挙げた一つ目の「前兆」、それは偽教師、偽キリストの出現という災難でした。
「そこで、イエスは話しはじめられた、『人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう』」(13章6節)。
ここで、現代を生きる私たちが注意しておかねばならないことは、イエスの予告はあくまでも、イエスの生きた時代から見て、近い将来に起こるとされた事象の、具体的にはエルサレム神殿の崩壊に象徴される出来ごとの「前兆」に関するものであったということです。
実は古来、この「小黙示録」と言われる箇所のイエスの言葉が、紀元七十年に起こったエルサレムの壊滅、神殿の崩壊という事象を超えて、今もまだ起きていない世の終わりの「前兆」について言及したとする見方があって、その見方を根拠にして、何かというと「世の終わりが近い今」などと言って危機感を煽る傾向が保守的な教会にあるのですが、イエスの予告はあくまでもイエスの時代の近未来に対するものであって、遠い未来についてのものであるとする根拠はどこにもない、それがイエスの発言についての妥当な解釈なのです。
閑話休題、偽教師の話しに戻りますが、実際イエス亡き後、具体的に言えばイエスが復活、昇天したあと、古代の教会には「多くの者が」(6節)イエス「の名を名のって現われ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わ」(同)したという記録が残されています。
イエスが言いたかったことは自分がいなくなったあと、イエスを信じる群れの中に偽キリスト、偽教師が現われて、純粋な信徒たちを「惑わす」(6節)ことがある、だからあなたがたはそういう「人に惑わされないように気をつけなさい」(5節)ということだったのです。
このイエスの残した警告を最も痛切に感じていたのが使徒パウロでした。イエスの処刑の二十五年後、パウロはギリシャ・コリント集会に宛てた手紙の中で、必死になって偽教師の言説への警告をしております。それはパウロの留守中に、コリント集会の中に、たとえば、死者の復活を否定する教えを強調する者が入りこんできていたこともその理由の一つでした。
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」(コリント人への第一の手紙15章12節 274p)。
イエスの警告はあくまでもイエス亡き後の一世紀の教会への予告であって、それが正しい解釈です。ただし、聖書解釈は解釈として、イエスの言葉は時代を超えて適用することは可能でもあり、また必要なことでもあります。イエスが予告した偽教師、偽キリストの出現という災難は、現代にも生起しており、その例が「統一原理」であり、「エホバの証人」の活動です。
そして偽教師、偽キリストなどの「人に惑わされないように気をつけ」(5節)るには、健全な教会において正しく解き明かされた説教をしっかりと聞き続けること、そしてそれによって自らのうちに健全な信仰の土台を据えるということが大切です。
2.不安情報の拡散という災難の予告
イエスが教える二つ目の「前兆」は、人心を動揺させ、不安感を増幅させる情報の拡散という災難であって、その情報とは、具体的には国と国との間に生じる戦争あるいは紛争の噂でした。
「また、戦争と戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に敵対して立ち上がるであろう」(13章7、8節前半)。
早飲み込みをしてしまう人は、実際に起きる「戦争」がその「前兆」であると思うのですが、イエスが言っているのはあくまでも「戦争と戦争のうわさ」(7節)、つまり、人心を不安にさせる不安情報の拡散という事象を指して、そのことを「前兆」と言っているのでした。
ローマに対する独立戦争としての第一次ユダヤ戦争はイエスの死後の三十六年後の紀元六十六年に始まり、その四年後にエルサレムの陥落、神殿の炎上という悲劇的結末を迎えますが、ローマとユダヤとの戦争の噂はイエスの時代にすでにあって、それが年を追うごとに強まっていき、その結果、紀元七十年の破滅に至ったのでした。
そしてこの「戦争と戦争のうわさ」(7節)や「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」(8節)というイエスの予告は、偽教師の出現同様、あくまでも神殿崩壊までの数十年のうちに生じてくる出来ごとへの言及であって、二十世紀や二十一世紀の遠い将来のことを指しているわけではないのです。
第一、戦争の噂どころか、国家間の戦争、民族同士の紛争は一世紀以来、世界歴史の上では常に起こっているのです。むしろ、二十世紀の初頭、そして半ばに二度の悲惨な戦争を経験した現代の人々は、戦争の惨たらしさを通して戦争を忌避するようになっています。
確かに小競り合いや局地的な戦争はありましたし、それは今もありますが、二千年の人類史を通じて現代ほど、戦争から遠い時代はないと言っても過言ではありません。ですから「戦争と戦争のうわさ」(7節)というイエスの言及をもって世の終わりが近いと触れまわることは、聖書解釈の上から不適当であるだけでなく、聖書の適用という点からも的外れなのです。
ところでイエスはこのあとで、不思議なことを言われました。
「それは起こらねばならないが、まだ終わりではない」(13章7節)。
「それは」(7節)とは何でしょうか。「それは」の「それ」とは普通に考えれば「戦争」のことでしょう。では「それは起こらねばならない」(同)とはどういう意味でしょうか。普通に読めば戦争「は起こらねばならない」、つまりローマを相手にした戦争を肯定しているように思えます。しかし、イエスを平和主義者と見る見方からするとイエスらしからぬ発言と言うことになります。
ですからイエスが戦争を肯定するかのような好戦的なニュアンスの発言をするわけがない、ということになるのですが、しかしそれはイエスのイメージを聖書に読み込んでしまう危険、つまり「読み込むな、読み取れ」という原則から外れてしまうという危険に陥りかねません。イエスは確かに暴力や報復を否定していますが、決して絶対的反戦主義者というわけではないようです。
聖書解釈の原則は「読み込むな、読み取れ」ですが、聖書解釈におけるもう一つの原則は、「前後の文脈から意味を探れ」というものです。
イエスが「それは起こらねばならない」と言ったのは、ローマとユダヤの関係上、時代の推移の中では戦争は起こらざるを得ないという見通しを語った言葉ではないかと思われます。
イエスは弟子たちに対し、「戦争と戦争のうわさを聞くときにも、あわてるな」(7節)と言いました。「あわて」ないために必要なことは、弟子たちの場合、イエスの語られた言葉を断片的にではなく総合的に思い起こし、また丁寧に咀嚼をすることによって適切な解釈を下すと共に、民族的、熱狂的な雰囲気に巻き込まれずに政治的、社会的状況を冷静に判断することでした。
イエスの言葉を今日に適用するならば、説教によって聖書を正しく解釈する力を身につけると共に、過去に何があったのかという正確な歴史(これを歴史認識と言います)、現代は如何なる状況にあるかという現実を正確に把握することが大切であるということでしょう。
歴史認識を養うためには、偏った歴史認識に基づいて著わされたテキストではなく、事実そのものを多くそして正確に記録したものを教材として選択することです。また現実把握については特定のイデオロギーに染まったマスコミ情報を排して、健全な論調のものを情報源とすることが大切です。
歴史を正しく学んでいる者は、人心を動揺させる不安情報という災難を避けて、落ち着いた生活を営むことができると共に、生起する多くの社会現象、変遷する政治事情の中でも、決して「あわて」(7節)ふためくことなく、的確かつ適切な判断を下すことができるようになるのです。
3.自然災害の発生という災難の予告
イエスが教えた三つ目の前兆は自然災害の発生という災難でした。
「またあちこちに地震があり、またききんが起こるであろう」(13章8節後半)。
イエスの時代、ユダヤ人に読まれていた文書はいわゆる「旧約聖書」だけではありませんでした。「聖書正典」には入れられなかったけれども、正典と区別なくユダヤ人に読まれていた文書は当時、あふれるほどにありました。それらは、現在は「旧約外典(がいてん)」、「旧約偽典(ぎてん)」に分類されていて、一部は今も新共同訳聖書の旧約聖書続編として読むことができますが、特にユダヤ人が好んだ文書が「黙示文学」と言われるもので、それらはやがて到来する世の終わりと、その世の終わりに先だって現われる前兆について書かれておりました。
これらの文書には、間もなく到来するであろう世の終わりを「主の日」と呼んで、その日には神を蔑(ないがしろ)にする異邦人、異教徒には神により厳しい滅びの審判が下され、選民には神の格別な救済がもたらされる、との神の約束を強調したものも多く、それらの文書の中には「地震」(8節)についての言及もありました。
記録によれば紀元六十年頃、現在のトルコであるアジア州ラオデキヤ、コロサイなどの町が「地震」により、壊滅的な被害を受けたそうですし、「放蕩息子」(ルカによる福音書15章)の例を見るまでもなく、この時代、「ききん」(8節)もまた各地で頻々と起こっていたようです。
オリブ山におけるイエスの言葉を現代に及ぶ預言と信じる人々の一部に、先の東日本巨大地震の際に、この地震をもって世の終わりの「前兆」という見解が広がりました。しかし、十いくつかのプレートに載っているに過ぎない地表はプレートの動きによって常に大小の地震を何千年にもわたって繰り返し起こし続けてきているのであって、地震は現代のことだけではないのです。
ですから、このたびの大地震は世の終わりの「前兆」などではありませんし、イエスの言葉の成就などでもありません。
むしろ、ある一つの事象を取り上げてそれをもって聖書の預言の成就とする見方は間違っているだけでなく、教会外に誤解を与えるのみか、場合によってはその延長線上に、聖書の曲解の上に成り立っているカルト教会や異端の教えを助勢しかねないものなのです。
自然災害は、神が人間の住まいとして与えてくださった地球というものが動的な物質でできている以上、自然の現象として必然的に起こるものです。
人間には自然災害を止めることはできません。飢饉という災害は人間の努力と叡知によってある程度までは解決することが可能ですが、人には地震や津波が起こらないようにすることはできません。阪神大震災のおり、自分の祈りが足りなかったので地震が起きてしまったと悔い改めの祈りをした敬虔な牧師さんがおりましたが、祈りで地震を止めることも、台風の進路を逸らすこともできないのです。
ただ、人には自然災害による被害を最小限に防ぐことは可能です。神は人類に対し、それだけの叡知を備えてくれています。そういう意味で自然災害に対しては行政からの情報をしっかりと受け止めると共に、ひとりの市民として、行政や地域における防災の取り組みに参加協力をすることもまた、キリストを崇める者の務めでもあると思われます。
エルサレムの破滅という近未来の出来ごとに対して、イエスは偽キリストの出現、不安情報の拡散、そして自然災害の勃発という災難を「前兆」として予告しましたが、それらは産婦の産みの苦しみのはじめのようなものである、だからそれらの現象を見たならば、神によって新しい生命が生まれる「前兆」として捉えなさいともイエスは言われたのでした。
「これらは産みの苦しみの初めである」(13章8節後半)。
エルサレムの破滅、神殿の破壊後のキリスト教会がどうなったかと言いますと、激しい迫害を乗り越えて宣教の働きを地中海世界に拡大していきました。「産みの苦しみ」(8節)のあとには大いなる喜びが待っているのです。