2012年2月5日 日曜礼拝説教
「小さき者への配慮が永遠を決める」
マルコによる福音書9章42~48節(新約聖書口語訳66p)
はじめに
先週は元外務大臣が言ったという言葉、「人間には三種類ある」を紹介しました。このお方は、「人間には敵か、家族か、使用人しかいない。だから使用人である官僚は大臣である私に従いなさい」と言ったということでした。
この元大臣は人間を三種類に整理しましたが、ヘクトパスカルなど、気圧の単位にもその名が使われているフランスの思想家で物理学者のブレーズ・パスカルは、「パンセ(告白録)」の中で、「二種類の人間だけしかない。ひとつは、自分を罪びとだと思っている義人、ひとつは自分を義人だと思っている罪びと」(田辺 保訳)と言っています。
確かに自分が義人だと思っていれば、聖書を読もうとは思わず、教会に行く必要も感じないかも知れません。しかし、自分は義人であると思っていても、未来にどんでん返しが待っているかも知れません。なぜならば今が永遠を決めると、イエスが警告をしているからです。
今週取りあげる聖書テキストは、実は「取扱注意」の危険な箇所ですが、注意深く味わえば、大いなる祝福を受けるメッセージでもあります。
1.小さき者への真実の配慮の有無が、人の永遠を決める
私たちの人生は有限です。終わりがあります。しかし、人生の終わりのその先に永遠の生があると聖書は言います。つまり、「永遠の生命」か、さもなければ「永遠の滅び」です。そして、人の永遠を決めるものが、弱い者への配慮の有無であるとイ
エスは言うのです。
「また、わたしを信じるこれらのいと小さき者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」(マルコによる福音書9章42節 新約聖書口語訳67p)。
イエスの言葉や振る舞いを通して気付くのは、世間一般の規格では価値が低いと見られているような人々に注がれる、イエス特有の豊かな配慮と優しい眼差しです。
しかもイエスが生きた一世紀前半と言う時代は、人権や福祉が声高に強調される二十一世紀の現代と違って、社会的弱者は切り捨てられても当然と見られていた時代なのですから、知れば知るほど、イエスの言動には驚かされます。
ここでイエスが言う「わたしを信じるこれらの小さい者のひとり」(42節)とは、社会や教会という共同体の中で、社会的発言力に乏しく、信仰の面でも弱さを持った、どちらかと言えばいてもいなくても大勢(たいせい)に影響がないような存在の人を指しました。
また「つまずかせる」(同)は漢字では「躓かせる」と書きます。この言葉(ギリシャ語)の名詞形は「罠(わな)」であって、人の歩く道に障害物を置いてけつまずかせること、つまり、弱い人がその人なりに生きてきた人生を挫折させたり、大事にしてきた信仰を失くさせるようなことです。
そして弱い人を「つまずかせる者」はたいがい、「小さい者」の逆の、強い人であったり、有力者であったりします。
「大きいひきうす」(同)とあります。
挽き臼は穀物などを挽いて粉にする道具ですが、この時代、挽き臼には、女性が扱う小さな挽き臼と、ロバが挽くような大きな挽き臼とがあり、やっとの思いでイエスによりすがっている「小さい者のひとりをつまずかせる(強い)者」はこのロバが挽くような「大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれ」るという刑罰を受ける「方が、(本人にとって)はるかによい(ましである)」(同)と、イエスは言い切ったのでした。
注意したいのはイエスが、「小さい者を躓かせる者は大きな挽き臼を首にかけられて海に投げ込まれる刑罰を受ける」と言っているのではないということです。
イエスが言っているのは「その方が本人にとっては、まだましである」ということです。つまり、挽き臼を首にかけられて海の深みに沈められることの方がずっとよかったと思うくらいに厳しい刑罰が、小さい者を躓かせる者には待っている、ということなのです。
イエスはイエスとその仲間への「水一杯」(41節)というささやかな配慮や協力に対しても神からの「報い」(同)、褒賞があると言われましたが、その逆に、弱者への非情な振る舞い、とりわけ、意図するにせよしないにせよ、弱者の人生を躓かせるという強者には、大いなる審(さば)きがある、弱さを持っている人への真実の配慮の有無が、人の永遠を決める、だから、強者は人に対して、とりわけ、弱さを持っている者に対しては格段の配慮をするようにと教えられたのが、この箇所の真の意味なのです。
そして人の内に潜在する非情を排して、深い憐憫を生きたお方がイエスでした。
2.小さき者への配慮は、如何なる犠牲にも優る価値がある
四十三節から四十八節のイエスの言葉を文字通りに受け取って、不必要な恐れを抱いたり、極端な行動に出た人がいたことは事実ですが、だからこそ今朝は、イエスの教えの真意を理解したいと思います。
「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、片手になって命に入(い)る方がよい」(9章43節)。
「手」の次には「足」、続いて「目」が取りあげられます。なお、四十四節と四十六節は原典にはなく、おそらくは写字生があとで付加したものとされています。
「もしあなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入(い)る方がよい。もし、あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入(い)る方がよい」(9章45、47節)。
イエスはここで、五体満足で火の消えない地獄で永遠に苦しむよりは、たとい五体不満足であったとしても、「命」(43、45節)すなわち「神の国」(47節)に入れてもらって、永遠に神と共に暮らす方がはるかに幸せではないか、と言っているのです。
「手」や「足」や「目」などの体の器官は、本来、神の栄光を現すため、具体的には強い人が弱い人を支えるために神によって備えられたものでした。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第一の手紙6章20節 262p)。
しかし現実は、弱者を助け、神の栄光を現すために備えられた人の体の各器官は、アダムの堕罪以来、罪の道具として使用されるようになってしまったのです。
罪と言いますと私たち日本人は法律に触れる犯罪を思い起こしますが、犯罪は人の内なる思いがかたちになって外に出てきたものです。
私が聖書でいう罪がわかったのは、ある本に書かれていた文章を読んだ時でした。そこにはこのように書かれていました。
「もしも目で人を殺すことができるならば、街路は死人で満ちるであろう」
読んで慄然としました。敵意や嫌悪の気持で人を見たことがなかったか。いや、数え切れないほどある、そう考えるならば、これまでにこの目で何人の人を殺してきたであろうか、と。
口語訳が「罪を犯させる」(43、45、47節)と訳した言葉は、原語は四十一節の小さい者を「つまずかせる」と同じ言葉です。ということは、これらの手や足や目などの諸器官は、「小さい者をつまずかせる」道具を意味することになります。
つまり、もしもあなたの手、足、目が弱い者を躓かせるのであるならば、一層のこと、それらを切り捨て、抜き出してでも、悔い改めを表明して、あなたの霊魂が地獄に堕ちることを免れなさい、そのような犠牲を払ってもするだけの価値がある、とイエスは言おうとされたのです。
3.小さき者への大いなる憐れみが地獄への審判に打ち勝つ
「地獄」(43、45、47節)という言葉が出て来ました。
ここで地獄と訳された「ゲヘナ」は「ヒンノムの谷」で、もともとはエルサレムの南にある谷のことでした。
紀元前八世紀末、南ユダの王アハズは異教の神々のため、ここに祭壇を築いて、子供たちを人身御供として捧げたと記録にあります。
「アハズは…ベンヒンノムの谷で香をたき、その子らを火に焼いて供え物とするなど、主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の憎むべき行いにならい」(歴代志下28章3節 旧約聖書口語訳636p)。
この悪しき習慣は百年にわたって断続的に続けられましたが、紀元前七世紀、ヨシヤ王の宗教改革によってヒンノムの谷は埋められ、ごみ捨て場となりました。そしてこの谷では塵芥(じんかい)を焼く火が常に燃えていることから、いつしかヒンノムの谷、つまりゲヘナは地獄を象徴するところとなって、イエスの時代、ゲヘナすなわち「地獄」は悪人が死後に行くところとして恐れられるようになっていたのでした。
では現実に地獄ははたして存在するのか、またあるとするならばどこにあるのかと言いますと、実は地獄は空間や場所ではなく、状態のことなのです。昔、まだ地球が平面であるとされていた時代は、天国は空の彼方にあり、地獄は大地の深みにあると信じられていました。何と今でもそう考えている人がいます。
リバイバル集会を全国的に展開している著名な牧師さんが、ある集会で、「どこかの国で地中深くボーリングをしたその穴に集音マイクを入れたところ、マイクが呻き声のような不気味な音声を拾った。ひょっとすると彼らは地獄を掘り当てたのかもしれない」と真顔で言っていたのを思い出します。しかし、地球の構造は地殻、マントル、核から成っていて、表面の地殻でも厚さは百キロメートルもあります。
地下に地獄があると考えたのはこのような科学知識が乏しかった古代の人々の三層世界観から来るものでした。地獄は場所ではありません。では地獄とは何か、それは神のいない状態、自分の過去を思い出して、あの時、こうすればよかった、あの時、しなければよかったと、悔いを千載に残す状態が続くこと、しかも、もはやその悔いの心を見てくれる救い主、悔いの言葉を聞いてくれる神はいないという状態、それが「地獄」なのです。
芥川龍之介は「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の中で、「人生は地獄よりも地獄的である」として、「(地獄の)針の山や血の池などは二、三年其処(そこ)に住み慣れさえすれば、格別跋渉(ばっしょう)の苦しみを感じないようになるようである」と言っていますが、地獄はそんな甘いところではありません。
「地獄では、うじがつきず、火も消えることはない」(9章48節)。
この四十八節の言及は、地獄の存在とその永遠性を描写した言葉であって、特に「消えることのない」「火」は、永遠に続く良心の呵責を意味すると思われます。
イエスがここで教えたかったことは、弱い者への愛と配慮は、如何なる犠牲にも優る価値があるということでした。なぜならば、「あわれみはさばきに打ち勝つ」(ヤコブの手紙2章13節)からです。
では具体的にどのような人が「小さい人」かと言いますと、実は強いと思われている人が、配慮が必要な「小さい人」という場合があります。
家庭では乱暴で我儘な子供の前で親が「小さい人」である場合があります。家庭において親が、子供の無神経な言葉や振る舞い、例えば話しかけてもぶっきらぼうな返答しか帰ってこないという状況によって傷つき、その結果、親としての自信を喪失させるというようであるならば、そのような場合、その子供はひょっとすると地獄の入口に近い、といえなくもないのです。
学校では生徒に対して強い立場の筈の教師を、生徒や保護者が無意識のうちに傷つけている場合もあります。職場では立場上強い筈の上司が、実は「小さい人」であることもあるのです。
何はともあれ、本当に弱い立場にある者を守ろうとする姿勢が「命」「神の国」に近いとイエスは言われます。深く味わいたいと思います。