2012年2月12日 日曜礼拝説教
「敬虔の修練が永遠を左右する―自身に塩を持つ」
マルコによる福音書9章49、50節(新約聖書口語訳66p)
はじめに
平和の反対は不和ですが、では、不和の原因が何かと言いますと、それは「敵意」というものです。もっとも敵意を活力としている人や国もあります。たとえば隣国の場合、何かと言うと、敵意を剥き出しにして日本を目の敵にし、「謝罪せよ、賠償せよ」と言い募りますが、どうも百年ほど前に日本に併合されたことを恨んでのことのようで、あれも収奪された、これも踏みにじられたと訴えます。
しかし、同じ状況であったもう一つの島国の方は、老若男女(ろうにゃくなんにょ)を問わず誰もが日本が大好きで、友好的です。それは日本の統治によって国の再生を経験することができたからだと言われています。
お隣の国は「日本に奪われた、奪われた」と言いますが、確かに面子(めんつ)や自尊心は失ったと思いますが、反面、実に多くのものを得てきたのだということは、歴史の記録が証明します。
それは日本による併合一年後の一九一一年と、その二十五年後の一九三六年の半島の統計を見ると一目瞭然です。
この二十五年の間に半島の状況は大きく変わりました。
?人口は1,383万人から2,137万人に、
?戸数は281万戸から401万戸に、
?農耕地面積は273万町歩から450万町歩に、
?米の生産量は978万石から1,941万石に、
?麦の生産量は502万石から1,040万石に、
?造林植樹数は119万本から1,860万本に、
?普通学校(現在の小学校)数は306校から2,417校に、
?普通学校生徒数は32,384人から765,706人に
増加しているのです(育鵬社刊平成二十四年度中学歴史教科書「新しい日本の歴史」177p)。
人口が僅かの二十五年で五十四%も増えたということは、併合によって食糧や衛生・医療等の状態が劇的に改善されからであって、その結果が、出生率の向上、死亡率の低下、人口増となったわけですが、さらに驚くのは、この間に小学校が約八倍に、そして生徒の数が何と約二十四倍にまで増えたことです。
つまり、日本に併合されるまで、半島に住むほとんどの児童は学校教育を受けることができていなかったのです。
彼の国の人がなぜ日本から収奪されたと訴えるのかというと、それは国の歴史教科書に問題があるからだと主張する学者が現われました。ソウル大学校の李榮薫(イ・ヨンフン)教授です。
三年前、李教授の著書が翻訳されました。タイトルは「大韓民国の物語」でサブタイトルが「韓国の『国史』教科書を書き換えよ」(永島広紀訳 文芸春秋発行)です。
同書でイ教授は、韓国の高校の国史教科書にある、「農地の四割が収奪された」という説を上げ、それは何の根拠もない神話であるとします。
また同じ教科書にある、
「半島で生産された米の半分が日本に収奪された」という説に関しても、「確かに米の半分が日本に渡ったのは事実です。しかしながら、米が搬出される経路は奪われていったのではなく、輸出という市場経済のルートを通じてでした。…米が輸出されたのは総督府が強制したからではなく、日本内地の米価が(半島よりも)三十%程高かったからです。ということは、輸出を行えば、(半島の)農民と地主はより多くの所得を得ることになります。その結果、朝鮮の総所得が増え、全体的な経済も成長しました。…輸出所得によって綿製品のような工業製品を日本から輸入したり、最初から機械や原料を輸入して紡績工場を作ることも出来ました。…輸出をすれば、収奪とはこれまた逆に全体の経済が成長するのです」
と指摘し、最後に
「それなのに、どうして韓国の教科書はこうした平凡な経済学の常識を逆さまに書いているのでしょうか」
と疑問を投げかけているのです(78、79ページ)。
もっとも、当時の国際情勢から、もしも日本が併合しなければ半島が、帝政ロシヤに飲み込まれることは火を見るより明らかな情勢下であったこと、また大韓帝国政府からの正式要請があり、さらには併合は国際法に則ったもので、かつ国際社会が承認したことであったこととはいえ、民族の誇りという観点から、半島を併合などではなく、あくまでも国の独立を支援するという方向で取り扱う選択肢はなかったのかとも思いますが、「覆水盆に返らず」で、当時としてはやむを得ない判断であったのかも知れません。
ただ私たちとしてはかの国の人々が、一方的な歴史教育によって生み出され、かつ増幅された敵意から解放されて、平安を得ることができるよう祈る必要があると思います。
さて今週の説教は先週の続きで、先週の「小さき者への配慮が永遠を決める」が前編、そして今週が後篇です。
今週は人が敵意を超えて真の和合に至る秘訣、とりわけ、強い者の中に小さき者への心遣いを自然に生み出す秘訣をイエスの御言葉から教えられたいと思います。
1.和合という喜び
被害者とされる人の増幅された被害者意識から生じる敵意も困りものですが、明らかに加害者側の過剰防衛ともいえる敵意も理不尽なものです。
ただし世の中には、敵意を持ってもやむを得ないというケースもあります。それは何の落ち度もないのに大切にしてきたものを奪われるという場合です。そのような場合、被害者に敵意が生まれるのは当然なのですが、おかしなことに時には加害者の方にも敵意が生まれることもあるのです。
そして敵意と敵意とがぶつかり合って泥沼状態になってしまうのですが、それこそが本当の不和であって、この不和は躓かされた者と躓かせた者との間にも生じます。
ですからイエスは「小さい者」を躓かせた強い者たちに対してまず、和解をしなさい、と言われたのでした。
「そして、互いに和(やわ)らぎなさい」(マルコによる福音書9章50節後半 新約聖書口語訳67p)。
この「和らぎなさい」という言葉の語源は、平和(エイレーネー)であって、単に争わないということではなくて、積極的な和合状態を指します。
リビングバイブルの「互いに仲睦まじく暮らしなさい」という訳は適訳であると思います。そして、和合こそ、キリストによる神との和解に導かれた私たち罪びとが、その次にキリストからの贈り物として経験する祝福であったのです。
米国における公民権運動の指導者であったマーティン・ルーサー・キング牧師は一九六三年八月二十八日、米国の首都ワシントンDCにあるリンカーン記念公園で行われた「ワシントン大行進」のスピーチにおいて、「私には夢がある」という感動的な演説をいたしました。「I have a dream」という題の演説です。
「私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が」
つまり、白人と黒人の「和合」こそが、自分が持つ夢である、ということでした。マーティン・ルーサー・キング牧師が生まれ育ったジョージア州は米国の中でも特に黒人差別が激しかった地域であったからです。
それはまた、紀元前六世紀の、バビロン捕囚からパレスチナに帰還したユダヤ人と国に残った者たちの共通の実感でもありました。
「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗(うるわ)しく楽しいことであろう」(詩篇133篇1節 旧約口語867p)。
ところで「和合」をするためには順序が大事です。「互いに和らぎなさい」とあるのだから、まずお互いに謝りましょう、というのは筋が違います。まず加害者側がへりくだって非を認め、謝ることが必要です。
特に家族などの近しい関係の場合、近ければ近い程、「ごめんなさい」が言えない場合もありますが、「和合」は謝ることから始まります。そして謝罪されたそのとき、被害者の側は、主の祈りの一節を祈るということがどのようなことかがよりわかるのです。
「我らに罪をおかす者の罪を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」
2.神への愛、隣り人への愛という火で塩づけられる
しかし、物事は謝ればそれで済む、というわけではありません。最善は人を躓かせないことです。つまり、はじめから傷つけなければいいわけです。
ではどうしたらよいか、という秘訣、小さき者、弱き者への心遣いを実践するための秘訣をイエスは語ります。
イエスは言います、あなたがたはみな、「火で塩づけられねばならない」と。
「人はすべて火で塩づけられねばならない」(9章49節)。
意味がよくわかりません。「火で塩づけられ」るとはどういうことかと、私たちは首を捻ってしまうのですが、ユダヤ人として子供のころからモーセ五書を習ってきた弟子たちは、ああ、あのことか、と思い出すものがあったのです。
それは神殿における供え物に塩を添えるという規定でした。
「あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭(そさい)に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない」(レビ記2章13節)。
「素祭」とは穀物の供え物のことです。神殿で穀物を捧げる場合、その供え物には塩をかけなければなりませんでした。
塩は古代、部族同士が同盟関係を結んだ場合、決して相手を裏切ることはしないという友情のしるしとして、塩を入れた食事を共にし、そのことによって相互の不変の関係を確かめたと言われています。
つまり「契約の塩」とは神と神の民との変わることのない契約を象徴するしるしであったのです。
そして神とイスラエルとの契約の中心、つまり契約の真髄は神が民を愛し、そして民もまた、神の愛に応えて全力で神を愛するということでした。
では「火で塩づけられる」とはどういうことを意味するのかということですが、イエスがこのあとエルサレムに行き、神殿を中心にして教えを語っていたとき、ひとりの律法学者がイエスに、数多(あまた)ある戒めの中で何が第一のものかと問い、それにイエスが応えて、第一は全身全霊で神を愛すること、第二は自分のように隣人を愛することである、と言われたことがヒントです。
イエスは律法学者に答えました。
「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあまたの隣り人を愛せよ』これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコによる福音書12章29~31節)。
愛は燃える愛という表現のように、しばしば燃える火に喩えられます。つまり、「火で塩づけられねばならない」とは、人は不変の契約を基として、火のような不変の愛で神を愛し、人を愛する者であれ、ということなのです。
3.敬虔の修練 ― 内に塩を持つ
しかし問題は、人というものが変わり易いということ、意志や決心が長続きしない傾向がある、ということです。そしてそのことをよくご存知であるイエスは、だからこそ、自らの内に塩を蓄えなさい、と勧めたのでした。
「塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい」(9章50節)。
この「自身の内に塩を持ちなさい」とは、塩を保存せよ、とか蓄えよとも訳せます。塩、つまり神への愛と隣人への愛を保ち続けることを、聖書は別の言葉で「敬虔(けいけん)」と言っています。
「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(テモテへの第一の手紙4章7節 新改訳)。
「敬虔」とは口語訳では「信心」とか「信心深い」などと訳されますが、原語が「よく」と「敬う、崇拝する」を足した言葉であるように、神を怖(おそ)れ畏(かしこ)むこと、神を恭(うやうや)しく敬うことです。
そしてこの敬虔は、すべての人間に求められていることでした。あのニヒルに見える伝道の書もその結論部においては「敬虔」であることが人間の本分であることを強調します。
「事の帰する所はすべて言われた。すなわち、神を怖れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(伝道の書12章13節 旧約口語932p)。
そして体の健康が体の訓練によって高まるように、「敬虔」もまた鍛錬によって深められると共に、修練された「敬虔」は現世には幸せを、そして来世には永遠の命を保証すると、パウロは断言しました。
「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です」(テモテへの第一の手紙4章8節 新改訳)。
イエスが言う、「あなたがた自身の内に塩を持」つように、という言葉の意味はまさに、自らの内面を「塩」つまり、神への畏敬の思いから生まれる神への愛で、いっぱいに満たしなさい、そうすれば、その神への愛は外へと溢れて行って、あなたの「手」(43節)は小さき人を助ける手として用いられ、あなたの「足」(45節)は弱い者のためにすばやく動く足となり、あなたの「目」は気落ちしている人を励ます目として用いられるようになる、ということだったのです。
まさに敬虔の修練が私たちの永遠を左右するとも言えます。そして、敬虔は日々の個人礼拝と、毎週の礼拝の積み重ねで鍛錬されていきます。