2016年3月27日 イースター・復活祭礼拝説教
事実、キリストは死人の中からよみがえった
コリント人への第一の手紙15章20節(新約聖書口語訳274p)
はじめに
敗戦後の昭和二十五年頃、明治以来元々あった白人崇拝、欧米憧憬という日本社会の土壌に、戦勝国である米国の宗教行事が急速に広まりました。イエス・キリストの生誕を祝う十二月二十五日のクリスマスです。
昭和四十年代、五十年代になりますと、バレンタインデーなるものが広まりました。これは西暦二六九年に殉教したとされるセント・ヴァレンティアヌスの死の記念日である二月十四日に、女性から男性に対してチョコレートを贈る、というかたちで定着しました。神戸のモロゾフという洋菓子屋さんの発案によると聞いたことがあります。
でも、欧米ではクリスマスと並んで、というよりもクリスマスよりももっと盛大に行われている、キリストの復活を祝うイースターとなりますと、日本ではさっぱりです。
イースターが日本社会に定着しない理由は二つ、ではないかと私は考えています。
一つは、「キリストの誕生はいいとしても、そのキリストが死んだあと、墓から復活をしたという話はどうも受け入れ難い」という素朴な感覚が日本人にあること、そしてもう一つが、イースターという日がクリスマスやバレンタインデーのような固定日ではなく、年ごとに移動する移動日だからではないかということです。
イースターはそもそも、西暦三二五年、現在はトルコとなっている小アジアのニケアという町で行われた教会会議(ニケア会議)において、「イースターは春分の日の後の満月の次に来る最初の日曜日とする」ということが定められました。
今年二〇一六年の場合、春分の日の後の満月が先週二十三日の水曜日ですので、三月二十一日の「春分の日の後の満月の次に来る最初の日曜日」は本日、三月二十七日となります。
ついでに言いますと、三月二十一日を春分の日とするということも、この教会会議で決められたそうです。
イースターの日については個人的には、母の日のように例えば四月の最初の日曜日などとしてもらえると、日本社会にも少しは浸透するのではないかと思ったりもするのですが、これは百パーセント無理でしょう。
そこで考えてみました、「どこかの洋菓子屋さんが若者のお洒落なファッションとして、イースターにはイースターケーキを食べて、イースタープレゼントを贈り合う、という習慣を流行らせてくれれば、遅まきながらもイースターがこの日本に定着するのではなかろうか、あの何ともバカバカしい秋のハロウィンなどよりもよっぽど、商機となるのではないか」などと。
ところで復活祭をなぜ「イースター」というのかということですが、古代の北ヨーロッパでは「エオストレ」という名の春の女神が崇められておりました。
春の到来が待ち遠しかったからです。高福祉の国として北欧を憧れの目で見る見方が多いようですが、十数年前に訪れたスウェーデンで、この国に長く住んでいる日本人の方が言うには、北欧の長い冬には心を患う人が多く出て、その結果、自死する者も少なくない、ということでした。
その北欧にキリスト教が宣教されていくに従い、陰鬱な冬が終わって草木が芽を出す春を象徴するこの春の女神の名が、キリストの死からのよみがえりを祝う復活祭に相応しいものとなり、それで復活祭がドイツ語で「オースタン」、英語で「イースター」と呼称されるようになったのだそうです。
そこで二〇一六年の本日のイースター礼拝では、日本人には信じにくいキリストの復活という聖書の主張が、単なる神話や伝説、教会が造り出した根拠のない教説などではなく、歴史的な事実であるということ、それが日本人を含む人類すべてにとって、重要な意義を持っているということについて確認をしたいと思います。
そこで今週のタイトルは、「事実、キリストは死人の中からよみがえった」です。
1.聖書は言う、「キリストは確かに死人の中からよみがえった」と
キリストの復活という原始キリスト教会の教えは、日本人にとってはなかなか信じられないものなのですが、それは西暦一世紀半ばのギリシャ人にとっても同様であったようでした。
キリストの復活という信仰に関する否定的見解は、コリント集会の中では死人の復活の否定というかたちで、ギリシャ人信徒の中に浸透していたようです。
でも、コリント集会の開拓者であり育成者でもあった使徒パウロにとって、死人の復活を否定する考えは看過することのできないものすなわち、福音の破壊に他なりませんでした。
実は古代ギリシャ人の来世観は、多くの日本人が持っている考え方と似たところがあります。霊魂不滅の思想がそれです。これは、人の肉体は滅びても内なる霊魂は死なず、永遠に生きる、という考えです。
それは遺された者にとりましては確かに、慰めではあります。しかし、よく考えますと、肉体を脱した霊魂はどのようなかたちで、何処に安住するのかが疑問です。
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」(コリント人への第一の手紙15章12節 新約聖書口語訳274p)。
コリントの集会において、「死人の復活はなどはない」(12節)と主張していた一部の人々とは、ギリシャ的な霊魂不滅の思想の持ち主であったのではないかと思われます。
パウロはこの、体を伴なう死人の復活を否定する教説に対して三つの点をあげて反論します。
第一の反論は、死人の復活の否定は当然、キリストの復活を否定することになる、というものです。
「もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう」(15章13節)。
第二の反論は.キリストの復活を否定することは、福音の宣教が空しい行為であるということになり、その福音を信じ受け入れた信仰も、所詮は空しい希望でしかない、ということになるという指摘です。
つまり、死人の復活とキリストの復活の否定は、キリスト教信仰そのものを否定することになる、というわけです。尤もです
「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(15章14節)。
そして三つ目の反論は、キリストの復活の否定は、神がしていないことをしたと主張するのであるから、キリストの復活を主張する者は神にとっては偽証人である、ということになるとの指摘でした。
「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際によみがえらさなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである」(15章15節)
このように三つの反論を展開した上で、パウロは断言します、「キリストは確かに、死者の中からよみがえったのである」と。
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(15章20節)。
神を瀆(けが)したという罪状で有罪とされ、国家反逆罪で十字架にかけられた「極悪人」のイエスを聖書が、神が人類を救済するために遣わした救世主・キリストとしたのは、このお方が確かに「死人の中からよみがえった」(20節)からだったのでした。
2.キリストが死人の中からよみがえったのは、歴史的な事実
携帯電話のCMではいっとき、白い犬が父親として出てくるものが人気でした。しかし最近は桃太郎や浦島太郎、金太郎、かぐや姫といった、昔話の主人公が出てくるCMが人気だそうです。
昔話は「むかしむかし、あるところに」で始まります。「むかし、むかし」のことですから年代がはっきりしないというだけでなく、「あるところに」と場所も不明です。また「おじいさんとおばあさんがおりました」という場合、一体全体、どういうおじいさんで、どこのおばあさんなのかが明らかでないということは、これが実話ではないことの証しです。
でも、イエス・キリストの復活に関する聖書の記述は、単なる昔話しなどではなく、この歴史の中で、そして実在した場所において実際に起きた出来事を、目撃者の証言に基づいてまとめられたものなのです。
「すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現われ、次に、十二人に現われたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現われた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している」(15章3節後半~6節)。
「ケパ」(5節)はペテロのこと、「十二人」(同)とは十二使徒を指します。
そしてパウロがこの書簡を書いた時点では、復活のイエスを「同時に」(6節)見た目撃者の「大多数は今なお生存している」(同)と、著者自身が言っています。
因みにコリント第一の手紙の著作年代は西暦五十五年頃とされています。キリストの刑死、復活が西暦三十年の四月ですから、まだ二十五年くらいしか経っていません。ということは有りもしなかったことを捏造したらすぐに化けの皮がはがれてしまう、という期間です。
一時期、いわゆる従軍慰安婦の日本軍や官憲による「強制連行説」が歴史的事実であるかのように唱えられていましたが、その強制連行説の根拠とされていた、強制連行の実行者を自称していた吉田清治という人物が、実は大うそつきの詐話師であって、その証言もまた嘘八百の出鱈目であったということを、天下の朝日新聞社が認めたのが一昨年の八月でした。
つまり、慰安婦の強制連行なるものが捏造の産物であって、被害を訴える者の多くが、貧しさのゆえに親に売り飛ばされたり、民間業者に騙されたりした女性たちであったことが明白になったのでした。勿論、そのこと自体、何とも惨たらしいことではありますが。
朝日新聞はその際、強制連行されたとされていた女性が「二十万人云々」という数字の方も、戦時徴用と混同した結果であったと発表しましたが、ごまかしもいいところです。
支那事変(日中戦争)におけるいわゆる「南京虐殺」の犠牲者も、いつの間にか二十万人から三十万人に増えてしまっていますが、確かな統計によれば当時の南京市の人口が二十万人です。
算数ならば「200,000-300,000=-100,000」と、数式は成り立ちますが、実際の人口ではあり得ません。
また虐殺があったとされる時期から数週間後には、南京市の人口は二十数万になっていたことがわかっています。大虐殺があった直後に逃げ出した市民が、ひどい殺戮が行われた町に帰ってくるでしょうか。
またそんな恐ろしい町に他の町から人が流入してくるでしょうか。子供でもわかることです。つまり歴史的事実としての「南京大虐殺」なるものは無かったということなのです。
しかし、キリストの復活は事実です。再度、お読みします。
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂といて、死人の中からよみがえったのである」(15章20節)。
ここで「事実」と訳された言葉は、「今」という意味の言葉です。ですからこの箇所は「今、現に」、あるいは「実際」と訳してもよいでしょう。
もしもキリストの復活が事実であって、聖書が言っているように、キリストが「今、現に」生きているのであれば、私たちの取るべき態度は一つです。神に無条件降伏をしてこれを受け入れるか、あるいはなおも否定するかです。
そして人間として何が誠実な態度であるか、というならば、キリストの復活という聖書の記述、キリスト教会の主張を事実として認めるということになるわけです。
3.キリストは眠っている者の初穂として、死者の中からよみがえった
NHK朝の連続ドラマ「あさが来た」の放映が今週で終了となりますが、先週金曜日の放送で、近しい者が次々と亡くなってしまうことを嘆く、あさの夫の新次郎に向かって、日の出女子大学校の学長になった成澤が慰めの言葉をかける場面がありました。
成澤学長は言います。
慰めになるかどうかわかりませんが、私にとって生と死というものは、あまり違いはないのです。生があるから死があり、死があるから生がある。この二つは常に一つのリズムとして我々の日常に流れています。
そしてこの体はただの衣服であり、本当の体はもっと奥にある。そしてそれは永久に滅びません(2016/3/25 NHKドラマ「あさが来た」)。
確かに日本人の心に沁み、心情に訴える言葉ではあります。ところでこの学長さんのモデルはキリスト教徒で牧師でもあった人のようです。この場面を視たクリスチャンの視聴者は感動したかも知れません。しかし私はこの場面を視聴していて、これこそが、日本のキリスト教に溶け込んだ、ギリシャ的霊魂不滅の思想なのだと思いました。
なお、学長さんのモデルの人物の信仰はユニテリアンだそうです。ユニテリアンも一つのキリスト教ですが、イエス・キリストについてはこれを神の子とは認めず、傑出したひとりの人間として考えるところに、その特徴があります。
ついでに触れておきますと、成澤学長のモデルの人物は、その生涯の終わりにはキリスト教信仰から離れたと伝えられています。それが事実であるならば、何とも残念なことです。
「あさ」のモデルの広岡浅子の方ですが、六十二歳になってからキリスト教の洗礼を受け、亡くなるまでキリスト教の布教と教育活動に邁進したそうです。
でも、ドラマではそこまでは描かないことでしょう。ただ、視聴者の中でモデルの広岡浅子という女性の生き方に惹かれてその伝記を読み、晩年の広岡浅子を支えたイエス・キリストに興味を持つ人が起こされるならば、幸いなことです。
最後に、キリストがよみがえった目的についての確認を共有したいと思います。しつこいようですがもう一度、メインテキストをお読みします。
「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」(15章20節)。
律法によれば「初穂」(20節)の束が、過越の祭の後の最初の安息日(土曜日)の翌日(日曜日)に奉献されたということです。
「主はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々に言いなさい、わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない』」(レビ記23章9、10節 旧約聖書口語訳169p)。
「初穂」とは最初に収穫されたものです。当然、収穫はそれで終わるのではなく、その後に続きます。つまり「キリストが眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった」(同)ということは、死人の復活がキリストひとりだけで終わるのではなく、「眠っている者」つまり、信者たちの復活が後に続く、ということなのです。
イエス・「キリストが…死人の中からよみがえった」(20節)のは、私たち信じる者たちの「初穂」(同)となるためでした。
すでに「眠っている者(たち)」(同)も、そして生存している者たちも、キリストという「初穂」(同)に続いて、死の世界からよみがえり、新しい体、朽ちることのない体を着せられて、神と共に永遠を生きることになるのです。
私たちがキリストの復活を記念する「イースター」を、とりわけ大事なものとして祝う意味は、そこにあります。