2015年12月24日(木) クリスマスイブ礼拝説教
ひとりの嬰児(みどりご)が我々のために生まれた
イザヤ書9章6節(旧約聖書口語訳954p)
はじめに
クリスマスを「Xmas」と表記したりしたものを見かけますが、何で「X(エックス)マス」なのでしょうか。
「mas(マス)」は「ミサ」を英語にしたもので、礼拝とか祭りとかを意味しますが、でも「Xマス」「Xのお祭り」とは何なんでしょうか。
クリスマスがキリストの降誕を祝うキリスト教の行事であるということは、流石に今では誰でも知ってはいます。でも、それが何を意味するのかといいますと、それ以上はよくわからない、まあ、いいじゃないか、ということになるわけです。
ところでアニメにはよく「ミスターX」と呼ばれる人物が出てきます。「タイガーマスク」「ルパン三世」そして「プロゴルファー猿」などですが、彼らはすべて、悪役として登場します。
正体不明、謎の人物ですので「ミスターX」なのです。
実はクリスマスが「Xマス」と表記されるのは、キリストを表すギリシャ語が「ΧΡΙΣΤΟΣ(クリストス)」で、その最初が「Χ(キーあるいはカイと発音します)」で始まるからです。
つまり謎のミスターXの「X」ではなく、「クリストス(キリスト)」として神から遣わされた救世主の御降誕をお祝いもし感謝もする、キリスト教のイベントを意味するもの、それが「Xマス」なのです。
そこで二〇一五年のクリスマスイブ礼拝では、クリスマスに誕生したひとりの嬰児(みどりご)は、二十一世紀の今、日本という国に生きる私たち日本人とどのような関わりがあるのか、ということにつきまして、聖書からご紹介したいと思います。
1. 私たちあてどなく彷徨う人類のために、ひとりの嬰児がユダヤの地に生まれていた
聖書は実は六十六巻もありまして、キリストの誕生以前に編纂された文献が、後にキリスト教会によって旧約聖書と呼ばれ、そしてキリストが処刑された後に書かれた文書群が、新約聖書と呼ばれるようになりました。
中でも旧約聖書のイザヤ書という預言書は、紀元前八世紀から六世紀にかけて活動した、数人の預言者のことばを記録した文書なのですが、その最初の頃つまり、紀元前八世紀前半に、選民イスラエルに対して与えられたものが、神の民の救世主となるために、一人の嬰児が誕生するという預言だったのでした。
その誕生は未来に起こることなのですが、完了形が使用されていますので、「生まれた」「与えられた」と訳されます。
「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた」(イザヤ書9章6節前半 旧約聖書口語訳954p)。
「みどりご」(6節)といいますのはこれに「嬰児」という漢字を当てますが、乳児のことです。この預言から七百数十年後、ユダヤのベツレヘムで、「ひとりのみどりごが」誕生したのでした。
「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子(ういご)を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカによる福音書2章7節 新約聖書口語訳85p)。
この「飼い葉おけ」(7節)をベビーベッドとして寝かされた「初子」(同)こそ、後の救世主イエス・キリストでした。
この「嬰児(みどりご)」はイザヤの預言によれば「われわれのために生まれた」(イザヤ9:6)のでした。
「われわれ」とは選民イスラエルだけでなく、生きとし生ける者すべてを意味します。つまり、キリストは全人類「のため」に生まれたのでした。そしてそこにはキリスト教とは縁遠いと思われている私たち日本人も含まれます。
そういう意味から言えば、クリスマスは意味の不明な「Xmas(エックスマス)」ではなく、また単なる白人のお祭りなどでもなく、日本人である「わたしたちのため」のものでもあるわけです。
なぜならば「ひとりのみどりご」は日本人である「われわれのために生まれた」のであり、「ひとりの男の子」は神が、日本に住んでいる「われわれに与え」てくれた救い主であったからです。
二十一世紀、薔薇色の未来が期待され、展望されて始まった世紀ですが、過去と同様、人類は依然として当てどなく彷徨っているといえます。その当てどなく彷徨う私たちに与えられたしるしが、嬰児の誕生でした。
よくよく考えて見れば私たちの中には、自分は何のために生まれ、どこに向かって生きているのかという、人生の意味と目的も不明なままに日を送っている者、あてどなくどことなく彷徨っている者も多くいるのではないかと思います。
クリスマスはそんな人も含めた日本人を対象とした、天の神によるイベントでもあるのです。
2.私たちのために生まれた嬰児は、私たちを導く完璧な助言者、私たちが崇める力ある神
では、「わたしたちのために生まれた」という「嬰児」は如何なる存在なのでしょうか。
続きを読んでみたいのですが、口語訳は少々分かり辛いので、新共同訳でお読みしたいと思います。
「権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(新共同訳 9章5節後半、口語訳 6節後半)。
「わたしたちのために生まれた」(6節)イエス・キリストは第一に、「驚くべき指導者…と唱えられる」(同)救世主でした。
この場合の「指導者」とは、知恵をもって助言したり忠告をしたりする人のことであって、英語の聖書では「カウンセラー」と訳されています。
世間には五~六十分、黙って話を聞くだけでで高い料金を取るカウンセラーもいますし、クライアントを食い物にするような弁護士がいるかも知れませんが、キリストは「驚くべき」カウンセラー、つまり他に比べようのない「非凡な」相談相手、完璧な助言者、弁護者なのです。
しかも単なる助言者ではありません。何とこの「みどりご」(同)は人間を超えた「力ある神」(同)でもあったのです。
イエス・キリストはマリヤという女性から、正真正銘の人の子として生まれました。しかし、イエス・キリストは普通の人間ではありませんでした。
キリストはもともと神の子として存在していたものが、人間となって誕生したお方です。これを専門用語で言いますと、「キリスト両性論」と申します。
つまり、キリストは神の子という「神性」と人の子という「人性」の両方を持った稀有な存在であるということです。
数々の厳しい修行を積んで神に昇格した、というのではありません。初めっから神なのです。
人であると同時に神の子でもあるという不思議な存在、それがイエス・キリストです。
「神がいるなら神を見せろ」などという人がいますが、それではお見せ致しましょう。神はキリストの人格と行動においてご自分を啓示されました。
ですから、歴史に現われたイエス・キリストを見た者は、神を見たともいえるのです。
「イエスは彼に言われた、ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネによる福音書14章19節前半)。
私たちがキリストを礼拝し、キリストに向かって祈るのは、キリストが礼拝と讃美、そして祈りの対象の神だからです。飼い葉桶に寝かされていた嬰児こそ、私たちが崇めるべき「力ある神」(同)なのです。
3.私たちのために生まれた嬰児は、私たちが頼る永遠の父、私たちを安らがせる平和の君
また、「わたしたちのために」(6節)人の姿をまとってこの世に「生まれた」(同)「みどりご」(同)は、私たち人類がそして日本人の誰もが信じて頼るべき「永遠の父」(同)でもあります。
「父」といいましても、父なる神のことではありません。キリスト教神学において異端として排除された教説に、「様態的三位一体論」というものがありました。今でも神学よりも体験を重視するペンテコステ教会の一部に根強く残っている異端説がこの説です。
この説によりますと、「父なる神がイエス・キリストとしてこの世に生まれ、死んで復活し、昇天をしてからは、今度は御霊として地上に降臨したのだ」というのです。
一人の神が様態(モード)、つまり姿やかたち、服装を変えて現われた、というわけです。つまり一人三役、三変化です。
しかし、「永遠の父」(同)という表現の「父」は優しさと強さを併せ持つ父性を象徴するもので、「永遠の」という形容動詞は変わらない性質を表します。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル人への手紙13章8節)。
変わらないから信頼でき、信用して裏切られることがないのです。
この「みどりご」は「平和の君…と唱えられる」(6節)お方でした。
今年は戦後七十年という節目の年でした。戦後七十年、確かに日本は大規模な戦争には巻き込まれませんでしたが、果たして平和であったのでしょうか。
平和憲法があったから平和が守られた、とする主張がありますが、数十名、数百名にものぼるとされる、北朝鮮による不法な拉致という事実を無視して、平和が保たれたといえるのでしょうか。
拉致というのは誘拐という犯罪なのです。
我が国固有の領土である竹島が韓国によって不当に奪われたのは、「平和憲法」なるものが施行された五年後のことでした。
その「平和憲法」によって武力の保持を放棄していた我が国は、領土が奪われても、そして日本の漁船が次々と拿捕され、日本人漁民が殺されても抑留されても、それをただただ指を咥えて見ているだけだったのです。
勿論、争いは極力避けねばなりません。平和の反対は争いということですが、争いの原因は大部分が敵意です。
我が国は歪んだ歴史認識を持った三つの国から常に攻撃されているのですが、だからといって、敵意には敵意で対抗、となったら相手方の思う壺です。
実は人あるいは国家に対する敵意という感情や意志の背後には、神への敵意があるのです。
恵みに溢れる神に対して敵意を持つなどということは、理に合わないことです。
しかし、世の中には加害者が被害者に対して敵意を持つ、ということがあります。
今から十五年程前、ハワイのオアフ島沖で、愛媛県立宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」が、浮上してきた米海軍の原子力潜水艦に衝突されて九名が死亡するという何とも痛ましい海難事故がありました。
この事故では米国側が非を認めずようとせず、艦長もなかなか謝罪しようとしなかったことから、なぜ米国人は謝らないのか、という文化比較が話題になったのですが、その折、テレビ番組に出演していた在米経験の長い日本人女性の経験談に興味を惹かれました。
彼女が言うには、「米国人は自分が悪いと分かっていても謝らない、それは謝ると、自分が不利になるからだ。自分がある時、小学校の参観日に幼い子供を連れて参加したところ、近くにいたひとりの子供が投げたおもちゃが自分の幼い子供の額に当たって血が流れた。ところがその子供の母親は謝ろうとはしないし、投げた子供も謝らなかった、それどころか、その子供が言うには、『僕が投げたところにいた君が悪い』と言った」というのです。
聞いていて仰天しました。
自分はそんなに悪くもないのに、自分の方から謝ってしまうのは日本人くらいなものです。
世界は敵意で満ちています。その敵意の始まりは、罪を犯したアダムとエバからでした。つまり、「神が善悪を知る木などを植えたから自分たちは実を食べる破目になってしまったのだ、悪いのは手が届くような所に木を植えた神だ」というわけです。
見事な論理のすり替え、責任の転嫁です。「平和」というのは、この的外れの敵意の始末からしか始まりません。
そしてキリストが「『平和の君』と唱えられる」(6節)救世主であるのは、自らが十字架に架かることによって、人間が神と人に対して持っている的外れな敵意というものを処分してくれたからでした。
「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ人への手紙2章14~16節 新共同訳)。
このクリスマスの日、「『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(6節)救世主が、「わたしたちのために生まれ」(同)てくれたのでした。
捧げるべきは感謝の言葉、神への讃歌です。そこで今晩は神への感謝を込めてご一緒に、国分友里恵作詞、岩本正樹作曲による「イエス・キリスト 大いなる愛」を歌いたいと思います。
イエス・キリスト 大いなる愛
あなたはこの日 降りてこられた
天の栄光をすべて捨てて 私たちのために
星降る夜に 布でくるまれ 小屋の片隅で眠っていた
天使たちが知らせたように すべての人に今日送られた
私たちの救い主 イエス・キリスト 大いなる愛
思いを尽くして 感謝捧げよう
神の恵み 神の恵み イェス・キリスト
我が神イェス 我が友イェス
羊飼いの見た祝福 この日この世に 生まれ落ちた光
聖なる夜に この地の上に
救いと命のために イエス・キリスト 大いなる愛
ベツレヘムに この日生まれた
神の恵み 神の恵み イェス・キリスト