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2015年11月15日 日曜礼拝説教 壊れかけていた燭台は修理、再生され、消えかかっていた灯心は赫々(あかあか)と周りを照らし出す マタイによる福音書12章18~21節

15年11月15日 日曜礼拝説教
 

壊れかけていた燭台は修理、再生され、消えかかっていた灯心は赫々(あかあか)と周りを照らし出す
 
マタイによる福音書12章18~21節(新約口語訳18p)

 

はじめに
 
先週11日の水曜日、三菱航空機が開発した国産の小型ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」が名古屋空港を飛び立ち、初飛行に成功したというニュースが報道されました。
 
航空機は使用する部品数が二百から三百万個と、自動車の百倍ほどもあるそうで、国産化は日本の基幹産業としての発展と経済成長において、大きなインパクトを与えるものと期待されます。しかし私はそれ以上に、ともすれば自虐的な自己理解に陥りがちな日本人にとって、失っていた自信と誇りを取り戻す契機になるのではないかと思っています。
 
日本の航空機開発は当初、フランス等欧米の技術に負うところがありましたが、百田尚樹の「永遠の0(ゼロ)」(講談社)や、堀越二郎の「零戦 その誕生と栄光の記録」(角川書店)でも有名なゼロ戦(艦上零式戦闘機)をはじめとする、日本が生み出した数々の戦闘機は、太平洋戦争(大東亜戦争)の初期・中期には、米軍が手も足も出ないほどの世界最強の名を欲しいままにしました。
 
この日本の卓抜した航空機製造技術に恐れをなした米国は戦後、日本がそれまでに製造した戦闘機すべての破壊そして、航空機メーカーの解体、設計図、資料の破棄、没収を実施し、日本人による航空機の開発、研究、実験を全面禁止してしまいました。
 
これが解除されたのは戦後十一年の一九五六年でしたが、その六年後、日本人によるプロペラ航空機「YS-11」が完成します。
しかしそれ以後、米国の圧力もあって、国産航空機、特にジェット機の開発は日の目を見ることがありませんでした。
そしてプロペラ機「YS-11」の完成から約五十年という時を経て、国産のジェット旅客機がついに日本の空を飛んだのでした。
 
敗戦後の日本人は、GHQの七年にわたる占領政策「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」によって過度の罪悪感を植え付けられ、誇りを失っただけでなく自虐的になり、それは恰も、壊れた燭台、消えかけの蝋燭(ろうそく)のように、精神的には気息奄々(きそくえんえん)たる状態に陥っておりました。
戦後七十年、よくぞ立ち直ったものだと思います。
 
確かに過信は問題です。しかし、必要以上の自信喪失もそれ以上に問題であるといえます。
ところで今日十一月十五日は、日本の大切な伝統行事である「七五三」の日でもあります。
私たちの教会でもこの行事の趣旨を生かす意味において、子供たちの健やかな成長を祈願する「子供祝福式」を毎年、日曜礼拝の中で行っております。
 
ところで子供はいつも親をはじめとする大人の姿を見ております。そして大人が元気ならば子供も元気であり、大人がしょげていますと子供も元気が無くなってしまいます。
そういう意味からも、親を含めた私たち大人は、元気溌剌とした日々を送りたいものです。
 
そこで今週は「マタイによる福音書の譬え話し」を一回休んで、イエスが引用した預言書のイザヤ書四十二章から、イエス・キリストこそが私たちにとって、癒しと再生をもたらす希望の救世主であることを確認したいと思います。

 

1.壊れかけの燭台、消えかかった燈芯のような、希望なき者
 
「勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよ」と言います。「勝って驕(おご)らず、負けて腐らず」とも言います。しかし有為転変の世の中、人もまた変わり、中には誇りを失って地に這いつくばるような状況に陥るような場合もあります。
 
実は古代ユダヤ人も紀元前六世紀、バビロン捕囚という民族的、国家的試練に直面し、どん底の気分の中におりました。
そんな時、神がユダヤの解放者として立てた器がペルシャ王クロス(キュロス)でした。このクロスを念頭に置いたと見られる第二イザヤの預言、イザヤ書四十二章を自らに当て嵌めて引用したのがイエスでした。
 
「これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、『見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう』」(マタイによる福音書12章17、18節 新約聖書口語訳18p)。
 
 この「僕」(18節)を選民イスラエルとする解釈もありますが、前後の記述と歴史の経過から、これをクロス王とするのが妥当でしょう。そしてこの預言は究極的には時代を越えて西暦三十年、ナザレのイエスにおいて完全に成就したのでした。バビロン捕囚時代、ユダヤの民は自信喪失と悔恨、悲哀と失望のただ中におりました。それはまさに壊れかけの燭台、消えかかっている燈心のような状態であったのでした。
 
「彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」(12章20節)。
 
 ここに「いためられた葦」(20節)が登場します。
  この「いためられた葦」とは何か、ということですが、旧約学者の故左近淑(さこん きよし)元東京神学大学学長はこれを、燭台柱を意味するとしています(左近 淑著「混沌への光」166p ヨルダン社)
「『葦』は出エジプト記二五・三一、三二などでは燭台の支柱や枝を指す。それをとると詩の平行がより明瞭になると思われる(同)からだそうです。
 
私もこの人の説教集を読むまでは、「葦」(20節)はナイル川の川べりなどに生える植物の葦だとばかり思い込んでおりました。
パスカルの「人間は考える葦である」という、あの有名な「パンセ」の文言も、「葦」が植物の「葦」だと思い込んでいたからこその発想だと思われますが、この「葦」がエルサレム神殿に設置された七枝の「燭台の支柱や枝」(左近)を意味したのであれば、次の「煙っている燈心」(20節)とのつながり、関連性がはっきりとします。
 
壊れかけの燭台柱、煙っていて今にも消えそうな燈心は、役に立たないものの代表例といえます。そして、捕囚期のユダヤ人たちは神を証しする選民でありながら、無用の存在である壊れかけの燭台、消えそうな燈心に譬えられる存在になってしまっていたのでした。
 
翻って我とわが身を省みれば、「自分は折れかけた燭台柱、また燭台の傷んだ枝、周囲を照らすこともなく、燻(くす)ぶってしまっている燈心のような希望の無い存在だ」と思ってしまった時期があるかも知れませんし、ひょっとするとそれが今の気持ちかも知れません。
 
しかし今日、そのような自覚のある者にとっての朗報が、時代を超えて響きわたります。それが、メシヤは「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」(20節)という聖書の御言葉です。
 
 
2.壊れかけの燭台を無用なものとして壊さず、消えかかった燈芯を消すことのない神の僕キリスト
 
随分前ですが、「燃え尽き症候群」という言葉が流行りました。英語では「バーンアウト・シンドローム」です。
でも、この言葉が巷で聞かれなくなったからと言って、この症状自体が消えたわけではありません。それどころか、深く静かに定着していると言ってよいのかも知れません。
 
男女共同参画社会の実現とやらが叫ばれて何年も経ちました。しかし、数年前のこと、スーザン・ビンカーという女性が書いた、「なぜ女は昇進を拒むのか」という本が出版されました。
タイトルに惹かれて読んでみましたが、要は「男性と女性では脳の仕組みが違うので、女性は昇進を望まない。昇進は女性に過大なストレスをもたらし、まじめな女性ほど、内側から壊れてしまいかねないからだ」ということだと思います。
真面目な女性には、職務に伴なう責任の重さがプレッシャーとなって、昇進を拒むのだというわけです。
 
冒頭に申し上げました。今日十一月十五日は七五三の祝いの日です。でも、子を持ってから子育ての重圧に圧し潰れそうになって、育児ノイローゼになりかける人が年々、増えているようです。
そして重圧に圧し潰されてしまった場合、次に来るのが「自分は無用なのだ」という自己卑下の念です。
 
表面は何事もなく仕事を続け、何ごともなく日常生活を送っているようでも、内面は戦いの連続で、「自分は壊れかけの燭台のようなものだ、周囲を明るく照らすべき使命を与えられながら、消えかかっている、燻ぶっている」と、まじめな性格の人ほど、自らを責めがちになることがあります。
しかし、神は言われます、「わたしが選んだ僕」(18節)に「望みを置」け、と。
 
「彼が正義を得させる時まで、いためられた葦を折ることなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」(12章20、21節)。
 
 「望みを置く」(21節)という「彼の名」(同)とは誰の「名」なのか、それはイエス・キリストの「名」です。キリストであるイエスこそ、人類の「望み」(同)であり、選民にあらざる「異邦人」(21節)が持つことのできる「望み」、打ちひしがれた者にとっての究極の「望み」なのです。
  イエス・キリストは「壊れかけた燭台」のような者を、壊れかかっているからといって見捨てることはなさいません。
 
また、「燻ぶっている燈心」を用済みであるとして、消してしまうようなお方ではないのです。
イエスはどんな「いためられた葦」(20節)つまり「壊れかけた燭台」をも決して「折ることがなく」(同)、また「煙っている燈心を消すこともない」(同)お方です。
だからこそ、ユダヤ教からキリスト教に改宗したものの、打ち続く苦難の中でユダヤ教に復帰するかどうかで悩んでいたユダヤ人キリスト者たちに向かって、書簡の著者が強調したことは、「神はあなたがたを決して見捨てたりはしない」という事実でした。
 
「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた」(ヘブル人への手紙13章5節後半 358p)。
 
たとい人が自分自身を見限ったとしても、イエス・キリストは決して見限らず、また、見捨てたりはしないのです。
 
 
3.壊れかけた燭台のような者は修理、再生され、消えかかっていた燈芯もまた、赫々(あかあか)と周りを照らし出す
 
 では、見捨てられないだけか、と言いますと、そうではありません。「折ることがなく、…消すこともない」(20節)ということは、壊れかけた燭台を名工が修理して瑕(きず)のない状態に戻すように、壊れかけた燭台のような者も、キリストによって修繕され再生されて、本来の働きを、神に与えられている役割をしっかりと果たすことができるようになるのです。 
 
  消えかかっていた燈心もまた然りです。本来の目的である灯りとして、周囲を明るく照らす燈心として手入れされるように、消えかけている燈心のような者も、キリストによって赫々(あかあか)と燃えやれ、暗い周囲、希望のない世界を明るく照らし出す使命に復帰することができるようにされるのです。
 
 その具体例がイエスの一番弟子のシモン・ペテロでしょう。ゲッセマネの園でイエスが、神殿警備の兵士たちによって捕縛される直前、「他の弟子たちがあなたを見捨てたとしても、私はあなたを見捨てはしません」と、イエスに向かって彼は言い切りました。実際、その時は確かにそう思っていたのです。
 
   しかし、そのペテロはイエスの裁判が行われている大祭司の官邸で、中庭から裁判の様子を見つつ、附近の者から、「あなたはイエスの弟子だろう」と指摘されると、「いや、違う」と言下に否定をしてしまいます。
 
「シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、『あなたも、あの人の弟子のひとりではないか』。彼はそれを打ち消して、『いや、そうではない』と言った」(ヨハネによる福音書18章25節)。
 
 やがてユダヤの法廷で有罪を、そしてローマの法廷で十字架刑を宣告されたイエスは、されこうべを意味するゴルゴタという刑場に連行され、そこで処刑されてしまうのですが、生前の予告通り、三日目に墓から復活し、その復活の姿を弟子たちに示します。でも、ペテロは以前のように胸を張って、「自分はイエスの弟子だ」とは名乗れることはできなくなっていました。
そして仲間たちに向かって「わしは漁に行く」と言います。
 
「シモン・ペテロは彼らに、『わたしは漁に行くのだ』と言うと、彼らは『わたしたちも一緒に行こう』と言った」(ヨハネによる福音書21章3節前半 177p)。
 
 「わたしは漁に行くのだ」(3節)というのは、気分転換に魚を釣りに舟を出す、という意味などではありません。これは、「弟子をやめる、自分には弟子の資格は無い、元の猟師に戻るのだ」という告白を意味するものだったのです。
彼は自分自身の存在自体が壊れかけており、その信仰自体、燻ぶって消えかけていたのでした。しかし、意気消沈している彼の前に復活のイエスが現われ、声をかけるのです。
 
「イエスは彼に『わたしの小羊を養いなさい』と言われた」(21章15節後半)
 
 それは落ちこぼれのシモンに対する、思いもかけない再びの招きでした。こうして失敗者シモン・ペテロは再生と癒しの中へと導かれていったのでした.
 
長い人生、責任の重さに圧し潰れそうになる時があるかも知れません。挫折の経験に心が折れそうになってしまう場合があるかも知れません。
そんな時、あなたのために「神が選んだ僕」(マタイ12:18)イエスに思いを向けて、祈りの手をあげてみてください。神が選び遣わされたイエスは、壊れかけている燭台やその枝を修理、再生し、消えかけている燈心を再び燃え上がらせてくださるお方なのです。