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2015年11月8日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話? 羊と山羊のように、右と左に分けられた信者の譬え―ある者は意識せずに、姿を変えたキリストを世話した マタイによる福音書25章31~46節

2015年11月8日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話?

羊と山羊のように、右と左に分けられた信者の譬え―ある者は意識せずに、姿を変えたキリストを世話した

 マタイによる福音書25章31~46節(新約42p)

 

はじめに
 
日曜礼拝説教は、要旨を文章に起こして毎週、週報に挟んでお配りしていますが、一回の説教は字数にしますと六千字ほどで、これは四百字詰め原稿用紙にしますと十五枚程になります。
 
教会のホームページを開設したのが二〇一二年の六月ですから、来月で三年半になるのですが、このホームページには礼拝後、説教の全文を掲載します。
 
最初は文章化された説教原稿をそのまま掲載するだけですから、そう時間もかからないだろうと少々高を括って(?)始めたのですが、ネットに流れることなどを思う時、聖書解釈の正誤、時事問題や歴史問題、思想的問題についての論評の正確性や妥当性をはじめ、文章表現や用語など、何かと神経を使うことが多く、毎週の更新には予想以上の時間やエネルギーを費やしております。
 
でも、更新にあたって、自分自身が語った説教を、あたかも牛が反芻するように何度も読み返し、内容をはじめ、文章そのものを校正する作業を進める中で、新しい発見があったり感興が湧いたりするという恵みを味わうこともできます。
 
先週の「祝福された人間関係」シリーズの最終回では、カインの弟殺しという陰惨な事件と、ダビデ王とその部下による相互献身というエピソードを取り上げましたが、これら二つの出来事は、文字通り、兄弟愛というものをめぐる具体的な例と見ることができるように思われます。
 
そこで今週の「マタイによる譬え話し」は、兄弟愛の有無をめぐっての教訓です。マタイが伝えているイエスの教えを熟読玩味し、頭と心の奥底にそれこそ拳拳服膺(けんけんふくよう)していきたいと思います。
 
 
1.本物の信仰の有無が、人の永遠の運命を決める
 
マタイによる福音書の二十四章、二十五章にある譬え話は、イエスがキリストとして再度、地上に来臨する際の心構えを弟子たちに諭したものとなっています。
 
その最後の譬えでは、イエス・キリストが王として栄光の座に着き、人それそれの生き方に応じて審きを下すということが強調されます。
 
今年の前半は半年かけて、「使徒信条」を詳しく学びました。中でも第二条のキリストについての告白のうち、キリストの業績の中では未来に属していて、まだ実現されていない出来事がキリストの来臨である「再臨」と、キリストが生者と死者とを審く「最後の審判」の二つであることを確認しました。
 
この二つは二十一世紀の今になっても実現はしていません。しかし、キリストはいつの日か、栄光の王として天から降って来られて、王の王として「栄光の座」に着くことになります。
その時、すべての国民はキリストの御前に集められることになると、聖書は言います。
 
「人の子が栄光の中にすべての御使(みつかい)たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、」(マタイによる福音書25章31、32節前半 新約聖書口語訳42p)。
 
 キリストの「再臨」後、「最後の審判」が始まることになります。具体的にはすべての人が右と左に、あたかも混ぜこぜになっていた群れを、羊飼いが羊と山羊を分けるように選り分ける、というのです。
 
「そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、かれらをより分け、羊を右に、やぎを左にしておくであろう」(25章32、33節)。
 
 右と左に分けられた二つのグループにはそれぞれ、異なった宣告がなされます。
まず、右側ですが、羊のように右側に分けられた人々に対しては、何とも有り難い言葉が与えられます。
 
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』」(34節)。
 
 一方、山羊のように左側に分けられた者たちに対しては、イエスの言葉とは思えないような厳しい宣告が告げられます。
 
「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(25章41節)。
 
 羊のように右に分けられた者は正しい者とされて永遠の生命に入り、山羊のように左側に分けられた者は永遠の刑罰を受けると、キリスト自身が言われるのです。
 
 では、何が両者の運命を分けたのかといいますと、キリストに対して「した」か、「しなかった」であるというのです。
 
「わたしにしたのである」(25章40節)。
 
「わたしにしなかったのである」(25章45節)。
 
 二つのグループの運命を決めたものそれは、キリストに対する口の言葉ではなく、キリストへの具体的な態度、姿勢、行動、関わり方でした。
 
 昔から神学的議論として、信仰と善行の問題がありました。ローマ人への手紙から、「人は信じるだけで神に義とされる」という教えを引き出したルターは、その初期には善行を強調するヤコブの手紙を藁の書簡として低く評価していたそうです。
 しかしヤコブは本物の信仰は必然的に善なる行動が伴う、という、当然のことを言ったにすぎませんでした。
 
「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、何の役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。…信仰も、それと同様に、行いを伴なわなければ、それだけでは死んだものである。…あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている」(ヤコブの手紙2章14節、17節、19節 362p)。
 
 ヤコブによれば、本物の信仰は知識の多寡などではなく、必然的に「行い」が伴なっているものだ、というのです。
そしてキリスト自身がこの譬えにおいて、信仰が本物であるかどうかを問うもの、それが「行い」だと言っているのです。

 

2.ほんものの信仰は、兄弟愛の有無で判断される
 
では、本物の信仰かどうかは何によって証明されるのか、ということですが、それは兄弟愛の有無によって判断され、その兄弟愛は日常生活における何気ない振る舞いの中に現われるというわけです。
 
この譬えの中で、「王」から「御国を受けつぎなさい」(34節)と言われた人々は、そう言われたことよりも、その理由を聞いて驚いています。
では「王」は何と言ったのか。
 
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」(25章35、36節)。
 
 一方、「永遠の火にはいってしまえ」(41節)と宣告された者たちの方も、そのわけを聞いてびっくり仰天します。
 
「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである」(25章42、43節)。
 
 「王」からして「くれた」(36節)と言われたグループは、「いつ、あなたに対してそんなことを『した』(40節)でしょうか、心当たりは全くありません」と困惑します(37~39節)。
 そして「王」からして「くれなかった」(43節)と言われたグループもまた、「そう言われましても」と戸惑い、弁明をします(44節)。
 
 これに対し「王」はそれぞれに説明をします。
 
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによくよく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」(25章40節)。
 
「そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたに言っておく、これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』」(25章45節)。
 
 「これらの最も小さい者」(40、45節)と言われた人々は、空腹、渇き、ホームレス、欠乏、病気、投獄という困難な状況にあった者たちのことですが、王の「わたしの兄弟であるこれらの」(40節)という言葉から、彼らが信仰の仲間であることがわかります。
 
なお、この「兄弟」を新約学者のエレミアスのように、広く人類すべてと解釈する学説が多数ですが、私は信仰の仲間のことであると思います。
 
例えばパウロの場合、異邦人教会から義援金を集めてそれを命がけでエルサレムに届けますが、それはエルサレム教会の信者の欠乏を補うためであって、エルサレム住民一般を対象にしたものではありませんでした。
国民全体の困難のためには、政府や地方自治体が動くべきだからです。
 
「王」が挙げた六つの困難はすべて、信仰に伴なう圧迫や迫害によって生じました。
ユダヤ社会の中でも異邦人世界においても、古代においてはキリスト信仰を徹底しようとすると、激しい抵抗や反対を受けることが多々あったようです。
信仰のゆえに職を失う者もおりました。家を追い出されてホームレス状態になるということもありました。
 
洗礼を受けたために本来持っていた相続の権利だけでなく、財産をも没収されてしまった者もおりました。
迫害や弾圧、拷問によって健康を損ない、体に障害を負う者もいたようです。
 
さらに、信仰を捨てないために獄屋に投げ込まれる者もおりました。ですから、この「王」の言葉は第一に、信仰の仲間が信仰のゆえに苦しみと戦いの中にあるのを知った時、心を動かしたか、また心を一つにしようとしたかを問うものであったと思われます。
 
特に、キリストの名のゆえに投獄された者を獄屋に訪ねるということは、自らがキリスト信者であることを告白するようなものですから、同じように捕えられて投獄されるというリスクがあったわけです。
 
投獄されるという目に遭った仲間が出た場合、わが身が可愛ければ知らぬ顔の半兵衛を決め込んだらいいわけですが、一方、仲間が心配であれば様子を見に行こう、励ましに行こうと思います。
 
つまり、右側に分けられた人たちというのは、信仰のゆえに苦難に遭っている兄弟姉妹への愛に燃えて心を動かさ、何らかの行動に出た人たちであったのです。
 
 ヤコブが言いたかったことも、このことでした。ヤコブはその書簡の中でこう言っています。
 
「ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にこと欠いていり場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、何の役に立つのか。信仰もそれと同様に、行いを伴なわなければ、それだけでは死んだものである」(ヤコブの手紙3章15~17節 362p)。
 
 信仰が本物であるかどうかは、兄弟愛の有無で判断される、とりわけ、困難の中にある仲間への同情心の有無にある、それが、イエスが伝えたかったことなのです。
 
 
3.打算のない兄弟愛の有無は、無意識の実践で証明される
 
 では、その兄弟愛が本物の兄弟愛かどうかは、どのように証明されるのでしょうか。
兄弟愛が本物であるかどうかは、動機で判別することができるのだと、譬えの中の王は言っているようです。
 実は、この譬えでキリストが最も言いたかったことはここでした。
 
右側に分けられた者たちの特徴は、兄弟愛の実践に関し、キリストに対して自分たちが「した」という認識がありません。
 
「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか…」(25章37~39節)。
 
 一方、左側に分けられた方もキリストに「しなかった」という認識はありません。
 
「主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか」(25章44節)。
 
 これは、「もしもキリストさまが困っていたならば、私たちはきちんとお世話をしました」という意味であって、そこに打算というものが垣間見えます。
 
つまり、キリストをお世話をすれば報酬があるだろうが、この困窮している者を世話しても見返りはない、却ってとばっちりを受ける危険性がある、だから世話はしない、手を出さない、という計算が彼らにあることがわかります。
 
 しかし、右側に分けられた者たちは、自分が持っているものをこのような時のために与えられたものとして、苦難の中にある同信の者たちのため、ただただ、分かち合おうとしただけだったのです。
 
 つまり、この譬えの中心は、審判の基準が兄弟愛の実践の有無を超えて、純粋にキリストを愛し、純粋にキリストを信じているかを問うものということなのだと思われるのです。
 
 山上の説教の一節です。
 
「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」(6章3節)。
 
 通常、この教えは、人が善行を行う際には、周囲の人の目や評価などを意識するな、という意味で理解されますが、それだけではありません。
右の手も左の手も自分自身の一部です。つまり、これは、善行自体を自分自身、意識をするな、という教えなのです。
 
賞賛や高い評価を受けるためなどでなく、ただ、そうしたいからするという場合、善行が人に知られているかどうか、人がどう思うかなど、意識をしないものです。
 その見本がパウロの先輩で、その後伝道旅行を共にしたバルナバでした。
 
「クプロ生まれのレビ人で、使徒たちはバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた」(使徒行伝4章36節187p)。
 
 バルナバが、「自分の所有する畑を売」(6節)って得た多額の代価を、貧しい仲間の必要を満たす献金として、「使徒たちの足もとに置いた」(同)ということは、彼が、自分が善行を行っているという意識を持っていなかったことの証明です。
 
 このイエスの譬え話は表面的に読みますと、善行の実践の有無が永遠の運命を決めるように読めてしまうかもしれません。
しかし、そうではなく、キリストに対する本物の信仰の有無が永遠を決めるのだということを教えるものです。
 
そして、その信仰が本物かどうかということは、兄弟愛の有無によって明らかとなり、その兄弟愛が本物かどうかは、それが計算、打算のない、無意識の行為かどうかで見分けられます。
 
 こう考えますと、自分自身をだれよりも知っているわたしたちは、「聖書の規準はあまりにも高い、自分なんかは及びもつかない」と嘆きたくもなるのですが、大丈夫です。
 
最後の審判の時までに、共にいまし給う聖霊なる神がわたしたちを変えて、私たちの行為の内なる動機を清めてくださいます。それがパウロの励ましの言葉でした。
 
「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(コリント人への第二の手紙3章17、18節 281p)。
 
 「主は霊である」(17節)とは「主は御霊でもある」「主は御霊において現臨する」という意味です。
そして主は、神を仰ぎ、キリストを信じるわたしたちの意識と無意識の内に、御霊において常に働きかけてくださっているのです。
いつの日にか私たちもまた、「霊なる主の働きによ」(18節)って、「主と同じ姿に変えられていく」(同)ことになります。
 
最後の審判の際に、私たちが「右」に分けられるか、「左」に分けられるかは、公平、公正な主の査定によります。
重要なことはただ一つ、打算のない兄弟愛の持ち主になりたい、実践者になりたいとの切なる願いをもって、御霊なる主を仰ぎ見る日々を今、生きることであると思います。