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2015年10月11日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話? からし種とパン種と毒麦の譬え―始めは小さくても、見た目は少なくても、今は理解できなくても後になれば マタイによる福音書13章24~43節

2015年10月11日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話?

からし種とパン種と毒麦の譬え―始めは小さくても、見た目は少なくても、今は理解できなくても後になれば

マタイによる福音書13章24~43節(新約21p)

《礼拝説教アウトライン》

1.たとい、始めは小さくても

2.たとい、見た目は少なくても

3.たとい、今は理解できなくても

 

はじめに
 
先週の火曜日の夜のことでした。葬儀に出席した帰り、阪急電車を降りて、環状線に乗ろうと大阪駅前まで来た時、号外が配られておりました。受け取ってみると、二日続きの日本人のノーベル賞受賞を知らせる号外でした。
 
先週はノーベル賞が部門別に毎晩発表される、いわゆるノーベル賞週間でしたが、我が国の場合、今年はどの分野でどんな人が受賞するのかが近年の関心事となっています。
しかし、日本に追いつき追い越せを国是とするお隣りの国では、この時期は憂鬱な季節でもあるのだそうです。なぜか。同国にとっては垂涎の的であるノーベル賞が、手が届かない高根の花であることを思い知らされる季節だからです。
 
その結果、同国には「ノーベル賞なんかには、何の価値もない、無視したらよい」という意見も出たりするのですが、それはイソップ物語の「すっぱい葡萄」に登場するキツネです。
 
葡萄棚にたわわに生(な)っている美味そうな葡萄を取ろうと、キツネが手を(前足を)伸ばすのですが届きません。そこでキツネは言います、「あれは美味そうに見えるだけで、ほんとうは酸っぱい葡萄なんだ」と。
負け惜しみの典型例です。「手が届かなくて残念だ、まだまだ力不足なのだ」と言うならば、まだ可愛げがあるのですが。
 
同国の場合、そこは素直に、西欧の先進国に伍して日本人がノーベル賞を受賞する様を、同じアジアの一員としての立場から、痛快事として喜んだらよいのではないかと思うのですが、どうもそうはいかないようなのです。
 
なぜなのか、ということですが、物ごとすべてを上下の関係でしか見ず、しかも自分は常に上位でなければならないという強迫観念に囚われているため、自国よりも下にいる筈の(下にいなければならない筈の)下位の日本が、国際的栄誉の象徴であるノーベル賞、それも人類の叡知を代表する科学(サイエンス)部門の賞を受賞し続けることが、どうしても許せないからなのです。
 
対人関係を上下関係で見るという国民性については、韓国の反日思想への皮肉を綴ったブログで夙(つと)に有名な、韓国在住のシンシアリーというペンネームの歯医者さんの最新の著作、「韓国人による震韓論」(扶桑社発行)に、明確に分析されています。
そこに今年も、先週の月曜日に医学・生理学賞を、そして火曜日には物理学賞を日本人が受賞するとの発表があったわけです。
 
それぞれの功績につきましては報道でご存じと思いますので、ここでは触れませんが、興味深かったのは医学・生理学賞の授賞対象となった大村智北里大学特別栄誉教授の研究が、極めて実際的、実用的で、土中の微生物から製造された医薬品によって、毎年三億人もの人々が失明の危険から救済されているという目覚ましい成果であるのに対し、物理学賞の梶田隆章東京大学宇宙線研究所長のは、宇宙の始まりの謎を解明する手掛かりになるかも知れない素粒子の研究が対象で、それが人類に対してどのように貢献しているのかがよく理解できないという研究であったことでした。
 
このように一見、極端に対照的な研究のように見えますが、共通しているものがあります。一つは、研究や実験の素材のバクテリヤにしても、そして素粒子のニュートリノにしても、私たちから見れば、それらが神の創造の産物であるということで、そしてもう一つの共通点として興味を惹かれたのは、世界の誰もが目を瞠(みは)るようなその創造的、画期的成果が、共に長い時間をかけての地味な研究、弛まぬ努力の賜物、産物であったということでした。
 
そこで今週の「マタイによる福音書の譬え話」の四回目は、「からし種とパン種と毒麦の譬え」から、今は小さく目立たなくても、内に秘められた命は、後になれば豊かに実を結ぶに至るのだ、という教えを聞きたいと思います。
 
 
1.たとい、はじめは小さくても
 
マタイによる福音書のイエスの譬えはいずれも、「天国は○○のようなものである」で始まります。
 
「天国は、一粒のからし種のようなものである」(マタイによる福音書13章31節前半 新約聖書口語訳21p)。
 
この「○○のようなものである」という語法は比喩の一つで「明喩(めいゆ)」と言います。ついでに言いますと、イエスの「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネによる福音書15章5節)などは、「隠喩(いんゆ)」と呼ばれます。
 
「天国」は「天の国」「神の国」「御国」など、言い方や訳は少しずつ違いますが、いずれも神の圧倒的な支配を意味します。
そして今週取り上げる譬えには、神の支配に込められた豊かな生命力、変革力、影響力に目を向けよ、というメッセージが込められています。
 
まず「一粒のからし種」の譬えです。
 
「また、ほかの譬えを彼らに示して言われた、天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」(13章31、32節)。
 
イエスはこの譬えにおいて、譬えるとするならば、天の支配というものは丁度、「一粒のからし種のようなものである」(31節)と説かれたのでした。
 
「からし」の「種」からは良質の油がとれるそうで、そのためパレスチナでは「からし種」(31節)は珍重されていたようです。なお茎や葉は家畜の餌になったとのことです。
この植物の種は極めて小さいものなのですが、これが成長しますと四メートル程の高さにまで育ち、空を飛ぶ「鳥が」(32節)宿るほどの大きさになるということです。
 
確かにこの地上における神の支配も、はじめは小さな勢力でしかありませんでした。特にイエスが異端の者としてユダヤの最高法院サンヒドリンから有罪宣告を受け、ローマ総督ポンティウス・ピラトスにより、ローマ法の違反者として十字架刑に処せられた時には、弟子たちの小さな群れは消滅してしまうのではないかと思われました。
しかし、キリストの教会は生きておりました。
 
教会は、先週の説教でも取り上げましたサウロ、その後の使徒パウロの精力的な宣教活動もあって、復活のイエスを主とする信仰は世界中に広がっていき、それが現在に至っています。
 
独特の伝統文化、伝統宗教の影響が大きい日本では、数的な意味での成長は微々たるものです。しかし、「天国」(31節)という神の支配が持つその圧倒的な生命力が働く時、いつの日にか「空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」(32節)筈です。「天国」という神の支配が持つ成長力を信じましょう。
 
この成長力は涸渇したり減退したりしはしません。ですから、まずは毎週の日曜礼拝毎に、神の支配の大いなる現われがあることを期待したいと思います。
 
 
2.たとい、見た目は少なくても
 
「天国」についての二つ目の譬えは「パン種」の譬えです。
 
「またほかの譬えを彼らに語られた、『天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜ合わせると、全体がふくらんでくる』」(13章33節)。
 
この譬えでは、「天国」という神の支配が持っている影響力が、「パン種」(33節)に似たものとして強調されています。
イエス時代のユダヤの一般家庭では通常、一度に三斗の粉を捏(こ)ねてパンを焼いたのだそうです。
口語訳で「三斗」と訳された言葉は原語では「三サトン」で、一サトンが7、3リットルですから、三サトンは約二十二リットルということになります。
 
パンは普通、「パン種」つまりイースト菌を入れずに焼くと膨らまないのですが、「パン種」を入れますと、全体がふっくらと柔らかく、大きく膨らみます。
つまり、神の支配、「天国」には「パン種」のように、物の性質を変える力すなわち、変革力があるという意味です。
 
一世紀のユダヤ社会では、「パン種」は通常、腐敗を意味するものとして、悪しき影響力を表すような場合に使用される言葉でした。
しかしイエスはこれを、良い影響力、健全な感化力を指す言葉として使われたのでした。
そして事実、この神の支配という福音が伝えられた所には、変化、変革という現象や事態が起こるようになってきたのでした。
 
ギリシャ文化の影響が強かった古代の地中海世界では、強いということが最大、最高の価値でした。
そのため、虚弱な子供や、障害を持って生まれた者は生きる価値のない邪魔者として山や谷に遺棄されることもあったようです。
 
ユダヤの場合、他国に比べれば随分とましでしたが、それでも女性の地位は低く、妻は夫に従属するものとして、家系を存続させるための、子供を生むことだけに価値があるとされていました。
しかし、福音が浸透するところには、人の命を尊ぶ風潮、女性の価値が見直され価値観へと、社会が大きく変わっていきました。
 
中世には、十字軍の出来事や異端審問、魔女狩り等、西欧のキリスト教国は多くの過ちを犯しましたし、黒人の売買や奴隷制度も、英国や米国というキリスト教国が主導したものでした。
その米国において、奴隷制度に固執したのは、バイブルベルトと言いまして、キリスト教信仰が盛んな南部の州でした。
 
創世記のノアの伝承に、「ノアの子供のハムはヤペテとセムに仕える、とある。黒人はハムの子孫、白人はヤペテの子孫、だから黒人は白人のしもべになるのが、聖書の教えだ」というわけです。
勿論、無知から生まれた聖書解釈の結果ですが、何しろ聖書が根拠ですから、北部が進める奴隷制度の廃止には強い抵抗を示し続けました。
 
でも、米国や西ヨーロッパ各国における社会事業や福祉事業、学校教育などは、キリスト教の精神によって進められました。文明の光はキリスト教国を通して世界に照らされたことは、確かな事実です。
 
アフリカの聖者と言われ、ノーベル賞の平和賞を一九五二年に授与されたアルベルト・シュバイツァーは、何の悩みもない幸せな日々を送っていた二十一歳のある日、自分に与えられているこの幸福は不幸な人に分けるために、自分が持っている才能は困っている人の必要を満たすためにあるのだ、という強い思いを持ちました。
 
そして三十歳で大学の神学部の講師の職を辞して、医学部に入り直し、六年かけて医学を習得し、医師の資格を得てからアフリカに赴きます。赤道直下の地、現在のガボン共和国です。
 
シュバイツァーはバッハ研究の第一人者で、同時にオルガンの名演奏家でもありましたので、医薬品が底を着くと、ヨーロッパ各地で演奏旅行をし、資金が集まるとそれで必要な医薬品を購入してアフリカにおける医療伝道を続けました。
シュバイツァーを動かしたもの、それは神の支配が持つ力、現状を変革する力でした。
 
影響力を持った、「天国」、神の支配という「パン種」がひとりの人の心に「混ぜ」(33節)られる時、神の支配が人の知性、心の深みに働きかけて、人を根底から変化させるのです。「パン種」は少量でよいのです。
 
「天国」という「パン種」は、影響力、感化力を持っていますので、人を内側から変革します。
たとい、今は目に見えるものが少なくても、心配は無用です。自分の内側に宿った神の支配という「天国」の影響力、変革の力を信頼して、日々の務めを果たし、自分が善と思えることを行っていきたいと思います。
 
 
3.たとい、今は理解できなくても
 
世の中には「なぜ?」と思えることが沢山あります。神様はご存じなのだろうかと、訝しく思うような出来事が次から次へと起こってきたりもします。
でも、今は理解できなくても、後になれば「ああ、そうだったのか」と合点がいく日が来ると、イエスは教えます。それが「毒麦の譬え」です。
 
「また、ほかの譬えを彼らに示して言われた、『天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた』」(13章24~26節)。
 
 「毒麦」(25節)はほそ麦と呼ばれる一種の雑草で、穂が出るまでは普通の麦と見分けがつかない程、よく似ているのだそうです。
しかも、成長の過程で良い麦と絡み合ってしまうために、毒麦を抜こうとすると、良い麦までも抜いてしまいかねません。
そこでイエスは言われます、「そのままにしておきなさい」と。
 
「収穫まで、両方とも育ったままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう」(13章29、30節)。
 
 つまりこの毒麦の譬えは、「良い種」(24節)として畑に蒔かれた私たち神の子たちに対して、「神の善と全能の力とを信頼せよ、時期が来れば自ずから結果が出る、だから、しばしの間、耐え忍んで神の時の満ちるのを待つように」ということを教える譬えであって、その解説はイエス自らがしております。
 
「イエスは答えて言われた、『良い種をまく者は人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終わりのことで、刈る者は御使いたちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのとおりになるであろう』」(13章37~40節)。
 
「正義の神がいるのならばなぜ、悪人がのさばっているのか、不正が横行するのか、なぜ社会的矛盾が一向に改善されないのか」と、フラストレーションが溜まりっ放し、という人がいます。
 
しかし、神の審判は必ずあります。神が「毒麦」を放置しているように見えるのは、神の最終の審判が必ずあるからであり、更には、それ以前に良い麦が万が一にも、「毒麦」と一緒に抜かれてしまわないようにとの、神の配慮があるからです。
それが「今から行って、毒麦を引っこ抜いてきます」と息まく僕たちへの主人の言葉です。二十九節をお読みしましょう。
 
「主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った、『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない』」(13章29節)。

 私たちは神の配慮に感謝しつつ、自らが「毒麦」などでは決してないこと、良い麦として成長するようにとの神の願いのもと、「人の子」(37節)であるイエス自身によって、神の「畑」(38節)であるこの「世界」(同)に蒔かれた「良い種」であるとの自覚を持ちたいと思うのです。

自分が知らなかったことを知ろうとすることは大事です。もっと知りたいという探究心こそが、私たちを聖書の研究へと向かわせます。
しかし、分からないことを分かろうと努力しつつ、また探求しつつも、分からないことは分からないままにして神に委ねるということもまた、大切なことです。
 
今年のノーベル賞受賞の二人の日本人に共通するのは、共に極めて謙虚であるということでしょう。
医学・生理学賞の受賞者は、土の中の「バクテリアのおかげ」と言いました。本当に謙虚です。テレビ画面で見るこの方は、袈裟を着せたら将にお坊さんという感じでした。妻の従弟は京都の永観堂の管主ですが、雰囲気がよく似ているように思えました。
 
物理学賞の受賞者は、受賞は二人の恩師とチームの協力のおかげと言っておりました。いかにも柔和な風貌のこちらの方は、牧師のガウンを着せたらよく似合うのでは思わせられました。
 
 不思議なのですが、科学の先端を行く人ほど謙虚で宗教的なのです。反対に、井の中の蛙のような人ほど、何でも知っているかのように尊大で、神の存在を否定したりします。
 
 科学といえば何と言いましても、万有引力を発見したニュートンですが、ある人が彼に向かって、「我々人類は、実に多くの知識を手に入れたものです」と言った時、「子供が海岸で海水を手の中に掬って、『ボクは海を手の中に持っている』と言ったらどう思いますか。我々が持っている知識はそんなものなのですよ」と答えたと伝えられています。
 
 「毒麦」の譬えは、今は目の前に展開している状況が、理解したり説明したりすることができなかったとしても、「天国」という神の支配の向こうには、正しい結末が、輝く勝利が、しかも誰もが納得のできるように備えられていることを教えるために語られたのだと思われます。

 神が不在であるかのようにも思えるこの世界において、また宣教が進展していないように見えるこの日本において、そして、孤立しているかのように感じられる日々の暮らし、困難な戦いの中にも、神の圧倒的な支配は既に始まっているのです。

 「からし種」(31節)のように、たとい、始めは小さくても、「パン種」(33節)のように、たとい、見た目は少なくても、そして放置された「毒麦」(24節)のように、たとい、今は理解することができなくても、それでも神の支配が及んでいることを信じ、頭をもたげて日々、神の御言葉に立ってご一緒に前進したいと思います。