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2015年9月20日 日曜礼拝説教 マタイによる福音書の譬え話? 多額の負債を免除されながら、僅かな負債を赦そうとしなかった僕の譬え―赦されてこそあるという認識が、人を赦すことの出発点 マタイによる福音書18章21~35節

2015年9月20日 日曜礼拝説教

マタイによる福音書の譬え話?
 
 
多額の負債を免除されながら、僅かな負債を赦そうとしなかった僕の譬え―赦されてこそあるという認識が、人を赦すことの出発点
 
マタイによる福音書18章21~35節(新約聖書口語訳28p)

 

《今週の説教アウトライン》
 
1.仲間から受けた罪は幾度まで赦さねばならないかというと、七たびどころか七たびを七十倍するまで―主イエスの態度を想う
2.仲間の僅かな負債を赦せないのは、多くの負債が免除されたという認識がないから―問題はダブル・スタンダード
3.多くの負債が赦されているという認識が無いのは、罪意識が薄い上に自己愛が肥大しているから―赦され赦す喜びへ

 

はじめに
 
昨9月19日土曜日の未明、参議院本会議において、集団的自衛権の行使を限定的に可能とする「安全保障関連法案」の採決が行われ、賛成多数で可決、成立しました。賛成148票、反対90票でした。
 
水曜礼拝が終わった16日の夜、法案審議の大詰めである参議院の特別委員会の審議を、ネットの中継で見ておりました。
 
画面では理事会が行われている理事会室の前の廊下が、ピンクの鉢巻きを頭に締めた野党の女性議員たちで埋まっていて、そのために委員長は理事会室を出るに出られないという状況にあることが映し出されておりました。
 
結局、翌日の17日(木)に延期された委員会(参院平和安全法制特別委員会)において、それだけを見たら強行と言えなくもない採決が委員長によって行われ、法案は与党などの賛成多数で可決されました。
 
首相も出席しているところから、最終の質疑が行われると思い込んでいた野党の隙を衝いての採決だったのでしょう。
野党側は唖然呆然、怒り狂って与党側を詰(なじ)っておりましたが、後の祭りでした。
 
興味深かったのは野党側の態度でした。
前夜、自分たちの仲間が理事室前にピケを張って、委員長を10メートル先の委員会室に入らせようとしなかった行動に関しては、それはまるで無かったかのような態度で、ひたすら与党の信義違反、採決の無効を主張してやまないところなど、人間観察という視点からとても興味深い、閉会直前の国会の模様でした。
 
その後、深夜(18日未明)に行われた防衛大臣の問責決議案審議(否決)、18日午前の参議院議長の不信任決議案(否決)、同日深夜、つまり昨19日の未明に行われた参院本会議における法案採決の様子などは、NHKの中継をリアルタイムで視聴しました。
 
法案の内容や可決の是非についてはまた後日に触れることとして、とにかく面白かったのは、特別委員会で法案を可決されてしまい、ただただ悲憤慷慨して口汚く与党側を罵る野党の議員たちの言動、態度でした。
 
彼らは不意打ちを食らわした与党側の非を咎めるだけで、そこに追い込んだ原因が自分たちの行動にもあったということには、全く思い至っていないようでした。
 
つまり、法案の内容はともかくとして、特別委員会における最終質疑の機会を与党側(の委員長)が割愛するに至ったのは、自分たちの側にも問題があったという認識は、いささかも持っていないようだったのです。
 
自分が被害を受けたと思った時、実は自分も以前、同じようなことをしてはいなかったかと、自らを省みるのが健全なあり方です。
 
しかし、主イエスの譬え話の中に出てくる人物は、二重の尺度、ダブル・スタンダードでそれを使い分けて、少しも恥じるところがありません。
 
そこで「マタイによる福音書の譬え話」の二回目は十八章から、「多額の負債を赦されながら、仲間の僅かな負債を赦そうとしなかった僕」についてです。

 

1.仲間から受けた罪は幾たび赦さねばならないかというと、七たびどころか七たびの七十倍するまで―イエスの態度を想う
 
西暦三十年の春、ガリラヤにいたイエスは、弟子たちを連れてユダヤのエルサレムを目指しました。エルサレムでは三大祭りの一つである過越しの祭が行われることになっていたからです。
 
そのユダヤに向かう直前、ペテロがイエスのもとに来て、「もしも仲間が自分に対して罪を犯した場合、いくたびゆるしたならばいいのでしょうか。私たちはシナゴグ(会堂)においてラビからは『三度』と教えられました。しかしそれは一般の教えです。私たち、主イエスに付く者としては、三度の二倍にさらに一を加えた七たびでよろしいでしょうか」と質問をしたのでした。
 
「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか』」(マタイによる福音書18章21節 新約聖書口語訳29p)。
 
 ペテロはイエスから、「その通りだ、それでよい」と言われることを期待したかも知れません。しかしイエスの答えは、「七たびなどではなく、七たびを七十倍するまで、ゆるしてあげなさい」という意外なものでした。
 
「イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい』」(18章22節)。
 
 「七たびを七十倍するまで」(22節)とは「相手が非を認めて心から謝ってきた場合には、咎めることなく、無限に赦してあげなさい」という意味でしょう。
 
日本のことわざに、「仏の顔も三度」というものがあります。
これは「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹立つ」の略で、「慈悲深い仏さまは、人が失礼なことをしたとして、二度まではゆるしてくれる、しかし三度目には怒り出す」という意味です。
つまり、ゆるされるのは二度まで、それが「仏の顔も三度」の意味です。
 
そう考えますと、「七たび」どころか「七たびの七十倍」(同)など、凡庸な私たちには到底不可能な教えです。
ではなぜ、そんな不可能ともいえる答えを、イエスはペテロにしたのでしょうか。
 
 考えられるのは、それは人間には不可能なことではあるけれど、ただ一人、人間として「七たびを七十倍するまで」人の罪を赦し抜いた人間が存在するということを、ここで暗示したのかも知れません。勿論、それはイエス自身のことです。
 
今は何かと言うと「ハラスメント(虐待)」ですが、総督ピラトによる十字架刑の宣告後に、イエスが受けた屈辱的な悪罵、残虐な擲(ちょうちゃく)などのハラスメントは、想像を絶するものがありました(27章27~44節)。
 でもイエスはそういう加害者たちを呪うどころか、赦しの心で受けとめで、神に執り成し続けられたのでした。
 
ペテロが書いたとされる書簡です。
 
「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(ペテロの第一の手紙2章22節 368p)。
 
それはまた、弟子たちへ模範を示すためでもあったと著者は言います。
 
「あなたがたも、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足(みあし)の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」(2章21節)
 
被害を受けたと思った時、とても赦すことができない、いったい、幾たび赦さねばならないのだろうかと思ったとき、赦しというものを「七たびを七十倍するまでにし」(22節)た唯一の人、主イエス・キリストを思うように。それがこの譬えの第一の教えです。

 

2.仲間の僅かな負債を赦せないのは、多くの負債が免除されたという認識がないから―問題はダブル・スタンダード
 
そしてイエスによる譬え話が始まります。「冷酷な僕の譬え」すなわち「王様の家来で、自分は多額の負債を王様に免除してもらいながら、仲間の僅かな負債を赦さず、獄屋にまで入れたという、血も涙もないような冷酷な人間」の話です。
 
「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた」(18章24節)。
 
 「一万タラント」(24節)がどれほどのものかということですが、先週の「ぶどう園の労働者の譬え」で見ましたように、当時の日雇い労働者の一日の賃金が「一デナリ」でし
 
一方「一タラント」は六千デナリにあたりました。その「一タラント」が「一万タラント」ですから、「一デナリ」がたとえば現在の貨幣価値で五千円だとしますと三千億円になります。
 
 寝屋川市の平成二十七年度の「一般会計」、国民健康保険、介護保険などの「特別会計」そして、水道や下水道などの「公営企業会計」を合わせた予算総額が一五五一億円ですから、この「僕」の三千億円という負債額はその倍額です。途方もない額です。
 
 この事態を受けて「主人」である「王」(24節)は「僕」に対して、自身を妻子、家屋敷を売って返済するように迫りました。
 
「しかし、返せなかったので、主人はその人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた」(18章25節)。
 
パニックに陥った「僕」は、「必ずお返ししますからしばらくお待ちを」と必死に懇願します。
 
「そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』」(18章26節)。
 
 「全部お返しいたしますから」(26節)という言葉が、返済の目途も立たないその場しのぎでしかないことは、本人自身が一番よくわかっていることでした。
ところが何と、「僕の主人は」しもべの巨額な負債全額を帳消しにするという寛大な扱いをしてくれたのでした。
 
「僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった」(18章27節)。
 
 免除の理由はただ一つ、主人が彼を「あわれに思っ」(27節)たからでした。
 ところが譬え話は続きます。この直後、しもべは彼に金を借りている「仲間」に出会います。
 
その負債の額は「百デナリ」、現在の貨幣価値に換算しますと五十万円程です。この「仲間」は借金をすぐには返済することができず、僕は少しの猶予を嘆願されます。
 
「そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ(18章29節)。
 
でも、僕は容赦をしませんでした。すぐさまその「仲間」(29節)を警察に突き出してしまったのでした。
 
「しかし、承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた」(18章30節)。
 
 これを伝え聞いたのが、僕の莫大な負債を免除してやったあの「主人」でした。事の経緯(いきさつ)を聞いて「主人」は怒り心頭に発し、この冷酷な「僕」を召喚して難詰をし、さらに叱責をした上で投獄してしまいます。
 
「そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債全部をゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏(ごくり)に引きわたした」(18章33、34節)。
 
この「僕」はなぜ、懇願してやまない仲間を寛大に扱うことができなかったのでしょうか。それは認知能力が欠如していたからでした。
 
認知能力の欠如と言いいますと思い浮かんでくるのが「認知症」です。たしかに、老齢に伴なう認知症には、直近に経験した事柄が記憶に残っていないという症状が見られます。しかしそれは倫理観の欠如などではなく、記憶を掌る脳の機能に問題が生じるからに過ぎません。
 
しかしこの「僕」の認知能力は、自分が貸した僅かな金に関しては、驚くほど鮮明です。にも関わらず、自分が莫大な借財をあわれみによって帳消しにされたという出来事の方は、身勝手なことにきれいさっぱりと、その脳裏から消えてしまっているのです。 
つまり、彼の認知能力は頭脳の問題にあるのではなく、心のあり方にあることがわかります。
 
彼の心の記憶媒体には、あわれみによって多額の負債を免除してもらったという出来事が記憶されていませんでした。彼には、自分が経験した有り難い出来事が、何の教訓にもなっていなかったのです。
 
なぜこういうことが起こるのかと言いますと、自分と人とを量るスケール、物差しが別だからです。つまり、自分には寛容で、人には厳しい物差しを、無意識のうちに使い分けているからです。
これを世間では二重基準、二重尺度、ダブルスタンダードといいます。
 
「僕」は、自分が莫大な負債を免除してもらったという認識が、しかもそれが「主人」の底知れぬ憐れみによってなされたという自覚がありません。その結果、「自分は自分、人は人」という身勝手ともいえる論理の行使になってしまうのです。
 
目を翻して近隣を見れば、おのれの所業は棚に上げておいて、というよりも見ない振りをして、たとえば、ベトナム戦争時に、自国の軍隊が行った民間人に対する卑劣、無残な残虐行為を、あたかも無かったかのようにして歴史から抹消し、ひたすら、日本の悪事とやらを論(あげつら)う国があります。
 
赦されて今があるという自己認識が無いことは、傍(はた)から見れば滑稽であるだけでなく、それこそが悲劇であり喜劇でもあることに気がつかねねばなりません。問題はダブル・スタンダードの行使にあるといえます。

 

3.多くの負債が赦されたという認識が無いのは、罪意識が薄い上に自己愛が肥大しているから―赦し赦される喜びへ
 
この「僕」に、自分が主人から莫大な負債を免除してもらったという自覚、認識がないのは、そして仲間の僅かな負債を糾弾するのは、罪意識という基本的な意識がないからです。
 
なぜ罪意識が薄いのかといいますと、肥大化した自己愛で自らを愛しているからです。
つまり、「主人が自分をあわれんでくれたのは、自分が特別な存在であるからだ」というわけです。
 
実は罪意識の欠如と、肥大化した自己愛を特徴とする国が、まさにお隣りの国なのですが、最近、興味深い書籍を北水兄から譲られました。
 
お隣りの国から日本に帰化した呉 善花(オ ソンファ)拓殖大学国際学部教授がこの八月に発刊した著作、「槿恵(パク クネ)の真実です。
 
呉(オ)教授はお隣の国の人々がキリスト教に惹かれる理由について、自らを神の民のユダヤ人、神の子のイエスとを重ね合わせることにある、とします
 
神の民ユダヤ人、神の子イエスがそうだったように、我々はどんな罪もない善なる民族なのに、私はどんな罪もない正しい人間なのに、なぜ迫害されなくてはならないのか―。
そのように思いを向けるところに、韓国人の多くがキリスト教に惹かれていく大きな理由があります(呉 善花著「朴クネの真実 哀しき反日プリンセス」240p 文春新書)。
 
 「我々はどんな罪もない善なる民族」「私はどんな罪もない正しい人間」という自己理解には、神への多額の負債を、神の大いなる憐れみよって赦された、という認識がまったく見当たりません。
 
 被害者意識は旺盛であっても、加害者意識は皆無です。それは人に対してだけでなく、神に対してでも、です。つまり、罪の意識が無いのです。
 
 著者が、同国の国民意識に罪意識が希薄である原因としてあげているのが、同国特有の「恨の文化」ですが、その根源を説明するものが米国の精神医学者ロロ・メイによる分析です。
 
「しかし韓国には、(子どもたちだけでなく)多く大人たちの間にも『私たちはどんな罪もないのに、なぜこれほど酷い目に遭わなくてはならないのか』と『恨(はん)』を凝り固め、『恨』をバネに生きることをよしとする『恨の文化』があるわけです。いったいなぜなのでしょうか。
私は、アメリカの精神医学者ロロ・メイがいう『疑似イノセンス』という心性が、この疑問に明快な答えを与えてくれていると思います。イノセンス(innocence)とは『無罪・無実・無害の・悪意のない、純粋・無邪気』などを意味する言葉です。
…疑似イノセンスは、いいかえれば、『自分を無罪とする責任回避』で、自分だけは清く正しいという幻想の中に身を置こうとします(前掲書242、3p)。
 
「自分は罪深い人間だ、些細な被害もゆるすことのできない哀れな者だ」という自己意識が原罪意識の一つの表れなのですが、恨みの気持ちや被害者感情ばかりが先立つということは、原罪意識が希薄であることの証拠となるようです。
 
 「自分を無罪とする」心性からは原罪意識は生じません。そして原罪がわからなければ、罪のゆるしをもたらす十字架の意味もわかりませんし、十字架がわからなければ、いくらキリストに向かって「主よ、主よ」と呼びかけたとしても、それはキリスト教とは言えないということになります。 
 
 自分たちは特別な民であるのだから、ゆるされて当然だと思っていれば、「ゆるされた」という認識もなければ、感謝の言葉も生まれてきません。
そしてその根本原因は過度の自己愛にあります。
 
自己愛しかも肥大化した自己愛こそ、原罪の一つの側面です。原罪意識はなくても、過度の自己愛が見られるということこそ、原罪に汚染されていることのしるしのようです。
 
 この譬えの締め括りを読みましょう。
 
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(18章35節)。
 
 しかし、この厳しくもまた恐ろしげな結語でビビる必要はありません。
この譬えが弟子たちに語られたのは、「人をゆるさなければ、神にゆるされることはない、だからがんばって人の罪をゆるしなさい」という倫理、道徳を教えるためではありませんでした。
 
そうではなく、自らを義として、つまり自らを罪なき者として特別視することにより、多くの罪が赦されていることを自覚しないまま、他者の些細な罪を赦そうとしない者を、神もまた同じように扱うであろうと警告をする一方、自分は「心から兄弟をゆるさない」(35節)あるいは赦せない心の狭い人間だ、罪深い者なのだ、という自己理解を持って、そんな私の払い切れない負債(これを原罪といいます)を、キリストが十字架によって帳消しにしてくれたのだ、という恵みの事実を知ること、更には、厖大な負債を赦されて今があることを自覚した者は、無理をしなくてもよい、他者から受けた被害を赦せるようになる、あるいは忘れることができるようになるのだということを教えることが、この譬え話が語られた本当の目的であったと思われます。
 
この譬えの本質を深い意味で味わい理解し、主イエスの心に沿って信徒たちに勧め続けたのがパウロでした。
 
「もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい」(コロサイ人への手紙3章13節 317p)。
 
 キリスト教会にとっては、残忍な迫害者として怨嗟の的であり、恐怖の対象でしかなかった律法学者サウロは、シリヤ・ダマスカスの郊外における復活のキリストとの出会いを通して、神に対する自らの厖大な負債が赦されていたことを知り、人を責める者から赦す者へと変えられていたからでした。
 
 赦されて今があるという認識こそが、人を赦す幸いへの出発点であるということを、この「冷酷な僕の譬え」が教えてくれています。