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2015年7月26日日曜礼拝説教 詩篇を読む? 「祈りを聞かれる方よ」と呼びかける相手があることの幸せを噛みしめる 詩篇65篇1~4節

2015年7月26日 日曜礼拝説教 

詩 篇 を 読む ?
 
「祈りを聞かれる方よ」と呼びかける相手があるこ 
 との幸せを噛みしめる
 
詩篇65篇1~4節(旧約聖書口語訳801p)
 
 
説教のアウトライン
 
1.「祈りを聞かれる方よ」と呼びかける相手があることの幸せ
2.「肉なる者」であるとの自己理解を持っていることの幸い
3.神が住む「聖なる宮」に神の祭司とされて常に住まう幸福
 
 
はじめに
 
漫才コンビ「ピース」の静かな方、髪の毛と顔の長い方の又吉直樹さんの作品「火花」がこのたび、第一五三回芥川賞に選ばれました。
 
この人は当市、寝屋川市で誕生し、高柳六丁目の寝屋川市立啓明小学校、上神田(かみかみだ)二丁目の市立第五中学校を経て、大阪市内の高校を卒業し、卒業後はお笑い芸人を目指して上京、苦節十七年、本業とは別のジャンルにおいて、文学を志す者にとっては垂涎、憧憬の的ともいえる芥川賞の受賞に至ったわけです。
 
寝屋川市出身の有名人と言えば、最近では大相撲の大関豪栄道、少し前ならば不惑を迎えながら、今もメジャーで抑えの切り札として活躍している上原浩治がおります。
ついでに言いますと、関西学院大学の相撲部出身で、今年、木瀬部屋に入門し、先場所、序の口で優勝した由良もまた、寝屋川市の出身です。由良は小兵ながら居反りというアクロバティックなわざで巨漢力士を倒すなどで話題となりました。
 
受賞後の又吉直樹さんは、同時受賞の人が全く目立たない中、テレビのあちらこちらの番組に引っ張り凧ですが、報道によりますと「走れメロス」や「人間失格」の作者として有名な、太宰治という作家に傾倒しているとのことでした。
性格的にメランコリックなところなどに、共感するのでしょうか。
 
この太宰治という作家の文章は確かに見事なものであって、私もピンチヒッターで受け持った神学校の夜間校での説教学の授業で、この人の「駆け込み訴え」を教材の一つとして使ったことがあります。
 
ただ、この作家さんは戦前、何度も自殺未遂、心中未遂事件を起こした人でしたが、戦後間もなく、玉川上水に飛び込んで入水(じゅすい)心中事件を起こし、この時はついに成功を遂げてしまいます。
「成功を遂げてしまいます」と言いますと変ですが、本気というよりも周囲に構ってもらいたいという気持ちからの行動ではなかったかという推測もあるからです。
 
しかし、もしも彼が死ぬ気であったのであれば、そして本当の意味において人の苦悩を知り、親身になって心の叫びを、そして「祈りを聞かれる方」のことを知ったならば、きっと、水の中にでなく、そのお方の懐に飛び込んだのではないかと思うのです。まことに残念でなりません。聖書の神は「祈りを聞かれる方」なのです。
 
そこで本年二回目の「詩篇を読む」は、「『祈りを聞かれる方よ』」と呼びかける相手があることの幸せを噛みしめる」として味わいたいと思います。
 
 
1.「祈りを聞かれる方よ」と呼びかける相手があるこの幸せ
 
まだ娘が小学生であった頃、妻に誘われ、マズロー心理学を基にした親のための勉強会というものに、一年ほど通いました。
講座は週一回、昼間ですから受講生は私以外はみな女性で、小、中学生の子供を持つ主婦五、六人で一クラスを構成しておりました。
 
この勉強の中で特に記憶に残っている内容の一つは、次のようなものでした。考えさせられました。
 
ジミーは二体のロボットを持っている。この二体のロボットは、ジミーの言うことなら何でも聞いてくれる。そして一体はママといい、もう一体はパパと呼ばれている
 
つまり、家庭というものは子供中心ではなく、親が中心であるべきにも関わらず、いつの間にか子供が王様あるいは女王様に、そして親が忠実な召使になってしまっている、という多くの家庭の現実を指摘した教訓であったと思います。
 
子どもの言うことなら何でも聞いてくれるという親は、子どもにとっては便利ですし、重宝な存在ですが、その延長線上で、神様というものを、自分の言うことは何でも聞いてくれる都合のよいロボットのように考えている人がいます。
そしてそういう人に限って、神は願いを聞き入れてくれないと文句を言うのです。
 
たしかに聖書では神は、人の願いや「祈りを聞かれる方」として理解されております。
 
「神よ、シオンにて、あなたをほめたたえることはふさわしいことである。人は誓いを果たすであろう。祈りを聞かれる方よ」(詩篇65篇1~3節 旧約聖書口語訳801p)。
 
しかし、神は決して便利なロボットなどではありません。
詩は「神よ、シオンにて」(1節)で始まりますが、この「シオン」とはエルサレムの町の別名で、詩的、文学的表現でもあります。
 
「シオン」はもともと、カナンの原住民であるエブス人が支配するエルサムの丘に据えられた要害のことでした。
ダビデはパレスチナ統一戦争の過程でエブス人が支配するこの要害に目をつけ、これを攻撃し、占領します。イエス・キリスト誕生の約千年前のことです。
 
「王と従者たちとはエルサレムへ行って、その地の住民エブス人を攻めた。エブス人はダビデに言った、『あなたはけっして、ここに攻め入ることはできない。…ところがダビデはシオンの要害を取った。これがダビデの町である』」(サムエル記下5章6、7節 539p)。
 
ダビデがエルサレムを、そしてその丘、「シオン」を占領した結果、二代目のソロモン王の時代に、この「シオン」の丘の上に神殿が建つことになりました。豪壮にして華麗なソロモンの神殿です。つまり、詩篇のこの箇所における「シオンにて」(1節)はこの場合、丘の上に建っている神殿にてという意味です。
 
 神殿とは通常、神がいますところ、とされました。ですからその「シオンにて」神の民の一人として神を「ほめたたえる」(同)者は、「シオン」にいます神に向かって、私の、あるいは我らの「祈りを聞かれる方よ」(2、3節)と呼びかけることがゆるされているという意味です。
 
私たちは神に向かっては「父なる神よ」と呼びかけ、それがイエスである場合は「主よ」、また聖霊である場合は「御霊よ」と呼びかけるのが常なのですが、神のご性格や働きに踏み込んでより具体的に、「祈りを聞かれる方よ」と呼びかけることが許されているというわけです。
 
ここで昔読んだユダヤ?ジョークを思い出しました。
 
鉄の女と称されたマーガレット・サッチャーが英国の首相であった頃、イスラエルの首相のペギンであったかペレスであったかがロンドンにあるサッチャーの執務室を訪問し、デスクの上の赤い電話を見て、「これは?」と聞いたところ、サッチャー、「それは天国への直通電話です」
イスラエル首相「かけてもいいですか?」サッチャー「どうぞ、どうぞ。でも天国は遠いですから長距離料金がかかりますよ」
 
その後、サッチャー首相がエルサレムのイスラエル首相の執務室を訪れ、執務室のデスクの上にある赤い電話を見て、「これは?」と聞いたところ、イスラエル首相曰く、「天国への直通電話です。でも料金の心配はいりません。エルサレムから天国へは、市内料金でかけられますから」
 
エルサレムこそ神の都、というユダヤ人の自負を感じさせるジョークです。
しかし、クリスチャンは時間、場所に関わりなく、いつでもどこからでも、神への通話は常に無料です。この特権を生かさなければ、それは宝の持ち腐れとなります。
でも、無料なのはなぜかと言いますと、御子イエスの犠牲という莫大な支払いが済んでいるからなのです。
 
どのような状況下でも、親しく「祈りを聞かれる方よ」(2、3節)と呼びかけ、話しかけることのできる相手を持っていることの幸せを、私たちは改めて噛みしめたいと思うと共に、信じるだけで得ることのできるこのすばらしい特権を、より多くの日本人に知ってもらいたいと心から思います。
 
 
2.「肉なる者」であるとの自己理解を持っていることの幸い
 
「祈りを聞かれる方よ」と呼びかける相手があることの幸せ、という感覚は、自らが「肉なる者」であるとの理解を持っている者ほど、より実感を持つことが可能です。
 詩人の自己理解、それは自分自身が「肉なる者」という理解でした。
 
「すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る」(65篇3節前半)。
 
 「すべての肉なる者」(3節)の原語は「コル(すべての) バーサール(肉)」で、聖書では人類全体を意味しますが、「肉」はここでは、弱さや脆さ、限界を持つ者、とりわけ「罪」(同)を抱え、罪意識に苛まれる者を意味すると思われます。
 
自分の努力や頑張りだけではどうしようもないと思った時、「肉なる者」(3節)は自らを超えた全能の神に向かって、「祈りを聞かれる方よ」と取り縋るのです。
 
 太宰治に傾倒しているとされる又吉直樹さんが芥川賞を受賞しましたが、実は太宰治をまた、芥川賞の受賞を渇望していた人であったようで、選考委員の佐藤春夫や川端康成に宛てて、自らの受賞を切に希(こいねが)う手紙を送ったと伝えられているのです。
 
結果、第一回芥川賞には、太宰の候補作品は落ちて、石川達三の「蒼氓(そうぼう)」という作品が選ばれたため、太宰は打ちのめされてしまいます。昭和十年のことでした。
 太宰治の作品は第三回芥川賞の候補作品にも上がりましたが、結果はやはり落選だったそうで、選考委員を大いに恨んだということでした。
 
 太宰治がなぜ芥川賞に固執したのかという理由はよくわかりませんが、やはり我欲があったのではないかということが想像されてしまいます。
この太宰治のことを考えますと、ヤコブ書の言葉が頭に浮かんできてしまいます。
 
「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」(ヤコブの手紙1章14、15節 新約聖書口語訳360p)。
 
 でも、人が「肉なる者」(3節)であるということが、それが直ちに「罪びと」であるという意味ではありません。
しかし「肉なる者」である限り、罪の誘惑を覚え、時には誘惑に負けることもあります。そこで道が二つに分かれます。
 
一つは、罪と戦った結果、罪に敗北した、だからこそ「祈りを聞かれる方」(1節)の御許に額ずいて、罪のゆるしを受けようと考える者です。
三節の後半をお読みします。
 
「われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる」(65篇3節後半)。
 
「われらのとががわれらに打ち勝つとき」(3節)とは、罪の誘惑と戦いはした、しかし抵抗むなしく、敗北を喫してしまった、という個人的体験を表現したものでしょう。
「私は負けた、そして敗残兵のようになって神の許を訪れた、叱責される、罰せられるかと思いきや、神は『これ』(3節)、つまり私の罪や失敗を『ゆるされる』(同)という驚くような経験をした」、それが詩人の告白です。
 
そしてもう一つのタイプが、「祈りを聞かれる方」(1節)に背を向けるという者たちでした。
 
難しいことはわかりませんが、太宰治は飛び込むところを間違えたのだと思います。彼は玉川上水などにではなく、「祈りを聞かれる方」(2、3節)の懐に、弱さを、そして罪を負ったままでよいから飛び込めばよかったのです。
 
太宰治は聖書をよく読んではいたようです。しかし、日本の文学者に共通することなのですが、「罪」、とりわけ神への「罪」がよくわかっていなかったのかも知れません。「罪」がわからなければ、キリストもキリストの救いもわかりません。結果、自分の始末は自分ですることになってしまいます。
 
「駆け込み訴え」が示す通り、太宰には心情的に、イエスを裏切ったイスカリオテのユダへの共感があるように思えます。最後の晩餐においてユダのことを、イエスは血を吐くような思いで、「生まれざりし方よかりしものを」と嘆きました。
 
「しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」(マタイによる福音書26章24節後半 44p)。
 
 太宰治の二十八歳の時に刊行された作品に、「二十世紀旗手」という短編がありますが、タイトルの後に「生まれて、すみません」という何とも意味深なサブタイトルが続きます。
 
生まれざりし方よかりしものを」「生まれて、すみません」―これを比べるのは読み込みかも知れませんが、太宰治には「自分などは生まれて来ない方がよかったのだ」という自己否定の思いがあったのではないかと思うのです。
 であるとするならば余計に、水にではなく、神の赦しと愛の中にこそ、飛び込むべきであったのです。
 
 自らが弱さを纏う「肉なる者」(3節)であるとの自己理解を持つ者が幸いなのは、その理解が人をして、神に向かい、「祈りを聞かれる方よ」(1節)と呼びかけさせることになるからです。
 
 
3.神が住む「聖なる宮」に神の祭司として常に住まう幸福
 
詩人は神によるゆるしを経たのち、「シオン」(1節)すなわち「聖なる宮」に住まうことの幸福について告白します。
 
「あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる」(65篇4節)。
 
 「あなたの大庭に住む人」(4節)とはどんな人か、ということですが、まず「大庭」とは厳密に言うと前庭のことであって、そこは祭司以外は入ることができない所でした。
 
ただ、イスラエルの民自体、神によって、神なき世界に神の教えと存在とを伝える「祭司の国」として選ばれたものでした。
それは神がモーセに対して、イスラエルの民に語るようにと命じた言葉にあります。
 
「『あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」(出エジプト記19章6節 101p)。
 
 イスラエルの民は「祭司の国」である、では、イスラエル民族に属さない者はどうなるのかと言いますと、まことに有り難いことに、イスラエルとの血縁関係が無い者でも、イエス・キリストの恵みによって、イエスを主と信じる者はみな、神の民、「イスラエル」とされているのです。
 ガラテヤの諸教会に宛てられたパウロの書簡の、末尾にある祝福の祈りです。
 
「この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように」(ガラテヤ人への手紙6章16節 300p)。
 
 「この法則に従って進む」(16節)とは何かといいますと、モーセ律法を行うことによって得られるとされる「義」ではなく、イエスへの信仰によって義とされる道を行くことを意味します。口語訳では「この法則に従って進む」(同)クリスチャンと、次の「神のイスラエル」(同)とは別のように読めます。
しかし、両者は「カイ」というギリシャ語で結ばれています。
 
「カイ」は英語では「アンド」ということですから「と」あるいは「そして」となるのですが、「カイ」は「すなわち」とも訳せます。
つまりこの部分は、「『この法則に従って進む人々』(クリスチャン)すなわち『神のイスラエル』」(16節)とも訳せますし、パウロの神学からすると、そのように訳するのが彼の意図であると断言しても差し支えありません。
 
私たちはキリストによって、神の民すなわち「神のイスラエル」となり、その結果、神の祭司という立場をも与えられておりますので、朝に夕に、生ける神に向かって「祈りを聞かれる方よ」と親しく呼びかけ、語りかけることが許されているのです。
 
ところで詩人は「シオン」にいます神、神殿にいます神に向かって「祈りを聞かれる方よ」と呼びかけました。
しかし、ソロモンの神殿は紀元前五八六年、バビロン軍の攻撃によって灰燼に帰し、捕囚からの解放の後、紀元前五一五年に再建され、ローマ時代にヘロデ大王によって改築された第二神殿も、西暦七十年に至り、ローマの軍隊によって破壊、炎上してしまいました。
目に見える神殿は地上にはないのです。
 
 でもイエスは第二神殿、正確にはリフォーム中のヘロデの神殿の近未来における破壊を予告した後、自らが真の神殿であることを表明します。
 
「イエスは彼らに答えて言われた、『この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起こすであろう。…イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである』。」(ヨハネによる福音書2章19、21節 138p)。
 
 この地上には神の住む、人手による神殿は存在しません。しかし、復活のキリストが人の手によらない神殿となって下さったので、私たちはこのキリストの中に住まいを持ち、聖なる祭司となって、「祈りを聞かれる方」(1節)に向かって自らの悩みを打ち明け、悩んでいる者のために、真正の祭司として執り成すことができるのです。
 
 この日本という国に住む「すべての肉なる者」(3節)が生ける真の神に向かい、「祈りを聞かれる方よ」と依り縋るような、そういう日本となりますよう、執り成しの祈りをこれからも、希望を持って続けていく、それが私たちの使命であり特権です。