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2015年7月5日 第二回日曜特別礼拝説教 祝福された人間関係? こじれた人間関係を立て直す和解の知恵 ローマ人への手紙12章17~21節

15年7月5日 第二回日曜特別礼拝説教 

祝福された人間関係 その二
 
こじれた人間関係を立て直す和解のための知恵
 
ローマ人への手紙12章17~21節(新約口語訳249p)
 
 
はじめに
 
その晩年、色紙に好んで野菜などの絵を描き、これに自身の言葉を揮毫したのが小説家の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)ですが、その中でも一般に最も好まれた言葉が、「仲良きことは美(うるわ)しき哉」でした。
 
当教会の一階にも、それを模倣したのか、胡瓜とトマトの絵の横に「互いに愛し合いなさい」という聖句が書かれ色紙が以前から、和風の丸い額に入って掛けられています。
購入したのか寄贈されたのか記憶にないのですが、サインが「昇太郎」とあります。どちらの「昇太郎」さんか定かでありませんが、見ると心が和むのは確かです。
 
「仲良きこと」、それは誰もが願うことではあります。
もっとも、こちらは仲良くしたい、なりたいと願っても、異常な敵愾心をもって何だかんだと、理屈に合わない理由からイチャモンをつけてくる人あるいは国が出てきたりしますと、いい加減うんざりもしてしまいますが。
 
こういう人(国)には武者小路実篤の「君は君、我は我なり されど仲良き」という名言を贈ってやりたいと思うのですが、「そうはいかない、我々の主張する歴史認識を認めて謝罪せよ、賠償せよ」と言ってきたりしますから何とも厄介です。こういう手合いは距離を置いて、相手にしないことが賢明かも知れません。
 
 さて、本年の日曜特別礼拝における「祝福された人間関係」シリーズの初回(6月7日)では、「人間関係を滑らかにする潤滑油」についてご紹介しましたが、二回目の今回はこじれた関係を立て直す秘訣について考えたいと思います。
 
ただし、「秘訣」といいましても、そんなに大それたものではありません。あったり前の心得なのですが。
 それはともかく、今回のタイトルは「人間関係を立て直す和解の秘訣」です。
 
 
1.この社会においては、できる限りすべての人と和らぐ
 
人間関係の面倒臭さについて、人口に膾炙(かいしゃ)されている有名な言葉があります。明治四十(1907)年に刊行された夏目漱石の「草枕」の冒頭の一節です。
 
山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、くつろげて、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ(夏目漱石著「草枕」旺文社)。
 
これは作者である漱石自身の実感であったのかも知れません。「住みにくさが高じると、安い所」つまり人間関係に煩わされない暮らし易いところに「引き越したくなる」という記述は、この文豪の願望そのものだったのでしょうか。
 
「住みにくいところを」「束の間でも住みよく」するためには最低限、人と争わない、揉めないという関係を保つことが重要です。そして、そのような関係を保つ秘訣の一つが「付かず離れず」、つまり、深入りをしない関係を保ち、付き合いはほどほどにする、会えば挨拶を交わす程度、という関わり方です。
 
その点、女性同士の関係はなかなかそうも行かない、ということもありますし、地域性、たとえば関東と関西では気質の上での濃淡が異なる場合があります。
問題は、こちらとしては付かず離れずでいきたいのに、ずんずんと距離を縮めて来られるようなケースです。そのような場合、一定の間隔を保とうとしますと、冷淡だと、機嫌を悪くされたりもします。
 
また、これまでよりも関係を深めようとして、つまり仲良くなろうとした結果、その過程で行き違いが生まれて関係がこじれてしまうというような場合もあります。
善意があればうまく行く、というものでもありません。「仲良きことは美(うるわ)しき哉」といいましても、気持ちや言葉に齟齬が生じて、かえって亀裂が生まれることもあります。
まさに「とかくに人の世はすみにくい」ものでもあります。
 
しかし、折角神によってこの世に呼び出されたのですから、住みにくい世の中における日々を楽しみ、滑らかな人間関係を保ち、さらに和やかな和解の関係へと昇華させたいものです。
 
そこで今月はまず、一世紀の半ばに、ローマ帝国の首都のローマで信仰の戦いを続けていた信徒たちに宛てて使徒のパウロが書いた書簡の一節を読むことにしたいと思います。
 
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(ローマ人への手紙12章18節 新約聖書口語訳249p)。
 
 ここでいう「平和」(18節)とは、単に争わない、諍(いさか)いを起こさないということよりも、もう少し積極的な意味において、仲の良い関係を構築する、ということです。
 
ここで使徒が言う対象は「すべての人」(同)です。好ましいタイプの「人」だけではありません。苦手な「人」も含まれます。
ただし、それは絶対に、ということではありません。「できる限り」(同)です。聖書は理想を掲げて無理強いをするようなことはしません。「できる限り」でよいのです。
そこで、「できる限りすべての人と平和に過ご」す、つまり和らぎの関係というものを築くよう、努めていきたいと思います。
 
 
2.謝らねばならない時には、進んで謝ることを心掛ける
 
しかし、関係がこじれてしまうということがあります。そこで、福音書から「和解」に関するイエスの二つの勧めを読んでみたいと思います。
場面の一つは自分が人に恨まれているような場合、そしてもう一つは自分が訴えられているという場合です。
まず、人に恨まれている人の場合です。
 
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイによる福音書5章23、24節 新約聖書口語訳6p)。
 
そして、訴えられている人の場合です。
 
「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい」(ルカによる福音書12章58節 111p)。
 
ここで「和解し」(マタイ)あるいは「和解する」(ルカ)と訳された原語は、語幹が少し違いますが、「変える」という語が基本の言葉です。
つまり、「和解」とは、自らの過失に気づいた者が自らを「変える」こと、それが基本となって成立します。
 
その場合、自らの非を認めて「謝る」という態度、行動に出ることが和解の第一歩となるわけです。自らに非がある場合、「謝る」ことを先延ばししてはなりません。
 
ただし、身に覚えがない場合はその限りではありません。日本文化の特徴の一つは、先に謝ってしまうというところにあります。
時々、「レコードチャイナ」という、中国大陸や朝鮮半島のネット情報を紹介するサイトを覗くのですが、先週の日曜日のサイトに、中国のネットで紹介された「日本に長く滞在すると身に付く12の習慣」という記事に笑ってしまいました。
 
そこには「電話で話しているときに思わずお辞儀をしてしまう」とか、「ごみのポイ捨てをしなくなる」とか、「家の鍵を閉め忘れたのを思い出しても気にならない」、「天気予報を完全に信じる」などが、自分の習慣になったとありました。
 
そういえば二、三年前の同サイトへの投稿で、「日本で悪い癖がついてしまった」というタイトルで、「中国に帰国してからも、買い物をしてもお釣りを確かめなくなってしまった」とか、「お札を太陽や照明にかざさなくなってしまった」などという、日本で身についてしまった「悪い習慣」があげられていたのを思い出しました。
 
釣銭を確認しないのは日本のレジが正確無比である上に店員が正直であるということ、そして札を確かめないのは日本では偽札をつかまされる心配が皆無だからなのですが、あえてそれらを「悪い習慣」としたところに、この投稿者のユーモアのセンスを感じました。投稿を読む限り、中国人にはユーモアを解する人が多くいるようです。
 
さて、「12の習慣」に戻りたいと思います。投稿者が筆頭に挙げた「習慣」が、「『すみません』が口癖になる」というものでした。
実はこれこそが日本人の特質であって、自他共に過失があったとしても、先ず自分から「すみません」と謝ってしまう、そうなれば相手も「いえ、いえ、こちらこそ、すみませんでした」となるわけです。これが一般の日本人の経験です。
 
多神教の日本は、世間体を気にする「恥の文化」で、一神教の西欧が神を意識する「罪の文化」だと主張したのは米国の文化人類学者のルース・ベネディクトでしたが、この人は日本のことなどよく知りもしない、米国政府の御用学者であって、その主張には何の根拠もなく、学問的でもありません。
 
アジアやアフリカを植民地にして搾取の限りを尽くしながら、今に至るまで謝罪をしない西欧の先進諸国、また、原爆を投下して無数の無辜の民を虐殺しながら、それは戦争を終わらせるためであったと臆面もなく嘯く米国のどこが、罪意識が敏感な「罪の文化」でしょうか。
 
また、一切の責任をナチになすりつけて、自分たちは謝罪をした、国際的責任を果たしたと弁明するドイツのどこが「罪の文化」でしょうか。
 
むしろ、古来、罪意識を持った「罪の文化」を精神的、文化的伝統として育んできた民こそ、日本人でした。
その伝統に付け込んで「謝罪せよ」「賠償せよ」と執拗に要求し続けているのが隣の某国です。
 
勿論、謝らなければならないことをしたのであれば潔く罪を認めて謝罪しなければなりません。しかし、身に覚えがないのに謝るのは偽善でさえありますし、その場しのぎの不誠実な行動は何よりも正義の神が嫌うところです。
大事なことは、事実は何であったのかということの究明です。
 
たとえば「ヘイトスピーチ」という用語がマスコミに良く出てきます。「ヘイト」は憎悪、「スピーチ」は発言です。
確かに一部の団体の言動や行動にそれらしいものも見られますが、本屋の店頭に並ぶいわゆる嫌韓本までもこの範疇に入れようとする動きはどうかと思います。
 
私の個人的見方では、いわゆる「嫌韓ムード」は韓流ブームなどの造られたブームによって美化されていた隣国の実態や、歪曲されてきた歴史的事実というものを日本人が正しく知った結果として、必然的に醸しだされてきたムードではないかと思うのです。
 
事実を知ってしまえば、「謝れ」と言われても、何を謝るのか、何で謝る必要があるのか、ということになるわけです。
確かに日本人同士の場合、少々理屈に合わなくても、とにかく謝りさえすれば「わかった」ということでその場が丸く収まるということがありましたし、今でもあります。
しかし、それは国際社会では通用しません。「負けるが勝ち」ではなく、「負ければ永遠に負け続け」、それが国際社会の現実です。
 
人格つまりパーソナリティの障害に「自己愛性人格障害」というものがあります。その特徴は自分は百パーセント被害者であって、相手が百パーセント加害者であるという認識にあります。
 
こういうタイプの人、あるいは国には出来るだけ関わらないことが賢明だそうです。何しろ、そう思い込んでおりますから、相手側の要求を百パーセント飲まない限り、満足するということはありませんし、仮に百パーセント飲んでも、それで終わるかといいますと、かえって要求はエスカレートするばかりとなります。
 
確かに「謝る」のは美徳であり、勇気ある態度です。しかし、謝る必要がない場合、敢然として謝らないということもまた美徳であり、勇気ある行動なのです。
要は、謝るべきことかそうでないかを見極める判断力にあるといえます。
 
 
3.怒るべき時には怒る、ただし、正義の神の怒りに任せて
 
では、立場が変わって、自分が被害者であるという場合はどうでしょうか。
 
このことに関して理不尽な仕打ちを受けることの多かった被害者代表のような使徒パウロが、ローマの信徒たちに対し、二つの勧めをしております。
 
一つは自分で報復をするのではなく、正義の神に任せよ、というものでした。
 
「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである」(ローマ人への手紙12章19節)
 
 この「復讐はわたしのすることである」(19節)の部分は文語訳では「復讐するは我にあり われ これに報いん」と訳されて、それが映画のタイトルにもなったりしましたが、本来は自分で仕返しをするという私的報復をせずに、怒りというものを神の正義に委ねよ、という意味です。
 
パウロは「と書いてある」(同)と言ってますが、それがどこに書かれているかと言いますと、モーセ五書の申命記です。
 
「彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう」(申命記32章35節 旧約聖書296p)。
 
これは「理不尽な目に遭っても我慢しろ、辛抱しろ」という意味ではありません。「正義の神に、神の正義に一切を委ねよ」という勧めです。
 
人の報復は報復を招きます。それが報復の連鎖です。ですから聖書(旧約)は「目には目を、歯には歯を」という律法で、公的裁判によって加害者に同程度の償いをさせることにより、私的報復の連鎖を断ち切ろうとしたのでした。
 
「目には目を、歯には歯を」という古代の規定は、報復を是認するものではありません。むしろ、これは「同態復讐法」と言いまして、報復の連鎖を断ち切ろうとする古代の知恵なのです。
 
このような規定とその精神を理解しつつ、その上で、人の行う不完全な裁判をうまく凌いだと思った者については、すべてを見通す神に委ねよ、という勧めが第一の勧めでした。
 
そしてもう一つの勧めが、「善をもって悪に勝て」という勧めでした。
これは具体的には、敵に対して「報復をする」のではなく、反対に「情けをかけよ」という勧めです。
 
「むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』」(12章20節)。
 
 この「あなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」(20節)という驚くべき勧めは、知恵文学の結晶である箴言にあります。
 
「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである。主はあなたに報いられる」(箴言25章21、22節 912p)。
 
 こうなりますともう、有徳の聖人の領域のように思えてしまいます。しかし、キリスト教の歴史を見ますと、時々、これを実践した名もなき人が出てきます。
そしてパウロは励まします、悪には悪で対抗するのではなく、善で対抗せよ、と。
 
「悪にまけてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(12章21節)。
 
報復するということは「悪」に対し、「善をもって」対応することであって、これを実践したのが主イエスであり、そのイエスを愛してやまなかったパウロその人でした。
 
凡人である私たちにとって、これを実践することは至難の業といえます。しかし、仇する者の上に、神の祝福があるようにと、ひと言でも祈るということが、この勧めを実践したこと、つまり、「善をもって悪に勝」(21節)つということなのかも知れません。
そして、それ自体、大変な勇気であることもまた、事実です。
 
なぜかといいますと、人の怒りはたとい正当なものであったとしても、しばしば、破壊の力となって現われることがあるからです。それが長老ヤコブの指摘でした。だからこそ、神に委ねることがベストなのです。
 
「人の怒りは神の義を実現しないからです」(ヤコブの手紙1章20節 新共同訳)。
 
 他者から理不尽な仕打ちを受けた場合、泣き寝入りをするのではなく、正規の機関を経て、相手の非を訴えること、時には償いを求めることは古代から現代まで、個人の正当な権利です。
 
 しかし、そのような場合でも、最終的には裁量を神の正義に、あるいは正義の神に委ねることが求められています。なぜならば、人が私憤という個人的感情をバネにして行動した場合、現われる結果はその願いとは裏腹に、破壊や苦痛であることが多いからです。
 
 そういう意味では、和解はまず、自分自身の内部において、主なるキリストの仲介により、自身の頭すなわち理性と自身の心すなわち感情との間で実現されるべきものなのかも知れません。
 そしてその時、「仲良きことは美しき哉」という感慨が自然に湧いてくると思われます。