2015年6月28日 日曜礼拝説教
基本信条としての使徒信条?
究極の望みは霊魂の不滅にはなく、「からだのよみがえり」にある
コリント人への第一の手紙15章42~44節(新約275p)
はじめに
私ごとですが、この三カ月、なかなか止まらない咳のため、皆様に心配や迷惑をおかけしました。幸い、わが教会の附近には各種のクリニックと薬局が開業しております。徒歩で三十秒のところには整形外科と皮膚科があり、一分のところには眼科と耳鼻咽喉科が、そして三分のところには内科があります。
まことに恵まれた位置環境に教会があります。大概の疾患はこれらのクリニックで間に合います。
咳ですが、症状が出たのは三月半ばで、風邪をこじらせたかと思い、まず徒歩三分のところにあるかかりつけの内科に行って、処方された薬を飲んでいたのですが、五日目の朝、喉が腫れあがっているような感覚になったため、鼻から入れるカメラで喉の奥を見てもらおうと、徒歩一分ほどの耳鼻咽喉科を受診しました。
診察の結果は、喉全体に炎症があり、特に食道の入り口の炎症がひどくなっているとのことで、抗生物質その他計五種類の薬を処方されたのですが、原因については何とも言えないということでした。ただ、医師の口ぶりから加齢が匂わされました。
咳が続くと声帯がダメージを受けて、声が出なくなる、声が出なくなると話しができなくなる、話しが出来なくなるということは説教することができなくなるということですから、説教のできない牧師は不要ということになります。
幸い、咳も治まり、声も回復してきて、先々週の耳鼻科での診察では、ほぼ完治ということになりました。もっとも、「ほぼ完治」という言い方は、日本語としてはどうかと思いますが、それはさて置き、長い間、生きてきてはいましたが、咳が三カ月も続いたという経験は初めてのことでした。
今後、原因の一つとしてそれとなく示唆された「加齢」を意識して、健康管理に努めるべきことを思い知らされました。
加齢といって思いつくのが記憶力に加えて、体力、筋力、運動能力の低下です。
この時期、自宅の玄関横の枇杷の木が鈴なりの実をつけます。その実を狙って数十羽の鳥が来て、せっせと啄んでいるのですが、そこで完熟した実を所有者としても堪能すべく、枇杷の木に登ろうとして枝に飛びついたのはいいのですが、体を思うように持ち上げることができず、懸垂能力が落ちていることを痛感させられました。
結果、普段は使わぬ筋肉に無理を強いたため、三日経った今日も、上腕二頭筋の裏側の痛みが去りません。
年月と共に加齢は確実に進行してきます。そして加齢の先には死というものが待っています。
ある有名な哲学者が、「人は生まれた時から死に向かっている」と言ったそうですが、死んだ先について、つまり、人は死んだらどうなるのか、ということを気にしない人はいません。
人が死んだら存在自体が消滅してしまうのか、霊魂として存在し続けるのか、それとも…と、真剣に考えれば考える程、懊悩は尽きないものです。
「使徒信条」は死後の問題について、終わりの二つの告白である「からだのよみがえり(を信ず)」と「とこしえの命を信ず」の項目で挙げております。
そこで今週は「(われは)からだのよみがえり(を信ず)」において、人のからだは死後、どのようなかたち、状態になるのかということを、そして最終回の「(われは)とこしえの命(を信ず)」では、不死という究極の希望について取り上げることとしました。
1.霊魂不滅の教えは、慰めではあるが中途半端な希望でもある
異なった教えを混ぜ合わせた宗教を「シンクレティズム」と言います。日本語にしますと「混合主義」とでもいうのでしょうか。
日本の福音派はこれを間違ったものとして排除することを宣言しているのですが、実はキリスト教の教えとされるものには、種々雑多の思想や宗教観、地域の習慣や思い込みというものが入り混じっているのです。そしてその最たるものが、人が死ぬと体を離れた霊魂が天に昇ってキリストの懐に抱かれるという信仰でしょう。
この考えの由来は、おそらくはイエスによる「金持ちとラザロ」の譬え話が根拠ではないかと思います。
「この貧乏人がついに死に、御使いたちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた」(ルカによる福音書16章23節 新約聖書口語訳117p)。
しかし、譬え話から教理を引き出すことは厳禁です。またこの譬え話はユダヤの民間に伝わっている説話をイエスが自由に改変したものであって、それは当時のユダヤ人の間に流布されていた考え方でしかありません。
つまり「アブラハムのふところ」が、イエス・キリスト「のふところ」あるいは胸に変わって、人が死んだらイエスのもとで安らぐという構図になったというわけです。
そしてこのような信仰がユダヤ教に生じた背景には、ペルシャ宗教、そしてギリシャ思想の影響があるということが考えられます。
ペルシャ宗教とギリシャ思想の特徴は二元論にあるのですが、特にギリシャ思想の二元論は、「霊魂は善で永遠不滅、物質は悪で朽ちゆくもの」というもので、これを「霊肉二元論」といいます。
ギリシャ人は、人の肉体は物質でしかなく、しかもその内に不滅の霊魂を閉じ込めている牢獄のようなものであって、死は霊魂を牢獄から解き放つ喜ばしい出来ごとであると考えていました。これを「霊魂不滅の思想」といいます。
「人は死ぬ、そして死と共に存在が終わる」としていた仏教に、人が死んだ後、魂が極楽に救済されるという教義が生じたのも、このギリシャ的な「霊魂不滅の思想」の影響があると思われます。
過去に、日本にキリスト教が入ってきた時に、布教のためにキリスト教側が強調したのは、死に際して、人の体は地中に葬られ、あるいが荼毘(だび)にふされはするが、魂はキリストのもとに行き、一切の労苦から救済、解放されて安息を得る、という教えでした。
この教えが一般化した理由の一つとしては、唯物思想に対する弁証という側面もあったのではないかと思います。
戦後、マルクス主義が一気に浸透してきました。この思想の根底にあるものは無神論、唯物論であって、そこには神はいない、死後もない、人は死んだら終わり、という考えがあります。
この思想に対抗する意味において、死後の生命というキリスト教の教えを強調する際、都合がよかったのが霊魂不滅の思想だったのでしょう。
つまり、便宜的に取り入れられた教えがいつの間にか、キリスト教の教えとして定着をしてしまったというわけです。
しかし、霊魂不滅の思想は本来のキリスト教教理とは似て非なるものなのです。なぜかと言いますと、人が亡くなった直後に、キリストのもとで安らうことになるのであれば、それで「メデタシメデタシ」となり、救済完了ということになってしまいかねないからです。
そうなりますと当然、死者のよみがえりも必要なくなります。なぜなら、一番大事な魂は既にキリストの許にあって、平安の中に憩うているわけですから。
たしかに人情という面から見た場合、霊魂の不滅という考えは、愛する者を亡くした遺族にとって大きな慰めであったことは事実でした。
しかし、それは中途半端で不完全な救いでしかないのです。その愛する者たちのために神が備えている救済は、霊魂の救いなどではなく、完全かつ完璧なかたちでの救済です。
EU(欧州連合)がいま、ギリシャの債務問題で揺れていますが、ギリシャがEUの前身であるEEC(欧州経済共同体)に加盟した時、西欧全体が歓喜をしたものでした。なぜかと言いますと、西欧にとって古代ギリシャの精神文明は憧憬の対象であったからです。
当然、ギリシャ思想もキリスト教の信仰に影響をもたらしましたが、その一つが実は「霊魂不滅」という考えだったのです。
以前、フランスの神学者、オスカー・クルマンの著書、「霊魂の不滅か死者の復活か」をご紹介しましたが(20140417 日曜礼拝説教)、クルマンはその中で死を友として迎えたソクラテスと、死を人間の敵、恐怖として捉えていたイエスを対比することによって、霊魂不滅の思想がキリスト教とは無縁であることを例証しています(オスカー・クルマン著 岸千年・間垣洋助訳「霊魂の不滅か死者の復活か」25~27p 聖文社)。
2.霊魂の不滅ではなく「からだのよみがえり」こそが究極の望み
では、霊魂不滅の教えが中途半端な救いであるとしたら、完全、完璧なかたちとは如何なるものなのかと言いますと、それが使徒信条が聖霊の賜物の一つとして告白する「からだのよみがえり」なのです。
「からだのよみがえり」はラテン語原文では「カルニス(体の)レスレクティオ(復活)」です。
ただし、この言葉は新約聖書にはなく、これに近い表現が「死人のよみがえり」あるいは「死人の復活」です。「死人の復活」はユダヤの最高法院(サンヒドリン)におけるパウロの弁明に見ることができます。
「パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、『兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである』」(使徒行伝23章6節)。
パウロはここで「死人の復活の望み」(6節)という言葉を使うことによって、パリサイ人たちの理解を得ようとします。
議会の主な構成は、親ローマで合理主義的思想を持ったサドカイ派と、保守的立場に立つパリサイ派でなされていたようです。
このパリサイ派に代表される保守的ユダヤ教は、天使の存在も復活も信じない合理主義的、現世主義的思考のサドカイ派とは異なり、最終的希望としての「死人の復活」の教えを堅持しておりました。
しかし、ユダヤ教のそれとキリスト教の教理とは、使っている用語は同じでも、その中身は微妙に違ったものでした。
ユダヤ教が「死人の復活」というときの「死人」はあくまでも、墓に埋葬された肉体を意味しました。
ですから、イエスの埋葬でもわかるように、香油を塗った遺体を亜麻布で丁寧に包んで、来たるべき復活に備えたのでした。
実は、このユダヤ教の復活観がキリスト教徒にも浸透して、ユダヤ教と同じような理解を持つ人が今でも大勢いるようなのです。
二十数年前、聖地旅行に参加する機会を与えられましたが、オリブ山を訪れた際、ガイドさんがオリブ山のふもとや中腹の至るところに、欧米の富裕層の墓があるのだと言っておりました。
その理由が、ある解釈によりますと、キリストの再臨の場所がオリブ山なので(そんなことは聖書は明言していませんが)、だから、オリブ山に葬られていれば、再臨の際、まっさきによみがえらせてもらえるということなのだそうです。まさにユダヤ教です。
十四世紀から十五世紀にかけて百年以上にわたって戦ったのがフランスとイングランドですが、劣勢のフランス軍を立ち直らせたのが聖女ジャンヌ・ダルクでした。
しかし、彼女はイングランド軍に捕まり、異端審問裁判において有罪とされ、火あぶりの刑を宣告されます。
その際彼女は裁判長に、火あぶりだけはやめてほしいと嘆願したそうです。
でも、彼女の要請は退けられて火刑が執行され、火が燃え尽きたあと、さらに遺体に火をつけられて灰にされ、その灰はセーヌ川に流されたと伝えられています。ジャンヌ・ダルク、十九歳の身空の出来ごとでした。
ジャンヌ・ダルクがなぜ火刑ではなく、他の方法での処刑を必死になって願ったのか、また、イングランド側がなぜジャンヌ・ダルクを火あぶりにすることに固執したのかという理由ですが、当時の信仰が、「遺体が残っていれば最後の審判の際によみがえらせてもらう可能性があるが、灰になってしまえばたといキリストであっても復活させることは不可能である」というものであったからです。
しかし、使徒信条が告白する「からだのよみがえり」の「からだ」とは肉体のことではありません。それは新しいからだの付与です。
ですから、地上の肉体がバラバラにされようと、灰になろうと問題ではないのです。なぜならば「からだのよみがえり」の「からだ」とは地上の肉体のことではないからです。
クルマンの主張をご紹介します。
「われは肉のよみがえりを信ず」という使徒信条の古代ギリシャ教会本文にある表現は、まったく非聖書的である。パウロは、そのように言うことはできなかった。肉と血とはみ国をつぐことはできない。パウロは、〈からだ〉のよみがえりを信じているのであって、〈肉〉のよみがえり(を信じているの)ではない。肉は死の力があって、破壊されなければならないものである。
このギリシャ信条における誤りは、聖書の用語が、誤ってギリシャ的人間学の意味で解されたときに、はいりこんできたのである。さらに、わたしたちのからだ(わたしたちの魂だけでなく)は、終末の時によみがえるであろう。その時、み霊のよみがえりの力は、すべてのものを、例外なく、新たにする(前掲書55p)。
地上における肉体は死と共にその使命を完了します。そして将来、よみがえりのからだとして与えられる「からだ」は、地上の肉体を材料としたようなものではなく、また延長したようなものではなく、創造の神、全能の神が備える新しい完璧な「からだ」なのです。
「死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるのである」(コリント人への第一の手紙15章42~44節)。
ここで口語訳が「肉のからだ」(44節)とした原語は、「ソーマ(体) プシュキコン(肉の)」で、これは自然の体、生まれながらの体という意味です。
これに対する「霊のからだ」(同)は「ソーマ(体) プネウマティコン(霊の)」で、これは御霊による体とも訳せますので、そこで新改訳は「御霊に属するからだ」と訳したのでしょう。
結論です。「使徒信条」の「からだのよみがえり(を信ず)」という告白の「からだ」は、地上の肉体の延長線上にあるものではなく、神が備える、天の暮らしに適合した全く新しい「からだ」なのです。
工務店だか建築会社だったかの宣伝では、新築したとしか思えないような見事なリフォームが話題です。しかし、天における「からだ」は、地上における肉体のリフォームなどではありません。完全な新築の建物のように、神の手による新しい「からだ」なのです。
このような「からだのよみがえり」こそが、私たちの究極の望みです。
3.「からだのよみがえり」は神による人類救済のゴールとして起こる
イエスを主と告白する者の世の終わりに起こる「からだのよみがえり」は、「天地の造り主、全能の父なる神」(第一条)と「その独り子、われらの主イエス・キリスト」(二条)による人類救済計画の最終ゴールとして実現します。
そのために神の御子は第二条後半の、ピラトによる苦難、十字架の恥辱、恐怖の死、陰府への降下という数々の受難を経て、死人のうちからのよみがえり、昇天、神の右への着座という道程を踏んでくださったのです。
そしてわたしたち人類の究極の望みである「からだのよみがえり」は、具体的にはイエス・キリストの来臨に際に実現します。
なお、15章51節の「奥義」の振り仮名を口語訳は「おくぎ」とふっていますが、これは「おうぎ」と読んでください。ついでにヨハネ福音書十九章二十六節の「愛弟子」は「あいでし」ではなく「まなでし」と読むのが正しい読み方です。
「ここで、あなたがたに奥義(おうぎ)を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(15章51~53節)。
肉体の死と「からだのよみがえり」との間には、地上に生きる者には長い時間の経過があるかも知れません。
しかし、肉体の死は時間からの解放であって、死から復活までの間(かん)は「眠り」(51節)と表現されますように、それは、死者にとっては一瞬の間です。
夜、眠りについて朝、目覚めるという状態に似ているともいえます。うなされることもありません。夢すら見ない、ただただ爽やかな目覚めが待っています。
しかも眠りから目覚めた時に備えられる「霊のからだ」(44節)は地上での肉体とは違い、不滅不朽のパーフェクトな「からだ」です。
持病に苦しんでいる方がおられるかも知れません。障害を持って生まれた方もおられるでしょう。美と若さを謳歌した日々が過ぎて、老いを感じ始めた方もいるかも知れません。
しかし、いつの日にか完璧な「からだ」を備えてくださると約束されたお方は、私たちの今の「からだ」を生かし、支え、時には修理しながら、地上の役割を果たさせてくださいます。
究極の望み、それは霊魂の不滅にあるのではなく、また肉体の復活にあるのでもなく、生ける神による「からだのよみがえり」にあることを信じ感謝して、これからも心を込めて日曜日ごとに使徒信条を告白し続けていきたいと思います。