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2015年5月17日日曜礼拝説教 基本信条としての使徒信条? キリストが「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審」くその日、歌うのはレクイエムかハレルヤコーラスか コリント人への第二の手紙5章10節

15年5月17日 日曜礼拝説 

基本信条としての使徒信条?
 
キリストが「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審」くその日、歌うのはレクイエムかハレルヤコーラスか
 
コリント人への第二の手紙5章10節(新約聖書口語訳282p)
 
 
はじめに
 
 テレビドラマの視聴率の低下が目立つようになりました。何しろ、あの木村拓哉主演のドラマでも十四パーセントか十五パーセントがやっとで、しかもそれで全ドラマ中、トップというのですから、想像がつくと思います。
そういう春ドラマの中で深夜にも関わらず、健闘しているようなのがテレビ朝日系で金曜の夜中放映の、「天使と悪魔-未解決事件匿名交渉課」という警察ドラマです。
 
このドラマのキャッチコピーは、「天使のような新人警察官と悪魔のような天才弁護士が司法取引によって未解決事件の真相に迫るサスペンスストーリー」なのだそうですが、日本では未承認の「司法取引」を被疑者に持ちかけることによって、未解決の事件を根本的解決へと導くという内容のドラマです。
深夜の放映にしてはまずまずの視聴率なのだということです。
 
さて、その「司法取引」ですが、これは米国や英国では普通に採用されている制度であって、被疑者と検察の間で、被疑者への求刑を軽減したり、罪に問わないことを条件に、被疑者が持っている秘密の情報を提供させ、あるいは証言させることによって、より重大な犯罪の解決を図ろうとするものです。
 
確かに実(じつ)を得るという点では合理的な制度のようにも見えますが、難点は二つ、一つは被疑者が自分の立場を有利にするため、偽の情報を出す誘惑にかられ、結果として冤罪が増加するという事例が頻出すること、そしてもう一つが、司法取引によって見逃された罪と、正義に基ずく法の執行という検察権との兼ね合いがどうなるのかという、根源的な疑問が出てくることです。
 
特に二つ目の事柄は、生真面目な性格の日本人にとっては容認することのできない問題なのだとのことです。
しかし、この制度が米英において導入されている背後には、法の目を潜(くぐ)った犯罪者や被疑者の最終処分は神の審判に委ねるという、有神論的思想、具体的にはキリスト教の基本教理の一つである「最後の審判」への委任という考えがあるのだそうです。
 
その「最後の審判」です。今週は「使徒信条」のイエス・キリストに関する告白条項の最後ですが、キリストに関する箇条の最後の告白は「(主は)かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審き給わん」です。
 
そこで今週の説教タイトルは、「キリストが天『よりきたりて生ける者と死にたる者とを審』くその日、歌うのレクイエムかハレルヤコーラスか」としました。
 
「最後の審判」は、モーツアルト(オーストリア)やベルディ(イタリア)、フォーレ(フランス)等の作曲で有名な、「死者のためのミサ曲」である「レクイエム」にあるように、その日が悔恨の涙を流す「涙の日」となるのか、それとも人生の労苦が報われる「慰めの日」となるのかが問われる決定的な神の審きを指しますが、運命を左右するもの、それは私たちの生き方にあると聖書は言います。
 
 
1.「最後の審判」は、初期ユダヤ教の教えであると共に、全キリスト教会に共通する教えである
 
三十五か三十六の若さで死んだイエスは、見方によっては宗教的、思想的天才であったと言えます。
ユダヤ社会の全体利権を一手に握る大祭司などの宗教当局が、危機感をバネに挙(こぞ)ってイエスの排除、排斥に動いたのも、それだけユダヤ社会、そして一般民衆に対するイエスの宗教的影響力が強かったからでした。
 
そしてパウロ。イエスの衣鉢を継いだのが、律法学者として前途を嘱望されていた若きパリサイ人、サウロ、後のパウロでした。
 
イエス・キリストの使徒として活動していたパウロが、地中海世界にディアスポラ(離散の民)として広がっていたユダヤ人社会の宗教指導者たちから、蛇蝎の如くに忌み嫌われ警戒されたのも、ユダヤ人に対する彼の影響力が大きかったからででした。
 
西暦五十八年頃、パウロはエルサレムにおいて、ユダヤ当局に弾劾されて、ローマ総督ペリクス(フェリクス)に騒擾(そうじょう)罪の廉で訴えられるのですが、その際のパウロ非難が、この男は「疫病のような人間で」であったということからも、パウロの影響力の大きさを見てとることができます。
 
「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起こしている者であり、また、ナザレの異端のかしらであります」(使徒行伝24章5節 新約聖書口語訳223p)。
 
 このように、ユダヤ教とキリスト教の関係は、まさに水と油という状態に思えるのですが、世界の終わりに「最後の審判」があるということについては、両者は共通です。例えば、預言者イザヤの託宣です。
 
「そして主が審判の霊をもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる」(イザヤ書4章3、4節 947p)。
 
 北イスラエル王国で活動したイザヤは、紀元前八世紀の預言者ですが、学者はイザヤ書四章の記述には後世の手が入っていると考えているようです。つまり、ユダヤ教の思想が加えられているというのです。
 
 ユダヤ教は、エルサレム神殿が五一五年に再建された後に成立した宗教であって、ヘロデ大王のリフォームを経た神殿が、ローマ軍によって西暦七十年に崩壊するまでの期間に形成されたものを、ユダヤ学者は「初期ユダヤ教」と呼称しております。
 そして、ユダヤ教が生み出した文書で、正典とされたダニエル書には、「最後の審判」の思想が顕著です。
 
「またちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち、永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう」(ダニエル書12章2、3節 1243p)。
 
ただし、イエス時代のユダヤ教は、人間の功徳を強調する宗教として、災害や疾病、障害などを人間の悪行に対する神の罰と考えるようにもなっておりました。いわゆる「因果応報論」です。
 
そしてその思考の影響下にあったのがイエスの弟子たちでした。彼らは通りがかりに見た生まれつきの盲人を見て、イエスに質問します、「彼が盲人として生まれついた原因は、本人が罪を犯したからなのでしょうか、それとも親のどちらかが原因なのでしょうか」と。
 
「イエスが道をとおっておられるとき、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』」(ヨハネによる福音書9章1、2節 153p)。
 
 これに対してイエスは弟子たちに、「そのどちらでもない」と答えることによって、ユダヤ教的因果応報論を否定します。
 
「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである』」(ヨハネによる福音書9章3節 153p)。
 
 この点に関しては、本来のキリスト教はイエス時代のユダヤ教とは明確に異なります。
ただ、残念なことに今日でも、原理主義的キリスト教の信奉者の中には、地震などの災害や病気、身体的障害などを、正しからざる者への神の罰と決めつける者がいることは事実です。
 
 信じ難いことですが、大地震で壊滅的な被害を受け、悲嘆と痛みの真っただ中にあるネパールで、韓国のNPO団体から派遣された医療チームの一部が現地の人々に向かい、「今回の地震はイエスではなく、ヒンズーの神を信じて起きたことだから、イエスを信じなければならない」と言って総スカンを食(くら)ったという報道が先週、世界を駆け巡りました。
 
なお、このNPO団体「グッドピープル」の総裁は趙?基(チョ・ヨンギ)牧師だそうですが、こういう独善的な思考は嫌韓感情を増幅させるだけでなく、キリスト教そのものの印象を悪化させることにも繋がります。
 
なお、繰り返しますが、災害や疾病、身体的障害などを、人間の罪悪に対する神の懲罰とする考えはイエス時代のユダヤ教のものであって、イエスの考えでもなければ、正統キリスト教の教えでもありません。
 
しかし、一方、神が正しい審きを下すという「最後の審判」については、イエスがヘブライの伝統を受け継いでいたことは事実であって、それはその教えの中でも繰り返し強調されています。
 
イエスが刑場に連行されていく途次、いわゆる十字架の道行きにおいて、彼が受けた不当な判決と理不尽な処刑を嘆くエルサレムの婦人たちに対して、イエスが語った言葉がそれでした。
 
「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』という日が、いまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また山にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。もし、生木でさえもそうなれるなら、枯木はどうなるであろう」(ルカによる福音書23章28~31節 131p)。
 
イエスはこの世界と個々の人間の未来とに必ず訪れる「最後の審判」に触れることによって、今のままでよいのか、今こそ、神との関係を改善すべきではないのか、真摯な悔い改めが必要ではないのかと、人々に対して警告を発したのでした。しかもそれは、自らの処刑が待つ刑場に向かいながらのことであったのでした。
 
 「最後の審判」についてのイエスの教えは、特に、マタイによる福音書の譬え話において顕著です。
 
「人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そしてすべての国民をその前に集めて、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう」(マタイによる福音書25章31~33節 42p)。
 
キリストもまた、褒賞と処罰とが世界の終わりに、そして人それぞれの人生の終わりにあることを信じていたのでした。
 
但し、偽善を忌み嫌ったイエスの場合、評価の基準は行為の背後の動機、つまり愛の有無にあったことは、ユダヤ教の律法主義的善行と一線を画したものではありました。
 
 キリストを最高審問官とする「最後の審判」は、キリストが「かしこ」すなわち、全能の父なる神の右」の座から下ってきて、生者と死者との人生を評価、判断することとして実現します。
 
そして、この「最後の審判」という教理は、「使徒信条」を真摯に告白するローマ・カソリック教会と、私たちプロテスタント教会とが共に信奉する共通の教えでもあります。
 
両者には歴史的に、対立と相克があったことは事実であり、教理理解の面では、救済論や教会論において相容れない違いもあります。しかし、基本信条である「使徒信条」を奉ずるという点においては一致しております。そういう意味において、この共通点を大事にしなければなりません。
 
 
2.「最後の審判」の対象者は生者、死者のすべて、対象は生前の行いすべてである
 
「最後の審判」というこのイエスの教え、考えを受け継ぎ敷衍(ふえん)して、これを神学的に展開したのが使徒パウロでした。たとえばローマの信徒への書簡です。
 
「神はおのおのに、そのわざにしたがって報いられる。すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、他方では、党派心をいだき、真理に従わないで不義に従う人に、怒りと憤りとが加えられる。悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである」(ローマ人への手紙2章6~11節 235p)。
 
 何とも恐ろしい宣告ですが、ここから見えてくるものは、「最後の審判」の対象者が、人種的、民族的、宗教的差異を超えて、すべての人間が対象であること、そして審判の対象が、人がなしてきた「そのわざ」(6節)であることです。
 
 使徒信条は、主なるキリストが「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審き給わん」と告白しますが、審きの対象者はその時点で生きている者だけではありません。既に亡くなった者も、です。
 
「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである」(コリント人への第二の手紙5章10節 282p)。
 
 そして、審判の対象はそれぞれが「自分の行ったことに応じて」(10節)なのですが、口語訳に欠けているものがあります。
 
それが「体において(ディア トゥ ソーマトス)」という言葉です。つまり、生者だけでなく亡くなった者も、その人が生前、「体(ソーマ)」をもって生きていた時の行為、振る舞い、生き方に「応じて、それぞれが報いを受け」(同)ることになるということです。
 
イエスの譬え話しの続きです。ここで注目すべきことは、「審判」の対象は「自分の行ったこと」(10節)なのですが、この中に、実は「行わなかったこと」も含まれているということです。
 
もう一度、イエスの語った譬え話に戻ります。まず、「羊」として「右」に分けられた者に対する宣言があります。
 
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに尋ねてくれたからである』」(マタイによる福音書25章34~36、40節)。
 
 「いえ、そんな覚えはありませんが」と不思議がる人々に対し、イエスが重ねて説明します。
 
「すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたに言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」(25章40節)。
 
 判決は続いて、「やぎ」として「左」側に分けられた者たちになされます。
 
「それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使いたちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹であったときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』」(25章41~44節)。
 
 当然、疑問の声があがります、「そんな記憶はありません、あなたが苦しんでいたのに知らぬ顔をしていたなんて」と。これに対してイエスの指摘が続きます。
 
「そのとき、彼は答えて言うであろう。『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』」(25章45節)。
 
 彼らは「したこと」ではなく、「しなかった」(45節)ことを、ここで審かれたのでした。
 
「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入(い)るであろう」マタイによる福音書25章45節)。
 
但し、このイエスの譬え話にある「最も小さい者」(45節)とは、単なる社会的弱者のことではなく、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者」(40節)、つまり信仰の仲間、隣り人を意味すると解するのが専門家の意見です。
 
だからといって、めったやたらと神の怒り、神による審判を強調して伝道することは感心できません。
 
米国では英国からの独立前の植民地時代、神の怒り、永遠の滅びを強調する説教をして、多くの回心者を得たジョナサン・エドワーズのようなリバイバル伝道者もいましたが、それは偏った福音理解と、少々歪んだ性格のなせるわざであったのかも知れません。
この人がした、ひたすら、神の怒りと地獄の恐ろしさを語る説教として有名なものが「怒れる神の御手の中にある罪人」という説教です。
 
「最後の審判」という教えに、罪の抑止効果があることは確かな事実です。それは死刑制度というものが、凶悪犯罪の抑止となっていることでもわかります。
 
少年法が改正される前、「人を殺しても未成年だから死刑にはならないし、たとい収監されても数年で娑婆に戻って来ることが出来る」と嘯(うそぶ)いた未成年の被告がいましたが、「撒いた種は自らが刈り取ることになる」という原則が、社会の秩序を守り、同時に自他を破滅から救うということは事実です。
 
 先週、久しぶりにモーツアルトの作曲による「レクイエム」をカラヤンの指揮、ベルリンフィルハーモニーの演奏で聴きました。
便利な世の中になったもので、ネットでラテン語歌詞に訳がついた映像で視聴することができました。しかも無料です。
 
ご存じのように「レクイエム」は「安息を」という意味で、ローマ・カソリック教会の、「死者のためのミサ」の祈祷文に曲がつけられたものですが、圧巻は「怒りの日、その日は世界が灰燼に帰する日である」「奇しきラッパの響きのうちに、各地の墓からすべての死者が御座の前に集められる」「書物が開かれ、隠されていたことが明らかになる」という「怒りの日、その日」です。
 また、「罪ある者が審きを受けるために、灰の中からよみがえる」と歌われる「涙の日、その日」は、聴く者を震撼させます。
 
いつの日にか、「わたしたちは皆」(同)、最高審問官であるキリストのさばきの座の前に」(コリント第二5:10)出廷をすることになる、という教えが、私たちの人生に良い意味においての緊張感をもたらしてくれるということを、肯定的に受け止める者は幸いです。
 
 
3.「最後の審判」は、神への忠誠を最後まで貫いた者にとっては「慰めの日」「褒賞の日」となる
 
 しかもそれだけではありません。「最後の審判」という教えは、すべての人の罪のために、御子イエスが犠牲の小羊として、永遠の贖いを全うしてくださったという福音を再認識させるという効果があり、同時にそのキリストがもう一度、「生ける者と死にたる者とを審」くために、「かしこよりきたり」給うという「再臨」への信仰を燃やす効果もあります。
 
「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後(のち)さばきを受けることが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現われて、救いを与えられるのである」(ヘブル人への手紙9章27、28節 352p)。
 
 「使徒信条」が告白するように、キリストが「かしこよりきたり」給う目的は、「生ける者と死にたる者とを審」くためですが、それはまた、「報い」(第二コリント5:10)を与えるためでもあります。
 
すなわち、怖れおののいて、その日を神の「怒りの日」、悔恨の思いで流す「涙の日」として迎える者がある一方、長年の労苦が報われる「慰めの日」、「褒賞の日」として迎えるのが私たち、「イエスは主なり」と告白して、キリストへの忠誠を貫いた者たちです。
 
「またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、『書きしるせ』、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』。御霊も言う、『しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』」(ヨハネの黙示録14章13節 400p)。
 
 伝道とは、教会を大きくすることではありません。伝道あるいは福音宣教とは一人でも多くの人が、いつの日にか直面する「最後の審判」に際し、この日を感謝し、救いの確信をもって迎えることができるようにお助けすることなのです。
 
その日、歌うのは「レクイエム」か、それとも歓喜の「ハレルヤコーラス」か、ですが、誰もが「ハレルヤコーラス」に加わって欲しいというのが、私たちの切なる願いです。
 
先ほど、ジョナサン・エドワーズというリバイバリストの説教について触れましたが、原理主義的、保守的キリスト教会は、イエスを主と信じない者は皆、地獄に落ちて永遠に苦しむとします。
 
しかし、私たちの同胞、日本人の多くはキリスト教と無縁です。
 
一度も教会に行ったこともなければ、聖書の話しも聞く機会もないまま、しかし、朝に夕に神々を畏れ、仏を敬って、自らの勤めに精進し、家族を懸命に愛してその生を終えた者が、キリストを信じなかったということで、意識を持ったまま滅びの中、未来永劫、苦しみ続けるというならば、あまりにも理不尽ではないかという疑問が生じます。
 
そしてそういう疑問から、「万人救済説」という教理が生まれました。キリストの神は愛であるから、ついにはすべての人類を救済してくれるであろうという期待から生まれたものです。
 
死後の運命ということについては、「使徒信条」の最終回、「とこしえの命を信ず」の中で、「万人救済説」についても解説したいと思いますが、この「救済説」が人間の願望でしかなかったならばどういうことになるか、想像しただけでも恐ろしくなります。
 
つまり、伝道の動機と理由はそこにあるのです。「万人救済説」は魅力的ですが、聖書的、教理的には不確かな説であって、確実であるとだれも保証することができないものなのです。
 
しかし、神なき人生を悔い改めて「イエスは主である」と信じ告白している者は、確実に救済されます。その例が十字架上で悔い改めた究極の犯罪人、テロリストでした。
 
「もうひとりは、それをたしなめて言った、『おまえは同じ刑をうけていながら、神を恐れないのか。お互いは自分のやったことの報いを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』。そして言った、『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください』。
イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイス(註 神の国のこと)にいるであろう』」((ルカによる福音書23章40~43節 132p)。
 
私たちの愛してやまない者たちがこの地上の生を生きている間に、キリストから「あなたはきょう…パラダイスにいる」(43節)という宣告を受けていれば、その人は安心して彼の世に旅立つことができますし、あるいは平安をもって彼の世へと送り出すことも可能です。
 
そういう意味で、直接的、間接的に命の福音を伝えること、福音宣教に関わることこそ、家族、親族、友人、知人をはじめとする同胞、隣り人に対する究極の愛の「わざ」であると言えるのです。
 
最後に歌うのは神の憐れみを乞う「レクイエム」か、はたまた歓喜の叫びの「ハレルヤ・コーラス」か。「最後の審判」は私たち生きとし生ける者に、それを問い掛けます。