2015年4月26日 日曜礼拝説教
基本信条としての使徒信条?
「全能の父なる神の右に座」すキリストは、その民を迎えるため、やがて再び「かしこよりきたり」給う(前)― 世の終わりの終わりを告げる「再臨」
使徒行伝1章10、11節(新約聖書口語訳180p)
はじめに
ネパールでマグニチュード7・8という大地震が起きたもようです。建物や家屋が倒壊し、大勢の死者が出ているようです。災害救援に関する卓越したノウハウと装備、技術と能力を持っている日本の国際緊急救助隊の出番です。
一刻も早く現地に駆け付けて、特に倒壊した建物などの下敷きになったり、瓦礫の下に埋もれてしまっている人々を一人でも多く、助け出してほしいものです。
地震と言えば日本でも、先週の月曜日(4月20日)午前、沖縄県・与那国島の近海で、マグニチュード6・8の地震が起こりました。
この地震によって震源地に近い台湾全土でも揺れが観測され、北部の町ではアパートで火災が起き、八十歳代の男性が死亡したとのことでした。
この地震報道を受けて、元NHKアナウンサーが「与那国での地震、そして…台湾でM6を超える地震」とツイートしたところ、「知床旅情」という歌で有名な女性歌手がそれを受けて「基地建設の始まった与那国、神の怒りのようね」とつぶやいたというのです。
自衛隊の基地建設については、三月一日の説教の「はじめに」でも触れましたように、賛成が多数となった住民投票の結果を踏まえて進められているようですが、この歌手によれば、二十日に起きた地震は、基地建設を進める与那国島に対して示された神の怒りであるということになります。
基地建設の是非を決める住民投票は、基地建設反対派が主導したものであって、その際、投票結果を住民の意思として尊重するということが確認されておりました。
にも関わらず、このたびの地震を「与那国」に対する「神の怒りのよう」というのは、筋が通らないだけでなく、与那国島の住民、議会を貶めるものでもあるともいえます。
特定のイデオロギーに影響されると、人はこうなってしまうという一つの例かも知れません。「原罪」の特徴は、自身が絶対正義という思い込みから、反対者あるいは反対意見は悪、とするところにあるからです。
彼女は多くの批判を受けてこのツイートを削除したそうですが、それにしても、自然災害を神の怒り、天罰と考える的外れの思考にはほんとうに失望させられます。
自然災害が天罰や神罰ではないことは、四年前に発生した巨大地震をめぐる小論「3・11東日本巨大地震について」(教会ホームページにも掲載)でも説明をしましたが、この「神の怒り説」「天罰説」と共に、聖書を神の言と信じる保守的立場のまじめなキリスト信者が陥り易いものが、大災害は「世の終わりの前兆」であるとする考えです。
でも、自然災害を世の終わりのしるし、前兆とする見方は、聖書の偏った読み方、一方的な解釈から生まれてくるものです。
この、偏った見方や考え方に陥らないためにも、聖書の正しい学びが重要なのです。
使徒信条は三つの条文から成っています。第一条は「天地の造り主、全能の父なる神」についての告白です。そして第二条が神の「独り子、我らの主、イエス・キリスト」に関する告白、第三条は第三位格である「聖霊」なる神についての告白です。
その第二条のキリストについての信仰箇条の場合、キリストの立場や人格に関する告白の後に、その過去の業績、現在の状態そして、未来におけるキリストの働きについての三つの告白が続きます。
キリストは今、神の御座の右という光栄ある地位に着いていますが、これからの未来においてキリストが何をするのか、という未来のキリストの働きについて、今週から、三回にわたって解説を致します。
そこで使徒信条第十三回目の今週の説教タイトルは、「『全能の父なる神の右に座』すキリストは、その民を迎えるため、やがて再び『かしこよりきたり』給う」です。
1.円環としての時間理解と、直線としての時間理解
「エンドレス」という言葉があります。「エンド」は終わり、「レス」は無いですから、「終わりがない」、「果てしない」という意味です。
「終わりがない」といえば、半島からのいつ終わるとも知れない日本への謝罪要求ですが、この問題についてノーベル文学賞の万年候補が最近、インタビューで語ったという、「相手が『わかりました、もういいでしょう』と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません」という自虐思考の考え方が、早速、ネットで叩かれていました。
このインタビューは共同通信という通信社が行ったもので、同通信社から配信を受けた地方新聞が、それを先週はじめに一斉に掲載をしたのですが、私のところにその切り抜きを、広島在住の若い知人がわざわざ送ってきてくれました。
― 日中韓のバランスの基盤が新しくできるまではいろいろある?
村上 落ち着くまでにはかなりの波乱があるでしょうね。…ただ歴史認識の問題はすごく大事なことで、ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が『すっきりしたわけじゃないけど、それだけ謝ってくれたから、わかりました。もういいでしょう』と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません」(2015年4月21日(火)中国新聞 村上春樹さん、時代と歴史と物語を語る)。
確かにこの作家が言うように、「謝ることは恥ずかしいことではありません」。しかし、悪いことをした覚えがなければ謝る必要はありませんし、仮に百歩譲って謝ったとしても、その民族的、文化的特性、政治的事情から、「もういいでしょう」などは決して言わないまま、際限なく未来永劫、エンドレスで謝罪と賠償を要求されることは目に見えています。
このお方の信条は弱い立場の者に寄り添うことなのだそうです。それはそれで結構なことですが、被害を訴える者がみな、正しいわけではありません。
多分、このお方は善人で「ナイーブ」な感性の持ち主なのでしょうが、このインタビュー記事を読んで、何ともノー天気でお気楽なコメントのように思えました。
厄介なのはこのお方が何かの間違いでノーベル文学賞などを受賞した場合、大江何とかという御仁と同様、ノーベル文学賞受賞者という肩書を引っ提げて独りよがりの言論活動を行って、国内外の反日活動家やマスコミに利用され、その結果、大事な国益を損ねることです。
因みに英語の「ナイーブ」は極度に神経質な状態などを意味する言葉であって、良い意味での繊細さを表現する場合には「センシティブ」が適切であるということを、昔、神学校の英語の時間に、講師の米国人宣教師から習った覚えがあります。
話しが脱線しましたが、終わりのない「エンドレス」は、不毛の苦痛と倦怠を生み出します。
そして、時間とは終わりがないもの、つまりエンドレスであるとした、つまり、時間というものをいつ果てるともなく繰り返される円、つまり円環的なものとしたのが古代ギリシャ人でした。
これに対し、ヘブライ人の時間についての概念は直線的なものであって、時間には始まりがあり、そして終わりがある、というものです。
小預言書のひとつ、ハバクク書を引用します。
「この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる。それは偽(いつわ)りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨(のぞ)む。滞(とどこお)りはしない」(ハバクク書2章3節 旧約聖書口語訳1298p)。
キリスト教はこのヘブライの時間概念を受け継いでいます。時間というものは、創造者である唯一の神による宇宙創造の際に始まったものであって、初めがある以上、終わりもあります。
そして、この直線的な時間の支配者が、キリストの父なる神であるがゆえに、時間は人類の救いという「終わり」(3節)、つまり目的に向かって進んでいることがわかります。
なお、ギリシャ的、円環的時間概念には希望というものがありません。なぜならば、すべてはいつ終わるともなく繰り返されるからです。
そのため、ギリシャ人はこの円環的時間から解放されるために、救済というものを、時間の支配下にある肉体という牢獄から魂が抜け出て、天界へと解放されることであると考えたのでした。
なお、このギリシャ思想とよく似ているものがインドの輪廻(りんね)思想で、生命は前世、現世、来世と、生まれ変わり死に変わりして、エンドレスの状態を続けるとします。
このような円環的時間観念はギリシャ人に、希望というものを厄災の一つであるとする考えを抱かせました。
それが「パンドーラの箱」というギリシャ神話です。希望もまた人類にとっての厄災と考えられていたゆえに、その他の災いと共に箱の中にしっかりと閉じ込められていたのでした。
なぜ希望が厄災かといいますと、実現しない希望、つまり、から望みは失望という苦しみをもたらすからです。
いつ終わるとも知れず、ただ繰り返されるだけの時間の中では、明日は今日の繰り返しでしかありません。その結果、希望を持つことは却って苦痛となるのです。
これに対してキリスト教は、希望は実現する、と断言します。なぜならば、流れゆく時というものを支配しコントロールする神が、愛の神として存在しているからです。
「そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」(ローマ人への手紙5章5節 新約聖書口語訳238p)。
口語訳が「希望は失望に終わることはない」(5節)と訳した言葉を、アルトハウスというドイツの学者は、「この希望は人を恥にまみれさせることはない」と訳しました(パウル・アルトハウス著「ローマ人への手紙 翻訳と註解」115p NTD)。
キリストにある希望がなぜ、神を信じる者に恥を来たらせることがないかと言いますと、神を信じた時に与えられた神からの賜物である聖霊によって、神の愛が信じる者の心に注がれるという経験、すなわち、愛されているという体験へと導かれているからです。
人生のある場面、苦痛や試練がいつ果てるともなく続くかのように思える時があるかも知れません。しかし、私たちを救うという神のビジョンである「幻は…終わりをさして急いでいる」(ハバクク書2章5節)のです。
2.世の終わりの始まりを告げたキリストの来臨
キリストにある「希望は失望に終わることは」ありませんが、時間には終わりがあります。でもそれは、終わりというよりもゴールであり、終着点という意味でもあるのです。
時間の概念を直線とすることについては、ヘブライの伝統を継ぐユダヤ教とキリスト教は一緒です。また、時の中心がキリストの来臨にある、という点でも、両者は共通しています。
しかし、ユダヤ教とキリスト教の決定的な違いは、「時の中心」をどこに置くかという点である、キリスト教は「時の中心」を、二千年前のイエス・キリストの誕生の出来ごとに置くがこれに対してユダヤ教は、「時の中心」を、将来におけるキリストの来臨に置く、と考えたのがフランス出身のオスカー・クルマンという新約聖書学者でした。
ユダヤ教と原始キリスト教との間にあるこの相違を、我々は、しっかりと見つめていなければならぬ。なぜなら、それはキリスト教の時の區分を理解する上に、決定的なものだからである。時の中心は、もはや未来のメシヤの來臨でなくて、過去において完成した、イエス・キリストの歷史的な生涯及び活動である。
かくて我々は、キリスト教の時間觀がユダヤ教のそれに對して持つ新しきものは、時の區分の仕方に求めらるべきであることを知る(オスカー・クルマン著 前田護郎訳「キリストと時」67p 岩波現代叢書 1954年)。
このように、ユダヤ教ではメシヤ・キリストはまだ地上には来臨してはいないのです。ですからユダヤ教では「世の終わり」はまだ来てはいません。
しかし、キリスト教では「世の終わり」はすでに来ており、始まっているとしております。それは神の独り子であるイエス・キリストが、人としてこの世に来られた時(これを第一降臨といいます)に始まったと考えています。
ユダヤ教出身のキリスト教徒を対象にして書かれたヘブル人、つまりユダヤ人への手紙の冒頭部分をお読みします。
「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである」(ヘブル人への手紙1章1、2節前半 343p)。
「この終わりの時には」(1節)とあります。この「終わり」(同)の原語の「エスカトス」から「エスカトロジー(終末論)」という用語が生まれましたが、このヘブル書の記述から、世の「終わり」がイエス・キリストの来臨、つまり生誕とその生涯の事績、とりわけ十字架、復活の出来ごとによって、既に始まっていることがわかります。
四年前の三月十一日に起きた東日本巨大地震の際、保守的な立場のキリスト教会に、この巨大地震は世の終わりの前触れだといったような見解が飛び交いました。しかし、その見方は、イエスがエルサレムに入城した週に、弟子たちの質問に対して語った言葉に関する誤解が元となっています。
エルサレム神殿の壮麗さに感嘆する弟子たちに対して、イエスは神殿が崩壊する日が来ることを予告します。
「イエスは言われた、『あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう』」(マルコによる福音書13章2節 74p)。
そこで弟子たちが質問します。それはいつ起こるのか、その際の前兆はどんなものなのか、と。
「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起こるのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合にはどんな前兆がありますか」(マルコによる福音書13章4節 74p)。
これに対してイエスは、にせキリストの出現、戦争と戦争の噂、民族間の紛争、国家間の対立、そして地震、飢饉などの災害をその前兆としてあげるのですが(13章6~8節)、イエスによる予告はあくまでも、その四十年後の西暦七十年の、ローマ軍によって惹き起こされたエルサレム壊滅の出来ごとの「前兆」を言っているのです。
影響力の違いはあれ、偽キリストは昔から出現していましたし、この二千年の間、戦争の噂どころか、国家間の戦争自体、絶えませんでした。
ジャンヌ・ダルクの火刑でも有名になった、英仏間の戦争は百年も続いたので「百年戦争」と呼ばれましたし、十七世紀の前半に西ヨーロッパを主戦場にして行われた「三十年戦争」では四百万人の人が亡くなり、この結果、ドイツの人口は半減したといわれています。
近年では、二十世紀の二つの大戦で、合わせて五千万人を超える人々が犠牲となったとされています。
二十一世紀の悩みの一つは民族紛争ですが、それは今に始まったことではありません。民族紛争、部族間の軋轢は古代から世界各地で常に起こっておりました。
自然災害もまた、現代に限ったことではありません。巨大地震により、また地震に伴う大津波によって、古来、栄華を誇ったいくつもの文明が滅びもしてきました。
つまり、「世の終わり」のしるしとされている出来事は過去にも繰り返し繰り返し、起こってきていたのです。
現代が「世の終わり」なのではありません。ヘブル人への手紙の冒頭にありますように、「世の終わり」はイエス・キリストの到来によって始まりました。
それは人類の救済という終着点を目指して始まり、今まさに「終わり」向かって進んでいるのです。
3.世の終わりの終わりを告げるキリストの再臨
少々ややこしいのですが、「世の終わりの始まり」を告げるものがイエス・キリストの最初の降臨であったのに対し、「世の終わりの終わり」を告げるものが、キリストの二回目の降臨、つまり再臨です。
「そのとき、大いなる力と栄光をもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マルコによる福音書13章26、27節 75p)。
これはキリスト自身による、再臨に関する言及であるとされています。ただ、人であった時のイエスは、ご自身の再臨がエルサレム神殿の破壊を含むエルサレムの滅亡のそう遠くない時期に起こると思っていたようではあるのですが。
その五十数日後、同じオリブ山から昇天したイエスを呆然と見送る弟子たちに対して、御使いが最初に告げたこともイエスの再臨のことでした。
「イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて、言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」(使徒行伝1章10、11節 180p)。
いま、「全能の父なる神の右に座」しているキリストが、再び「かしこよりきたりた」もう目的は、「その選民を呼び集める」(27節)ため、つまり、愛するご自分の民を御許に迎えるためなのです。
「そのとき、彼は御使いをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マルコによる福音書13章27節)。
永遠の神の御子が人として誕生したということ、完全に死んだのに死者の世界からよみがえったということ、しかも不死の状態で今も生きているということなど、それだけでも信じ難いことであるのに、そのキリストが天から再度、地上に下ってくるという教えは、もう私たち日本人の知的理解を超えたものではあります。
しかし、これを愛の貫徹、愛の成就という観点から見れば納得することが可能です。
確かに聖霊という「もうひとりの助け主」によって、地上を生きる私たちは自分が神に愛されているということを実感もし、経験もしています。
しかし、それは靴の上から痒いところを掻くような隔靴掻痒という、何とも歯がゆい感じであることも事実です。
しかし、キリストが命がけで救ったその民を放置しておくわけがありません。必ずや、迎えに来る筈です。そしてその時、もしも存命であるならば、人は顔と顔とを合わせてイエスと相見(まみ)えるにことができるのです。
「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(コリント人への第一の手紙13章12節 271p)。
顔を「鏡に映して見」(12節)ることが何で「おぼろげ」(同)なのかと言いますと、古代の鏡は金属を磨いたものであったからです。ガラスの鏡のようにはいかないわけです。しかし、「その時には、顔と顔を合わせて、見る」(同)ことになります。
愛という視点で見れば、再臨は知的にも、情的にも極めて納得することのできる教えであると言えます。
再臨の信仰、それはキリスト教会の、そして人類の希望そのものです。私たちは今、「時の中心」であるキリストの最初の降臨と、「世の終わりの終わり」である二回目の降臨との間を生きています。
そして、「世の終わり」が終わる時、真の意味での神の国、神の支配が始まるのです。そこに最終の希望があります。
次回は再臨の様態をめぐる種々の主張を検討した上で、最も聖書的と思われる見解をご紹介し、更に、再臨への正しい態度について教えられたいと思います。