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2015年4月12日 教会開設記念野外礼拝説教「たとい駿馬(しゅんめ)ではなく駑馬(どば)であっても」ローマ人への手紙12章11、12節

15年4月12日 教会開設記念野外礼拝説教 

たとい駿馬(しゅんめ)ではなく
駑馬(どば)であっても
 
ローマ人への手紙12章11、12節(新約口語訳249p)
 
 
はじめに
 
私たちの教会の今年の標語は、「主を待ち望む者は、新たなる力を得る」ですが、メインの聖句の前の節の言葉、「年若い者も弱り、かつ疲れ」(イザヤ書40章30節前半)の「弱り」は「倦(う)む」で、「疲れ」は「弛(たゆ)む」だということを、新年礼拝の説教で教えられました。
 
辞典を見ますと、「倦(う)む」は「同じ状態が続いていやになる。あきる」とあり、「弛(たゆ)む」の方は「心の緊張がゆるむ。なまける。だらける」となっています。
 
私たちはみな、「倦まず弛まず」に励まねばと思いつつ、多くの場合、日常生活は同じ事の繰り返しで、信仰生活も同様、そうそう変化があるわけではなく、いつの間にか倦み疲れでしまいがちです。
だからこそ、パウロは勧めるのです、倦むことなく主に仕えよ、弛まずに祈ることを続けよ、と。
 
新年度が始まりました。この新しい年度はこれまでにもまさって、生き生きとした歩みでありたいと思います。
 
 
1.倦むことなく、聖霊に燃えて主に仕える
 
 人は誰かに仕えています。私たちの教会がある大阪府の場合、今日、四月十二日は府議会議員選挙の投票日ですが、地方議員や地方公務員は府民に仕え、国会議員や国家公務員は主権者である国民に仕えます。
 
では、私たちは誰に仕えるかと言えば、それは「主に」です。この主は私たち罪びとに仕えて、その尊い命を捨ててくださいました。
 
その「主に」対し、倦むことなく、新鮮な思いで「仕え」るために努めるべき二つのポイントを、パウロは書き記しました。
 
「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え(なさい)」(ローマ人への手紙12章11節 新約聖書口語訳249p)。
 
 一つは「熱心で、うむことなく」(11節)です。「うむことなく」とは「怠けずに」ですから、主に仕えるにあたっては、熱意、誠意をもってせっせと励むようにとの奨めです。
 
そしても一つが「霊に燃え」(同)るということです。この「霊」は神の霊のことです。人は神の御霊に燃やされてこそ、真の意味において熱き心で主に仕えることを可能とし、またそれを継続することができるのです。
新年度も、倦むことなく、命の主に仕えていきたいと思います。
 
「主に仕え」るとは、具体的にはこの世においてはそれぞれが真面目に、自らの職務、学業に努めることであり、教会においては神への礼拝と、各自に与えられている賜物を用いての奉仕に励むということです。
 
 
2.望みを抱き、めげることなく祈り続ける
 
もう一つの奨めは「弛むことなく、祈りを続けよ」ということです。
 
祈りは主との会話であり、コミュニケーションの手段でもあります。祈りがおろそかになりますと、信仰が空洞化し、力を失います。
そして、この祈りの充実のための秘訣をパウロは教えます。
 
「望みを抱いて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」(12章12節)。
 
 「喜び」(12節)をもって「祈りなさい」(同)とパウロは勧めます。「喜び」は「望み」(同)つまり希望から湧いてきます。
そして神が無から有を呼び起こすお方であるならば、望みのない状態にも希望を生じさせてくれる筈であって、神が与える希望が生み出す喜びの感情が、主への祈りを豊かにします。
 
「彼(アブラハム)はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なお望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」(4章17、18節)。
 
 でも、祈ることの重要性を理性ではよく知っていながら、その祈りを怠らせてしまうものがあります。その一つが人生の患難、とりわけ理不尽ともいえる苦難です。
私たちはそのような苦しみの中で神を呼びます、しかし、神を呼んでも答えがない、そこで失望して祈らなくなってしまうというわけです。
この「患難に耐え」(12節)させるもの、つまりめげずに祈りに向かわせるものが、希望に裏付けられた「喜び」なのです。
 
 
3.駿馬(しゅんめ)ではなく駑馬(どば)であっても
 
 倦むことなく、聖霊に燃やされて主に仕えること、望みを抱いてめげずに祈り続けるためには、特別な才能は必要ありません。
 現代世界において、世界の厄災となっているとも言われている国家が共産中国ですが、古代の中国は多くの知者を輩出し、その思想と学問は我が国に多大な恩恵をもたらしました。
 
特にこれら、春秋戦国時代の知者や思想を総称して「諸子百家」と言いますが、「諸子」の一人に「荀子(じゅんし)」という人がいました。紀元前三世紀の人です。 
 
荀子は一般に「性悪説(せいあくせつ)」を唱えた人として名が知られていますが、後天的努力の効果というものを強調した人でもありました。
良く知られているのが「出藍(しゅつらん)の誉れ」の出所である「青は藍(あい)より取りて、藍より青し」(勧学篇)です。
塵も積もれば山となる」という故事も荀子の「勧学篇」にあるもので、努力の効果を強調する故事として、今も引用されています。
 
そいう荀子の中でも、「駑馬十駕(どばじゅうが)」は私たちに豊かな示唆を与えてくれる教訓です。
 
夫(か)の驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬(どば)も十駕(じゅうが)すれば、即ち亦(また)之に及ぶ(荀子 修身篇 第二 八)
 
 「駑馬(どば)」とは優れた馬である駿馬(しゅんめ)に対して平凡な並の馬、駄場ともいうべき馬のことです。「十駕(じゅうが)」とは普通の馬が十日かけて走る道のりのことです。
 
 荀子は言います、かつて一日に千里を走ると言われた「驥(き)」という名馬がいた。しかし、何の取り柄も無い平凡な馬であったとしても、一生懸命に十日も走れば、駿馬(しゅんめ)の「驥(き)」と同じだけの距離を走り抜くことができるのである、と。
 
あの驥(き)という名馬は一日に千里の遠方までも行くというが、たとえやくざな馬でも十日もかかって努力すれば、これに追いつくことができるのである(荀子 修身篇 常盤井賢十訳「荀子 修身篇」諸子百家107p 世界古典文学全集19 筑摩書房)。
 
 この常盤井という人の「やくざな馬」は、ちょっと厳しい訳ですが、この場合の「やくざ」はあまり役に立たないような、目立たぬ馬という意味でしょう。
 
 「駑馬十駕」はイソップ寓話が出典とされる「ウサギとカメ」の物語とも通じる故事ですが、駿馬ではなく、たとい駑馬であったとしても、誠実に心を込めて「主に仕え」、「常に祈」り続ける者には、主の目は変わらずに注がれるのです。
 
 新年度も互いに励まし合いながら、倦まず弛まず、ぞれぞれの馳せ場を走り抜いてまいりましょう。