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2015年2月8日日曜礼拝説教「基本信条としての使徒信条? 『主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ』たとの告白は、聖霊の働きにより可能となる」ガラテヤ人への手紙4章4、5節

15年2月8日 日曜礼拝説教

 基本信条としての使徒信条?
「 『主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ』たとの告白は、聖霊の働きにより可能となる」
 
ガラテヤ人への手紙4章4,5節(新約聖書口語訳297p)
 
 
はじめに
 
キリスト教国からみれば異教社会でしかない日本で、キリスト教のメインの祝祭であるクリスマスがなぜ、これほどまでに人気があるのかという理由の一つは、それが、肌の白い白人の宗教イベントだからであるという説明があります。
 
人種的偏見との関連もありますが、我が国ではCMなどで健康上、医学上の理由からではなく、専ら美容の観点から色白が持て囃されているという事からも、これは残念なことながら、事実のようです。
でも、そのように肌の白さに憧れる日本人ではあっても、キリスト教そのものの布教自体となりますと、依然として日本では困難なのですが。
 
クリスマスという行事が日本人に受け入れられている理由がもう一つあります。クリスマスが頑是ないかわいい赤ん坊の誕生を祝うものだからです。
 
でも、その赤ん坊ですが、実質未婚の状態にあったマリヤという少女の胎内に、神の霊である聖霊によって宿ったのだ、と聖書は告げます。そして一般的にキリスト教徒の多くは、そのように信じているのです。
 
「使徒信条」第二条のラテン語原文には、「(主は)聖なる霊によって身ごもり、おとめマリアより生まれた」とあります。
それを信条として条文化したものが「使徒信条」の「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」(第二条)という告白でした。
 
「使徒信条」の五回目の今週は、この、常識では受け入れることが困難な、不可思議ともいうべき告白についてです。
 
 
1.神の独り子が聖霊によって身ごもり、おとめマリヤから生まれたとする記述をどう受け止めるか
 
福音書の記録では、神の御使いが、ガリラヤのナザレという町に住む「マリヤ」という少女に予告もなしに現われます。
 
「六か月目に、御使いガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなずけになっていた」(ルカによる福音書1章26、27節 新約聖書口語訳83p)。
 
実はマリヤはこの時既に、ヨセフという男性と婚姻関係を結んでおり、法的にはヨセフの妻であったのです。
 
ユダヤでは通常、結婚までには三つの段階がありました。
一つ目は二人が幼い時に、親同士で結婚を決める、という段階です。そして年頃になった二人がその約束を受け入れた場合には結婚ということになります。但し、同居するのはその一年後でした。
 
マリヤはこの二段階目におりました。ですから口語訳は「ヨセフのいいなずけになっていた」(27節)と訳したのでした。
そしてこの二段階目の時点で、法的には夫婦ということになります。
そのような立場にいるマリヤに向かって御使いは「あなたはみごもって男の子を産む、その男の子は約束のメシヤである」という告知をしたのです。
 
「すると御使いが言った、『…見よ、あなたは身ごもって男の子を生むでしょう。その名をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう』。」(1章30節)。
 
当然、マリヤは困惑し、そして質問をします、「どうしてそのようなことが」と。そこで御使いは答えます、「神の霊である『聖霊があなたに臨み』、その結果、『いと高き神の力があなたをおおう』からである」
 
「そこでマリヤは御使いに言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしにはまだ夫がおりませんのに』。御使いが答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう』」(ルカによる福音書1章35節)。
 
 そして御使いは続けて言うのです、「我々が信じ仰ぐ神は全能の神である、神に出来ない事は何もない」と。
 
「神には、なんでもできないことはありません」(1章37節後半)。
 
 近代の、個人の権利の尊重という人権感覚から見れば、人権無視もいいところです。現代の日本なら憲法違反で訴えられるところでしょう。
何しろ、日本国籍もないの日本国憲法を盾にして、生活保護費の支給を権利として求めるのみか、行政に退けられると裁判所にまで訴え出るような外国人もいる国ですから。
 
しかし、マリヤは神の使いの言葉を従容として受け入れます。
 
「そこでマリヤは言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どうりこの身に成りますように』」(ルカによる福音書1章38節)。
 
 マリヤが聖霊によって身ごもったということは、ユダヤ教徒を対象として書かれたとされる「マタイによる福音書」にも「イエス・キリストの誕生の次第」として記録されています。
 
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約をしていたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」(マタイによる福音書1章18節 1p)。
 
 そして、法的意味では既に夫であったヨセフに対し、あなたの(法的)妻であるマリヤの胎内に宿っている子供は男の子であって、それは聖霊によるのだ、という告知が御使いから与えられます。
 
「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現われて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を生むであろう」(1章20、21節前半)。
 
 ところでこの記述がフィクションつまり、物語や伝説なのか、それともノンフィクションつまり、事実あるいは史実なのかということなのですが、古代のキリスト教会はこれを事実の記録として認識をし、その上で「神の独り子は聖霊によっておとめマリヤに宿り、そして生まれた」と信じ告白してきたのでした。
 
 では、現代を生きる私たちはこれをどう受け止めるべきか、ということなのですが、その前に、マリヤが聖霊つまり神の霊によって身ごもったということを、聖霊がマリヤに受精させたという意味に解釈してはなりません。
 
もしもそういうことであるならば、イエスは神と人間との混血(ハーフ)、つまりギリシャ神話の英雄ヘーラクレースのような「半神半人」ということになってしまいます。ヘーラクレースはオリンポスの主神であるゼウスが、アルクメーネーという人間の女性に産ませたとされています。
 
カリスマ的説教者として日本でも知られているベニー何とかいう伝道者は、「聖霊様 おはようございます」という著書の中で当該聖句に触れ、「だから聖霊はイエスの父である」などと書き、その神学的無知をさらけ出していました。このお方の著作を読む時には、注意が必要です。
 
 では、「その胎内に宿っているものは聖霊による」(20節)をどう理解するかということですが、これはノンフィクションすなわち事実であるとした上で、マリヤが受精することなく奇跡的に懐胎したのは、神の霊である聖霊の超自然的な働きによってである、と素直に受け止めることです。
 
聖書は受胎のメカニズムを問題にしてはいません。
マリヤの懐胎は、永遠の神の御子が「自然」と「歴史」の中にどのように入ってきて下さったのかを説明する出来事として理解することが肝要です。
 
ですから、自然界における無性生殖の可能性や有無などについて論ずることはナンセンスです。なぜならば、人間の理性や知識には限りがあるからです。やがていつの日にか、理性でも納得することができるようになることでしょう。
今は、神秘は神秘として受け止めておくことが大事です。
 
そして不思議なことなのですが、「(主は)聖霊によりて(マリヤに)宿り、おとめ(である)マリヤから生まれ」たと告白しているうちに、いつの間にか信じられるようになってくるのです。それこそが、聖霊の働きであると言えます。
 
なお、マリヤへの御告げに関しましては一昨年の待降節礼拝説教で取り上げましたので(2013年12月15日待降節第三主日礼拝説教「希望の物語その3ナザレのおとめマリヤの場合―お言葉とおりこの身になりますように―マリヤの応答」)、当日配付の説教要旨か、教会のホームページをごらんください。
 
 
2.神の独り子がなにゆえに人として、人の世に誕生しなければならなかったのか
 
問題は、永遠の昔から存在していた神の独り子がなにゆえに、人として人の世界に敢えて誕生しなければならなかったのか、ということです。
 
イエスが人となったのは、先週の礼拝説教でも申し上げましたように、神が抱いた「夢」すなわち、聖なる神が罪びとなる人類との和解を実現するための要件として、必要であったからでした。
 
それは人類が負った原罪を処分するということによってのみ可能なことでした。
 
第二次伝道旅行の終わりか、第三次伝道旅行の時にかは定かではありませんが、パウロが第一回伝道旅行の際に建設した教会である、ガラテヤ地方の諸教会に宛てて書いた重要文書、「ガラテヤ人への手紙」をお読みします。
なお、宛先の教会があったガラテヤ地方は、現在のトルコ共和国の中南部にありました。
 
「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下(もと)にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」(ガラテヤ人への手紙4章4、5節 297p)。
 
「時の満ちるに及んで」(4節)とは、神が備えていた人類の救済計画開始の時がついに来た、という意味です。
神は満を持して待機させていた御自身の「御子を女から生まれさせて」(同)、人として人間世界へと「おつかわしになった」(同)のでした。
 
その事実が「(主は)聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」たという第二条の告白となったのです。
 
それは何のためか。それは神に背いて罪びととなり、結果、楽園を放逐されたアダムの子孫である「わたしたちに子たる身分を授けるため」(5節)であって、そのためにはまず、「律法の下にある者をあがない出す」(同)必要があったのでした。
 
「律法」とは何かと言いますと、端的に言えば「モーセの十戒」のことであって、「十戒」の具体的法令が各種の「律法」であり、律法の適用が「先祖からの言い伝え」といわれるものでした。
 
「律法」は本来、神の意志を示すものとして与えられました。しかし、アダムの子孫は律法を遵守することができませんでした。なぜかと言いますと、人類自体、罪の根である「原罪」の影響下にあったからです。
皮肉なことにその結果、律法は人に、特に真面目な人に対して、自らが罪びとであるという自覚をかえって増幅させることとなったのでした。
 
「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ローマ人への手紙3章20節 236p)。
 
被害者が、「あなたの隣人を愛せよ」という律法に従うべく、「赦さなければならない」と考えて加害者に接触をし、「あなたを赦します」と言ったとします。しかし、言葉では「赦す」とは言っても、受けた被害の記憶がよみがり、却って苦々しい思いが増殖をするということになるケースがあります。
このような場合、まじめな性格の人ほど、人を赦せないという自分自身を自分が責めることとなってしまうわけです。
 
このような悪循環を断ち切るために神から「つかわされた」のが、人として生まれた神の独り子でした。
 
ところで、イエスが聖なる霊により、おとめマリヤから誕生したということは、イエスが原罪の汚染から免れた存在であることを意味する、という見解があります。
人として生まれたイエスと原罪とはどのような関係にあるのか、ということについては古来議論が分かれてきました。
 
ローマ教会は、イエスはその誕生時に原罪の汚染から免れれ、原罪の無い状態で誕生したとします。その結果、生母のマリヤはイエスを懐胎する際に原罪の影響から免れていたのだという教義が生まれました。いわゆる「無原罪のお宿り」です。
もちろん、そんなわけはありません。ローマン・カソリックの方々には申し訳ないのですが、マリヤもまた、原罪を負って生まれた罪びとの一人でした。
 
では、イエスと原罪との関係はどうなのか。
原罪は、第一のアダムの罪、つまり「へび」の誘惑に乗って、神と同等になろうとした先祖の思いから生まれました。
 
「へびは女に言った、『…それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように、善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3章5節 旧約聖書口語訳3p)。
 
 「神のように」(5節)なろうとすること、それが「原罪」の正体です。
「原罪」の効果は自己愛、自己保身というかたちですぐに現われました。人類の祖は自らの責任を回避しようとして、堕罪を妻と神のせいにしようとします。
 
「神は言われた、『…食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか』。人は答えた、『(あなたが)わたしと一緒にしてくださったあの女が、木からとってくれたので、わたしは食べたのです』」(3章12節)。
 
 この、人類が負っている「原罪」という罪の根を処分、克服するためには、律法の表面の字句ではなく、精神を遵守することが必要でした。
そして律法の精神までも守り切ったアダム、第二のアダムとなるために、すなわち、「原罪」を処分するために、御子は人として生まれたのでした。
 
「律法が肉により無力になっているためになし得なかったことを、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様(さま)で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである」(ローマ人への手紙8章3節 242p)。
 
 パウロはイエスについて注意深く「罪の肉の様で」(3節)と言っています。「罪の肉の様」とは何かということですが、これは「罪」を犯す可能性を持った「肉」つまり人間性というものをイエスが持った存在であるということを意味するようです。
 
つまりイエスは文字通り、人間として、しかも人間の代表として罰を受け、そして死なれたのでした。イエスがアダムの子孫であるマリヤを母に持つ以上、例外的に原罪の汚染から免れた無垢の存在として誕生したというわけではないようです。
むしろ、罪を犯す可能性のある「罪の肉の様」(3節)で生まれた者として、罪の誘惑は常にあった筈です。
 
しかし、イエスは第一のアダムとは違い、忍びよる誘惑を常に斥け、表明的にではなく思いそのものにおいて、神の言葉、神の戒めに従い続けてその生涯を終えたのでした。
 
その証拠が無実の罪で十字架に架けられながら、「敵」を呪うどころか、「敵」のために心からなる赦しを願った祈りを神に捧げた事実にあります。
 
「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』」(ルカによる福音書23章34節前半 131p)。
 
 イエスこそ、「わたしたちに子たる身分を授ける」(ガラテヤ人への手紙4章5節)という神の夢を実現するため、そして「律法の下にある者をあがない出すため」(同)、人として「律法の下に生まれ」(4節)、「律法の下に」身を置き、そして律法の要求のことごとくを満たすことにより、人類の身代わりとなる資格を得たお方だったのです。
 
神の御子が何ゆえに敢えて、人として生まれなければならなかったのかという理由(ことわり)は、まさにここにあるのです。
 
 
3.キリストが神であり同時に人であるという在り方は、どのようにして可能であるのか
 
そのイエスが在世中、いかにして神であり、同時に人であったのかというその在り方、専門的な用語を使えば、人としての「人性」と神としての「神性」とが、キリストという人格においてはどのように結ばれていたのかという論議がありました。
 
簡単に言いますと、「人性」つまり人であることを強調するか、「神性」つまり神であることを強調するかなのですが、「人性」を過度に強調した神学説が先週お話しました「養子論」でした。
養子論者は処女懐胎を受け入れることができず、またイエス・キリストの神性を否定しました。
 
一方、キリストの「神性」を強調するあまりに、イエスの「人性」を否定し、イエスが人の姿に見えたのは「幻影」であり「仮象」なのだという説も現われました。「キリスト仮現論」と称されるものです。
この説は「らしく見える」「と思われる」という意味のギリシャ語動詞である「ドケオー」という言葉から、「ドケティズム」とも呼ばれました。
 
彼らはギリシャ的神観の影響を強く受けていたため、神は超越的存在であるから受苦不能、つまり苦しみを受けることは有り得ないとし、また霊肉二元論の立場から、善であり、不死である神が、悪である物質としての肉体を取るわけがない、死ぬべき肉体をとることは有り得ない、と考えたのでした。
 
その結果、彼らはキリストの「神性」というものを過度に強調し、「人性」を否定しました。当然、イエスの肉体による身代わりの死、贖罪をも否定しました。
 
この論争は四世紀になりますと「キリスト論」、あるいは「キリスト両性論」として、両性の結合の仕方、関係をめぐる議論となり、三つの説が異端説として退けられました。
 
一つ目はコンスタンティノポリスの総主教であった「ネストリウス」が唱えたとされるものです。
この説は、使用された用語から、ネストリウスの意図に反して、イエスが神という人格と人間という人格、つまり二重の人格が機械的に接合している存在であるかのように理解されたため、ネストリウスは異端者としての汚名を着せられてしまうこととなりました。
 
この説ではイエスの奇跡は、神の子つまり「神性」としての業であり、涙を流したりする時は人の子つまり「人性」としてであったとしたようです。
 
しかし、イエスの奇跡は神の属性の一つである全能性の発露ではありませんでした。
イエスのなされた奇跡的なわざはすべて、聖霊の働きによるものであって、その聖霊の働きを促したものがイエスの信仰と祈りだったのです。それはペテロの証言の通りです。
 
「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押さえつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました」(使徒行伝10章38節 199p)。
 
二つ目はラオデキヤの主教「アポリナリオス」という人が唱えたものです。
当時の「人間論」は、人は「身体(ソーマ)」「霊魂(プシュケー)」「霊(プネウマ)」の三つで構成されているというもので、動物は「霊(プネウマ)」がなく、「身体(ソーマ)」と「霊魂(プシュケー)」だけを持つと考えられていました。
 
そしてアポリナリオスは、キリストは「霊(プネウマ)」の場所に、「霊」の代わりに神の「ロゴス」が占めている存在である、としたのです。
でも、そうなりますと、イエスは「神と人間」ではなく、「神と動物」が結合した存在ということになってしまうのです。
 
ところで、イエスが人間であったことの証しとして、イエスが飢えたこと、疲れたこと、眠ったことなどを挙げる場合がありますが、これらは動物も経験することですので、そう考える人はイエスの「人性」を証明しようとして意識しないまま、アポリナリオスが陥った誤謬に陥ってしまうことにもなりかねません。
 
実は我が教団の出版部が発行している書物に、「聖書の教理」という翻訳書があります。キリスト教の教理を保守的な立場から論理的に、しかも分かり易く解説していて、また訳も日本語としてこなれていることから、初心者用に良いものなのですが、少々まぎらわしい記述があるのが気になります。
 
神の子の人性は本当のものであって、決して見せかけのものではなかった。神の子は、実際に、飢え、渇き、疲れ、悲しみを味わい、罪を除いた人間一般の弱さを体験されたのであった(マイヤー・パールマン著 佐布正義訳「聖霊の教理 上」228p 福音出版社)。
  
 
イエス・キリストが人間であったことのしるしは、もっと本質的な面、つまり、自らの存在あるいは名誉などが左右されるような場面で、自己よりも神、おのれよりも他者を優先させるか否かという選択においてであったということを強調してほしかったと思います。
 
なお、アポリナリオスは極めて真面目かつ敬虔な教職者であったそうですが、神人両性の関係を説明しようと苦心したその結果、異端者のレッテルを貼られることとなってしまいました。何とも気の毒なお方です。
彼は異端者の烙印を押されはしました。しかし、皆さまが将来、天国に行ったならば、彼とはきっと会うことができると思います。
 
三つ目はコンスタンティノポリス近郊の修道院で働いていた「エウテュケス」という修道僧が唱えたものであって、「キリストは生まれる以前には神人両性を持っていたが受肉後、二性は融合し、結果、神性が人性を吸収したのだと主張した」というものです。
 
この説については、それでは「両性」とは言えず、かたちを変えた「仮現論」になってしまうということで異端説として否定されました。
しかし、一般のキリスト教徒が持っている素朴なキリスト観は、案外このエウテュケス的融合論が多いように思われます。
 
四世紀と五世紀の教会会議はこれら三つの神学説を異端説として退けました。
特に四五一年に採択された「カルケドン信条」においては、キリストは完全な神であり、同時に完全な人であるということが宣言されました。
 
我々はただひとりの御子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は神性において全く、人性において全く、まことの神にしてまことの人。…神性においては父と異ならず、人性において我らと異ならず。
合一によって両性の区別が取り除かれるのではなく、かえって、各々の性の特質は救われ、…二つの人格に裂かれることなく、ただ一人の御子、御独り子、言、主イエス・キリストである(カルケドン信条)。
 
これはローマ教会、プロテスタント教会の双方が等しく支持する信条として重要です。
 
常識とは人間の理性と経験の二つから生まれて発達をすのですが、その常識を超える事象や見解をどのように捉えるのかということは、科学が発達した二十一世紀を生きる私たちの課題でもあります。
 
理性的でありつつ、また科学的経験を尊重しつつ、神のなす事柄については謙虚である、それが地上を生きる私たちに求められている態度、姿勢であると思います。
2015年メッセージ
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