2015年1月18日 日曜礼拝説教
基本信条としての使徒信条?
「勿体無いのは『我は全能の父なる神を信ず』
と告白できる立場に置かれていること」
創世記17章1~4節(旧約聖書口語訳17p)
ローマ人への手紙4章16~18節(新約聖書口語訳238p)
はじめに
マグニチュード7.3という巨大地震が兵庫県南部で起きてから、昨日の一月十七日で丸二十年となりました。
この地震が引き起こした災害は、大阪市と神戸市の間を意味する阪神間と、淡路島とに甚大な被害を及ぼしたことから、「阪神・淡路大震災」という呼称で呼ばれるようになりますが、その災害の規模と状況はまことにすさまじく、とても二十年が経ったとは思えないほど、様々の情景が今でも鮮明に思い出されます。
私の場合、約二ヵ月間、所属教団のボランティアとしてほぼ毎日のように神戸に通って手伝いをしておりました。最初の日は、電車が通っている西宮の鳴尾から、盛り上がったり陥没したりしているデコボコだらけの歩道を自転車で走って、神戸の御影に入りました。
神戸市内では小泉教区長と共に、米国から届いた仮設住宅を電動ドライバーで組み立てる作業をしたり、JR住吉駅で、横浜から支援にきた兄などと共に、公衆トイレの清掃をしたりもしました。
疲れが出たのか三月の半ばに高熱が出ました。そこで病院に行ったところ、生まれて初めてインフルエンザと診断され、これも初めての点滴を受けました。
結局、礼拝説教が出来るような状態でなく、これもまた体調不良が原因では初めてという説教不能の日曜日を経験しました。
妻の方は関西ヘルプセンターというボランティア団体に所属して連日、主に神戸の長田区などで高齢被災者の介護にあたり、頭から排泄物を浴びたりしながら入浴介助等のボランティアに勤しんだようです。
この大地震では建物の倒壊による圧死、火災による焼死などで六四三四名、不明三名の犠牲者が出ましたが、問題となったのは行政の対応の拙さでした。
地震発生は午前五時四十六分でした。しかし、兵庫県から自衛隊に出動要請が来たのは十時十分で、しかもそれは兵庫県消防交通安全課の課長補佐の電話を受けて、これを県知事からの正式要請とするという緊急措置での出動でした。
当時の法律では都道府県知事の要請が無い限り、自衛隊は動くことが出来なかったのです。しかし、兵庫県も神戸市も左派的イデオロギーの影響の元、思想的に自衛隊アレルギーが強く、上から下まで自衛隊の出動要請を躊躇わせる空気があったようです。
自衛隊の方は発災直後から出動準備を整えて、要請を今か今かと待っていたのですが、法律に基ずく正式要請がない以上、勝手な行動はできません。
結局、四時間半という初動のための貴重な時間が失われてしまったのです。
犠牲者の多くが倒壊した建物の下敷きになって圧死したり、火災によって焼死したのは事実です。
しかし、地震発生直後に出動準備態勢を整えて待機をしていた自衛隊がもっと早く、緊急救助に乗り出していたならば、あたら尊い命を落とさずに済んだのではないかという人も大勢いたことと思います。
一方、自衛隊の最高指揮官である内閣総理大臣はどうだったのと言いますと、これもまた自衛隊嫌いの社会主義政党の委員長がその地位にいたこともあってか、対応が遅れに遅れて、批判を浴びることとなりました。
米海軍などからも地震の直後に支援の申し出がありましたが、これの受け入れを拒否したことも、思想的理由があったのではないかと勘繰られたりもしました。
地震発生三日後の衆院本会議において、対応について問われた際にこの総理大臣は、「今から振り返ってみますと、なにぶん初めてのことでございますし、早朝での出来ごとでもございますから…」などというトンチンカンな答弁をして呆れかえられ、評価の低下と支持率の低落に拍車をかけたようです。
ただこのお方の場合、人柄の良さは誰もが認めるところであって、前年の首相就任直後の所信表明演説では、それまでは違憲としていた自衛隊を合憲と認め、廃棄を表明していた「日米安全保障条約」を日本の安全保障のために必要であるとしたことなどは評価されています。もっともそのことが、自身が所属していた政党の瓦解につながったとされてはいます。
でも、この人の長所は四年前の「東日本巨大地震」における総理大臣とは違い、自らの能力の限界を知っていることであって、大地震の三日後、閣僚の一人を震災復興対策大臣に任命して、陣頭指揮に当たらせたりしたことなどは高く評価できることではありました。
しかしながら、県知事にせよ総理大臣にせよ、その第一の条件は人の良さなどにあるのではなく、県知事の場合は県民の、そして総理大臣の場合は国民の生命と安全、暮らしを守る能力と資質にあるといえます。
いうなれば、総理大臣は国民の父であり、県知事は県民の父であるともいえるからです。
父親には二つの属性が必要です。
一つは子供を守るための力としての「父権」を、必要に応じて行使する能力であり、もう一つが子供に対する慈しみの心としての慈愛に満ちた「父性」という性格です。
そして、二〇年前の兵庫県民の悲劇は、阪神・淡路大震災という稀に見る大災害の勃発に際し、県知事も総理大臣も、事を起こす大きな権力、つまり力というものを委ねられていたにもかかわらず、その力(父権)を正しく行使することに逡巡し、結果として、県民や国民に対する父性の薄さというものを示してしまったということでした。
さて、「使徒信条」ですが、第一回目では「我は神を信ず」という告白から、「神を信ず」という告白は「唯一の神を信ず」という信仰告白であるということを確認しましたが、二回目は、その「神」は如何なる神であるのか、ということについて教えられたいと思います。
そこで今週は「我は全能の父なる神を信ず」という告白についてです。
1.何よりも心強いのは「我は全能の神を信ず」と告白できること
「使徒信条」という基本信条のラテン語原文第一条の順序が、「(我は)信ず 神を 全能の父 天地の造り主を」であることは先週、確認しました。
私たちが「我は信ず」と告白する神は、第一に「全能なる神」なのです。
「全能」とは「意志することは何でも出来る、出来ない事は何もない」という意味です。
そういう意味では「使徒信条」で告白されている「全能の神」は、ギリシャ神話や日本神話に登場する、人間を原型として描かれている人間臭い神々とは根本的に相違しております。
古事記が記す神話によれば、天上の高天原(たかまのはら)を治める天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟の建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)は、力はすこぶる強いけれども、ひどい乱暴者でもあって、おまけにマザーコンプレックスのきらいのある神さまでした。
彼は姉を慕うあまりに、姉が治める高天原に上るのですが、そこに居座って乱暴狼藉を働くようになり、これに我慢の緒がきれた天照大神が天(あま)の岩屋戸に隠れてしまい、その結果、世の中が真っ暗になってしまったという、誰もが知っている有名な話があります。
このように混乱状態を生みだす原因となったのが、力はあるけれども自己抑制を利かすことのできない須佐之男でした。
結果、須佐之男は高天原を放逐されて地上に降るのですが、出雲の地において、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治する英雄となります。
そのキャラクターを愛すべきものとしてこれに親愛の情を持つ人もいるかも知れませんが、この神さまを「全能の神」という守護神として、崇める気にはとてもなれないことと思います。
ギリシャ神話の場合も、クロノスという神様が出てきます。ところがこのクロノスという神さまは、自分の地位が狙われてトップの椅子を奪われるかも知れないという不安感から、妻が生む男の子を次々と腹に呑み込んでしまうという性癖があって、最後にゼウスという息子に殺されて、オリンポスの支配を奪われてしまいます。
父親のクロノスを「退治」したゼウスの方は、神々の長としてオリンポスに君臨するのですが、生来の浮気症から妻の目を逃れては、その超能力を駆使してあちこちに子供をつくってまわります。
ギリシャ神話や日本神話に出てくる神さまの多くが人間臭いのは、人間がモデルだからです。
しかし、聖書の神さまは人間をモデルにした想像の産物ではなく、先週も確認しましたように、はじめから存在していた唯一の神であって、しかも全能の神なのです。
そしてその全能性はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が信仰の先祖として等しく尊んでいるアブラハムの生涯に示されました。創世記十七章です。
「アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現われて言われた、『わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全(まった)き者であれ。わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』。アブラムは、ひれ伏した。神はまた言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう』。」(創世記17章1~4節 旧約聖書口語訳17p)。
彼の妻のサラは十歳年下ですからこの時点で既に八十九歳になっていました。どう考えたって子供が生まれるわけがありません。
しかし、妻のサラは身ごもり、神の予告通りに翌年、男児を出産するのです。
「主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男との子を生んだ」(21章1,2節)。
西暦一世紀の半ば、使徒パウロはこの出来事を取り上げて、信仰によって義とされる、つまり、行いがなくても神の言葉を信じることによって無罪を宣告されるという信仰義認の例証としました。
「アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、『わたしはあなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」(ローマ人への手紙4章16節後半~18節 新約口語訳237p)。
アブラハムは「わたしは全能の神である」(創世記17章1節)という神の自己啓示に対し、信仰をもって応答することによって、神の全能の力を身に経験したのでした。
その長い人生、信仰を保持しつつも、与えられた約束の履行に関し、疑いや不信感も芽生えたこともあったことと思います。
しかし、自分が信じ従ってきた神は無力な神ではなく全能の神なのという確信は、「わたしは全能の神である」(創世記17章1節)という神の自己啓示によって新たにされたのだろうと思われます。
時間的、空間的に、アブラハムが生きた時代、環境とは異なった今を生きている私たちですが、何よりも心強いのは、信仰の先祖であるアブラハムのように、「我は全能の神を信ず」と告白することができることです。
2.勿体無いなのは「我は父なる神を信ず」との告白が許されていること
勿体ない事にこの「全能の神」は、キリストを主と告白する者に対して「父なる神」となってくださいました。
ローマ人への手紙を開きましたので、少し後の八章を見てみましょう。
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ人への手紙8章15節 243p)。
ヘブルの伝統でも、神は確かに「父なる神」として崇められてはいました。出エジプト敢行後のイスラエルの民に対する、指導者モーセの語りかけにそれがあります。
「愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか」(申命記32章6節 294p)。
でも、モーセがここで言っている「あなた」(6節)とは、個人ではなく神の民とされたイスラエル民族全体を指すのです。
それはイザヤが記した神への祈祷文にも見られます。
「たといアブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父です。主よ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名はわれわれのあがない主です」(イザヤ書63章16節 1036p)。
たとい「アブラハム」(16節)が、そしてイスラエル民族という呼称の元となった先祖「イスラエル」(同)が認知しなかったとしても、神は信仰共同体としてのイスラエルという民族の父であるという認識です。
しかし、神は民族の父ではあっても、民個々の父であるとする認識ではありませんでした。
唯一の例外は紀元前三世紀にまとめられたとされる旧約外典の「ベン・シラの知恵」です。
主よ、父よ、わが命の君よ、わたしを見放さず、唇の思いどおりにさせないでください。唇のために過ちに陥らないようにしてください。…主よ、父よ、わたしにみだらな目を与えないでください」(シラ書[集会の書]23章1、4節 新共同訳旧約聖書続編)。
「ベン・シラ」と言いますのは「シラの子」つまり、シラという人の息子という意味で、シラの息子のイエスが著者とされています。イエスという名前は当時、どこにでもある名前だったということです。
ユダヤでは氏あるいは姓にあたるものはありません。そこでどこのイエスかを知るための方法が「誰々の子」という表示でした。
この文書には確かに二回ほど、神に対して「父よ」と呼びかけている箇所があります。でも、その内容を見れば嘆願ではあっても、父と子という親密な関係を示す雰囲気ではありません。
しかし、メシヤ・キリストとして地上を歩んだイエスの場合、神の独り子としての自覚のもとに、神に対して親しく「父よ」と呼び掛けるのを常としていたようです。
そしてまことに勿体ないことに、ご自分に従う者に対し、神を父と呼ぶ立場を与えてくださったのでした。
その辺の仔細については、丁度一年前に行った「主の祈り」の説教の中で触れました。
「また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』。そこで彼らに言われた、祈るときには、こう言いなさい、『父よ、…』」(ルカによる福音書11章1、2節前半 106p)。
こうして、全能の神はイエスを主と告白する者から「父よ」(2節)と呼びかけられることを許すのみならず、子とした者の人生をその絶大な父権によって守護すると共に、尽きない慈愛に満ちた父性で包んでくださることとなったのでした。
父性と言ったら何と言いましても大黒主命(おおくにぬしのみこと)でしょう。
あの「因幡の白兎」の話しのように、小賢しい弱者にも優しく慈愛の手を差し伸べるほどの優しい神さまです。父性の面では申し分ありません。だからこそ、因幡のヤガミ姫は数多の求婚者の中から、大黒主を夫に選んだのだと思います。
でも、争い事を嫌うタイプであったのか、大黒主は天照大神(あまてらすおおみかみ)の要求を受け入れて、出雲の国をそっくり譲ってしまいます。
よく言えば柔和ですが、力の行使という点ではよくわからないお人柄です。
こういうタイプの人がもしも我が国の総理大臣であったなら、「尖閣を寄こせ、沖縄は我が国の領土だ」などと要求をされた場合、戦争は避けるべきだとか何とか言って、国を譲り渡してしまうかも知れませんが。
古事記に出てくる神さまの群像は、古代の日本人の性格や生き方の反映だったのでしょう。どの神さまも個性的でそれぞれに魅力がありますが、残念なことに、父権と父性とを併せ持った理想的な父親像の神さまはいなかったようです。
でも、聖書における天の神は、限りなく力強く、そして限りなく慈しみに富んだお方です。勿体無いのはそのような神様を、「我は父なる神を信ず」と、いつでもどこででも告白することができることです。
3.忘れてならないのは「我は全能の父なる神を信ず」との告白へと導いた神の愛
ただ、忘れてはならないことそれは、「全能の神」、「父なる神」として呼びかけることをゆるしてくださった神に向かって、「我は全能の父なる神を信ず」と告白する恵みに与かる前の、神そのものを見失っていた自分自身の姿です。
そしてもう一つ、そのような自分に対して、神の子という立場を無条件で与えてくれた神の愛の大きさです。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである」(ヨハネの第一の手紙3章1節 378p)。
私たちが「我は全能の父なる神を信ず」と告白するためには、父なる神と御子なるキリストにおいて、筆舌に尽くし難いような大きな犠牲が払われました。
そして、そのことを確認し、感激を新たにするのが毎週の日曜礼拝の場であり、最終礼拝の説教でも確認しましたように「朝ごと」(哀歌3章23節)の個人礼拝です。
信仰は利害得失の絡んだ取引ではありません。すべては神の絶大な愛に対する感謝の応答であり、讃美による告白です。
そしてその愛は嘗ての日も今も変わることはないのです。ただただ、神を崇めます。
「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4章9、10節)。
どこに愛があるのでしょうか。「ここに」(10節)すなわち十字架の出来ごとに神の大いなる「愛がある」(同)のです。