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2014年11月16日日曜礼拝説教「慰めに満ちたる神? 襲い来る患難にもギブアップせず、万策尽きても音を上げない」コリント人への第二の手紙4章7~12節

14年11月16日 日曜礼拝説教 

「慰めに満ちたる神? 襲い来る患難にもギブアップせず、万策尽きても音を上げない」
 
コリント人への第二の手紙4章7~12節(新約聖書口語訳281p)
 
 
はじめに
 
一時期、テレビをつけると「レリゴー レリゴー」という歌声が流れていました。
 
これはディズニーのアニメミュージカル映画の「アナと雪の女王」の主題歌のタイトルのようで、「レリゴー」と聞こえる言葉はどうも「レット イット ゴー」のことであって、日本語の歌詞では「ありのままの」ということのようです。
 
アニメの方は観ていませんのでよくはわかりませんが、日本語歌詞を見る限り、「自分が持っている特別な才能や有り余る能力を、内に抑え込んだままにしていることをやめて、外に向かって自由に解放する、無理をせず自分らしく生きる」という意味だと思われます。主人公の一人が歌います、
 
♪ ありのままの姿見せるのよ ありのままの自分になるの
 
つまり「ありのままの」あるいは「ありのままに」ということのようですが、でも多くの場合はその逆に、貧相で才能もない、「ありのままの」自分の姿を見せることが出来ずに、外に向けて自分を大きく立派な姿に見せようとする誘惑に負けてしまいがちです。
 
「ありのままの姿」、いい言葉です。これを日本語で表すと「等身大(とうしんだい)」ということになるかと思います。
 
わざとらしく謙遜ぶることもなく、またその反対に背伸びをすることも、自己を過大に見せようとすることもなく、あるがままの自分に満足し、それが真実の自分自身であるとしてそのまま受け入れ、世間に対しても飾ることなく「ありのまま」の姿で接し、泰然自若として生きる、ということです。
 
もちろん、それは現状に満足して、成長する、あるいは自身を磨くという努力を放棄することを意味するものではありません。ただ、「等身大」の自分を受け入れることから、すべてが始まります。
 
今、使徒パウロが著わした書簡を順を追って読んでいますが、パウロが自身についてどのような自己理解を持っていたのか、とても興味が惹かれます。
 
ところで私たちが持っている信仰は、宗教学的呼称としては「キリスト教」です。信仰の対象がキリストだからです。
 
一時期、世間や一部の歴史家がイスラム教をその最大の預言者の名を冠して「マホメット教」と呼んだことありますが、その例でいうならば、キリスト教が「パウロ教」と呼ばれても違和感がないほど、その発展、教理の形成に関するパウロの貢献は抜きん出ていました。
 
でも、パウロは生涯、自らをキリストの使徒という立場を超えることはありませんでした。もちろん、「パウロ教」などと言われることなど、夢にも思ってはいなかった筈です。彼はただただ、自らをキリストのしもべとして現わすことにのみ、熱心であり続けました。
 
そこで本日の説教では、そのパウロの自己理解、そしてその超人的な耐久力とその秘訣について読み解きたいと思います。
 
 
1.自らをありふれた「土の器」と理解するところから、人は益も受け、神の栄光を現わす器ともなる
 
先週の説教で、日本に対する米国民のイメージ調査の結果をご紹介しましたが、先週の末にも、日本を世界がどう見ているかという調査結果が二つ、公表されました。
 
まず、ニューヨークに拠点を置くブランドコンサルティング会社「フューチャーブランド」が発表した「国別ブランドランキング」ですが、この調査では、ブランドとして、日本国家が第一位に選ばれたとのことでした。
 
この調査は今年で十年になるそうですが、頻繁に海外旅行をする十七カ国の旅行者2530名の意見を収集して、文化、経済力、観光、価値観、政策への取り組みなどの面から、各国の国家ブランドに対する評価を分析した結果であって、一位が日本、二位がスイス、三位がドイツ、以下、スェーデン、カナダ、ノルウェー、米国、オーストラリアと続いておりました。
 
この報告書の日本に関するサマリー(要約)には、「ユニークな国。取引相手としてだけでなく、文化的にも」「立ち止まらず常に上昇している国。ロボット技術や工学で世界を上回っている」などの回答が掲載されています。
 
なお、莫大な予算を計上し、大統領の直属機関として「国家ブランド委員会」なる国家機関を立ち上げて、世界に向かって懸命に国家ブランドイメージの向上に取り組んでいるお隣は、と言いますと、アラブ首長国連邦の下の二十位に何とか食いこんでおりました。
 
そしてもう一つの調査は、ドイツの市場調査会社「GfK(ゲーエフカー)」による「国家ブランド指数」で、これは全世界五十カ国の主要国を対象に、商品の信頼性を含めた輸出、政府の信頼性をはじめとするガバナンス(統治能力)、文化力、国民親近感と能力、観光評価、移住・投資の魅力など二十三の分野を評価したものだそうです。
 
韓国の聯合ニュースによりますと、この調査ではドイツが米国を押しのけて一位となり、以下、二位が米国、そして英国、フランス、カナダと続き、日本はというとイタリア、スイス、オーストラリア、スウェーデンを押さえての六位であったということでした。
 
日本の「ライバル」である(筈の)お隣りは、残念なことに国を挙げての奮闘努力の甲斐もなく、五十カ国中、二十七位という低評価で、そのプライドを大きく傷つけられたようでした。
 
空しいのは莫大な国家予算を使って、ブランドイメージなるものを上げようとする努力ではないかと思います。
それよりも内実の方をアップさせることに税金を使った方がよいと思うのですが、「ありのままの姿」よりも、自己を過大に見せようとする方向に向かう姿勢を改めない限り、今後も国のイメージは変わらないことでしょう。
 
世界に冠たる「整形」もそうですが、何よりもそのような方向と姿勢は、パウロにおける姿勢とは全く相いれない在り方であるように思われます。
 
日本の場合、贔屓目に見ても、世間の評価などよりも人に喜ばれるものを自分自身が納得するまでつくる、という姿勢が結果として、世界の高評価となっているのではないかと思います。
 
そして、それと相通ずるのがパウロの自己理解です。
パウロは自らを土くれから造られた「土の器」として理解しておりました。
 
「しかし、わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント人への第二の手紙4章7節 281p)。
 
パウロにとって、その関心はただ一つでした。それは自らが世間の称賛の対象となることではなく、神が誉め称えられること、つまり神の栄光の「あらわれ」(7節)にありました。
それが「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことがあらわれるため」(同)という告白となったのでした。
 
自らを何の変哲もない「土の器」であるとする理解から、人は結果として個人的にも益を受け、同時に神の栄光をも現わす器として用いられるのです。これが聖書の論理です。
 
 
2.四方からの患難にもギブアップせず、万策尽きても音を上げない、倒されてもノックアウトされない
 
 権力者の後ろ盾もないまま、嘗ての仲間であったユダヤ当局やユダヤ教集団を敵に回さざるを得なかったパウロには、想像を超える「患難」や「迫害」が待ち受けておりました。四方が塞がってしまうという状況から、「途方に暮れる」こともしばしばであり、打ちのめされ、「倒され」るような事態にも直面をしたようでした。
 
しかし、どんな場合も如何なる状況も、パウロの往く手を阻むことは出来ませんでした。
 
「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている」(4章8~10節前半)。
 
「四方から患難を受けても窮しない」(8節前半)とは、「四方八方から難儀なことが襲来してきても、決してギブアップはしない」という宣言です。
「一難去ってまた一難」という言い方があります。しかしパウロの場合、「一難」が去る前、患難と戦っている最中にまた別の患難が襲来するという状態であったようです。
しかし、降伏はしない、ギブアップはしない、とパウロは言います。
 
 「途方に暮れても行き詰まらない」(8節後半)とは、「万策尽きても決して音を上げない」という意味です。
 
 「迫害に会っても見捨てられない」(9節前半)という告白は、「信仰ゆえの迫害に会ったとしても、神が見捨てることはない、迫害のさ中にも神は私と共にいて、励まし支え、救出の道を備えて下さる」という確信の言葉です。
 
 四つ目の「倒されても滅びない」(9節後半)は、「たといノックダウンされたとしても、ノックアウトされることは決してない」という意味の言葉です。
 
 これらのことをボクシングや戦争を例にあげてこの箇所を、ウィリアマム・バークレーが分かり易く説明をしています。
 
われわれは倒されても、伸びてしまわない。
クリスチャンの最大の特徴は、倒れないことではなく、倒れてもそのたびにまた立ち上がることである。
打たれないことではなく、打たれても決して敗北しないことである。
個々の戦闘には負けても、戦争全体に負けることはないことを、彼(註
パウロ)は知っている
(ウィリアム・バークレー著 柳生直行訳「コリント 聖書註解シリーズ9」254p ヨルダン社)。
 
 真面目な人ほど、自分自身の失敗や過失を許せない、という傾向があります。仕事や家庭の事情で教会に行くことが出来なくなって、いつしか信仰心も薄れてしまった、自分は落伍者かも知れない、教会に戻りたくても戻れない、と悩んでいる人がいるかも知れません。
 
しかし、様々の事情や闘いの中で、奮闘空しく倒れてしまう、ノックダウンされてしまうことがあるのです。
そのまま横たわっていたらノックアウトです。しかし、立ちあがってファイティングポーズを取れば、負けではありません。チャンスは残されます。
ですから、何とか立ちあがって自分のコーナーに戻ることが肝要です。そして教会こそが戻るべき自陣のコーナーなのです。
 
そこには信仰の仲間が待っています。聖霊なる神が傷の手当てをすべく、助言をすべく、トレーナーとして、セコンドとして待っているのです。まずは教会という「コーナー」に戻ることです。
 
 
3.イエスのいのちという内なる宝は、イエスの苦難に与(あずか)る中でこそ、本来の力と輝きを現わす
 
 パウロは自らを土くれで出来た「土の器」(7節)であるとして、その「土の器」の中に「宝」(同)を持っていると言いました。
「この宝」(同)とは、「キリストの栄光の福音」(4節)であり、「イエスのいのち」です。
 
そしてこの「イエスのいのち」は「イエスの死」の追体験としての苦難を通してこそ、「土の器」に現われる、それがパウロの確信でした。
 
「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現われるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現われるためである」(4章10、11節)。
 
パウロにとっては、これらの困難や苦難は「イエスの死を」(10節)自らの「身に負う」(同)ことでもあったようです。
 
ですから、信仰ゆえの苦難は、単なる苦難ではなく、イエスの不条理な苦難、理不尽な苦しみの追体験であると共に、ハードな苦難の向こうにある栄光の先取りでもあるとパウロは考えていたようです。それがパウロの支えであり、原動力でもありました。
 
しかも、パウロにとってはキリストの集会こそ、その苦難の目的、代価でもありました。それが十二節の言葉です。
 
「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」(4章12節)。
 
 急に「あなたがた」(12節)つまり、この場合はコリントの集会が出てきます。実はパウロにとっての最大の関心事はこの場合、コリントの集会が挫折し、失敗をしたという傷を癒され、立ち直って、イエスの弟子としての歩みを続けることにありました。
 
 つまり、パウロにとり、パウロら「わたしたち」(12節)が嘗めた、「死」(同)にも等しい艱難辛苦の経験は、「あなたがた」(同)コリント集会にキリストの「いのち」(同)をもたらすものであったのです。
 
パウロにとってコリントの集会は、そしてメンバーの一人一人は、神の家族であって、彼の苦難も労苦もすべて、彼らがキリストの「いのち」(同)に満たされて、一人前の信徒として前進し続けるためのものでした。
 
 信仰生活の基本は確かに「我と汝(なんじ)」「わたしとあなた」「わたしと神」という個人的な関係です。
ですからイエスを個人的に、つまり個人個人それぞれの経験として心と人生に主として受け入れるということが重要となります。
 
しかし、それだけにとどまってしまっていては不完全なままです。「我と汝」という関係を基礎にしながら、教会という神の家族の中で「我らと汝」「わたしたちと神」という関係に入っていくのが、キリスト者たるものの健全な在り方なのです。
 
教会抜きの信仰は寂しいだけでなく、偏ったものとなりかねません。ですから個人の苦難は教会という他者にとって益ともなるということをパウロは教えようとしたのだと思われます。
その端的な例が、子供のために親が払う労苦や犠牲でしょう。パウロはこの書簡の前に書いたと思われる「涙の手紙」において、「親」の心情を吐露しています。なお、「涙の手紙」は第二の手紙の十章から十三章に収録されていると、学者は考えています。
 
「そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、またわたし自身を使いつくそう」(12章15節前半)。
 
互いに問題や課題を共有しながら、信仰の戦いを進めて行きましょう。私たちが人生の途上で嘗める辛酸は、自分自身だけでなく、関わる者たち、あるいは後に続く者たちにとって益となると信じて、嘗てパウロが通り、コリントの集会が通った道を辿っていきたいと思うのです。
 
確かに、「苦労は続くよ、何処までも」と嘆きたくような場合もあります。しかし、神を愛する者には「すべてのことが相働きて益となる」、これがパウロの揺るぎない確信であったのでした。
 
「神は神を愛する者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章28節)。
 
 前に行く者にも、そして後に続く者にも、苦労の中にこそ、「イエスのいのち」(11節)という内なる宝が輝き出でる、それがパウロの確信でした。
 
 生きている限り、苦労は絶えないかも知れません。しかしどこかで、苦労は必ず報われるということを「私たちは知っている」のです。