2014年11月9日 日曜礼拝説教
「慰めに満ちたる神? 『この世の神』が
眩(くら)ます思いを、真の神が輝き照ら
す」
コリント人への第二の手紙4章1~6節(新約聖書口語訳281p)
はじめに
日本の外務省が一九六〇年以来、ほぼ毎年行っている「米国における世論調査」の結果が、一昨日の十一月七日、外務省ホームページに発表されていました。
これは十八歳以上の1003名を対象とした「一般の部」と、政官財、学術、マスコミ、宗教、労働関係等で指導的立場にある200名を対象とした「有識者の部」に分けて行われた電話調査結果です。
先ず、「対日信頼度」ですが、「一般の部」では73%、「有識者の部」では90%という高い数値が示されました。
また、「アジアにおける米国の最も重要なパートナーはどの国か」との問いに対しては、「日本」と回答した割合が「一般の部」では46%と最多で、「有識者の部」でも58%と、24%の「中国」を大きく引き離しました。
「一般の部」のみに実施された、日本のイメージを問う設問に対しては、「豊かな伝統と文化を持つ国」(92%)、「経済力・技術の高い国」(86%)、「戦後一貫して平和国家の道を歩んできた国」(81%)の三つが上位に入りました。
そしてこの調査の少し前には、米国のピュー研究所というシンクタンクが「アメリカの好む国、好ましくない国」という調査結果を発表しましたが、そのシンクタンクの調査によりますと、アメリカ人が「好む国」の一位はカナダの81%で、二位は英国の79%、そして第三位はドイツでもフランスでもイスラエルでもなく、70%の日本でした。
つまり日本という国はアメリカ人十人のうち七人から好まれているということになるわけです。
もっとも20%のアメリカ人からは好まれていないということでもあるわけですが、全体で十位の、「好む」が33%、「好まない」が55%の中国と比べた場合、外務省の調査と合わせても、多くの米国民が日本という国を信頼もし、好ましくも思っているということが明らかになった調査でした。
なお、ピュー研究所の十二位までの調査国の中には、残念なことにあの誇り高きお隣の国がありません。因みに十一位がロシア(32%、54%)で十二位がサウジ(27%、57%)です。
お隣さんが十三位以下なのか、それとも調査の対象外なのかは定かでありませんが、もしも人口の30~40%がキリスト教徒だとされている同国が、キリスト教国である米国から相手にされていないとすれば、まことに寂しい限りです。
では、キリスト教国の米国に対し、クリスチャンの数が人口比で僅か1%足らずの日本がなぜこれほどまでにアメリカ人から好まれもし、信頼もされるのかという理由ですが、恐らくは日米双方が重要な価値と考える事柄が共通しているからではないかと思います。
つまり、言論や報道などの各種の自由や基本的人権の尊重、民主主義、市場経済そして法の支配などの先進国としての要素が、両国民共通の価値観として認識されていることが理由でしょう。
お隣の国の場合、キリスト教という宗教は国民に浸透しているかも知れません。
しかし、そのキリスト教自体が彼の国特有の文化や国民性がミックスされた特異なかたちを持つ傾向があると共に、自由度に関しても、産経新聞のソウル支局長を強引に起訴したことなどに示されるように、言論の自由、報道の自由という民主主義の根本を侵害するような同国は、米国民にとっては異質の価値観を持つ国であって、反面、キリスト教人口は圧倒的に少ないにも関わらず、日本と言う国を米国民が好むのは、共通する価値観という要素の奥にある倫理観の相似性にあると思われるのです。
日本人のキリスト信徒にとって、同胞にイエス・キリストを知ってもらいたいということは誰もが持つ願望です。
そしてその願望の実現の鍵となる要素が、日本人が古来、大事にしてきた伝統的倫理観、道徳意識と、使徒のパウロが強調したキリスト教倫理とが極めて良く似ているという事実にあると思います。
そこで今週は日本人のキリスト信仰を妨げているものは何なのか、そして打開のための方法はあるのか、あるとすればそれは何かという点について、パウロの手紙から示唆を受けることと致したいと思います。
1.「福音」が信じられないと言う人がいるのは、その思いが『この世の神』に眩(くら)まされているから
我が国では戦前、キリスト教は敵性宗教として、そして戦後もしばらくは、特に地方においては外国の宗教として敵視されたり、疎んじられたりしていました。
しかし、二十一世紀の今日、かつてのように白眼視されることはなくなりましたし、それどころか、教会に行っていると言うだけで何やら尊敬の目で見られるような時代になってきました。
まさに隔世の感があります。理不尽な迫害やあらぬ誤解にもめげずに、真摯に信仰の戦いを貫いてきた先人たちの労苦の賜物です。
でも、やはり今も壁があるのは事実です。多くの人が経験することなのですが、いざ、聖書の話を周囲にしたりしますと、「もう一つ、信じられない」「また後で聞く」などと言って、積極的に求道をしようとする姿勢を見せない、という傾向があるようです。
日本人はなぜ、この有り難い「福音」を信じないのか、また、信じられないのでしょうか。
パウロは言います、それは「この世の神が」人の「思いをくらませて」「福音の輝きを見えなくしている」からであるからだ、と。
「もしわたしたちの福音がおおわれているなら、滅びる者どもにとっておおわれているのである。彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の輝きを、見えなくしているのである」(コリント人への第二の手紙4章3、4節 新約聖書口語訳281p)。
パウロがここでいう「この世の神」(4節)とは勿論、ユダヤ思想で言うところの「サタン」という、神と人間の敵を指すわけですが、では、日本人にとって「思いをくらませて」(4節)「福音の輝きを見えなくしている」(同)「この世の神」(同)とは何かと言いますと、三つの思想あるいは思念、分かり易く言えば先入観や思い込みです。
一つは、キリスト教は禁欲的である、という思い込みです。
確かに日本に米国経由で入ってきたキリスト教にはピューリタニズム(清教徒主義)やファンメンタリズム(根本主義、原理主義)のように、収入の十分の一は神のものであるとする十分の一献金や、安息日は仕事を休んで神を礼拝する日であるとする聖日厳守の励行、そしてアルコールは人を堕落させる何とか水であるとする禁酒、そして喫煙は罪であるとする禁煙などの推奨を、聖書が求める当然の戒めとしたものもありました。
私どもの教会が所属する教団も歴史的にはそのような伝統の中にあったこともあって、私が出席していた教会では誰もアルコールを嗜む者はなく、喫煙の習慣もなかったため、私自身、結果としてアルコールやニコチンに縁のない人生を送ることができたのはほんとうに僥倖でした。
しかし、キリスト教は堅苦しい宗教であるというイメージが社会に定着したため、このようなピューリタン的なキリスト教生活の習慣を揶揄した狂歌が、戦前、巷で口にされたようでした。
それが「酒 煙草 のまぬ宗旨の耶蘇教(やそきょう)は ああ面倒な宗旨なりけり」です。
おわかりかと思います。「アーメン」を「ああ面倒(めんどう)な」でからかったわけです。
なお、「耶蘇教」の「耶蘇」とは「イエス」の中国語表記です。因みに「キリスト」は「基督」と表記します。
教会側も負けてはいませんでした。そしてユーモアを交えて教会側が応じた狂歌が「酒 煙草 のまぬ宗旨の耶蘇教は胸 晴れるやの宗旨なりけり」でした。
「晴れるや」で「ハレルヤ」です。
聖書は清廉な生活を人に勧めます。しかし、過度の禁欲は聖書的ではないのです。
確かに西暦一世紀の末から二世紀にかけて、古代のキリスト教会に影響を与えた思想が禁欲主義的な考えであったことは事実です。
この教えの指導者たちは、クリスチャンの生き方として、家庭を持つことよりも独身のままで生きることの方が神の願いであるかのように説いたり、あるいは断食を推奨したりするなど、人間が持つ本来の欲望を悪とし、これを制限することこそが神に喜ばれることである、などと唱えました。
そしてこれに対する反論が以下の言葉でした。
「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない」(テモテへの第一の手紙4章2~4節 329p)。
著者は言います、「食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである」(3節)のだから、「みな良いものであ」(同)るのだ、と。
結婚という制度も家庭も然りであって、それら「みな良いもの」(4節)として「神の造られたもの」(同)なのだ、と。
神からのさまざまの賜物を人が神に「感謝して」(同)人生を楽しむことは、神の喜びでもあるのです。
日本人にとって「思いをくらます」二つ目の「この世の神」、それは無神論という思想です。つまり、「神はいない」という思い込み、先入観です。
人間の理性で理解し得ないものは存在しないという無神論が教育界や言論界に及ぼす影響が、戦前、戦後を通じて日本の青年層の「思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくして」(4節)きたことは事実です。
そういう意味では私自身、十五歳の春まで、この「この世の神」の支配の下に留まっておりました。ただし、無神論と言いましても、ただ単純に「神はいない」と思い込んでいただけであったことは幸運なことでした。
実は無神論には二つあって、神が存在することを「知っていながら、神としてあがめ」ず、神を否定するという積極的無神論というものもあるのです。
「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである」(ローマ人への手紙1章21節 234p)。
日本人の多くが無意識に持っている無神論はこの積極的無神論ではありませんので、まだまだ望みはあるのです。
そして三つ目が人間礼賛思想という「この世の神」です。これは、人間自身が「この世の神」となって、欲望を充足させる生き方を肯定する思想であって、人の自我、エゴを善なるものと評価することによって、それを「人間らしい」とか「人間的である」と思い込ませるものでした。
しかし、この人間礼賛という考え方こそが、聖書が言うところの罪の根、つまり原罪であったのでした。
聖書の話しがもう一つ理解できない、という場合、それはもうその人の責任というよりも、日本人にとっての「この世の神が…思いをくらませて」(4節)、聖書が伝える「福音の輝きを、見えなくしている」(同)からであるとも言えます。
そのことを改めて理解したいと思います。
2.私たちが「福音」を信じることができたのは、心の中に真の神が照らし出されたから
そして、この、人の「思いをくらませ」(4節)、「福音の輝きを見えなくしている」「この世の神」(同)からの解放は、人の心の中、心の奥が真の神の光に照らし出されることによって実現する、それがパウロの体験から打ちだされた主張でした。
「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らしてくださったのである」(4章6節)。
しかもこの「心を照ら」(6節)された人こそ誰あろう、かつての教会の迫害者であった著者のパウロ自身だったのでした。
もちろん、日本人とは違って、パウロは唯一の神、創造の神の実在を信じていました。
しかし、ナザレのイエスがその神から送られた救世主キリストであるなどとは到底信じることができませんでしたし、それどころか、この罰あたりの異端の者どもをこの地上から根こそぎに駆逐することこそが神への奉仕であり、自らに与えられた天命であると考えて、志願して教会を襲撃していたのが若き律法学者であったパウロだったのです。
「ところがサウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒らし回った」(使徒行伝8章3節 193p)。
「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂あての添書(てんしょ)を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛り上げて、エルサレムにひっぱって来るためであった」(同9章1、2節前半)。
「サウロ」とはパウロのヘブライ語の名前です。その「サウロ」が大祭司が発行した添書を携えて、クリスチャン捕縛のために来たダマスコ(現在はダマスカス)の郊外において天からの光に打たれ、劇的な回心をすることになります。
この体験をローマ皇帝の裁判を受けるためローマに連行される直前、パウロはユダヤ王ヘロデ・アグリッパに語ります。それは西暦六十年頃、回心から二十三年後のことでした。
「(ヘロデ・アグリッパ)王よ、(ダマスコに向かう)その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照らしました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしはあなたが迫害しているイエスである。』」(同26章13~15節 227p)。
そしてパウロの、先入観で固まっていた心が真の神の光に照らされたとき、キリスト自身のみ顔が彼の心に映し出されたのでした。キリストの受難と復活の出来ごとの約七年後の西暦三十七年のこととと思われます。
昨日の十一月八日は私にとり、「この世の神」(4節)によって思いが眩まされていたために見えなくされていた、「神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝き」を見出したそのしるしとして受けた洗礼記念日でした。
忘れ得ぬ十五歳の秋、十一月でした。その半年前、「キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするため」(6節)憐れみに富む神は、ひねくれていた十五歳の少年の「心を照らして下さったので」(同)した。
だから言えるのです。私のような者でさえも「福音」を信じることができた、ならば、同じ日本人が「福音」を信じることができないわけがない、神の光が心に届きさえすれば、私たち同様、多くの日本人が創造者である神の存在を認め、その神の独り子であるイエスを主キリストとして受け入れる日が来る筈だと信じることができるのだと。
3.心に神を映し出された者は、「福音」の中心であるキリストを落胆せずに宣べ伝える
そこで私たちがすべきことは何かと言いますと、それは直接、間接に「福音」の中心であるキリストを「宣べ伝える」ということです。
「しかし、私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」(4章5節前半 281p)。
日曜礼拝をはじめとして、教会の各種の活動に参加することは、「福音」を伝える働きに貢献をすることです。
礼拝の重要な要素の一つは、神の言葉の解き明しである説教を聞くことです。しかし、説教をすることだけが福音宣教ではありません。
ぶっちゃけて言いますと、説教の準備には毎回苦労します。説教とは料理のようなものなのですが、聖書テキストという材料を前にして、これをどう料理するか、いつも頭を悩ませています。
説教の準備はある意味では孤独な作業なのですが、そこで説教者のため、特に毎週の説教準備の上に神からの知恵と助けが与えられるようにと祈ることもまた、宣教に参与することなのです。
そして、説教を集会において心を込めて聴くこともまた、立派な宣教活動への参加です。これからも説教の充実のために祈ってください。また、聴いてください。
事情で礼拝に参加することができない場合には、プリントアウトされた説教要旨で説教を味わってください。教会のホームページにも掲載していますので、パソコンやスマホからでも読むことができます。
自分に出来る範囲で「主なるキリスト・イエスを宣ね伝える」(5節)こと、それは心に神を、そして十字架にかけられたキリストを映し出された者に許されている特権でもあります。
その際に大切な心構えは、「落胆せずに」「勇気を持って」ということです。
「このようにわたしたちは、あわみを受けてこの務めについているのだから、落胆せずに、恥ずべき隠れたことを捨て去り、悪巧みによって歩かず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦するのである」(4章1、2節)。
ここで口語訳が「神のみまえに、すべての人の良心に自分を推薦する」(2節)と訳した箇所は、判断や評価は神と人とに任せている、という意味です。
と言いますのは、パウロの敵対者たちは彼の信用性を失墜させるべく、パウロは「隠れた」(2節)ところでは「恥ずべき」(同)ことを行っていると中傷し、また「悪だくみ」(同)に長けた者、「神の言葉を曲げ」(同)て伝えているのだなど、ありもしない誹謗中傷を並べ立てていたからでした。
そういう背景の中で語られた宣言が四章二節の言葉であり、その際の心境としては意気軒昂そのものであって、決して「落胆」などはしていないのだ、ということを表明したのが一節の言葉でした。、
新共同訳が「落胆しません」と訳し、口語訳が「落胆せずに」と訳したギリシャ語は、「失望せずに」とか「勇気をもって」とも訳せる言葉です。
本書では四章の終りの方でも使われています。
「だから、わたしたちは落胆しない」(4章16節)。
実は落胆や失望、勇気の喪失は人の常です。そしてパウロほど失望、落胆の淵に沈んだ人もいませんでした。
しかし、パウロの神は「イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」(1章3節)でした。
そしてパウロを慰め励まし続けた神さまと同じ神が、二十一世紀の日本という国を生きている私たちの神なのです。
数だけを見れば、クリスチャン人口は依然として少数です。小さな集まりであるかも知れません。しかし「落胆」(1節)する必要はありません。
重要なことは、私たちは今、「イエスは主なり」と告白をしているという事実を感謝を以て確認することです。それは、神がかつて「不信の者」(4節)であった私たちの心を「照らして下さった」(6節)という確かな出来事があったからでした。
創世の昔、「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く栄光の知識を明らかにするために」(6節)日本人のひとりでもある「わたしたちの心を」(同)いま現に「照らして下さっ」(同)ているのです。
この事実を踏まえることによって、心にキリストを映し出された者として、心の覆いを取り払われた者として、「落胆せずに」(1節)与えられた務めを果たしていきましょう。
「落胆」はつきものです。しかし、「落胆せずに」(1節)勇気をもってパウロの後をご一緒に歩んでいきたいと思います。